親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

難信を通り越して「信を獲た人はいない」と主張を変えてきた親鸞会(顕正新聞2014.4.15より)

顕正新聞4月15日号を読みました。以下の記事を読んで思ったことを書きます。
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(顕正新聞平成26年4月15日号2面より)
上記より一部抜き書きをします。

それは熱心な長期の聞法者も多く参詣していた時のことであった。
「この中に信を獲ているものは、一人いるかな、二人あるかな」と蓮如上人が仰った。参詣者一同、度肝を抜かれて驚いたと言われている。
あっちより、こっちの方が玉が多く出るぞとパチンコ台をえらぶぐらいに信心を考えている者ばかりだから、一人か、二人かと蓮如上人に言われると度肝をぬかれるのである。(B)

この記事でいいたいことは、まとめると以下の2点です。

  1. 蓮如上人から長年聞いている人の間でも、信を獲た人は一人か二人だった。だから、親鸞会に長年いて信を獲た人がいないのは当然である。
  2. 信心を獲ることをパチンコ台に例え、なかなか出る台ではないからもっと玉をつぎ込みなさい。お布施を出しなさい。

1については、以前難信を強調していた親鸞会が、さらに一歩主張を変えて、信を獲た人はそもそもそんなにいないとしたのが特徴的だと思いました。親鸞会の中にも、外にも信を獲た人は日本に一人か二人であるかのように、会員を誘導しようという意図が見て取れます。会員が、親鸞会を辞めないようにいろいろ言った結果が信を獲た人はいないですから、本願を誹謗するにもひどいものです。

2については、記事を書いた人自身が会員をパチンコを打つような気持ちで、日々親鸞会にお金をつぎ込んでいることの告白です。ただ、これは記事を書いた人だけでなく多くの会員の考えていることだと思います。
親鸞会は、とにかく「お布施」の要求が多いです。最近は各地に会館を建てているので会員の負担は増すばかりです。そうやって親鸞会にお布施する人の気持ちは、いつかは大当たりするかもと期待をしてパチンコにお金を次々と投入する人と同じです。


「いつか、このお布施が何十倍にもなってこの手に返ってくる」
親鸞会で信心をそのようなイメージを持っている人は多いです。その例えで言えば、親鸞会というパチンコ屋で大当たりした人は過去にもほとんどいません。特に最近はレートが高くパチンコを続ける事自体が大変な状況です。



この信を獲ることをパチンコに例える事自体「その発想はなかった」な事です。ただ、こんなおかしな例えを考えるのは高森会長ぐらいです。このような例えを出した時点で、会員をパチンコの客のように見ている証拠です。会員の方は、出ないパチンコ台に座らされてゲームを続けさせられているようなものです。会員を辞めない限り、最後に寿命が尽きるか、財布が尽きるまでそれは続きます。


そもそも信心とは、そんなパチンコに当たるようなものではありません。本願力一つ、南無阿弥陀仏の仰せをそのまま聞く一つです。必ず救うの本願の仰せに間違いはありません。必ずただ今救われます。