親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

仏願の生起しか話をしない高森顕徹会長(6月24日二千畳座談会参加者の情報より)

6月24日(日)親鸞会館(富山県射水市)で、高森会長の二千畳座談会が行われました。参加された方より情報を頂きましたので、気になるところを紹介します。

前回のエントリーにも書きましたが、50名のアシスタントが壇上に上がるという非常に変わった形の座談会でしたが、その目的は「発言者は、壇上の人間に限る」というもので、参加者からの自由な発言は事実上禁止するためのものでした。

高森顕徹会長は、以前「法話中であっても疑問に思ったこと、わからなかったことは手を挙げて質問して欲しい」と言っていました。それが、今回から突発的な質問は禁止した訳ですから、随分と弱気になったものだと感じました。ネットを見ている参加者から、自分にとって都合の悪い質問がでることを警戒しているのだと思います。すでに出ている法論に関係する内容が、会場の参加者から出てしまうと答えざるを得ないので、それを防止する為でしょう。

今回の座談会の質問は、以下のものでした。

私たちは煩悩具足の凡夫、煩悩熾盛の衆生とおしえて頂きました。また、私たちは、無明業障のおそろしき病にかかっているとも教えて頂きました。この二つの違いについておしえて頂きたいと思います。(6月24日二千畳座談会の質問)


今回は、この質問一つで一日が終わりました。一応、先月の降誕会の内容についての質問ということなのですが、事前に募集した複数の質問の中から会長が選んだものがこれです。

いつも通り、「時間が無い」と言いながら、この質問にも大して明確な回答もせず一日が終わりました。そもそも、一ヶ月ぶりに会員の前に直接顔を出して、一端中止にしたもの再度開催決定をしてする話がこれなのかと考えると甚だ疑問です。

大まかな内容は、煩悩具足の凡夫の話が約四分の三、残りの四分の一で無明業障の恐ろしき病の話でした。最後には、時間がなくなって終わったという形になっています。

特徴的なのは、何度かブログにも書いてきましたが「仏願の生起本末」といいながら、仏願の生起までしか話をしないことです。

会長:阿弥陀仏の救いはどんな人にされているのかというのを、これを仏願の生起といいます。
アシスタントM「仏願とは阿弥陀仏の本願のことです」
会長:生起とは?
アシスタントM「阿弥陀仏の本願はどういう人を救うための建てれたのかということです。」
会長:阿弥陀仏はどういう人を救うために建てられたのかということが生起ということです。
その阿弥陀仏の本願を疑っておる心を、疑情というのです。

この後、「仏願の本末」についての話は一切なし。

最後に、会長が話したことは以下の通りです。

会長:煩悩具足の凡夫だから助からない。無明業障の病にかかっておるから助からないということ。どう違うのか、分かられたかな
司会者H「はい」
会長:質問は、私たちは煩悩具足の凡夫、煩悩熾盛の衆生とおしえて頂きました。また、私たちは、無明業障のおそろしき病にかかっているとも教えて頂きました。この二つの違いについておしえて頂きたいと思います。
それがおわかりになったかな?
司会者H「はい……、あの……違いと言うことは……」
会長:違い。煩悩具足の凡夫だから助からない。しかし、煩悩具足の凡夫を助けるという阿弥陀仏の本願をあなた疑っているから助からない。そうでしょ。薬を飲めば、あんた病気が治る。それをあんたいややといって飲まなかったら死んだ。病気で死んだともいえるし、薬のまなんだから死んだというのも同じ事です。治る病気、治す薬があるのだから、それをあんた疑って飲まなかったから死んだ。病気で死んだのとどこが違うのか。そういうことです。
その違いがあるんです。
(略)
それさえおわかりになれば
司会者H「はい」
今日の質問、答えたことになる。時間がありませんので、もっともっと話したいこと
司会者H「このあと信心の沙汰をして、もっともっと理解をしていきたいと思います。ではこれで座談会を終わります。合掌」

一日通して話をしたことは、仏願の生起であって、本末は一切無いという話でした。また、質問そのものに対しても司会者が言いよどむほど明確な答えはありませんでした。

また別の所では、

この二千畳には、真実の自己(罪悪を造り続けるもの)を知らせて貰うために来るんです

と、親鸞会の法座は機責めの場であると公言してはばかりません。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P251)

聞とは、仏願の生起本末を聞いて疑心有ることないことだと親鸞聖人はいわれています。この日の座談会に象徴されるように、高森会長の話は「仏願の生起」で終わり、本末の話は一つもありません。

いうことはただ一つ、「煩悩具足の自分を知れ」「悪を造り通しの自分を知れ」という機責めの話ばかりです。こんな話は、百年聞いても「仏願の生起本末」は聞けません。

南無阿弥陀仏となって、ただ今救うと呼びかけられる阿弥陀仏の本願をただ今聞いて救われて下さい。