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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「善知識は全因縁と言われて親鸞会に在籍していますが、本当に会長先生は全因縁となる理由が有るのでしょうか?」(頂いた質問)

「善知識は全因縁と言われて親鸞会に在籍していますが、本当に会長先生は全因縁となる理由が有るのでしょうか?」(頂いた質問)

上記について明日記事を書こうと思います。それまでにご意見のある方はコメント下さい。

追記 2014/11/27 18:15

高森会長が善知識かどうかは、現役会員のなかでも意見が別れるところかもしれません。まして、退会者の多くからすれば、意見が大きく別れるところだと思います。そこで、今回は高森会長が善知識かどうかということについては言及しません。

親鸞会でいう「善知識は全因縁」が、本当に親鸞会で使われている意味で正しいのかどうかについて書いていきます。
まず、親鸞会でいう「善知識は全因縁」はどこから出てきた話なのかについて紹介します。

経典には、「善知識はこれさとりを得る大因縁なり」とか「聖き法を修めて生死の煩いなき安らけき涅槃の境地に至るを得るは善知識による」とも説かれている。阿難がある時釈尊に「善知識はさとりの道の半因縁と思えばよいのでしょうか」と尋ねた時「善知識はさとりの道の全因縁である」と答えていられる。
 ここで因縁というのは、これによって救われるということである。半因縁というのは貧乏人がよい主人につかえて、「これはみんな旦那さまのおかげです」と言っていても半分は自分が働いて生活するから主人は我が身の半因縁ということになる。全因縁というのは丁度赤子が親に育てられるのは、みな親の力であるから、赤子の為には、親は全因縁であるというが如くである。善知識を半因縁のように考えているから真剣に聞くことができないのだ。如何に過去に宿善があろうと善知識にあい奉らなかったら宿善開発して救いにあずかることは出来ないのだ。
 故に善知識があったら十里二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬って身肉手足をも供養すべきであると『般舟三昧経』には教えられている。さればこの度の救いは全く善知識のおかげさまなのである。「昿劫多生のあいだにも、出離の強縁しらざりき、本師源空いまさずは、この度むなしくすぎなまし」親鸞聖人のお心が察せられるではないか。
親鸞会発行会報4集・善知識1より)

 ここから、善知識は「全因縁」が親鸞会ではスタンダードとなっています。
 しかし、この説を推し進めると、親鸞会で強調される「因果の道理」にあわないところが出てきます。

 
 その前に、上記会報に出てくるお釈迦さまのお言葉はどんなものだったのかを紹介します。
 

阿含経にはこのような話も出ています

阿含経典による 仏教の根本聖典』(増谷文雄著)より
南伝 相応部経典 45-2後半と3 舎利弗
 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、釈迦族のサッカラという村にあられたことがった。その時、アーナンダ(阿難)は世尊のあられる処にいたり、世尊を拝し、世尊にもうして言った。
「大徳よ、私どもが善き友、善き仲間を有するということは、これは、聖なる修行のすでに半ばを成就せるにひとしいと思うが、いかがであろうか。」
かく問われて、世尊は答えて言った。
「アーナンダよ、そうではない。そのような考えをしてはならぬ。アーナンダよ、善き友、善き仲間を有するということは、これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてであるのである。アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間の中にある比丘においては、八つの聖なる道を修学し、成就するであろうことは、期してまつことができるのである。
 アーナンダよ、このことによっても、それを知ることができるではないか。
 アーナンダよ、人々はわたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより解脱し、病まねばならぬ身にして病より解脱し、死なねばならぬ人間にして死より解脱することを得ているのである。このことによっても、アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間にあるということは、聖なる修行のすべてであると知るべきである。」

阿含経典による仏教の根本聖典

阿含経典による仏教の根本聖典

http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-303.html


強調表現をしましたが、あくまで善知識のここでの意味は「善き友、善き仲間」のことであって、親鸞会における「高森先生」ではありません。少なくとも現役会員の多くは、高森会長を「善き友、善き仲間」の意味で「善知識」の言葉を使っていません。また、「善き友、善き仲間(善知識)」は「聖なる修業のすべて」ということであって、「阿弥陀仏の救われる条件の全て」「信心決定するための要件の全て」とはいわれていません。

上記紹介したところをご覧になると、会報に出てくる「善知識」の意味が、原典とは大きく異なることがよく分かると思います。
上記のお釈迦様のお言葉は、大前提として自ら修行をしてさとりを目指す人に言われたものです。読んでいただければ、親鸞会でいう「善知識はさとりの道(信心決定・親鸞会的に言えば横の線を進んで縦の線を突破する)の全因縁である」と随分意味が違うと言うことが分かられると思います。

上記を読んで頂いた上で、先に紹介した会報の「善知識(高森先生)が(信心決定の)全因縁」の説を推し進めると、親鸞会で強調される「因果の道理」にあわないところが出てきます。それにについて以下、書いていきます。


ちなみに、親鸞会でいう「因果の道理」は以下のものです。会員の方なら、特に最近は繰り返し聞いているものです。




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問(17) 仏教の根幹である因果の道理を書け。

答(17)

○善因善果
○悪因悪果
○自因自果
親鸞会発行教学聖典(1)より)

親鸞会では、「善い結果も悪い結果も全ては自分の行為によるのであって、他人の行為によって自分に結果はあらわれない」と繰り返し強調しています。

そこで親鸞会の因果の道理と、前述した「善知識は全因縁」とが合わない部分について書いて行きます。


善知識が全因縁なら、なぜお布施が必要ですか?

善知識が「全因縁」とするなら、自身が救われるためにお布施をする必要はありません。なぜなら「全因縁」だからです。「因」と「縁」の全てが善知識なのですから、結果に於いて私が何かする必要はありません。もし、「私が何かする必要がある」なら、善知識は「全因縁」ではなく「半因縁」となります。残りの半分は私がする受け持ちとなります。この点からも、真宗の救いに於いて親鸞会が主張する「善知識=全因縁」説は間違いということになります。

善知識が全因縁で、私が救われるのなら「他因自果」ではないですか?

善知識が全因縁とすると、親鸞会でいう因果の道理からいえば「自因自果」ですから、善知識の因縁は、善知識に返ってきます。つまり、善知識が何をしようと、その結果は善知識に返ってくるのであって、私に返ってはきません。仮に、善知識が「全因縁」で私が救われるとすると、善知識の因縁によって私が救われることになります。そうなると、阿弥陀仏の本願の出番がありません。なぜなら、善知識が全因縁だからです。仮に、善知識をお釈迦様としても、お釈迦様の力で救われたことになり、阿弥陀仏の出番はありません。浄土門にさえならない話になってしまいます。

では、阿弥陀仏の本願の救いは「他因自果」ではないですか?

そうなると、阿弥陀仏の本願こそ「他因自果ではないのか?」と疑問に思われる方もあると思います。
結論からいうと、それは親鸞会でいう「他因自果」とはいいません。親鸞会では「自分の蒔いたタネは、他人に生えることはない。他人の蒔いたタネが自分に生えるということは、万に一つ、億に一つ、兆に一つも絶対にない」といいます。しかし、仏様は、自らの修行による功徳を他に与えることができます。これを「回向」といいます。これは「自因他果」でもなく、「他因自果」でもありません。
法蔵菩薩の五劫思惟、兆載永劫の行を私を救うために私に差し向けてくださるということです。これを「本願力回向」といいます。阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を回向してくだされるから、その光明名号の因縁によって私がすくわれるということがあるのです。それは、コメントに匿名さんが書かれた通りです。

この団体に於いては新興宗教であるとはいえ、本典のお言葉を使っている故に、あえて苦言を申し上げたい。また、のみならず正信偈を御存知無い団体とも思われる。

そもそも正信偈には「光明名号顕因縁」とあるので、如何なる事でもそれが成立するためには因と縁が無くてはならない事は誰でもわかる真理である。また、悟りを開くのも因と縁による。
その因と縁を自分の上に構成して、悟りを開こうとするのが「自力の教え」しかし、我々はそうした力を生み出せないから、仏が光明の縁によって育てはぐくみ、名号の因を与えて因縁具足の身とせしめて救うというのが他力本願のこころであります。これは因縁の道理にも背かないわけです。

よって我が団体の会長が、「全因縁」という発想は、言葉を遊びで使っているような人間の質問と言わざるを得ません。(匿名さんのコメント)

私が、阿弥陀仏に救われる、また信心決定の身になる因縁はすべて阿弥陀仏のお働きです。善知識は、それを教えるというだけであって「全因縁」ではありません。それでも「善知識は全因縁だ」と強弁する人は、こう聞かれたらどう答えるのでしょうか?


「全因縁である善知識も人間です。もし、何かのことで自分より先にいなくなったら救われないのですか?」

これは、多くの会員が抱えている疑問だと思います。事実、私も親鸞会にいたころはそのような疑問を持っていました。仮に、善知識が「全因縁」だとすれば、「全因縁」が無くなれば、結果としての救いもなくなるわけですから私が救われる道も途絶えてしまいます。そこで、当時私がいた親鸞会では「だからこそ親鸞会会長の高森顕徹先生がご存命の間に信心決定しなければならないのだ」と言っていました。しかし、これは全くの回答になっていません。親鸞会でいう「高森会長は蓮如上人以来の500年ぶりに現れた善知識」です。その理屈から言えば、高森会長の死後は500年くらいは善知識が現れず、阿弥陀仏に救われる人もいないということになります。そうなると、親鸞会でも「妙好人」として、話が出てくる「お軽同行」や「庄松同行」はなぜ救われたのかということが疑問です。


これについてある会員が、親鸞会特専部員でもある明橋大二医師

プロフィール | 明橋大二 公式ホームページ akehashi.com
に聞いたところ「ビデオ法話を見るしかないですね」と言ったとの事です。
私はそれを聞いてがっくりとしました。ビデオ法話でいいなら、富山に足を運ぶ意味はないからです。


とはいえ、多くの親鸞会講師部員も同じことを思っているのだと思います。「高森会長亡き後は、ビデオ法話を聴聞しよう」ということです。それなら、ビデオが人を救うということになり、富山に行く必然性は全くありません。なぜなら、地元でビデオ法話を聴聞できるのですから。

最後に

まとめていうと「善知識は全因縁」は、原典の意味では「善き友、善き仲間」であって「高森先生」の意味ではありません。また、救われる「全因縁」が善知識だというのは、浄土真宗ではありえないことです。すべては阿弥陀仏の本願力回向の救いです。貴方は、ただ「助ける」の仰せを聞く以外にありません。

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