親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

前回のエントリーのコメントへの返信

常夏さんのコメントについて、遅くなりましたが、返信します。
コメント欄に書こうとしましたが、長くなったのでエントリーに書きます。
常夏さんへ、コメント有り難うございました。

自力の心=死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心」でないのはわかります。
では、イコール(そのもの、同じもの)ではなく、自力の心の症状(?)としてならどうでしょうか。
つまり、「自力の心がある人は、死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心がある」も間違いですか。
(常夏さんのコメントより)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

多くの親鸞会会員は、そのように解釈をすることによって高森会長の話を正しいものとしています。私もかつてそうだったのでよくわかります。
上記に関しては、つまり「自力の心」について「死んだらどうなるかハッキリしない後生くらい心」だと定義されたお聖教のご文がないという一点で、私は間違いだと言っています。
阿弥陀仏に救われてなくてなければ、それこそ後生と聞いても「どうなるかハッキリしない」のはよくわかります。しかし、エントリーにも書きましたが、だからといってそれを「自力の心」というのは、定義として間違いだと言っています。

阿弥陀仏の本願を疑っている心がない(無疑心)=死んだらどうなるかハッキリする後生明るい心」
も、イコールでないのはわかりますが、阿弥陀仏の本願に疑いがなくなれば死んだらどうなるかハッキリするのではないですか。(常夏さんのコメントより)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

これもエントリーに書きましたが、私の方でハッキリするのではなく、法の上では明らかだということです。

阿弥陀仏の本願は「私を必ず浄土に生まれさせる」というお誓いですから、これに疑いがないとは、私の浄土往生に疑いがないことでしょう。お浄土がどんなところかはわからなくても。
だから逆に言えば自力の心(阿弥陀仏の本願を疑う心)があるうちは往生は定まりませんから、症状の一つとして後生ハッキリしない心として表れる、と思っています。(常夏さんのコメントより)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

これについては、私の智慧の分際では、例え救われても「後生ハッキリ」という智慧はありません。ただ、本願の仰せはその通りと受け止めているだけです。

このエントリーの趣旨は、顕正新聞の論説が自力の心=後生暗い心そのものだと書いてあるのが間違いだということでしょうか。
私は論説を読んで、自力の心=後生暗い心と書いてあるとは思いませんでした。
自覚できる症状として挙げた補足説明というか・・・(常夏さんのコメントより)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

私はそうは読んでおりません。そこでエントリーを書きました。
といいますのは、親鸞会は教義にないことをいうときに、教義にあっている話を混ぜ込んでいるからです。
今回で言えば、

私たちの曠劫流転の元凶こそが、自力の心なのだ。それは、死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心であり、阿弥陀仏の本願を疑っている心である。(記事より)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

の部分です。
曠劫流転の元凶→自力の心はいいとしても、自力の心が「死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心」であるという根拠はありません、それを補う為に「阿弥陀仏の本願を疑っている心」と重ねて書いてあたかも、自力の心=「死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心」と書いているところが問題だと感じました。

それとも問題はそっちじゃなくて「阿弥陀仏の本願に疑いがなくなれば死んだらどうなるかハッキリする」という認識のほうですか。(常夏さんのコメントより)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

その点は問題だと思います。

私もそのように思っていました。