前回のエントリーで「真実=獲信」ではないということについて書きました。今回はその補足です。
【15】 またいはく(易行品 五)、「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。{乃至}
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(教行信証行巻・浄土真宗聖典―註釈版P151)
(15) また次のようにいわれている(易行品)。
「仏法には、はかり知れない多くの教えがある。たとえば、世の中の道には、難しい道と易しい道とがあって、陸路を歩んでいくのは苦しいが、水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものである。菩薩の道も同じである。自力の行に励むものもいれば、他力信心の易行で速やかに不退転の位に至るものもある。(中略)もし人が速やかに不退転の位に至ろうと思うなら、あつく敬う心をもって仏の名号を信じ称えるがよい。
信方便については、以下のように註釈されています。
信方便…信心を方便(方途・道筋)とする易行。あるいは「方便の易行を信じて」とも読める。(行巻 P.151)
獲信は、「目的」ではなく、浄土往生の手段であると親鸞聖人は言われています。「獲信」が目的の親鸞会会員は、獲信したらなにをするつもりでしょうか?
胸に手を当てて考えて見てください。