親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「歎異抄をひらく」とはどんな本だったのか(顕正新聞・顕真から見る)

前回の記事
顕正新聞からみえる「歎異抄をひらく」の扱いの変遷(2020年8月1日号・論説「十二年間、待望の書籍」を読んで) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ
の続きです。


歎異抄をひらく」が発刊されたのは、親鸞会結成50周年にあたる2008年4月でした。この年は、親鸞会としても大きな節目の年と位置づけ、その目玉となったのがこの著作です。そのため、機関紙でも「歎異抄をひらく」がどれだけ素晴らしい本であり、反響が大きかったかを繰り返し書いていました。

一例を挙げると以下のようなものです。

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2008年4月15日号顕正新聞1面より

その後、機関誌顕真で、「歎異抄をひらく」が他の解説書とどう違うのかが連載記事として書かれることになります。

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2008年9月号顕真より

さらに「比較対照『歎異抄をひらく』」の連載に続きます。

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2009年8月号顕真
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同じく2009年6月号顕真より

この様な型式で、第19回(2011年4月号)まで連載は続きました。

その後は、「なぜ生きる2」が発刊されたりすると、機関誌上で歎異抄をひらくの報道は減っていきました。しかし、毎年4月が近づくと、以下のような特集記事を出してきました。

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2013年3月号顕真より

歎異抄をひらく」とはどんな本だったのか。

公式サイトから引用します。(目次は文末に表示します)

歎異抄をひらく』は、以下のような3部構成で、『歎異抄』の謎を解明しています。
第一部
原文の真意が伝わるように、できるだけ平易な【意訳】を掲載しています。

第二部
果たして、親鸞聖人の真意は? これまで、あまり世に紹介されなかったり、大きな誤解を招いたりしてきた部分の【解説】を掲載しています。

第三部
読みやすい大きな活字で、『歎異抄』全章の【原文】を、一挙に掲載しています。声に出して読みたい時、仏教を学びたい時のテキストに最適です。
歎異抄をひらく|高森顕徹 著|仏教|1万年堂出版 | 高森顕徹(著) | 仏教 | 1万年堂出版

この第一部に関しては、第1条から第2条までが、現代文の「意訳」が書かれていますが、第11条から第18条は、2行から3行の「要約」となっています。

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歎異抄をひらく」P96より

そこで「解説書」にあたる部分が第二部になるのですが、前述したように第11条から第18条に関しては全く解説文がありません。では、第1条から第10条までは、解説されているかというとそうではありません。これまで高森会長が法話で話をしてきたなかで、強調してきた部分だけを解説として載せているので、歎異抄の文章そのものがどういうことを言われているかはよく分からない状態になっています。

細かいところまでは指摘しませんが、歎異抄の中でどの部分を解説しているかを、以下原文から紹介します。赤字にしてある部分が「歎異抄をひらく」で解説をしていいる部分です。(文末を参照)
御覧になると分かると思いますが、最初の方に解説が集中しているのと、全てについて解説しているわけではありません。

また、歎異抄の著者の意図からすると、第11条から第18条のいわゆる「歎異篇」が言いたいことだったにも関わらず、それについて何も解説をしないというのは「歎異抄の解説書」としては不十分です。この本を制作した意図は「歎異抄をひらく」のではなく、「有名な歎異抄を利用して自分の意見を言いたい」だけです。

実際、「歎異抄をひらく」発刊直後の顕正新聞論説には以下のように書かれています。

高森先生は、『歎異抄をひらく』のご執筆に当たり、「これほど有名な書、聖人のみ教えを明らかにするのに、生かしたい」とおっしゃり、「寝ても覚めても歎異抄」と没頭なされた。
顕正新聞2008年4月15日号論説より)

また、「歎異篇」は親鸞会にとって都合の悪い部分が多く書かれてあります。いわゆる「歎異」されたことを、親鸞会は活動の中心としているからです。
例えば、「学問をしないと救われない異義(第12章・学問不要章)」「善をしないと救われない(第12章・賢善計批判章)」「お布施をするといいことがある(第18章・施物非因章)」」これら第11条以降について全く解説をしていないことから、自分の都合のいいことを主張するために歎異抄を利用したのは明白です。それが「歎異抄をひらく」という本です。

親鸞会会員のみなさんは、是非とも内藤知康師の歎異抄解説書を読んで比べて頂きたいと思います。

参照

歎異抄をひらくで、解説された部分

第1条
(1) 一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり
と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。

第2条
(2) 一 おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。
しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。 たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。

第3条
(3) 一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。 この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

第4条
(4) 一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。

第5条
(5) 一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。 わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれ業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと[云々]。

第6条
(6) 一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。 弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと[云々]。

第7条
(7) 一 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。

第8条
(8) 一 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。

第9条
(9) 一 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]。

第10条
(10) 一 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。

歎異抄 - WikiArc

後序
(19)  右条々は、みなもつて信心の異なるよりことおこり候ふか。故聖人(親鸞)の御物語に、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして御相論のこと候ひけり。

そのゆゑは、「善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信心も一つなり」と仰せの候ひければ、勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もつてのほかにあらそひたまひて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と候ひければ、「聖人の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばこそひがことならめ。
往生の信心においては、まつたく異なることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども、なほ「いかでかその義あらん」といふ疑難ありければ、詮ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非を定むべきにて、この子細を申しあげければ、法然聖人の仰せには、「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候ふらんとおぼえ候ふ。

いづれいづれも繰り言にて候へども、書きつけ候ふなり。露命わづかに枯草の身にかかりて候ふほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびと〔の〕御不審をもうけたまはり、聖人(親鸞)の仰せの候ひし趣をも申しきかせまゐらせ候へども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにて候はんずらめと、歎き存じ候ひて、かくのごとくの義ども、仰せられあひ候ふひとびとにも、いひまよはされなんどせらるることの候はんときは、故聖人(親鸞)の御こころにあひかなひて御もちゐ候ふ御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし。

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。大切の証文ども、少々ぬきいでまゐらせ候うて、目やすにしてこの書に添へまゐらせて候ふなり。

聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。 さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。

聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。

まことに、われもひともそらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。そのゆゑは、念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたんがために、まつたく仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり。 このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふ。これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈の往く路もしらず、法文の浅深をこころえわけたることも候はねば、さだめてをかしきことにてこそ候はめども、古親鸞の仰せごと候ひし趣、百分が一つ、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、書きつけ候ふなり。

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。

歎異抄をひらく」の目次

第一部 『歎異抄』の意訳

第一章 仏法の肝要、を言われた親鸞聖人のお言葉
第二章 親鸞聖人の鮮明不動の信念
第三章 有名な悪人正機を言われたもの
第四章 二つの慈悲を説かれたもの
第五章 すべての人は父母兄弟──真の孝行を示されたもの──
第六章 親鸞には弟子一人もなし――すべて弥陀のお弟子――と言われたもの

第七章 弥陀に救われた人、について言われたもの
第八章 他力の念仏、について言われたもの
第九章 念仏すれど喜べない――唯円房の不審に答えられたもの――
第十章 他力不思議の念仏、を言われたもの
別序
第十一章~第十八章 要約
後序

第二部 『歎異抄』の解説

  1. 歎異抄』は、いかに誤解されやすいか、その現状――ある大学教授の場合
  2. 「弥陀の救いは死後である」の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
  3. 「念仏さえ称えていたら助かる」の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
  4. 「善も要らない、悪も怖くない」あなた、こんなことが信じられますか?『歎異抄』の言葉
  5. 「弥陀の救いは他力だから、真剣な聞法や求道は要らない」という誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
  6. 「ただほど高いものはない」といわれる。では『歎異抄』の〝ただ〟とは?
  7. 「念仏称えたら地獄か極楽か、まったく知らん」とおっしゃった聖人――「知らん」は「知らん」でも、知りすぎた、知らん
  8. 「弥陀の本願まことだから」と、言い切られた親鸞聖人――「弥陀の本願、まことにおわしまさば」の真意
  9. なぜ善人よりも悪人なのか?「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
  10. 「仏」知らずが「ほとけ」間違いを犯す元凶 + 葬式・年忌法要は死者のためにならないって? それホント?
  11. 「四海みな兄弟」と呼びかけられた親鸞聖人のお言葉 + 弥陀に救われたらどうなるの? 万人の問いに親鸞聖人の回答
  12. 念仏称えたら、何かいいことあるの? 何か呪文のように思うけど――絶対他力の念仏
  13. 親鸞さまは本当のことを言われる人ね。私と同じ心だもの――『歎異抄』の落とし穴
  14. 南無阿弥陀仏」ってどんなこと?「他力の念仏」の真の意味を明らかにされた、親鸞聖人のお言葉
  15. 自力の実態を暴き、他力の信心を明らかにされた、親鸞聖人のお言葉
  16. 人類の常識を破り、生きる目的を断言された、親鸞聖人のお言葉

第三部 『歎異抄』の原文