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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の人にもわかる「方便と真実』4回目(方便と真実は静即動、動即静)

前回のエントリーの続きです。

「真実と方便」の関係は、親鸞会がいうような「目的と手段」の関係ではもともと言われていないということを、前回書きました。今回は、ではどのような関係にあるのかということだけを、教行信証証巻に引文された浄土論註のご文から一部紹介します。

しかればすなはち智慧と方便と、あひ縁じて動じ、あひ縁じて静なり。動、静を失せざることは、智慧の功なり。静、動を廃せざることは方便の力なり。(教行信証証巻・浄土真宗聖典―註釈版P329)

(現代語版)
だから般若(智慧)と方便とは互いに縁となって動であり、互いに縁となって静である。動でありながらしかも静を失わないのは、般若の徳であり、静でありながらしかも動を失わないのは、方便の力である。

http://goo.gl/12N2A

前回、真実の智慧から、必ず慈悲となり、苦しむものを救おうと働く姿が方便であると書きました。このご文の部分では、「智慧」を「般若」とされ、慈悲と方便を一つにまとめて「方便」とされ、「智慧(般若)と方便」の関係をいわれています。

上記のご文では、智慧と方便は互いに縁となって動であり、静であるといわれています。ここでは「智慧(般若)は静」「方便は動」とされていますが、これは二つの別のものではなく、静でありながら動、動でありながら静という関係です。いわば「静即動」であり「動即静」という関係になるのが、智慧と方便の関係です。このエントリーでいえばそれが真実と方便の関係ということになります。

なぜそのような関係になるのかということを、上記のご文のあとには続けてこのように書かれています。

もし智慧と方便とによらずは、菩薩の法則成就せざることを知るべし。なにをもつてのゆゑに。もし智慧なくして衆生のためにするときには、すなはち顛倒に堕せん。もし方便なくして法性を観ずるときには、すなはち実際を証せん。(同上)

(現代語版)
般若(智慧)と方便とによらないなら、菩薩の行が成就しないと知るべきであるということである。なぜかというと、般若によることなく衆生救済にはたらけば、迷いにおちてしまう。方便によることなく一如を観ずるなら、自分だけのさとりの境地に安住してしまう。

http://goo.gl/12N2A

衆生を救うという思いがあっても、真実の智慧によるものでなければ、自らが人を救うどころか迷いに落ちてしまいますし、かといって、衆生を救う働きもなく証の世界に安住していれば、それは真実の智慧とはいえません。

真実の智慧は必ず方便となり、方便はかならず智慧によって出てこられるものです。

上記にかかれたことは、仏・菩薩の智慧、方便について書かれたものですから、前回にも書きましたが、真実の智慧とか方便というのは、主語は仏さま、菩薩のなされること使われる言葉です。人間の行為につけるものではありません。

まして、「これは方便だからやれ」と人に勧めるのは、全くもっておかしなことです。
なぜなら、このような真実の智慧が、慈悲となりあらわれた方便が法蔵菩薩の願であり、五項兆載永劫の行となり南無阿弥陀仏となって働いてくださるというのが、真宗で言う善巧方便だからです。

阿弥陀仏の本願は、南無阿弥陀仏と呼びかけてそれを聞く一つで救うように働いてくださるのが、如来の善巧方便です。お釈迦さまも、それを勧められました。

追記

コメント欄でたかぼーさんが書いておられた、手品師さんのエントリーを紹介します。
2012-11-20 - 手 品 師
分かりやすい言葉で、わかりやすく書かれてあると思います。