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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

書評6「なぜ生きる2」(高森顕徹〔宗教法人浄土真宗親鸞会会長〕著 1万年堂出版)第3章について

なぜ生きる2について

3章 この世の幸せ限りなしー必ず十種の幸せに生かされる

なぜ生きる 2

なぜ生きる 2

この章はいわゆる「現生十種の益」について書かれています。
最初に気になったことは、最初からこの本を読んでいくと、「大悲の願船に乗る」と「この世の幸せ限りなし」と書いてあるのですが、まるで現世利益のために救われるかのように書いてあることです。

浄土真宗は、往生浄土の法であって、「この世の幸せ限りなし」の為の法ではありません。

それでは、ページに添って気になったところを書いていきます。

※信心 阿弥陀仏より賜る信心。絶対の幸福のこと。(P47 註釈より)

まず、「絶対の幸福」という言葉がいきなり出てきます。親鸞会会員の方にはおなじみの言葉ですが、少なくとも親鸞聖人の仰った言葉ではありません。言葉の定義は親鸞会でいえば「絶対に崩れない幸福」「いつ死んでも大安心、大満足の日本晴れの心」といったところでしょうか。

この章の流れから言えば、「絶対の幸福=この世の利益きわもなし=現生十種の益」となります。
しかし、「信心=現生十種の益=絶対の幸福」という等式はなりたちません。現生十種の益とは、あくまでの信心の利益であって、「信心そのもの」ではありません。

(99)
南無阿弥陀仏をとなふれば
 この世の利益きはもなし
 流転輪廻のつみきえて
 定業中夭のぞこりぬ(現世利益和讚)

http://goo.gl/6ioqrh

南無阿弥陀仏をとなふれば」→「この世の利益きはもなし」と言われているのであって、「南無阿弥陀仏をとなることは」=「この世の利益きはもなし」と言われているのではありません。


高森顕徹会長の話の特徴は、「信心」と「信心の利益」の話を意図的に混同しているところです。「信心」を獲ればあたかも「この世の苦しみがすべて解消して、この世の幸せ限りなし」となるかのように話をします。それでは、阿弥陀仏の本願が「この世の苦しみを消して見せる」と誓われたことになってしまいます。しかし、それは違います。阿弥陀仏の本願は、あくまでも凡夫を仏にするということであり、浄土往生させるためのものです。

弥陀をたのむを、自力回向に解釈(P55)

この箇所は、「なぜ生きる2」の特徴の一つがよく表れている箇所です。いわば「他力回向」を「自力回向」に解説している点です。

以下、「なぜ生きる2」より引用します。

蓮如上人は至徳具足の益をこう説かれる。

大悲の願船に乗ずれば、南無阿弥陀仏の主(あるじ)になるのだ。
(略)

以下は、その文証である。

弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。(『御一代記聞書』二三九)

(P55より)

弥陀をたのむとは、阿弥陀仏の「ただ今救う」の仰せにまかせたことを言います。しかし、「大悲の願船に乗ずる」とは、この「なぜ生きる2」では、自らが努力して乗り込むことをいいます。

その意味では全く意味が違っています。
重要なキーワード(一念の信心=大悲の願船に乗ること)というのは間違いです。

超世の悲願ききしより=「大悲の願船に乗じて」?(P56)

この箇所も同様です。他力回向の法を、自力回向の法にしてしまっている箇所です。

大悲の願船に乗じて
(略)
以下はその証文である

超世の悲願ききしより(略)
(帖外和讚)

これも同様に、「超世の悲願きき」は、本願招喚の勅命を聞くことであるにもかかわらず、「大悲の願船に乗じて」とこの本では解説しています。前述した通りこの「なぜ生きる2」では、「大悲の願船に乗じて」とは、自らが「大悲の願船に乗り込む」という意味で書かれています。
阿弥陀仏からの『ただ今助ける」の仰せを聞いたことを、自ら阿弥陀仏の救いに向かって乗り込むことだと解説しているので間違いです。

「故に知んぬ」=明らかに知らされた?(P61)

「故に知んぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」(『教行信証』総序)

明らかに知らされた。南無阿弥陀仏には、悪を転じて善とする働きがあることを。

(P61より)

ここでは「故に知んぬ」を意訳で「明らかに知らされた」とわざわざ書いています。
本来の意味から言えば、前段の言葉を受けて、「このようなことで知らされた」と書けばよいものを、わざわざ「明らかに知らされた」と書いています。これは一念覚知の親鸞会体質を如実に表しているものと分かります。


3章については、この後も複数おかしな箇所が続くので、これ以降は時間の都合で別のエントリーとします。

今回のまとめ

  1. 他力回向の法を自力回向にしている
  2. 信心と信心の利益は本来イコールではないのにイコールにしている。それによって、阿弥陀仏の本願は「信心の利益を与える本願(現世利益を与えるもの)」にしてしまっている。

このペースで書いていけば、あと15回くらい書かねばなりませんが、少なくとも気がついたことはネット上に公開しておくべきだと思います。長くなりますが、このエントリーを読まれている方は暫くおつきあいをお願いいたします。

この一連のエントリーを読まれれば、「なぜ生きる2」を買う必要も読む必要もありません。現役会員の方は、私の指摘を踏まえて「なぜ生きる2」をよくよく読んでみてください。よく理解出来たら、親鸞会は卒業です。おめでとうございました。