親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「信心決定は絶対の幸福ではない」件について(しかばねさんのコメントより)

しかばねさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。ただ、このエントリーの内容は、高森会長の話に関することなので脱会ブログの方に掲載します。

しかばね 2013/03/30 08:58
(略)
私は、高森先生が言っていた「いつ死んでも極楽往生間違いなし」の絶対の幸福になったという自覚がありません。
「極楽往生間違いなし」とはハッキリしていません。

「金剛心をもらった!」という感じもありません。
信心を“頂いた”というより、“取られた”と言った感じです。
キラキラした信心とか、お浄土行きの切符をもらったのではなく、腹の中を“空っぽ”にされた感じです。

そして、その“空っぽ”の中に、ずっと前からそこにあった『南無阿弥陀仏』が浮かび上がってきたのです。

私の信心は“空っぽ”なので、崩れるものがそもそもないと思います。
私に「おまえは異安心だ!」という人がいても、「じゃあ、“南無阿弥陀仏”以外に何かあるなら出してみろ!」と言いたいです。
私は、嬉しいです。
大空に向かって「南無阿弥陀仏ー!!」と叫びたいです。

でも、死にたくないし、死ぬのは怖いです。
高森先生が言っていた「生きてよし、死んでよし」という境地には、達していません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130329/1364546396#c1364601530

しかばねさんが言われることは、私も全く同感です。


まず「絶対の幸福になった」という実感は私にはありません。
なぜなら、高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)のいうところの「絶対の幸福」とは、「死ねばどうなるかわからない後生くらい心がなくなった境地」と定義されているからです。これは、最近のエントリーでも書きましたが、高森会長の創作教義です。


信心決定=絶対の幸福=後生くらい心の解決=死んだらどうなるかわからない心がなくなる→死ねばどうなるかが自分の中でハッキリする

と、高森会長は話をしていますし、私も過去はそのように思っていました。


本願を聞いて疑い無いということが、信心の定義ですが、「お前を浄土に往生させる」という本願に疑いないことと、「私が浄土往生できると確信する」は同義語ではありません。なぜならば、「浄土往生できると確信する」には、「浄土」が判るだけの智慧がないといけません。しかし、凡夫にはそんな智慧はありません。


次に

「金剛心をもらった!」という感じもありません。

についても私は同感です。
なぜなら、阿弥陀仏の仰せを聞いただけであって、「何かをもらった」と所有するのが信心ではないからです。


最後に

高森先生が言っていた「生きてよし、死んでよし」という境地には、達していません。

についてです。
凡夫にそんな境地があったら、「さとり」を開いたようなものです。蓮如上人が、「病気になったらよろこぶ心はさらにおきない」と言われたのもそのことです。


私個人の思いを書きますと、「死んでもかまわない」と思う心はないわけではありませんが、やっぱり「今死んではこまる」といういろいろな事情があります。それは死ぬまで変わらないのでしょう。


自分自身が死のうがどうしようが、それほど驚きもじたばたする気持ちもありません。しかし、周りをとりまく状況を考えると「今日死ね」と言われれば、困ってしまう状況があるのが、私の現実です。もちろん、この世との縁が尽きたならば、阿弥陀仏の仰せのままに往くところのいくだけです。しかし、だからといって、さとったような心持ちがあるものではありません。


このエントリーを読まれる現在も親鸞会会員の方に申し上げますと、「絶対の幸福」を夢想して親鸞会を続けるのならば、今すぐ辞められるのが賢明です。生死を離れて、浄土往生を遂げさせて頂くということは、高森会長のいう「絶対の幸福」ではありません。
一般にいう「幸福」は、どこかの団体の会長が定義してそれに従うことではありません。


本願の仰せにしたがって、もうこれだけは変わらないという身にして頂き、往生浄土させて頂くのが、阿弥陀仏の救いです。