親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の教えでは、身口意の三業で体で行った行為だけでなく、心で行った行為も悪因になると教えられてます。 たとえ善い行いをしても心で悪いことを思っていれば、悪い行いになりうる。川の源流で赤インクを流せば、下流も赤く染まってしまうように。だから、人類は善を行うことができない。…この考えは、一切衆生必堕無間の理論的な根拠と思われますが、聖教上の根拠はあるのでしょうか。

因果の道理について質問です。

あああ
因果の道理について質問です。
親鸞会の教えでは、身口意の三業で体で行った行為だけでなく、心で行った行為も悪因になると教えられてます。
たとえ善い行いをしても心で悪いことを思っていれば、悪い行いになりうる。川の源流で赤インクを流せば、下流も赤く染まってしまうように。だから、人類は善を行うことができない。…この考えは、一切衆生必堕無間の理論的な根拠と思われますが、聖教上の根拠はあるのでしょうか。
仏教あるいは親鸞聖人が心の悪と因果の道理を結びつけて教えている箇所はありますか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160713/1468397658#c1468490601

あああさん、コメント有り難うございました。今回のコメントは、思い切り親鸞会のことに触れる内容だったので、このブログにエントリーを書きました。
よろしくお願い致します。


そこで、お尋ねの、

たとえ善い行いをしても心で悪いことを思っていれば、悪い行いになりうる。川の源流で赤インクを流せば、下流も赤く染まってしまうように。だから、人類は善を行うことができない。

に関しての、お聖教の根拠については、「ない」ということになります。


なぜなら親鸞会の説明がおかしいからです。
「善い行為」をしても、「心で悪いことを思って」すれば、悪い行為になるとのことですが、この「善い」「悪い」というのは、道徳的な善悪のことなのでしょうか?それならば、現実に見聞きする事例です。
例えば、電車の中で年配の方や、小さなお子さん、妊婦さんに席を譲ったとします。その行為(身業)は「善い」ことですね。
しかし、その時心の中で(ここで席を譲らなかったら、なんて自己中心的な人だと言われるのではないか。そう思われるくらいなら、席を譲ったほうがまだいい。相手も感謝してくれるだろう。)ということを全く思わない人はいないかと思います。では、そのことを僅かでも思ったからといって、貴方が席を譲り、それによって席に座れず困っていた人が楽になったことは、本当に「悪いこと」なのでしょうか?


道徳的な善悪では、「やらない善より、やる偽善」という言葉があります。いつのころからネットでよく使われるようになったものです。
一部で有名なのは、俳優の杉良太郎さんが、東日本大震災の直後各地で炊き出しを行った際、

「偽善とか売名と言われることもあると思いますが…」と聞かれた杉が、「ああ、偽善で売名ですよ。偽善のために今まで数十億を自腹で使ってきたんです。私のことをそういうふうにおっしゃる方々もぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ」と答えた

http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20160312/enn1603121529017-n1.htm

この杉良太郎さんの言動は「道徳的に」悪なのでしょうか?私はそうは思えません。むしろ、「道徳的に」立派な善です。


そこで、誰しも「道徳的な」善悪で言えば、なにか相手の為にに善い事をしようとすると、ほんの僅かでも「偽善的」考えはあるものです。しかし、だからと言って、「お前のやっていることは全部悪」というのは、「道徳的な」善悪においてはあり得ません。なぜなら、その人の「偽善」を感謝している人がいるからです。

親鸞会の「善悪」は、「道徳的な善悪」なのか?

そう考えると、親鸞会的な因果の道理で言う「善果」とはなんでしょう?信心決定して、浄土往生することではないでしょうか?
それとも、あああさんは道徳的な善果を求めて親鸞会におられるのでしょうか?
残念ながら、親鸞会の活動に真剣にとりくんで道徳的な善果は期待できません。例えば、身内の結婚式に「親鸞会館で法話があるので」と参加しないと言っては、「親戚中から白い目で見られる」などの結果しかありません。

親鸞会でいう「善果」「悪果」とは?

そこで、「善果」を「信心決定して浄土往生すること」とし、「悪果」を「必堕無間」としてみると、それぞれの「因」が違ってきます。
「信心決定して浄土往生すること」の「因」は、仏願の生起本末で説かれるところの、阿弥陀仏の五劫思惟の願と、兆載永劫の行です。「私の三業」ではありません。それに対して、親鸞会でいう「必堕無間」の「因」は私の三業となります。


ここで分かるのは、親鸞会の主張では「善因善果 悪因苦果 自因自果」といいながら、実際の「因」が、「善因」と「悪因」では異なります。重ねて書きますが、「善果」を「信心決定して浄土往生すること」したときの「善因」は「阿弥陀仏の三業」です。「悪果」を「必堕無間」としたときの「悪因」は、「私の三業」です。「因」の主体が、「阿弥陀仏」と「私」で異なります。


言い換えれば、「地獄に堕ちるのは自己責任だから善をしろ」といいながら、「善をしたら救われるのは浄土真宗ではないのではないのか?」と言われると、「救われるのは全部阿弥陀仏のお力です」と言っているのが親鸞会です。こういうのを一般に二枚舌といいます。

そこで、因果の道理と救いを結びつけていう必要は全くありません。事実、親鸞聖人は、因果の道理と阿弥陀仏の救いを関連付けていわれたところは一つもありません。

赤インクのこと

お訊ねの、赤インクのことで言えば、そのような悪に染まったものを救って下されるのが阿弥陀仏の本願です。自分の心のなかの、小さな自己中心的な考えに苦しまないで下さい。そんなことを知らずに、阿弥陀仏が本願を建てられたとでも思われているのでしょうか。

もう一つの、心の悪と因果の道理を結びつけて教えている箇所について

もう一つのお訊ねの箇所について調べて見ました。

岩波仏教辞典より
三業 さんごう
一切の業を、三種に類別したもの、一般には、身業、口業、意業の三種の行為をさす。ただし、類別の基準により〈善業〉〈悪業〉〈無記業〉をさす場合[倶舎論(17)]、〈福業〉〈非福業〉〈不動業〉をさす場合[倶舎論(15)]等々、多義がある。
人間三業の過(とが)は、冥路に苦聚多し[十住心論(1)]
如説修行といふは、身・口・意の三業を懺悔するなり[法華百座(3.12) ]

とあります。


意業が、結果を引き起こすことについては、書かれています。
ただ、大事なのは、そんな私を救って下される阿弥陀仏がおられることです。「こんな私は救われない」という仏ではありません。ただ今救われてください。