親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「『歎異抄」旋風を世界へ」と「因果の道理が分からねば」2022年親鸞会の活動指針・顕正新聞2022年(令和4年)1月15日号を読んで思った事)

顕正新聞2022年(令和4年)1月15日号を読みました。
以下、思った事を書きます。

歎異抄」一色の親鸞会

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顕正新聞2022年1月15日号1面

この号は、新春大会が富山県親鸞会館で行われ、またネット配信によって各地の会館でも同時間に新春大会が行われた様子が報道されていました。
1面の写真にもあるように、今年は「『歎異抄」旋風を世界へ」がテーマになっていました。

歎異抄をひらく』(高森先生著・1万年堂出版刊)の発行部数は、昨年1年間で45万部から56万部へ躍進した。ご発刊14年目、仏教書としても異例である。
(略)
さらに、昨年12月の入門書『歎異抄ってなんだろう』(1万年堂出版刊)により、『歎異抄』や仏教の知識が全くない人にも読者層が拡大しつつある。令和4年はまさに、無上仏の巻き起こされた真実の砂塵で、『歎異抄』の真意が日本と世界を席巻するであろう。
  ■
次ぎに、大都市圏で集中的に展開されている『歎異抄』講座の盛況ぶりを、5人の講師が語った。
顕正新聞2022年1月15日号1面より)

高森顕徹会長の著作である「歎異抄をひらく」が引き続き発行部数を伸ばし、新刊「歎異抄ってなんだろう」も出た上に、組織を上げて「歎異抄」講座をひらくなど、まさに「歎異抄」一色といった様子です。

さらに、昨年完成した京都会館では

連日、参詣者が押し寄せている。幾日も参詣している人も多く、法話を聞きたくても聞けない真宗難民が、会館誕生を待望していたことが紹介された。(同上)

とのことで、新年らしく前向きな事柄が紹介されていました。

実際の活動現場は「因果の道理」

しかし、「論説」は一転してトーンが変わります。

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顕正新聞2022年1月15日号3面論説

なぜ私だけ、こんな目に。泣きたい時は仏説を思い出そう。釈迦は、自分に現れる幸・不幸の全ては、自分の行為が生み出したものと解明されている。これが仏教の根幹「因果の道理」である。
(同上・3面「論説」より)

親鸞会である程度の年数活動したことのある人ならば分かる事ですが、「因果の道理」の話題を持ち出すのは、会員がいろいろと苦しい状況に直面している時です。

増え続ける各地の会館や、新刊の発刊、それに伴う広告費の増大、親鸞会館の映像装置の刷新など会員に対する経済的負担は今年も大変なものとなりそうです。

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讀賣新聞2022年2月8日広告

実際に、富山の親鸞会館に全国から集まることがなくなったとはいえ、それまで交通費として使われていた分は、先述したさまざまな「お布施」という形で会に収めているため会員の負担は変わりません。

しかし、そんな状況に会員が声をあげることがないように使われるのが「因果の道理」です。今回の論説でも、このように書かれています。

この因果の道理が分かれば、善果が現れた時は、「どんな悪果を受けても文句の言えない私が、こんなに恵まれているのは如来聖人のご加護」と感謝し、より努力せずにおれなくなる。
(同上・太字強調は原文ママ

実際に活動現場では、同じ事が言われています。
具体的にはこういう感じです。
「本当の親鸞聖人のみ教えを高森先生から聞かせていただいてる我々は大変な幸せである。真実を知ることができたことに感謝し、より努力するのは当然です。では○○お布施の予約用紙を配布しますので、みなさんの精いっぱいを出させて頂きましょう。」
こういう話も、数年に一度ならば会員も頑張りますが、親鸞会ではこれが毎月のように行われています。

「なぜ私だけ、こんな目に。泣きたい時」という書き出しは、会員の今の心の声です。

そして、論説の最後はこう締めくくられています。

「私が、こんな悪果を受ける筋合いはない」と抗議しても無駄である。
仏教の本である因果の道理が分からずして、末まで聞き開けようか。真剣な聞法に身を沈めよう。(P)
(同上)

親鸞会は、会の活動に異議を唱えるものは、まったく「因果の道理」が分からないものであり、抗議をしても無駄であると言います。
そして、「因果の道理」が分からないと救われないと主張します。

歎異抄」から「因果の道理」へ

親鸞会にとってそんなに大事な「因果の道理」ですが、「歎異抄ってなんだろう」にはその言葉がそもそも書かれていません。
歎異抄ってなんだろう
大量の広告によって「歎異抄」の文字に惹かれて親鸞会に足を運ぶ人もいます。それらの人が、一歩親鸞会の中に足を踏み入れると繰り返し耳にするのが「因果の道理」です。そして、この「因果の道理」が分からないと救われないそうなので、誰も救われない教えとなっています。

歎異抄をひらく」と「歎異抄ってなんだろう」をよくよく読んでも、「因果の道理が分からねば救われない」とは書いていません。それを活動の現場で強調されるのは、救いに関係ない話を、関係あるかのようにしているダブルスタンダードにすぎません。

そこに気がついた人は「抗議をしても無駄である」ので、速やかに立ち去って下さい。
私を救ってくださるのは、阿弥陀仏であり南無阿弥陀仏です。