平成24年6月3日(日)親鸞会館で青年大会が行われました。参加した方から、10時すぎに突然高森会長が法話を休む発表があり、急遽ビデオ法話に切り替えになったと聞きました。遠くは、北海道、九州から親鸞会館まで来た人もある中で、なぜ急に休みになったのかについては詳しい説明も一切なかったそうです。
その前に行われた、5月27日のテレビ座談会も高森会長は出てきませんでした。その回は、高森会長に代わって普段アシスタントをしている複数の講師部員が合同で座談会の質問に答えるという形式だったそうです。
参加した方から、頂いた情報から思ったことですが、高森会長の不在のテレビ座談会の内容は、一言で言えば「高森会長は素晴らしい」という会長礼讃の発表会でした。まさに、知識帰命の団体であることを自他共に認めている内容としか思えませんでした。
質問は以下のものでした。
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質問:(歎異抄をひらくP76に)「犯したどんな大罪も苦とはならず」とお書き下されています。私たちは、悪因悪果自因自果、犯した大罪の結果によって苦しみます。「犯したどんな大罪も苦とはならない」のは、どうしてでしょうか?
この会員からの問いに対して、会長代行の講師部員達はどう答えたのでしょうか?
結論だけ先に書くと、「歎異抄をひらく2部13章に書いてあるので、朗読版の該当箇所をみんなで聞きましょう」でした。
以前から行われている親鸞会での座談会は、高森会長の著書(「なぜ生きる」「歎異抄をひらく」)の内容で不明な点を、著者である会長に尋ねるという形式を取っています。
浄土真宗を名乗る団体で有りながらとてもおかしな点は、「歎異抄」についての座談会では無く、「歎異抄をひらく」の座談会であるところです。
しかも、その回答は「歎異抄をひらく」の本文、または会長の頭の中にしかないという形式で行われています。そのため、5月27日のように会長が不在の場合は、代理の講師も「歎異抄をひらく」から回答をせざるを得ないというとてもおかしな形になっています。
上記の質問1つに対して、丸一日かけて話をしていましたが、その内容は、箇条書きにすると以下のものです。
※十分間説法とは、高森会長が原稿を作成し、講師部員にその通りに話をせよと配ったもの。
座談会の内容から、「会長を褒め称える」が前面に出ている部分を引用します。
(真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし
流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき の和讃の解説で)
講師部員Y「真の知識でないものは、どんなことを教えるものだといわれているかな」
以下「講師部員」は省略
O「苦しみ悩みのの原因は、お金や物がないからだ。あるいは人間関係だ、またそのお金を求める心に問題がある。人を恨んだり、腹を立てたり。そういう心が問題なのだと、そういう心を抑えなさい。こういう者が比叡山にいました。」
H「そうなりますと、今日仏教の本と言うことで、本屋に並べてある本は、そんなことばかり書いていますね。」
Y「そうだね」
M「道徳に毛が生えたような。そういうことが比叡山でもあった。」
W「それは親鸞聖人が仏教の中心である比叡山で20年間、いろんな先生とあったけれどもそのなか一人もなかったと言うことですからこれは説得力がありますね。法然上人お一人だったということですね。」
H「法然上人に巡りあわれた喜びの言葉ですね」
(略)
W「それはまた今日もそうでしょ。たくさん寺もあるし、仏教を説く人もいるし、仏教の本も出ているけれど、どこにも苦悩の根元が疑情だと、無明の闇だと、書かれてあるような本がないということです。本屋を探してもないということです」
H「歎異抄をひらく」
W「歎異抄をひらくだけですね。なぜ生きると」
M「真の知識にあうことが難しいということは親鸞聖人の時代もそうですし、今日も同じ事であります。」
W「そうすると二千畳で、いつも高森先生から聞かせて頂いていることっていうのは、本っっ当に聞きがたいこと、あいがたい方にお会いしているということですね」
M「はい。自分で考えて分かる事ではありませんから、お会いできるかどうかということだけで、決まってしまう。真の知識にお会いできるかどうかで決まってしまうと言っても言いすぎではないと思います」
W「非常に大事なお言葉ですね」
こういう発言が親鸞会がどういう団体かよく表しています。会長が不在の場で、会長の書いた本や原稿以外のことを一切話をせずに、必死に会長を褒め称えるのが講師部員の姿です。そんなに会長を持ち上げるのがうれしいのでしょうか?それを知識帰命だといっているのです。
教えの話はほとんどなく、質問の「犯したどんな大罪も苦とならず」の「苦」は、「浄土往生の苦」という日本語にならない解説を冒頭からする状態なので、回答の内容が教義上どうかについては言及する以前の問題なので、このエントリーでは書きません。