親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会会員が、親鸞会に止まり続ける理由はビジネスマインドで法を聞くからについて

しかばねさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
コメントをして頂いたのは、安心問答でしたが内容から、こちらの脱会ブログにエントリーをします。

しかばね 2013/04/03 16:42
(略)
私は『脱会ブログ』を読んで、今も“親鸞会”に残っている法友のことが心配になってきました。
私だけ『獲信とは全く関係ない“財施”の嵐』から解放されて、『本当の浄土真宗』に出会うことができ、申し訳ないくらいです。

親鸞会では退会者が出ると「倒れた法友の屍を踏み越えて行け!」と言います。
私も今頃は、きっと“屍”扱いされていることでしょう。
まあ、名前が“しかばね”なので、それでもいいですけど・・・。

でも、“親鸞会”を一歩踏み出せば、“広い世界”があるということを早く知ってもらいたいです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130329/1364546396#c1364974940

私も、親鸞会を離れることができたのはたまたまいろいろな縁によって「除名」になることができたからです。しかばねさん同様に、私も個人的によく知った人が、今でも親鸞会に残っています。


高森会長の教義的間違いを指摘されても、なお会に残り続ける人の心境について、いろいろと考えてきました。マインドコントロールという観点や、洗脳などの観点からの言及は今までもありました。そこで今回は「法を聞くことを消費者感覚で考えているから」というところから書いていきます。


消費者感覚というのは、別の言葉で言えばビジネスマインドともいわれます。生産者(またはサービスの提供者)と消費者という観点で全てのものを考えると、消費者は「最も安いコストで、最も優れた商品(サービス)を得よう」と考えます。それは、全く自然な流れです。皆さんも、隣り合った二件の店で、全く同じ商品があれば、より安い価格の店で商品を買おうと思うのと同じことです。今では、買い物もネットで買うことができるようになり、Amazonはじめより安い価格で商品を実際の店舗より買えるようになった結果、家電量販店の売り上げが落ちているという話もあります。私自身も、Amazonを使います。本もKindleで買った方が安いものはそちらを購入したりしています。


そこで親鸞会では「因果の道理」を徹底して聞かされた結果、会員は「蒔いた種に応じた結果が出る」というところから転じて「同じ結果が出るなら、最も低いコストで手に入れよう」という発想を浄土真宗に持ち込んでいます。


具体的にどうなるかというと、まず「最も優れた法話を聞いたほうが獲信に近い」と考えるようになり、親鸞会の中ではそれが「高森会長の法話」ということになっています。その「高森会長の法話を聞く」ということが、大変な価値があるものと思わされた会員にとってみると、「親鸞会の会員として所属し続ける」ことが最も低コストな振る舞いとなります。


その結果「親鸞会を離れることの心理的ストレス」「人間関係上のストレス」に加えて「高森会長以外の“善知識”を探すコスト」よりも、「親鸞会に止まり続けることのコスト」が低いと思う為に親鸞会に止まるという結果になります。


その様な考え方を最大限に強めた行動をしたのが、現在「親鸞会講師部」「親鸞会特専部」「親鸞会親友部」「親鸞会ビデオ講師」という人たちです。言ってみれば「高森会長の法話を継続的に低コストで聞く」「高森会長に近づく」という「商品」の為に、「それとは関係のない世の中の仕事」「人間関係のしがらみ」を切り捨てて、「会の職員」「会の幹部」となった方がより安いコストで得られると考えた人たちだからです。別の言葉で言えば、「如何に効率良く、低コストで獲信できるか」を考えた人間の行動です。私も、かつてはそんなことを考えていました。ですから、多くの講師部員はそう考えて、講師部員になったのだと思います。「世界に法を広める」という大義名分はあるにしても、「より効率的に、低コストで信心を得よう」という考えがあったのは否定できません。


その考えの延長で、仮に親鸞会を離れたとしても「法を聞くこと」をビジネスマインドでとらえているならば、正しく法は聞けません。
例えば「親鸞会を辞めたら、こんなにお金も時間もかからず法は聞ける」とか「親鸞会を続けていたら金ばかりかかってしかたがなかった」「今は、適切なコストで法が聞けて前よりはるかにましです」などなどです。しかし、それは「阿弥陀仏の本願(法)」を、「私を助けてくれるサービス」と考える考え方です。「ただで助けてくれるならこれ以上結構なことはない」と、阿弥陀仏を「サービスの提供者」とし、私を「サービスの消費者」としたならば、それは全くの間違いです。阿弥陀仏は、ビジネスで私を救おうとされているのではありません。ただ今救うの本願は、ビジネスの言葉で言えば「採算度外視」です。何も見返りを期待されない阿弥陀仏の御心を知っていただきたいと思います。



法と言うのは、聞かせていただくものであって、商品でもサービスでもありません。それを商品化して、高い値段で売りつけているのが高森顕徹会長であり、宗教法人浄土真宗親鸞会です。
現在会員で、「何も疑問も思わずに富山に行く」「テレビ講演会に参加する」という人は、「高森会長の法話」を一つの「サービス」と考えているるということです。「素晴らしいサービスには、それ相応のコストがかかる」という考えを続けるならば、親鸞会に全てを持っていかれます。
事実私も過去にそんな人は何人も見てきました。


現役会員の方に再度申し上げます。
「貴方は高森会長の話を聞く」「高森会長に近づく」という「商品」を得るために親鸞会に残っているのでしょうか?
本当に真実信心を獲得したいのならば、親鸞会を辞めるコストなどとるにたらないものです。もし、そう思われないのならば、貴方が「信心決定したい」という思いはその程度だったということです。