- 作者:瓜生 崇
- 発売日: 2020/05/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
【新刊出来】
— 法藏館 (@hozokan) 2020年4月24日
瓜生崇『なぜ人はカルトに惹かれるのか:脱会支援の現場から』
「これで、迷わず生きていけると思った」。アレフ(オウム真理教)脱会支援で気づいた、信者に共通する正しさ依存の心理。自らの体験告白とともに、脱会とは迷いながら生きる勇気を持つこと、とエールを送る。 pic.twitter.com/99I7h9sVLn
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amazonでは2020年05月15日発売ですが、法藏館では現在発売しています。加えて2020年05月06日までは送料無料です。
元親鸞会講師で現在真宗大谷派僧侶の瓜生崇さんの本。
自身の親鸞会の入信と脱会体験とその後の親鸞会やアレフ脱会支援を通して知らされた、「正しさ」をめぐる人間の姿が書かれています。特に親鸞会会員に読んで欲しい一冊です。
目次
第1章 私の入信と脱会体験
- 一九九三年、東京−プロローグ
- 人生の目的−教団との邂逅
- 受験失敗−孤独と喪失
- シーシュポスの神話−人生は無意味なのか
- 救われないぜ−地下鉄サリン事件への衝撃
- 過労死−激しい活動と大学中退
- 絶体無条件服従−考えることの放棄
- 講師部員−激しい活動と「仲間」への依存
- インターネット対策−虚構の教団を守る
- マインド・コントロール−なぜ私は信じたのか
- パラダイム・シフト−「思考の前提」を疑うということ
- 脱会の決意−人生をやり直す
- 再就職と社会復帰−回復へのみちのり
- 親鸞会を除名に−そして脱退支援へ
- コラムⅠ カルトに定義はあるのか
第二章 なぜ人はカルトに惹かれるのか
- カルトに入る時期や入信者の傾向はあるのか
- 宗教にニセモノと本物の違いはあるのか
- なぜ「正しさ」に依存するのか
- なぜ「正しさ」は暴走するのか
- きれいな心のままでも人は殺せる
- 『宗教的正義」と「社会的正義」の境界線
- なにが教祖を誕生させるのか
- なぜ彼らは神秘体験を求めたのか
- 本当は迷い、もがいている
- コラムⅡ カルトの見分けかたはあるのか
第三章 どうしたら脱会できるのか
- どうして脱会する必要があるのか
- 脱会という「正解」を押し付けていないか
- カルトのことを偏見の目で見ていないか
- 思考停止は揺らいでいる相
- カウンセラーや自助グループの役割
- 家族のコミュニケーションの回復
- 教団とその教えについて知る
- 脱会と回復への道筋
- カルト体験も人生のかけがえのない一ページ
- コラムⅢ どうやって勧誘されるのか
あとがき
私は瓜生さんと共通点が多いです。
同じ1993年(平成5年)に親鸞会に入会し、同時期に顕真学院で研修を受け、親鸞会講師部員として活動をし、親鸞会のネット担当をしたあと(瓜生さんの後任として)、親鸞会を除名となりました。
その間見聞きしたことは、第一章にそのまま書いてあります。まさに自分の20代が全部書いてあるような感覚になりました。
なぜ親鸞会に入ったのか、または別のいわゆるカルト団体に入ったのかについてあれこれ人によって考えることはあると思いますが、その経緯は第二章に詳しく書かれています。
カルトは多くの場合、あなたが生きているのはこのためだ、という明確な答えを与える、あなたの人生はこういう意味があるのだ、あなたの今まで生きてきたのはこの教えに遇うためだったのだ、そして今後はここに向かって進んだらいいのだ、と。こうした疑問に答えを与えることで、その疑問に向き合う苦しみや迷いを消し去ってくれる。「もう迷わなくていい」のだ。これを私は「真理への依存」とか「正しさへの依存」と名付けている。(P107 第2章3なぜ「正しさ」に依存するのか)
私もそうでした。人生には目的があると聞き、それまでの人生に対する漠然とした不安は一時的になくなりました。自分は親鸞会で教えられる人生の目的に従い、あとは突き進むだけだと考えていた当時の私は「迷い」がありませんでした。そして、「真実を知るものは幸いなり、真実を求める者はなお幸いなり」との高森顕徹会長の言葉を信じて「自分は幸せなのだ」と思っていました。そして「正しい人」になっていました。
自分が「正しい」側に立っていると、それ以外の人や団体は「正しくない」側となりそれらを批判したり攻撃することにはなんの躊躇もありません。親鸞会会員である間は、自分は「真実」「正しい」側の人間で、伝統教団や退会者は「不実」「正しくない」側の人間として批判します。
私もかつてはそのように「正しくない側」の人を批判していましたが、いざ自分が親鸞会を除名となると、それまでの仲間から「正しくない側の人間」として批判され話も聞いてくれない状況になりました。このブログを読まれるような人はまた違いますが、多くの「正しい」会員は、その「正しさ」に何の疑問もないので、教義上の疑問をぶつけても聞く耳を持たない人も多いです。なぜ疑問を持たないのかといえば、自分が「正しい側」にいると思い、それに依存しているからです。
ただどれだけ「正しさ」に依存したとしても、それで救われる訳ではありません。親鸞会に長くいると、「正しい側」=「救われる側」という図式を頭の中で作り上げてしまい、恰も親鸞会にいるというだけで自分は救われる側にいるような気になってしまいます。しかし、阿弥陀仏の本願はすべての人を救うというものなので、「救われる側」「救われない側」というような分類はそもそもありません。
また、「正しい人」が救われて「正しくない人」が救われないならば、何の為に阿弥陀仏は本願を建てられたのか意味がわからなくなってしまいます。
「間違いない!」は悩んでいること
親鸞会の熱心な会員の方がよく言われる言葉が「高森先生の仰ることに間違いはありません」です。この記事を読まれている親鸞会と縁の無かった方は、熱心になるあまり会長の言葉を盲信し、思考停止しているように思われるかもしれません。しかし、このような「間違いありません!」といわれるのは、思考停止しているのではなく大変悩んで考えた上でのことなのです。
実は「思考停止」というのは「教祖や教えが正しい」という前提を守るための自己説得といえるもので、自己説得とは実は考えている姿でもある。つまり、「思考停止」というのは実際には停止どころかゆらいでいる姿そのものなのだ。例えばカルトの信者が、その教団の発行物や機関誌以外は読まないで、他の情報には見向きもしないのは、教団の指示がそうだからというだけではない。スマホ一台あれば、誰にも知られずいくらでも教団の情報を入手できるのに、それでもしないのは、自分自身がゆらぐ危うい存在である自覚があるのだ。崖っぷちに立っている人が、怖くて下を覗き込めないのと同じである。(P176 第三章4 思考停止はゆらいでいる姿)
私が親鸞会にいた頃にも、「ネットの誹謗サイトを見てはならない」というのが会員の共通認識としてありました。著者の瓜生さんが親鸞会を除名になった後に親鸞会講師部の間でいわれていたのは「彼はネット対策で誹謗サイトを見ているうちに信仰が崩れたのだ」というものでした。だから余計に親鸞会講師の多くは親鸞会批判ブログを読もうとはしません。それは、「高森先生に間違いはない」を自分に言い聞かせる為に悩んだ結果の行動です。
ですから「高森先生に間違いはない!」と強調する会員は、自分自身がゆらぐ危うい存在であるという自覚があるからそう言っているのです。それは本当に間違いないと信じているのではなく、間違いないと信じられない自分を懸命に説得しているにすきません。
脱会した人はスゴイ人
そんな環境の中で、親鸞会を脱会された方は沢山おられます。その中には、「自分が信じた教えは何だったのか」と虚無感に苛まれる人もいます。また、脱会者の家族や友人の方で、「やっと間違いに気がついたのね」と脱会者をかわいそうな人と見る人もあると思います。
しかし、そんな風に脱会者自身は自分を責める必要もありませんし、周囲の人も脱会者を哀れに思わないで下さい。脱会者の周りにいる人に向けてこう書かれています。
脱会した元信者は、騙されて虚偽の宗教を盲信した可哀相な人ではない。人生の意味を問い、真剣に真理を追い求め、人によっては人生をかけて求道し、人を救いたいと伝道し、そしてそこまで信じていた教義や教祖を疑い、脱会できたのだ。すごい人たちではないか。だから信頼してほしいのだ。そして考え、迷いながら這い上がっていく姿を見捨てないで見守って欲しい。(P200 第三章9カルト体験も人生のかけがえのない一ページ)
私もそう思います。親鸞会の中では脱会者を「聞法の敗残者」といい、求道を続けられなかった可哀相な人という視点で見ます。また、脱会者自身も自分自身を「聞法の敗残者」と思う傾向があります。
しかし、実態はそうではありません。自分自身が「正しい」という身を捨てて、本来の悩みを悩みとして受け止めたから脱会できたのです。大変な勇気ある行動をしたのが脱会者です。