親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「絶対の幸福にしてみせると誓われたお約束が、阿弥陀仏の本願」(顕真5月号より)ではありません

前回のエントリーで頂いたコメントから思ったことを書きます。その内容は親鸞会では、常識となっている「絶対の幸福にしてみせると誓われたお約束が、阿弥陀仏の本願」は本当なのか?についてです。

前回のエントリーで紹介した記事の下の段に、以下の記事が掲載されています。
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宗教法人浄土真宗親鸞会機関誌・顕真平成26年5月号P42)

文章そのものは「正定聚第99号」掲載のもので高森顕徹会長の作文です。


この文章から引用すると、阿弥陀仏

「金がない」「財産があれば」「病気がつらい」「家族を失った」と苦しんでいる私たちを、現在ただ今、絶対の幸福にしてみせると誓われたお約束

をされたという定義です。


阿弥陀仏の本願は、その内容は「絶対の幸福」と高森顕徹会長は書いています。では、この絶対の幸福とは何でしょうか?以下、上記の文章から引用します。

「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜を獲ます。いつも満ちている無上の幸せは、焼けもせず、流されもせず、盗まれもしません。金や財産、名誉、地位など、この世のどんな幸せとも比較にならない絶対の幸福


しかし、この文章を読む限りは、「この世のどんな幸せとも比較にならない絶対の幸福」というのは、「この世のどんな幸せとも比較にならない大きな幸福」としか読めません。つまり、この世の幸福を1としたら、1000兆くらいのものと言っているに過ぎず、それでは相対的と言わざるを獲ません。なぜなら「焼けもせず、流されもせず、盗まれもし」ない幸福になりたいと思う私の考えの延長を絶対の幸福と呼んでいるだけです。つまり、阿弥陀仏の本願は私たちの考える幸福をとても大きく増幅した幸福にするものであるといっているに過ぎません。

しかし、阿弥陀仏の本願は「絶対の幸福にする」のではなく、「浄土往生させ、仏に生まれさせる」ものです。

曇鸞大師の浄土論註には

仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。(浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)P57)

http://goo.gl/TYvHBB

と言われています。

阿弥陀仏は、私たちの虚偽の相、輪転の相、無窮の相をご覧になって、「あはれなるかな衆生」と思われました。そこで、「衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす」と言われています。阿弥陀仏は、私を嘘偽りのない、輪転しない、終わりの無い場所ではない浄土に生まれさせたいと願われたと言われています。


しかし、上記に紹介した記事には浄土と言う言葉は一言もありません。後付けで浄土という言葉を最近強調してきても、宗教法人浄土真宗親鸞会の本質は、「絶対の幸福」という会員のほとんどがなった人もいない謎の現世利益を勧めている点です。「絶対の幸福」を掲げるのならば、浄土真宗の看板は直ちに下ろすべきです。これまでの人生で獲られなかった幸福や、自己肯定感を「絶対の幸福」で一気に挽回しようと思っている人は、会員の中にも少なからずいるというのが私の実感です。しかし、そのような考えは、あくまで自分中心で阿弥陀仏の法に眼が向きません。


自分の殻に閉じこもるのではなく、ただ今浄土往生の身にすると喚びかけられる南無阿弥陀仏の仰せを聞いて下さい。