親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会を辞めた人へ、あなたは「負けた」のではありません。

親鸞会を脱会した人に対して、親鸞会の現役会員が抱く感情は「あの人は負けてしまったのだ」「厳しい求道についていけなくなったのだ」というのが多いのではないかと思います。
かくいう私も、現役会員のころにはそのような感情を持ったことがあります。


私が大学1年生で親鸞会に入会してより、多くの同級生、先輩、後輩が親鸞会を去りました。これは、長年親鸞会会員を続けている人ならば、少なからず経験してきたことだと思います。そして、その時の自分の気持ちを振り返ってみると、相手を哀れに思う気持ちと、「自分がそうならなくてよかった」という感情が大半だったと思います。


考えてみますと、親鸞会を退会する人の多くは「親鸞聖人の教えを信じられなくなったから」のではなく、度重なる「お布施の目標達成」「参詣目標の達成」「顕正(勧誘人数)の達成」に付いていけなくなり「心が折れた」人が多いです。しかも「心が折れた人」は、人並み以上に親鸞会の活動にまい進していた人です。その意味で、私自身心の底では「そんな心が折れるまで活動をしなければいいのに」と思う気持ちもありました。それはとても卑怯な心です。

たとえていえば、小中学校のクラスのいじめをなんとかしようと立ち上がった正義感の強い子供がかえっていじめの標的にされたのをみて、「自分がいじめにあわなくてよかった」というような感情に似ています。

そうこうしている内に、自らの「信心決定したい」とか「阿弥陀仏に救われたい」という気持ちよりも、「親鸞会から外されたくない」という気持ちが自己目的化して仕舞います。しかし、私を救ってくださるのは親鸞会ではありません。


親鸞会を死ぬまで辞めなかった「勝者」を救う阿弥陀仏ではありません。親鸞会的な基準でいうところの「親鸞会を辞めた『敗者』を救う」のが阿弥陀仏の本願です。
そこで、親鸞会を辞めたいと思っている人と辞めた方で現在も種々悩んでいる方にいいたいことは、あなたは「敗者」と思われているかもしれませんが、そんな人を目当てに阿弥陀仏の本願は建てられています。ただ今救う本願とは、勝者に救いを与えて、敗者は見捨てる本願ではありません。


どうかただ今救われて下さい。