親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

書評2:「なぜ生きる2」…浄土真宗を知りたい人は読む必要はなく、高森顕徹会長に思うことがある人は読むべき本

今回は、総論としての書評記事としてエントリーします。書名で検索して、来られた方ははじめまして。私は著者が会長を務める宗教法人浄土真宗親鸞会の元講師部員です。


平成13年発行の前作「なぜ生きる」より12年経過してまさかの「なぜ生きる2」の刊行に驚きました。著者である高森顕徹氏(宗教法人浄土真宗親鸞会・会長)とかかわったことのある人にお勧めの一冊。逆に、かかわり合いのなかった人は絶対読まない方がいい一冊です。

なぜ生きる 2

なぜ生きる 2



本書「なぜ生きる2」は、「なぜ生きる」というタイトルに魅かれた人に対して、出口のない迷宮に誘う本です。ここでいう「出口のない迷宮」は、「宗教法人・浄土真宗親鸞会」という新宗教団体に入会し、際限なくストレスを受け続ける人生になることをいいます。もちろん「浄土真宗」の教えを学ぶことも、浄土真宗の救いにあうこともほとんど期待できません。

目次

はじめに
1章 人生は、生きることの苦しみから始まる
2章 苦海の人生に大船ありー難度海の人生が、明るい広海に転回する
3章 この世の幸せ限りなし

  • 必ず、十種の幸せに生かされる

4章 四海みな一味平等の宣言

  • 大悲の願船に乗ずれば、凡夫も聖者も、罪人も極悪人も、どんな人も光明の広域に浮かぶ

5章 親鸞聖人と三願転入

  • どうすれば大悲の願船に乗れるのか
  • コラム 三願の真実と方便

6章 すべての人の救われる軌道

  • 弥陀の方便を通らずして、誰ひとり真実・無碍の世界には出られない

7章 時空を超える大指針

  • 難思の弘誓は、難度の海を度する大船

8章 弥陀の本心を釈迦ひらく

  • 弥陀の十八願(私の与える信楽の信心で救う)とは、「名号を聞く一念で救う」お約束である

9章 阿弥陀仏の巧みな誘導

  • どうすれば名号(南無阿弥陀仏)を受け取り、大悲の願船に乗ずることができるのか

10章 弥陀の使命を釈迦果たす

  • 弥陀は十方衆生(すべての人)を、極悪人と見抜いて「無条件で救う」本願を建てられた

11章 往生浄土の門

  • 弥陀は十方衆生(すべての人)を、要門・仮門より誘導して、無碍の一道・絶対の幸福に救い摂ってくださる

12章 大悲の願船に乗せる如来のドラマ(1)

13章 大悲の願船に乗せる如来のドラマ(2)

  • 極悪最下の罪人も救う弥陀の方便

14章 廃らねば乗れぬ大悲の願船

  • 難度の海に漂いつづけ、大悲の願船に乗れない、唯一つの障害は「自力の心」

15章 真実を照射する弥陀の本願

  • 行く手には大悲の願船が待っている

16章 大悲の願船に乗せる教導

  • 「仏願の生起・本末を聞きて、疑心あることなし」まで聞思(聴聞)せよ

17章 阿弥陀仏の救いは信疑決判

  • 大悲の願船に乗じたとき、「他力の信心を獲る」

18章 白道を往く人生

  • 大悲の願船に乗ずるまでの、人生航路を問う

あとがき

本書の主題は、前作「なぜ生きる」に書かなかったことを明らかにすることと主張します。まえがきのそれぞれについては、私の思うところを加えています。

「大悲の願船の厳存」は『なぜ生きる』の主題であったが、「あとがき」で「当然、大悲の願船に乗ずるまでの過程も聖人は説かれているが、本書は大悲の願船の厳存に力点をおいたので、そこまで述べるゆとりはなかった」と許しを請うた。(なぜ生きる2 P3 まえがきより)

「述べるゆとりはなかった」のではなく、上記のことを知りたいと思う人を「宗教法人浄土真宗親鸞会」に入会させる為にあえて書かなかったのが事実です。

その後、読者から、ぜひ“大悲の願船に乗る経路を問う”声が多く寄せられたが、衆務に追われて今日に至ったことを、読者諸賢にお詫びしなければならない。
思えば、親鸞聖人の教えの特徴の中の特徴は、「大悲の願船の厳存」と「その乗船の道程」を解明されたところにある。

至れりつくせりの助っ人たちの協力を賜り、遅ればせながらこの度『なぜ生きる2』をお届けすることになった。(なぜ生きる2 P4 まえがきより)

意訳しますと、前著「なぜ生きる」に対する批判がネット上からも大変あったのですが、それに回答できず沈黙していました。しかし、いい加減に我慢できなくなったので、周囲の人間に「反論書を書くから原稿を書いてみろ」と指示をして、でき上がった原稿を添削して12年ぶりに反論してみました。

「大悲の願船に乗ずる道のり」は、善導大師は「二河白道」の譬喩で説き、親鸞聖人は阿弥陀仏の三つの本願で明らかにされている。永遠の相を帯びてゆるぎない、「三願転入」の教導である。
本書は特に聖人の「三願転入」のご指南を奉じて、些少なりとも要望に応えたいと思う。(後略)
(なぜ生きる2 P4 まえがきより)

このように言いながら「二河白道」の譬喩そのものについては、本書ではほとんど触れられていない。どのような譬喩だったかについては全く記述がありません。これは本書で書かれる「三願転入」と矛盾するために書いていません。しかし、それでも「二河白道」という単語を書くのは、会の中での事情によるものと思われます。

本書の中には「大悲の願船に乗る」ことが大事であり、その「乗り方」が大事だということで、「三願転入」が書かれている。

ただ、そもそも論として「大悲の願船に乗ずる」とはどういうことなのだろうか?という点でが大事です。
この「乗」という字は、親鸞聖人は善導大師の書かれた観無量寿経疏・玄義分によっておられます。

またいはく(玄義分 三〇二)、「弘願といふは『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗(乗の字、駕なり、勝なり、登なり、守なり、覆なり)じて増上縁とせざるはなし」と。(教行信証・行巻・浄土真宗聖典―註釈版P168)

http://goo.gl/0gNrm6

全ての人が浄土に生まれることが出来るのは、皆「阿弥陀仏の大願業力」に「乗る」からであると書かれています。

そこで「乗」とはどういう意味かというと、乗の字、駕なり、勝なり、登なり、守なり、覆なり」と言われています。
これは、現代文では

乗の字は、かごにのるという駕の意味であり、自力にまさるという勝の意味であり、舟にのるという登の意味であり、仏に守られているという守の意味であり、おおわれ護られるという覆の意味である

とあります。


本書では「船にのる」という意味しか書かれていませんが、親鸞聖人が「大悲の願船に乗じて」といわれた「乗」は、それ以外にも、上記に挙げた「乗の字は、かごにのるという駕の意味であり、自力にまさるという勝の意味であり、(略)仏に守られているという守の意味であり、おおわれ護られるという覆の意味である」があります。


最初に「乗」の字は「駕籠に乗る」の意味であるといわれています。この「駕籠に乗る」とは自分の足を使わないということです。次に、自力に勝るという意味であると言われています。いわゆる自力を捨てるということです。そして、仏に守られるといういみであると続きます。


よって、親鸞聖人が「大悲の願船に乗じて」といわれた「乗」は、善導大師の「大願業力に乗じて」をうけていわれたものであります。その意味から言えば、「大悲の願船」=「大願業力」であります。「大願業力」とは、私を救おうと現在はたきかけられる本願力回向の働きです。それに、「乗じて」とは、「自力をつかわず」「自力をすてて」阿弥陀仏にまかせたことをいいます。


その意味で「大悲の願船に乗じて」と親鸞聖人が言われていることから、「乗り方」と教えられたということは絶対にないことです。


なぜならば「大悲の願船に乗じて」=「大願業力に乗じて」だからです。大願業力は、そもそも私を救うために働いている力です。それに「よっこらしょと自らが乗らねばならない」ということはありません。大願業力とは、私に対して常に「働きかけられる力」です。それに「乗ずる」とは、それを「受け入れる」ということです。決して、「働きかけがないからこちらから売り込みに行く」というものではありません。


上記の理由で、「大悲の願船に乗る方法を教えた本」である本書は、そもそもの前提が違っているので読む意味がありません。この本を読む気持ちがある人は、蓮如上人の御文章を一読してください。


必ず、阿弥陀仏に救われます。