親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

オーボイドさんのコメント「善知識は必要不可欠か?」について2

オーボイドさんのコメント「善知識は必要不可欠か?」について - 宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)への続きです。
コメント欄が、長くなってきたので、コメントされるかたはこのエントリーのコメント欄にお願いします。

前のエントリーのコメント欄の終わりごろより抜粋

たかぼー 2012/06/10
オーボイド様
1.私がコメントするスジではありませんが、貴方様は「このご和讃を親鸞聖人が信前の人には無関係な自慢話の体験談を書き残されたかのように言われる方々」と言われました。しかし、誰もそのような意味のことは言っていないように見受けられます。どのコメントを指して言われているのでしょうか。
2.また貴方様は自ら引用した上記和讃にはどのようなご法義が説かれていると理解しているのでしょうか。
3.貴方様が言う「阿弥陀仏の仰せ」とは教行信証行巻の御自釈の文にある「本願召喚の勅命」と異なるのですか。
4.貴方様は自ら使われた言葉の持つ意味内容を明らかにせずに議論しようとしているので、読者がその意味を確認するために同じ質問を何度も繰り返さざるを得ない状況にあります。それに対して貴方様は何も回答しないままで「・・つくづく少ないなと感じます。」と感想を述べるだけです。貴方様は一体何者ですか。貴方様が信じているご法義とはどのようなものですか。貴方様の信じるご法義は真宗のご法義ですか。貴方様が信じるご法義をこのブログの読者に述べたいのであれば、遠慮せずに正々堂々と述べれば良いではありませんか。私は貴方がどのようなご法義を信じているのか、とても興味があります。自由に述べてください。

オーボイド 2012/06/10
yamamoya さん
○根拠を出してくれませんと、「自見の覚語」と受け 取ります。 善知識をこのようにいわれる根拠を示して下さい。
このお言葉、そっくりそのままお返ししますね。
・善知識とは、「阿弥陀仏のところまで導く」「阿弥陀仏に向かわせる」人ではない、と言われた根拠をお示しください。
・信後の味わいを信前の人にいうのは、間違いであると言われた根拠をお示しください。
あなたが私にした質問と同じ形式の質問をさせてもらいました。
他人にこのような質問をするということは、もちろんご自身がそのような根拠を以て回答できるからですよね?
これだけ言ったのでは、揚げ足を取っただけと誰かさんが一つ覚えのように文句を言うでしょうね。
説明責任は、yamamoya さんの方にあるのですが、百歩譲って私が先に根拠を示しましょう。

善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、人を勧むべきばかりなり。これによりて五重の義を立てたり。一には、宿善、二には善知識、三つには光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり。
善知識とは、弥陀の救いを勧め導く者であり、そのような善知識は、五重の義の一つとして、必要不可欠な存在であり、それなしでは救われることはないと言われています。
次はyamamoya さんが回答される番ですが、上記2つの質問に回答できるでしょうか?(略)

yamamoya 2012/06/11

オーボイドさん

善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、人を勧むべきばかりなり。これによりて五重の義を立てたり。一には、宿善、二には善知識、三つには光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり。
善知識とは、弥陀の救いを勧め導く者であり、そのような善知識は、五重の義の一つとして、必要不可欠な存在であり、それなしでは救われることはないと言われています。(オーボイドさんのコメント)

上記の御文章は、オーボイドさんの説の根拠にはなりません。理由は、その直前に書かれている内容です。
五重の義をなぜ立てられたのかについて、当時の異安心の中で特に十劫安心、善知識だのみをあげて、それが間違いだということを言うためです。

たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。(御文章2帖目11通)

阿弥陀仏に帰命するといっても、善知識がいなかったら意味がないことだ。だから、まず善知識をたのみにするべきだ」これも真宗の信心をよくこころえた人ではない。善知識の仕事は「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と人に伝えるひとである。

といわれています。

ここで言われているのはオーボイドさんのように、善知識を「必要不可欠な存在であり、それなしでは救われることはない」という人を「うつくしく当流の信心をえざる人なり」(善知識だのみ)と批判されているのです。オーボイドさんの「(善知識は)必要不可欠な存在であり、それなしでは救われることはない」説は、善知識を絶対化し、やがては浄土真宗をカリスマ的な人が団体を率いるカルト宗教にしてしまいます。

そこで、

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。

は、善知識と法の関係を教えられたものです。

ここから、ソイさんが何度も出されている「法によって人に依らざるべし」が出てくるわけなのですが、オーボイドさんはなぜこのご文が何度も出てくるか理解出来たでしょうか?

これは、教行信証・化土巻に大智度論を引文されているところに書いてあります。

『大論』(大智度論)に四依を釈していはく、「涅槃に入りなんとせしとき、もろもろの比丘に語りたまはく、〈今日より法に依りて人に依らざるべし義に依りて語に依らざるべし>(教行信証化土巻より)

http://goo.gl/bZ3Um

(お釈迦様が涅槃に入ろうとされたとき、お弟子達に仰った。<今日から、法(教え)をよりどころとして、説く人に依ってはならない。教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。>)

法(教)に依るのであって、人に依ってはならない、言葉に依ってはならない。
真宗の言葉で言えば、阿弥陀仏の本願によるのであって、善知識によってはならない、「善知識の語る言葉」に依ってはならない。

その事を、上記の化土巻の続きには、指と月の関係で喩えられています。

人指をもつて月を指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りていはん、《われ指をもつて月を指ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんぢなんぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。これまたかくのごとし。(教行信証化土巻より)

http://goo.gl/bZ3Um

(人が月を指さして教えようとするときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。その人は、«わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか»というであろう。これと同じである。)

善知識は、月を指さすものです。その善知識を「絶対必要不可欠」というのは、指を見て月を見ないのと同じです。

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。

とは

そもそも善知識の能といふは、『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』(法・教・月に喩えられた)と、ひとをすすむべきばかりなり。(指に喩えられた)

という内容を言われたものです。

・善知識とは、「阿弥陀仏のところまで導く」「阿弥陀仏に向かわせる」人ではない、と言われた根拠をお示しください。(オーボイドさんのコメント)

と言われたのは、ここまで読まれたら分かると思いますが、

法を伝える、あるいは月を指さすということは、「阿弥陀仏のところまで導く」ではありません。
阿弥陀仏に向かわせる」というのも、オーボイドさんは「阿弥陀仏のところまで導く」と同義語に使われているので同じです。

「一心一向に弥陀に帰命したてまるべし」と言われるのは、本願招喚の勅命のことであり、阿弥陀仏ご自身が南無阿弥陀仏と呼びかけられていることですから、これは法です。「善知識の導き」ではありません。その法を伝えるのが善知識の仕事であるといわれています。

法を伝えている人の言葉を聞いて、その「人」「言葉」に従おうとか必要不可欠と考えるのは間違いですよと蓮如上人はいわれているのです。
その前提で、五重の義を出されているので、オーボイドさんが出された五重の義は根拠になりません。

他の根拠があればお出し下さい。

もう一つの件については、善知識のことについての話が終わってからにしますと、最初に書いたとおりです。

オーボイド様 2012/06/11
1.貴方様は「親鸞聖人は後世の人に早く救われてほしいという一心から何度も何度も同じことを書き残されている。真宗を名のるのでしたら、親鸞聖人の精神を見習うべきでしょう」と言われるが、貴方様は自ら発言した「弥陀のところに導く善知識」という言葉の背後にある、貴方様が依拠する法義を何ら語ることでもなく、またその発言の意味を確認するための質問をしても何らの返答もしない。上記の自らの発言に照らしてご自身のことを振り返ってみてはいかがですか。そして、早く私の質問に応えて下さい。
質問1-貴方様は自ら引用した和讃にはどのような法義が説かれていると理解しているのか。
質問2-貴方様が言う「阿弥陀仏の仰せ」とは教行信証行巻の御自釈の文にある「本願召喚の勅命」と異なるのか。