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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

なぜ高森顕徹会長や講師部員およびネット対策員は退会者にあれほど上から目線なのか?を考える

私が親鸞会を除名になってより、人づてに除名になった人間に対して親鸞会講師部員から随分ひどいことに言われていると耳にします。また、コメント欄にもたまにネットの担当者なのかわかりませんが、親鸞会職員とみられる人からのコメントもあります。


彼らの言動に共通しているのは、親鸞会を辞めた人間に対してやたらと上から目線でモノを言うという点です。私だけでなく、ネット上に親鸞会に批判的なことを書く人をひと括りに「アンチ親鸞会」とか「誹謗するもの」「退会者」と分類して、それらの人たちを常に見下すような態度をとります。


今回は、過去自分が講師部にいたころは、同じような考えだったなという反省をこめて、なぜそのような言動になるのかを書きます。
これに関連したこととして、法然聖人の御消息のお言葉を紹介します。

われも人も。いふばかりなきゆめの世を執する心のふかかりしなごりにて。ほどほどにつけて名聞利養をわづかにふりすてたるばかりを。ありがたくいみじき事にして。やがてそれを。返りてまた名聞にしなして。此世さまにも心のたけのうるさきに。とりなしてさとりあさき世間の人の。心のなかをばしらず。貴がりいみじかるを。是こそは本意なれとしえたる心ちして。(略)つゆの事も。人のそしりにならん事あらじと。いとなむ心より外におもひましふる事も。なきやうなる心のみして、佛のちかひをたのみ。往生をねがはんなどいふ事をは思ひ入れす。沙汰もせぬことの。やがて至誠心かけて。往生もえせぬ心ばへにて候也。(拾遺和語灯録_浄土宗全書*1第9巻P640より 真宗聖教全書4_P751にも掲載)

大まかな意味をいうと、この世は夢の世だと思って、名聞利養といった世間的な名誉や利益を一端振り捨てた人が、やがてそれをその捨てたことを名聞利養としていると最初にかかれています。そして、そんなことを知らない周りの人が「あの人は名聞利養を捨てて出家した人だ」と褒めることを、それこそ大事だと思い始めるのです。
そして、人から謗られることにないようにばかり思うようになり、阿弥陀仏の本願をたのみ、往生を願うことを忘れて、それを問題にもしなくなります。そんな人は、信心のない人であり、浄土往生することない人といわれています。
実際に、高森会長が主に本願寺派に対して上から目線の発言をするのは、「オレは僧籍を捨てた」ことを、名聞利養にしている意識からくるものと思います。


これを読んで私は、親鸞会の講師部員であった自分と、当時自分の周りにいた講師部員の顔が頭に浮かびました。「これって昔の自分じゃないか」と思ったからです。


親鸞会講師部員の多くは、大学時代に勧誘を受けた人たちです。人によっては、有名大学に入学した人も割と多くあり、また大手企業に入社した後、それを辞めて講師部員になった人もあります。彼らの多くが、講師部になるにあたって家族から猛反対を受けています。その言葉を判りやすく言えば、「せっかく○○大学(あるいは××社)に入りながら、なんでそんなどこにあるかわからないわけの分からん団体の講師になるのだ」というものです。いわゆる一般的な意味での「名聞利養」をふり捨てて講師部に入ってきた人がほとんどです。


過去の私の例で言えば、私が学生だったころに親鸞会職員の養成機関・顕真学院が改築されて多くの学生が講師部、親友部を目指すようにと推進されていました。学生の希望者対象に「学院希望者会合」というのがよく開催されていました。
その時に学生にむかって顕真学院の教授が話していたことは、学院に入りまた親鸞会講師部員をやっていた経験からすれば以下のようなものです。

求む男女。わずかな報酬。指摘の日々。耐えざるプレッシャー。再就職の保証なし。ただし、成功の暁には、真宗の危機、全人類の危機を救える。人生の大勝利者になれる(?)


これを読んで、ピンとこられた方もあるかもしれませんが、これは「ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ」の文章をもじったものです。

ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ―ハイテク海洋動物学への招待 (光文社新書)

ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ―ハイテク海洋動物学への招待 (光文社新書)

「求む男女、ケータイ圏外。わずかな報酬。極貧。失敗の日々。耐えざるプレッシャー。就職の保証なし。ただし、成功の暁には、知的興奮を得る」


しかし、講師部に入る際の動機は本人にとって「真面目」なものであったかもしれませんが、やがてそれが「自分は名聞利養を捨ててたのだ」ということが「名聞利養」となっています。それが「世間では」とは「世間の人は」と親鸞会講師がよく多用する「世間を見下す発言」につながっています。



それと同様、またはそれ以上のことが、退会者、ことさら除名した者に向けて向けられる言葉となって出てきます。その考え方の背景は「自分は名利を捨てて今、講師部にいる。それを捨てるとは何事だ」という名聞利養からでしょう。


しかし、親鸞会を幸いに辞めることができた人も「親鸞会に残っている人」に対して鏡合わせのように同じ事をいうのは、結局現役の講師部員と同じメンタリティだと思います。なぜなら、「親鸞会を辞めた」ということをまた、一つの名聞利養として親鸞会に残っている人を批判するような意見は、「親鸞会に残っている人が親鸞会を辞めた人に対する目線」と同じだからです。もちろん、親鸞会に留まる理由は何もありません。私も、一刻も早く親鸞会の会員は親鸞会から離れるべきだと思っています。ただ、親鸞会を辞めた人が「親鸞会を辞めたこと」だけを理由に、親鸞会に残り続ける人に対して上からモノをいうのは、あまり同意できません。


除名になったものに対して上からものをいうのも、親鸞会に留まり続ける人に対して上からものを言うのも、信心がないなら全く同列の議論だということです。言葉を変えれば「あいつは親鸞会をやめてバカな奴だ」というのと「あいつは親鸞会を続けているバカ奴だ」というのは全く同じ話です。名聞利養にとらわれた話であって、そういう人を法然聖人は信心がない人であり、浄土往生はできない人だといわれるのです。


私は、親鸞会を除名になった事自体はとてもよかったことだと思っています。一方、私に対していろいろと言ってくる人に対しては、「信心がないからこんなことをいうのかな」と可哀想に思います。可哀想で留まればいいのですが、結局それだけに留まらず法を曲げ続けていくことには、大変強い憤りを感じています。それは、私がバカにされたということではなくて、何も分からないまま法を曲げているからです。


親鸞会の会員を続けているとか続けていないとかいうことばかりにこだわるのは、「自分は信心がない」と表明しているようなものです。大事なことは、阿弥陀仏の本願を聞いているか聞いていないかということです。


結論としては、高森顕徹会長が「本願寺派を辞めた」ということを名聞利養としているところに、多くの講師部員と言われる人が訳がわからないまま巻き込まれているのが現状です。
このエントリーを読まれた、一部の講師部員の方また、多くの職員の方はなぜ自分が親鸞会の職員を続け、かつ辞めた人を見下していることを考えてみられたらいかがでしょうか?

*1:http://www.jozensearch.jp/pc/index.php