前回のエントリーで、「静かな劇場」のご和讃の解説が違っている書き、コメントに書き込みましたが思った通り承認されませんでした。
親鸞会は、高森会長が自分が受けている批判をそのまま他人にいう人物なので、講師部員もその傾向が大変強いです。
以下は、どこかの僧侶相手に書いていた文章のようですが、一読して「自分のこと言っているんですか?」と言いたくなりました。
この坊主は、全くトンチンカンなことで
「今救われる本願」と言いまくっていることになる。まるで闇夜に鉄砲ではないか。
http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/8ec9ac302bf140215e65440c7132e57a
どうせ何を言っても分かるまい、地獄なし、極楽なしと
タカをくくってのことだろうが、「語るに落ちる」とは
このことで、言えば言うほど、親鸞学徒なら、この坊主
の腹底が、信仰のほどが透けて見える。
気づかないのは哀れ、ご本人だけなのである。(56年前の宗務総長の憂い-静かな劇場)
ずっと以前から、親鸞会は「今の寺では死んだらお助けばかりで今救われる本願だと言わない」と散々批判をしていました。それが今では「今救われる本願」と言いまくっていると批判をしています。
※参照 浄土真宗の正統は「平生業成」を説く(1/6)|親鸞会
いったいどっちの立場なのかと考えてしまいます。書いていて自己矛盾に気がつかないのでしょうか?しかし、これは本人にとって全く自己矛盾ではありません。まさに「語るに落ちる」とはこのことです。
一言で言えば「今救われる本願」と全く思ってないのが、親鸞会講師の本音です。それは「今救われる本願」と言う人物を「トンチンカンなことで言いまくっている」と書いているところからもわかります。
過去に私も思っていたことなのでよくわかりますが、親鸞会講師部員のほぼ全員は「ただ今救われる」ということを信じていません。「活動を続けていれば、親鸞会講師部員のなかでひょっとしたら救われる人はいるかもしれないけれども、自分が最初ではないだろう」というのが本音です。
なぜなら、親鸞会講師部員といってもいろんな人があり、自分より先輩の人も多くある上にそれらの人の中で「救われた」と公言している人は一人もいないのが現実だからです。私が親鸞会講師部員になった時点でも、講師部歴20年以上という人は大勢いました。しかし、その中でも「私は救われました」と言う人に会ったことはなく、「仮に信心決定することがあっても、長年講師を続けてきた人より後だろう」と思っていました。
阿弥陀仏の本願には、聞法してきた時間も、講師部歴も関係なくただ今救う本願なのですが、そのように思えなくさせられるのが親鸞会講師部の実態です。
「なんとか信心決定したい」と決意した人が、最も「信心決定できない」と思っているのが、親鸞会講師部の現状です。
だから、「ただ今救う本願」と人前で言うと自分の思っていることに反するので人に強く言えなくなります。そこでそのかわりに「富山に行きましょう」に力が入ります。また「活動にがんばりましょう」に力が入ります。
これは私自身も経験があることですが、「自分自身に救われた実感がない」「自分自身ただ今救われると思えない」ことを、他人に向かって「必ず救われます」というのは大変苦しいことです。なぜなら、自分が救われてもいないのに、他人に「必ず救われます」というのは不浄説法になるからです。
私が過去親鸞会にいたころ、ある先輩講師から「そこを乗り越えなければ一人前の講師部員にはなれない」と聞いたことがあります。その時の私は、自分が救われてもいないのに、人に勧める苦しさを感じているのは自分だけではないのだと思い、少しほっとした記憶があります。
しかし、よく考えて見れば不浄説法に対して罪悪を感じなくなるのが「親鸞会講師」だとすれば、これほど罪深いものはありません。それは、「必ず儲かります」と投資話を持ちかける怪しい人とやっていることは何にも変わりません。
実際に、親鸞会講師が「ただ今救う本願」と思ってない証拠としてもう一つ紹介します。これは、顕正新聞平成24年9月1日号の論説の内容です。親鸞会公式サイトにも掲載されていたので紹介します。
アッという間に消えゆく一生で、多生億劫の目的を果たそうとしているのだ。
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20120901tashonomokuteki.htm
弥陀の救いは多生の目的|親鸞会
「目的」という言葉は、「手段」と「成果」が必ず伴う言葉です。「多生の目的」と言えば、「多生かかる手段」を実行して、初めて成果が現れるという言い方です。
その「多生の目的」を果たすときはいつなんでしょうか?「死ぬまでにあわよくば」ですか?阿弥陀仏はただ今救うと誓われているのですから、ただ今救われてください。