前回のエントリーに追記の形で書きます。
ネット上の法論に関係する質問・発言が出ないようにするために始めたと思われる50人アシスタントでしたが、一回目から早くも機能しなかったようです。
午後からの部で、壇上の50人にアシスタントから以下の質問が出ました。
(略)
睡眠欲、自分が聴聞中に眠くなるのは罪悪というのは分かるのですが、自分が仕事をして家で休むという睡眠欲も罪悪というのがよく分かりませんでした。教えて頂きたいと思います。(50人のアシスタントからの質問)
煩悩=悪だから、人間生活上でてくる眠ることも悪なのかという質問は、私も過去そのように思っていた時があるので、よく分かります。
悪とは誡められるもの、してはならないものということです。もし、欲=悪だから、眠ることも悪だとすれば、仏教は「寝るな」と教えていることになります。そんなことは教えられていません。
しかし、会長自身はこれに直接答えず、いつもの話を展開して行きます。
会長:これは私たちにはわからない。仏教という法鏡に写れた自己を見ないと。つまり、仏法を聞かないと本当の自分は分からない。仏教は法鏡なりといわれる。
(略)
自己を知るのは難しい、難中之難無過斯といわれている。
(略)
そうとは思えないでしょ?自惚れているんですよ。
(略)
自分は煩悩具足の凡夫ではない、罪悪生死の凡夫ではない。あの「具足」というのは簡単に理解出来るものではない。
煩悩具足の私を知らせて貰うためにこの二千畳は建てられたんです。みなさん二千畳に来ておられるんですよ。何を聞くのか、真実の自己を聞くんです。法の鏡によって、法の鏡は二千畳しかないから、みなさんは法の鏡に来られるんですよ。本当の自己を知るために二千畳に来られるんですよ。ほかに何にも無い。これが具足ということです。
一言で言えば、「真実の自己がわからないからそんな質問が出るんだ。二千畳に来て真実の自己を知れ」ということです。
今回の座談会の中でも、
- 「煩悩具足の私を知らせて貰うためにこの二千畳は建てられたんです。」
- 「法の鏡は二千畳しかないから、みなさんは法の鏡に来られるんですよ。本当の自己を知るために二千畳に来られるんですよ。ほかに何にも無い。」
によく現れていますが、親鸞会で言う「法話」は、「真実の自己」を知る場であると会長は言っています。
真実の自己と言っても、この日の話は大半は「全ての人は五逆罪」「煩悩で悪ばかりを造っている」なので、言い換えれば機責めです。
また、煩悩具足の自己と知る=機の深信として説明をしているのでこれも間違いです。機の深信は「出離の縁あることなし」といわれ「自力不生」の私と言うことであって、「煩悩具足の自己と知る」とイコールではありません。
今までネット上の批判を気にして、仏願の生起本末の話をころころと変えてみたり、二種深信の説明も変えていましたが、ここに来て、全く元に戻ってしまったようです。
前回のエントリーとまとめると
- 高森会長の仏願の生起本末の話は、「生起」しかしない。
- 真実の自己を知る(法鏡に近づく)。煩悩具足の自己と知るのが法話
というのが、6月24日の二千畳座談会の内容でした。
生起本末の「本末」は、親鸞会以外の場所で聞くように会長は話をしていたようです。法鏡は二千畳にしかないと言っているので、私を助ける名号法の話は、別で聞く以外にないということです。
親鸞会に在籍している方で、法を聞きたい人は一日も早く親鸞会を離れて下さい。阿弥陀仏の本願に差別はないですが、少なくとも高森会長の口から出てくる言葉の中には「仏願の生起本末」はありません。
ただ今必ず救うと呼びかけられる阿弥陀仏の本願をただ今聞いて救われて下さい。