親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

映画「なぜ生きる」の感想(2)ー「ご著書」が「聖典」になった宣言を会員向けにした作品

映画「なぜ生きる」を見ました。これで2回目です。
nazeikiru-eiga.com

熱心な会員以外で2回見た人も少ないのではないかと思います。こういう映画について書く時には「一度見たくらいで何がわかる」と親鸞会の人から怒られそうなので、2回目を見た上での感想を書きたいと思います。


前回の感想記事で、観客に訴えるものがないと書いていました。しかし、2回目を見てこの映画を親鸞会会員向けのメッセージとすれば、高森顕徹会長からとても強い訴えが込められていると感じました。


いろいろ会員向けの主張と分かるものはありますが、一番大きなものは、「なぜ生きる」が親鸞会の中で「聖典」になったことを宣言した点です。

「なぜ生きる」は、親鸞会で「聖典認定」

その場面は、映画の最後に出てきました。吉崎御坊が炎上し、焼け跡から了顕の焼死体が発見されます。その了顕の腹から、いわゆる腹ごもりの聖教といわれる「教行信証 証巻」が見つかります。
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それを高々と両手で蓮如上人が掲げると、その「教行信証 証巻」が、夜明けのまだ薄暗い吉崎で黄金色に輝き光を放ちます。


最初にこの場面を見た時は、アニメ独特の演出なのかと思っていました。しかし、その黄金色に輝く書物が、高森顕徹会長の著作「なぜ生きる」を表現しているのは会員にとってはすぐわかることです。その意味では「なぜ生きる」が「教行信証」と同じ「聖典」になった宣言なのだと分かりました。


平成13年に「なぜ生きる」が発刊されたころ、親鸞会の中では「この本は、高森顕徹会長の50年の布教の集大成」とか「黄金の書」と言われていました。それでも当時は、会のなかでは「ご著書」といわれあくまで、会長の著作物の一つでした。

以前はあくまで高森顕徹会長の著書の一つだった「なぜ生きる」

私がいた当時は、「聖典」>「ご著書」という関係にあり、あくまで真宗聖典に収録されている「聖典」と「ご著書」は別物という扱いでした。高森顕徹会長の法話でも、みな真宗聖典を持参し、お聖教のご文が出れば自ら聖典を開いて確認をしたり線を引いていました。


それが変わり始めたのは、平成17年に親鸞会館(2000畳の正本堂)が完成した後でした。親鸞会館に行かれたことのある方ならご存知のことですが、高森顕徹会長が法話をする壇上には、お仏壇を中心に両面に大きな映像装置が置いてあります。会の中では根拠ボードと呼んでいました。そこには、高森顕徹会長の法話中に、お聖教のご文が出てくると即座に表示されるものでした。それを見れば分かる訳なので、法話中に真宗聖典を開く人は少なくなって来ました。


その後、高森顕徹会長の座談会が「なぜ生きるについての質問のみ」を受け付けるものが始まりました。その頃から、高森顕徹会長の「ご著書」の中でも「なぜ生きる」は別格のような扱いになってきました。それでも、あくまで「ご著書」であって「聖典」ではないというのが、会員の認識でした。
それが、今回の映画では「教行信証 証巻」が、「親鸞学徒の決死の報恩行」によって「なぜ生きる」に変化しました。

ここから分かる事は、これが高森顕徹会長から会員に向けての最後のメッセージなのだということです。

高森顕徹会長から会員へのメッセージ

分かりやすく言えば、「これからはこの「なぜ生きる」を聖典として、親鸞会は進んで行きなさい。親鸞会の根本聖典親鸞聖人の書かれたものではなくこの「なぜ生きる」だ。」です。

ここで「聖典」>「なぜ生きる」が、「聖典=なぜ生きる」と少なくとも親鸞会の中ではなったということです。熱心な会員に取っては、おそらく「聖典」<「なぜ生きる」なのでしょう。

とはいえ、いくら高森顕徹会長が映画の中で主張しても、「なぜ生きる」はあくまで「著書」であって「聖典」ではありません。そこで、この映画では吉崎炎上から、自らの命を投げ出して、自らの血を流した了顕の報恩の行によって、「腹ごもりの聖教」が「黄金の書」に変化することが示されています。
つまりこの「なぜ生きる」を、多くの人に読ませ、親鸞学徒(親鸞会会員)が増えることによって初めてこの「なぜ生きる」は「ご著書」から「聖典」となることができるのです。
高森顕徹会長は、今後の親鸞会の方針として「なぜ生きるを聖典とし、それを弘める活動をせよ」と会員に最後の号令をかけたのが、この映画に描かれていることだと思います。思えば、「なぜ生きる」が発刊された後、高森顕徹会長は「このなぜ生きるが、書店におかれなくなったら、その時は君たち(その時は講師部)がこの本をもって全国を戸別訪問で回るのだ。」と言っていました。いよいよそれが現実のものとなるのだ感じました。

映画の公開後に更新された親鸞会の公式HPには以下の文章が掲載されています。

「『なぜ生きる』を全人類に」
www.shinrankai.or.jp

これで会員には正統派だと言い切れるようになった親鸞会

数年前から、親鸞会の講師や会員の人が、退会者と議論することがあると「なぜ生きるにはこう書いてある。だから正しい」と主張する場面がありました。しかし、「なぜ生きるに書いてあることが正しいと証明できる、親鸞聖人のお言葉はどこにあるのか?」と問われて、何も答えることが出来ないのが現状です。この事からも、「なぜ生きる」に書いてあることは、「親鸞聖人の教え」と「イコール」ではありません。それもかなり間違っています。


しかし、今後の親鸞会は「なぜ生きる」が根本聖典となったわけですから、外部から「親鸞会の教えはおかしい」と批判をされても、「そんなことはない!なぜなら『なぜ生きる』のP○○に××と書かれてある。これが根拠だ。」ということになるでしょう。そうなると、親鸞会を「浄土真宗の団体だ」と思って「その教えは親鸞聖人の教えと違う」と批判をしてきた人は、言葉を失ってしまういます。なぜなら、「親鸞会の主張は、親鸞聖人の教えられた通りである。その根拠はこの『なぜ生きる』にある。」と言っているからです。言うまでもなく、「これが親鸞聖人の教えだ」と主張するからには、親鸞聖人の書かれたものから根拠を出さねば成りません。それが出せないからと言って、自らの団体の会長の著作を出すならば、それは「会長の教え」であって「親鸞聖人の教え」ではありません。
しかし、会員にとって「なぜ生きる」に書かれてあることが正しいという前提ですから、どんな人から批判を受けても「だってなぜ生きるに書いてあるから」と言えば自らの正当性は担保されることになります。こうして、少なくとも親鸞会の中では「親鸞会親鸞聖人の教えを正しく伝える浄土真宗の正統派だ」と主張することができます。

会長自らが「浄土真宗」の看板を下ろしたのがこの映画

親鸞会結成以来、外部からの教義上の批判に対しての最後の砦が高森顕徹会長でした。しかし、その高森顕徹会長も高齢で今後はかつてのように反論することはできなくなります。しかし、「親鸞聖人のお言葉」で「親鸞会は正当な浄土真宗の団体である」と主張することは出来ません。そこで、高森顕徹会長は、今後批判があれば「なぜ生きる」を根拠にしなさいと会員に伝えたようなものがこの映画の主題です。根本聖典が「なぜ生きる」になるのなら、もはや「浄土真宗親鸞会」の看板は替えなければなりません。
自らの「ご著書」を「聖典」にすることで、高森顕徹会長が宣言したことは、浄土真宗親鸞会は、浄土真宗の看板を下ろしますと宣言したに等しいのですが、残念ながら多くの会員には伝わっていないようなので、このエントリーに書いて見ました。

物凄く強気に見える、親鸞会の終了宣言ともいえるのが、この映画でした。


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