親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森顕徹会長「信前も信後も念仏は御礼」(2016年2月28日テレビ座談会)を聞いて思ったこと

2016年2月28日(日)は、親鸞会ではテレビ座談会が行われました。参加者から、聞いたことで思った事を書きます。


今回は、念仏についての質問に答える内容だったそうです。
細かい内容は省略しますが、特に気になったのは信心決定の後の念仏は仏恩報謝の念仏であるが、信前の念仏も仏恩報謝の気持ちで称えるものだと高森会長が言った点です。

「念仏は御恩報謝の念仏と聞くと、信前は念仏称えなくともいいのだ、称えないほうがいいのでないかと思う人もあるけれど、それは間違い。一念まで調熟の光明で導かれる。その調熟の光明に導かれた御恩報謝の気持ちで称える念仏。念仏が出てこない人は信仰が幼稚園だから。」
と言っていたそうです。


これを聞いて、以前の親鸞会では「念仏は御恩報謝に限る」といい、会の中では信前に念仏するのはよくないのではないかと皆なんとなく思っていました。これは、私に限らず多くの退会者がいう点です。

いつものように、親鸞会以外の書籍を読んだり話しを聞いている会員や、新規会員の目を気にして「まともそうなこと」を高森会長が言っているのだと思いました。いつもの事ですが、高森会長は、時々「自分は正しい事を言っている」というアリバイ作りのための話をします。

例えば、何度も繰り返し「19願を進まないと誰も救われない。その為には善を実行するしかない」と言ったと思えば、「善をしたら助かると思うのは間違い」と言ってきました。その都度機関誌の法友通信には「今まで善をしたら信仰が進んで助かると思っていましたが、それはトンでもない誤りと知らされました。」と掲載されるのが、一種の季節の風物詩の様になっていました。

そこで、今回は信前の念仏を称えないのは信仰が幼稚園だからと言ってきました。おそらくまた機関誌には「念仏を称えても意味がないと思っていましたが間違いでした」と参加者の手紙が載る事でしょう。とはいえ、会員を「信仰の幼稚園」に閉じこめて門に鍵をかけていたのは他ならぬ高森会長です。それに対して、会員はいい加減に気がつく時が来ています。

しかし、今回の話しでも、結局のところ念仏が大行であり、阿弥陀仏の行であるという話しはありませんでした。親鸞会の人にとっては、信前も信後も念仏は「御礼の言葉」あるいは「御礼の品」に過ぎないのでしょう。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻)
大行とは、すなわち尽十方無擬光如来の名を称えることです。この行には、如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっています。それは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕現態ですから、大行と名づけられるのです。

称名念仏こそ大行であり、私を速やかに仏にする働きをもっています。決して「御礼の品」ではありません。

前回と今回のテレビ座談会で、「横の線を進むのは調熟の光明のお育て」と続きましたが、おそらく次からまた因果の道理と、善の勧めに逆戻りをするのでしょう。その時機関誌に「光明のお育てで進むと思っているのは、トンでもない聞き誤りでした。」と反省の弁を書いた会員の手紙が載るのではないかと思いました。

光明と名号と信心を別のものの様に思うのは間違いです。南無阿弥陀仏は、常に私を助けるお働きとして働いています。ですから、ただ今救われます。