親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「捨てよ、迷いの『設計図』」と自己矛盾な親鸞会機関紙の記事を読んで思ったこと(顕正新聞平成25年10月1月号より)

顕正新聞(宗教法人浄土真宗親鸞会機関紙)平成25年10月1日号を読みました。

以下、気がついたことを書きます。
今回紹介するのは、親鸞会機関誌顕正新聞平成25年10月1日号10面法友通信 大導師以上座談会(9月1日)の法友通信の記事です。


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捨てよ、迷いの「設計図」親鸞聖人 指授の道
「やがて滝壷に落ちる一大事(死)を抱えながら、それを一大事と思わぬ心ばかりです。どうしたら、後生の一大事に心がかかるでしょうか」との質問に、大導師以上座談会(9/1)でお答え頂いた。その内容を、法友の手紙で振り返ろう。


千万の化城の恐ろしさ
 講師部 O

「どうしたら後生の一大事が心にかかるのか教えていただきたい」の質問にこもった恐ろしい自力の心を教えて頂きました。
 人は皆、阿弥陀仏に助けて頂くには、こうなって、ああなって、後生の一大事に驚きが立って……と、自分で「設計図」を描いている。型を作って、それに自分を当てはめようとする。だが当てはまらないので、「当てはめるには、どうすればよいのか」と出てきた質問で、この心が一番恐ろしいとお聞きしました。
 阿弥陀仏に救われるのだから、その「設計図」は阿弥陀仏が描かれているのであり、我々が描くものではありません。弥陀が描かれた設計図でなければ助からず、我々がその設計図でなければ助からず、我々がその設計図に合わなければなりません。
 本師本仏の弥陀が五劫もかけて描かれた設計図を無視し、凡夫の我々が迷いの考えで一生懸命、設計図を描いている。これを自力というのであり、これが邪魔している。この自力を捨てねばならない、と、厳しく教えていただきました。
 ところが皆、自分の設計図は間違いないと固く信じ、それに合ったと思った時に自力の信心に腰掛けます。その安楽椅子の種類は千万ともいわれ、一度座り込むと気持ちがよくなり、もう立てなくなるから、“菩薩の墓場”と言われることも分かりました。
 こういう状態を人工的に作り出すのが、土蔵秘事やそれに類する者であり、それを警戒された親鸞聖人のお言葉が三願転入のご文です。(上図)
(略)
(顕正新聞平成25年10月1日号10面より…太字、文字色は原文のまま)

この座談会の質問「どうしたら後生の一大事が心にかかるか」は、私も以前は考えたことがあります。しかし、そのような疑問は入会したころに起きたものの、そのうち徐々に思わなくなりました。理由は、「自分で考えることは自力だから、とにかく会長のいうことに従うしかない」と、徐々に思考停止状態に陥っていったからです。しかし、この質問者が「後生の一大事を心にかけねば」というのも、意味から言えば「どうしたら今日死ぬことを恐ろしく思えるようになるのか」というものです。これ自体も、私が親鸞会在籍時に高森顕徹会長から「後生に驚きが立ったら求道は終わりが近い、赤飯炊いて喜ばねばならない」と聞いた話に影響されたものだと思います。それを聞いた以前の私は、「どうしたら後生に驚きが立つのだろうか」と考えました。しかし、真剣に法話を聞いても、そんな心にならず、最後は「とにかく光に向かって進むしかない、会長の指示通りに活動を続けていくしかない」というところに落ち着いていきました。今回の座談会の質問に対する高森会長の答えも、一言で言えば「質問したこと考える暇があったら活動しろ」ということです。



高森会長の話は、無碍の一道の身になるには上記の顕正新聞の図解にあるように、横の線をとにかく進むしかなく、そのスタート地点が19願であるというものです。全ての人を救う為に阿弥陀仏が五劫思惟した結果があの図であるならば、全ての人はまず19願の通りに「修諸功徳」の実行をしなければならなくなります。しかし、それが「阿弥陀仏の設計図だ」と今回の座談会で話をしていたことが、講師部Oさんの手紙に書かれています。

しかし、阿弥陀仏が全ての人を救う為に全ての人に「修諸功徳」をすすめられたとする高森会長の説は間違いです。それこそ「迷いの設計図」です。
法然聖人は選択本願念仏集の本願章に

弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文

として、なぜ阿弥陀仏が諸行をもって往生の本願とされず、念仏一つをもって往生の本願とされたのかという理由が種々書かれています。それは、親鸞聖人も同じで、阿弥陀仏の本願は南無阿弥陀仏一つの救いであり、それ一つを進められました。


前述の顕正新聞の記事から改めて引用しますと

自分の設計図は間違いないと固く信じ、それに合ったと思った時に自力の信心に腰掛けます。その安楽椅子の種類は千万ともいわれ、一度座り込むと気持ちがよくなり、もう立てなくなるから、“菩薩の墓場”と言われることも分かりました。

というのは、まさに親鸞会会員そのもののことです。「親鸞会流三願転入の道」という自分流の設計図は間違いないと固く信じ、その道を進んでいる思っているので「自分たちは正しい道を進んでいる」と凝り固まっています。一度「自分は正しい」と座り込むと気持ちが良くなり、もうただ今救いを求めなくなっています。

こういう状態を人工的に作り出すのが、土蔵秘事やそれに類する者であり(同上)

土蔵秘事はまだ、真宗の異安心という位置づけになりますが、親鸞会は真宗ではないので異安心にもなりません。分類するなら外教か他宗、よくても他流といったところです。


この手紙を書いた講師部Oさんも、「自分は正しい」または「正しい教えを聞いている」と思っているのだと思います。しかし、どれだけ貴方が「正しい」としても、それで貴方はいつ救われるつもりなのでしょうか?「正しさ」という自分の考えでは、浄土往生はできません。

「迷いの設計図」をすり込んでいる張本人が「捨てよ、迷いの設計図」と座談会で語っているのですから、大変な自己矛盾と言わざるをえません。額面通りに受け取るのなら、図に書かれた道を進んで救われると思っているその設計図こそ捨てなければなりません。手紙を書いたOさんも、教行信証を読むことは難しいでしょうから、御文章をよくよく読んで見てください。「雑行を捨てて弥陀をたのめ」と蓮如上人は繰り返しかかれています。ただ今救う本願にただ今救われてください。

追記

この顕正新聞10月1日号には、親鸞会結成55周年記念大会のポスターが一面に掲載されていました。
ご覧に成りたい方は、以下を参照下さい。
http://www.keyrose.net/2013/09/55th-posters/