親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会機関誌顕正新聞11月1日号の「方便」が間違っている件

顕正新聞11月1日号を読んで思ったことを書きます。
今回は、方便についてです。

仏教で「方便」とは、目的を果たすに不可欠な方法手段をいう。
十方諸仏の本師本仏でまします阿弥陀仏は、
「どんな人も、必ず絶対の幸福に救い摂る」
と真実の十八願で誓われている。その自らの約束を果たすために、必要不可欠な方法手段として建てられたのが、十九、二十の方便願だと親鸞聖人は教えられている。
その弥陀の十九願は「修諸功徳の願」とも言われ、諸善のお勧めである。
(宗教法人浄土真宗親鸞会機関誌・顕正新聞平成24年11月1日号一面より)

「方便破壊の群賊悪獣に賜る直筆の『ご和讃』発見される」 : あさ川進の、宗教と私

相変わらず、「その自らの約束を果たすために、必要不可欠な方法手段として建てられたのが、十九、二十の方便願だと親鸞聖人は教えられている。」と根拠のないことを書いています。

方便というと、「必要不可欠な方法手段」としか考えられないので、18願以外になにか「必要不可欠な方法手段」があるはずと考えるのが親鸞会の人間です。

そうではなく衆生を救うための「必要不可欠な方法手段」として、現れたのが法蔵菩薩でありその本願です。
そのことは唯信鈔文意に親鸞聖人が書かれています。

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典―註釈版P709)

http://goo.gl/NLjRs

元々の一如とも真如といわれる真実の法身はいろもかたちもありません、そのため私たちにとってみれば心も及ばず、言葉も絶えたものです。そこで、その一如真実が私を救おうと形を表されたのが方便法身といわれるものです。これが法蔵菩薩と名乗られて、不思議の誓願を建てられました。そのことを天親菩薩は「尽十方無碍光如来」と名付けられました。

真実が、私を真実の世界に導くために方便として現れられたのが法蔵菩薩であり、尽十方無碍光如来といわれる阿弥陀仏です。その本願の中心は18願だと親鸞聖人は教えていかれました。ですから、私が本当に救われるために必要なのは18願です。19願、20願ではありません。

親鸞聖人は、阿弥陀如来の48願の中での真仮を判別されて、18願は真実、19願、20願は方便願といわれました。ここで言われる真実は必要なもの、方便は捨てものという意味です。

「18願だけで真実にどうして入ることができるのか」と、親鸞会は声高に主張しているのですが、その真実に入れるために建てられた本願が18願であり、法蔵菩薩の五劫思惟と兆載永劫の行の結果の南無阿弥陀仏なのです。

18願の本願と名号がどんな御心で建てられたのかという、如来大悲の恩徳を知らないから、19願が必要などという親鸞聖人がいわれないことを、親鸞聖人がおっしゃったとウソを書いて恥じるところがないのです。

まさに親鸞会の主張は「ウソも方便」ならぬ「方便もウソ」と言わざるを得ません。
顕正新聞を修正するなら11月15日号にでも修正記事を入れることをお勧めします。