親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

なぜ親鸞会の話を聞いてみようと思うのかを考えてみる。

たまたま家にチラシが入ったからとか、歩いている時に声をかけられたからというきっかけは人によって違うと思います。入会するまではハードルが高いので、今回はチラシやキャンパスでの勧誘などのきっかけがあったときに、「一度話を聞いてみよう」と思った理由について考えてみました。

私は大きく分けて2つに分かれると思います。
1.人生の目的を知りたい
2.真宗の教えを学びたい

1.人生の目的を知りたいについて

親鸞会には、親鸞学徒信条というのがあります。以下のものです。

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一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信じることによってのみ獲得できることを信じます。


親鸞会の「親鸞学徒信条」を見る限りは、親鸞会は「人生の目的を知り、求めている人の集まり」です。しかし、私がいた時の記憶と、現時点での考えを合わせると決してそうではないと考えます。


言い換えると、「人生の目的を知っている」というよりは、「人生の目的を知っているオレって格好いいと思っている人」が親鸞会会員ということになります。別の言い方をすると「人生の目的を知って、それを求めているのが私らしい生き方」が親鸞会会員です。本当の意味で人生の目的を知ってはいません。

親鸞会会員は人生の目的を知っている?

なぜなら、親鸞会の定義で言えば「真の人生の目的は、達成しないと分からない」ということになっているからです。

なぜ生きる

なぜ生きる


死を正視して苦悩の根元を知り、それを断ち切ってはじめて、
「なんと生きることは素晴らしいことなのか……」
「生きるとは、無上の幸せになるためであった……」と、人生の目的が鮮明に知らされるのです。
(なぜ生きるP103)

いわゆる「救われて初めて知るのが人生の目的」なのですから、どうして「人生の目的を救われない間に知ることができる」のでしょうか?絶対の幸福になるのが人生の目的と言われて、現役会員およびその手前の人が思うものは、「信心決定」とは違います。また、「信心決定」や「なってみないとわからない絶対の幸福」を知らない人が想像するものは、「それに向かって生きていく生き方」だけです。


なぜ「人生の目的に向かって進むという生き方」を選ぶのか?

親鸞会の会員が繰り返し「ゴールを知ってそこに向かうのが大事だ」と高森会長から聞いていると思います。
では、なぜそのような「生き方」を選ばなければならないのかという点について考えて見ます。
明治時代に福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らず」と「学問のすゝめ 」に書いたことに代表されるように「全ての人は生まれながらに平等である」という考えが、今日の主流です。とはいえ、この日本では戦前までは日本の各地で身分制度のなごりは十分に残っており、「すべての人は平等」という感覚は戦後になって初めて一般的なものとなりました。

戦後になり、日本国憲法が制定され、すべての国民に基本的人権が平等に与えられるということになりました。

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM


これによって日本人の意識に大きな変化が起きました。この憲法精神にのっとり、学校でも社会でも「全ての人は平等である」と教えられることにより「自分らしい生き方を自分で見つける」社会になったのです。

どういう事かというと、「憲法のもとに全ての人は平等である」ということは、言葉を変えれば「みんな同じ」ということです。みんな同じ自分というなかで、自分らしい生き方を自分で見つけなければなりません。その前提となっているのは「一人一人の人間は唯一無二の存在である」という感覚です。

「私は唯一無二の存在である」感覚の影響

それを象徴するように、私の子供のころにはそのような歌、ドラマ、映画、アニメはたくさん作られてきました。
いくつか思い出すのでいえば、ゴダイゴの「ビューティフルネーム」には「名前、それは燃える生命 ひとつの地球にひとりずつひとつ」と歌っていました。2003年には「世界で一つだけの花」がヒットしました。
CMでは、森永製菓のヴェルダースオリジナル「こんな素晴らしいキャンディーをもらえる私はきっと特別な存在なのだと思いました」とか、明治安田生命のCM「たった一つの宝物」などがあります。テレビアニメで言えば、巨人の星あしたのジョーは、主人公が「自分だけが成し遂げる夢」に向かって全力で努力をしています。

参照


ヴェルタースオリジナル - YouTube



その結果、「自分」または「自分らしさ」を持つように今日の私たちはいろいろなところから強制されています。なぜなら「唯一無二の存在が私」だからです。そのため、「他の人とは違う自分だけの何か」がなければならないと思っている人も多いと思います。親鸞会の一日一訓カレンダーでいえば「夢をもつようにしよう」です。


一例を挙げると、物心をついたころから「将来は何になりたい?」と聞かれます。私の記憶を振り返ると特になりたい職業も、「こういう自分になりたい」というビジョンも特にありませんでした。なぜなら、私は特別人並み抜きんでている分野も、全てを忘れるほど熱中するものもなかったからです。小学校の卒業文集では「将来の夢」について書くことになっているところが多いと思いますが、私の場合は特に何も書くことがなく、むりやり「小学生が考えそうな夢」を書いた記憶があります。確か「科学者になりたい」だったと思います。


しかし、いくら「唯一無二の存在」といわれても、現実をよくみれば自分というのは「大勢の中の一人」にすぎません。「どこにでもいる自分」と気がつきながらも、「自分らしさ」を追求していくのですからこれは大変ストレスを感じることです。加えて「職業選択の自由」と憲法で決められると、仕事一つをとっても「何をしたらいいのか」と決めるのも大変です。最近の就職活動の厳しさの背景にも「その会社の希望動機」といわれても、実はそんなものがないのが背景の一つとしてあります。

「自分らしさの追求」を親鸞会が提示する「人生の目的」に重ねる

「自分らしさ」や「どう生きるか」を決めねばならないと思っているところに、親鸞会が「人生の目的を知りたくないですか?」と勧誘をかけると、それに耳を傾ける人があります。私はそのタイプでした。しかし、それは「人生の目的が知りたい」というよりは、「自分らしさが人生の目的を知ることで見つけられるかも」といった方が正確です。もう少し言葉を足すと、「人生の目的」という「唯一無二の自分」にしかないものを見つけることで、自分は初めて「唯一無二の自分を、唯一無二の自分と認識できる。それが本当の自分らしさだし、それを知りたい」という願望です。


私自身がそうでしたが、その後大学での勧誘に参加した経験からすると、同じような理由で親鸞会の勧誘に足を止める学生は多かったと思います。しかし、最近の若者世代には、上記にかいたような「自分らしさ」を見つけようという人は減っているので、必然的に親鸞会の旧来の学生勧誘は成果を挙げていません。

「講師部を辞めるときは死ぬ時だ」

以上が、最初に書いた(1)についての現在のところの私の考えです。かなり長文になったので、(2)についてはまた別のエントリーにします。

最後に、私がその後親鸞会に入会し、講師部になったときによく聞いた言葉について書きます。それは「講師部を辞めるときは死ぬ時だ」です。


親鸞会会員となり、講師部になってみると、講師部員の多くは「講師部員という生き方」が「自分らしさ」と位置づけている人が多かったと記憶しています。それをよく表した言い方が先ほど挙げた「講師部を辞める時は死ぬ時だ」です。これは、私が在籍していた期間に講師部退部者が出ると決まって、講師部全員が集まる会合で言われた言葉です。


これは「講師部員」を、「宗教法人の団体職員という職業」と考える一般の方からするととても違和感のある言葉だと思います。親鸞会会員の中で、講師部を希望する人や実際に講師部に入った人の多くは「講師部員という生き方が自分らしさの証明である」と考えています。
別の角度から言うと「講師部員という生き方しかできない自分」という点に「自分らしさ」を見いだして満足している人たちということです。ですから、「講師部を辞める」ということは、「今まで築いてきた、そうだと思っていた自分らしさ」を完全に否定することになるので、まさに「死ぬ時」になります。講師部員を辞めても、会員として在籍をしている人は何人もありますが、皆一応に「一度過去の自分を否定した、またはされた」傷を、心に受けています。言い換えれば「人の道を踏み外してしまった疚しさ」のようなものです。なぜそうなるのかといえば、それだけ「講師部という生き方」がその人にとって「自分らしさの全て」になっているからです。


「聞法の敗残者」という言い回しも、「講師部員という生き方が自分らしさ」と思い込んでいるところからくる暴言です。「講師部員でありつづける」というのは、いろいろな「戦い」に勝ち続けていかねばなりません。いろいろな苦しい思いをしてその「戦い」を続けている理由は、単に「自分らしさ」を守りたいからです。こう書くと、「そうではない後生の一大事の解決のためだ」とか「親鸞聖人の教えを伝えるためだ」「会長先生のご恩に報いるためだ」などなどいろいろと言ってきます。しかし、それは表面的な理由であり、また自分がそう思い込んでいるだけです。実態は「人生の目的を求めている、そのために親鸞会講師部員になったという自分らしさ」が大事なだけです。


そもそも、本当に「信心決定したい」のであるならば、何十年も在籍して講師部員のなかで「信心決定した」という人間がいないことになぜ疑問を持たないのでしょうか?答えは、ハッキリしています。
「信心決定」よりも、「信心決定をめざす生き方」に「私らしさ」を感じて、そこに満足しているからです。そこから抜け出す勇気がないだけです。


外部から教義批判を受けても、法論を申し込まれても黙っていられるのは「法を伝えたい」という気持ちも、「信心決定したい」という気持ちも本当はないからです。
「講師部を辞めるときは死ぬ時だ」というならば、「死ぬまで講師部員という生き方」をやっていればいいでしょう。それで満足なのですから、信心決定してもらいたいと思う私からすればかける言葉もありません。