親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

19願どころか、さらにスタートラインが下がった親鸞会会員の横の線 2020年01月05日(日)親鸞会館・高森顕徹会長初聞法会「親鸞聖人の悲しみ」から思ったこと

2020年01月05日(日)親鸞会館(富山県射水市)で、高森顕徹会長の話がありました。
演題は「親鸞聖人の悲しみ」でした。

これについては、すでに以下のブログで紹介されていますのでこちらも御覧下さい。
shingikensho.blog12.fc2.com


頂いた情報から、こんな話があったというまとめは以下の通りです。

(104)
かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す(悲歎述懐和讃)
親鸞聖人は、日本中の僧侶も一般の人も、鬼神を尊敬していることを悲しまれています。
鬼神とは、死んだ人間や動物の霊のことをいう。
正月早々、多くの人が初詣でに出掛けている。


そうするのは、鬼神が私たちに禍福を与える力があると信じているから。
それは迷信であると教えられているのが仏教、お釈迦さまの教え。


親鸞聖人は、正信偈
龍樹大士出於世
悉能摧破有無見
と書かれている。


仏教は、死んだ後も残る有の見も、死んだら無になる無の見も否定する。
では仏教ではどう教えるかというと、点線で続いていく。点線とは、生滅を繰り返すこと。霊魂のようなずっと続くものがあるのではなく、阿頼耶識が続いていく。
この阿頼耶識という蔵に、業種子が収まっている。


それが私たちの運命を引き起こす力があるので、
善因善果
悪因苦果
自因自果
と教えられている。


良い行為が、良い運命を、悪い行為が悪い運命を、自分の運命は自分の行為によって決まる。
ただし、因だけでは結果は生じない。縁と結びついて初めて結果となって現れる。


では私たちの行為は、どういうものか。三業(身口意)でどういう行為をしているかを、お釈迦さまはこう教えられている。

心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善
心も口も体も常に悪を念じ、悪を言い、悪を行って、一つの善もないのが私たちの本当の相であると教えられている。


それを、親鸞聖人はこのように言われている。
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(歎異抄第2条)
そんな者だからこそ、阿弥陀仏が本願を建てられた。その設計図によって作られたのが大悲の願船である。
この大悲の願船に乗せていただくには迷信を破らなければならない。


最初の和讃に書かれたような鬼神が私たちに禍福を与えるという迷信を破らなければ成らない。


さらに縮めて書くとこうなります。
「神信心していては阿弥陀仏に救われません」
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さらに縮めると「神社へ初詣でに行くな」です。


年始早々、富山県まで足を運んできた熱心な会員の多くは、新春に神社に初詣でにいく人はいないと思います。
その会員に向けて高森顕徹会長の年始の話は「初詣でに行くな」ですから、一体誰に向かって何の為に話をしているのかよく分かりません。仮にそういうことが言いたいならば、年始の前に言えばいい話です。


年の初めが、その一年を象徴するというのは一般にもよく言われることですが、この初聞法会での話からすると今年の高森顕徹会長の話は、今まで以上に南無阿弥陀仏から遠ざかった話になるように思いました。


それは、以前は「親鸞会的三願転入」で、19願の強調からさらに後退して、鬼神信仰を捨てよと言い始めたからです。
親鸞会のこれまでの話では、親鸞会館まで足を運ぶ熱心な会員、横の線を進んでいる人であり、その横の線を進むことで、縦の線を突破して救われるというものでした。その横の線の出発点は、「親鸞会的三願転入」では19願になります。19願は「修諸功徳」の道ですから、「善の勧め」を強調していました。その前提は、「因果の道理」でいう「善因善果 自因自果だから、善をやらねば信仰は進まない」と会員が信じていることです。


その前提をひっくり返して「まだ因果の道理も解っていないのだ。鬼神を信じる人がいかに多いことか」と話をしたのが今回の高森顕徹会長です。それを聞いた真面目な会員の中には「確かに私の心の中に因果の道理を信じない心がある」と反省した人もいるでしょうし、2020年02月01日号の顕正新聞・法友通信にはそのように「鬼神を尊敬する心・私の中にも」というのが載るのではないかと思います。(この記事公開時はまだ配布されていません)


しかし、よく考えて見て下さい。確かに、多くの日本人が新春に神社に初詣でに出掛けていますが、それが初聞法会になんとか阿弥陀仏の本願の救いにあおうと思って来ている人と関係のあることでしょうか。
病気に喩えれば、自分はなんとかこの病気を治したいと遠くの病院に足を運んだところ、昨今の日本人の運動不足を歎く話をされたようなものです。


最後に歎異抄第2条のご文をとってつけたように出していますが、前出の「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」の段落の最初の「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」については触れることもありませんでした。


今まで、縦の線と横の線を書いて、会員の多くを横の線のスタートラインに位置づけ善の勧めでそこを勧めと言ってきた高森顕徹会長でした。しかし、今年は横の線にも会員乗っていないと位置づけてさらに会員に「善の勧め」「因果の道理がわかってない」を強調するようです。昨年(2019年)10月28日全国の支部幹部を集めての会合では、「会費だけでは親鸞会の経費の半分しか賄えない。残りは会長先生が出して下さっているのだ」と発表をし、さらなる会費の増額を求めたところからも、今回の話は頷けます。これまでの事例からしても、親鸞会が「因果の道理」を強調する時は、会員に経済的負担を強いるときです。


もはや親鸞会は、会員一人一人の後生の解決のためではなく、親鸞会を存続させるために活動していると言っても過言ではありません。親鸞会を存続したい方は親鸞会に残るというのも一つの道ですが、生死出離の道は南無阿弥陀仏しかありません。ただ今救うと喚びかけられる南無阿弥陀仏を聞いて、ただ今救われて下さい。