オーボイド 2012/05/27 13:20
善知識とは、阿弥陀仏の救いにあうところまで導いてくださる方のことであると私は理解しています。
ですから、仰有る通り教えを聞いたこと自体が救われたことではないというのは同意見です。
しかし、教えを聞かなければ、救われないというのも間違いのないことなので、善知識は必要であると言ってきました。○南無阿弥陀仏に不足があるから、それに善知識を加えねばならないのだという文脈で仰っているのですか?
というご質問ですが、上記の理由より、名号に不足が有るか無いか以前のところなのです。
もちろん、名号六字は完全無欠のものであることは言うまでもありませんが、その名号を受け取るところまで正しい教えで導いてくださる方、つまり善知識なしでは有り得ないという意味で、必要不可欠であると言ってきました。
そしてyamamoya さん、信後の味わいは信
前の人にいうのは間違いであるという根拠を示してもらえないでしょうか。
親鸞聖人のお聖教などは、後世の人々も救われてほしいという一心で書かれているはずですから、まだ救われていない人(信前の人)にとって全く無関係なお言葉があるというのは、どうも不自然に感じるところですのでよろしくお願いします。
yamamoya 2012/05/27 21:38
オーボイドさん遅くなりました。
尋ねられている内容の文章が私には今ひとつ理解出来ません。
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というご質問ですが、上記の理由より、名号に不足が有るか無いか以前のところなのです。
もちろん、名号六字は完全無欠のものであることは言うまでもありませんが、その名号を受け取るところまで正しい教えで導いてくださる方、つまり善知識なしでは有り得ないという意味で、必要不可欠であると言ってきました。
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名号六字は完全だけど、不完全と言っているように読めるのですがちがいますか?要領を得ない回答の場合は、もう一つのブログにコメントの場を移したいと思いますのでよろしくお願いします。
オーボイド 2012/05/27 23:13
yamamoya さんお忙しい中ありがとうございます。
簡単にたとえますと、名号とは、どんな難病でも治す完全無欠の薬のようなものです。
しかし、そんな薬がいくらあっても、その薬の在りか、それを処方してくれる医者の居場所を知らなければ、受け取ることはできません。
善知識とは、ちょうどそれを教えてくれる案内人のような人です。
ですから、名号に不足が有るか無いか以前の、そもそも受け取れるところまで行く必要があるというところを話していたのです。
オーボイド 2012/05/27 23:21
yamamoya さん信後の味わいを信前の人にいうのは、間違いであるということについては、特に根拠がある訳でもなく言われたということで了解してよろしいでしょうか。
以上安心問答より転載。
オーボイドさんへ、こちらの方へ今後はコメントお願いします。こちらに関してはコメント削除などは基本的にしない方針です。
信後の味わいを信前の人にいうのは、間違いであるということについては、特に根拠がある訳でもなく言われたということで了解してよろしいでしょうか。
これの前に、その前段の話が解決がついていませんので、それが終わってから書きたいと思います。議論を一つ一つ進めて行くためなので、他意はありません。
オーボイドさんの話からすれば、私は薬の話をしていたわけです。そこへ「薬だけでは病気は治らないではないか?」と質問してこられた形になっています。
親鸞聖人ご自身が、阿弥陀仏のお救いを言われるときには、本願力とか名号のおはたらきとしていわれているのですから、わざわざそこに善知識という話を持ってこられるのが私には、よくわかりません。
オーボイドさんは、善知識という単語に随分こだわりをもたれているように感じますが、如何でしょうか?
追記
コメント欄が長くなったので、このコメント欄の続きは、次のエントリーに続きます。
オーボイドさんのコメント「善知識は必要不可欠か?」について2 - 宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)へ