親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

[固定]はじめて当ブログに来られた親鸞会会員(または元会員)の方へ知って頂きたい「仏願の生起本末」

当ブログは、タイトルの通り宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会したいと思っている会員と、すでに脱会された元会員に向けて書いています。
私は、親鸞会元講師部員です。1999年(平成11年)から2009年(平成21年)1月まで、10年間講師部員として活動をしており、その後除名されたものです。

親鸞会での教えはどこが伝統的な真宗の教えと違うのかを、最初に知っていただこうと思います。
この記事では、「仏願の生起本末」について書きます。

目次

仏願の生起本末が大事な理由

仏願の生起本末とは、親鸞聖人が教行信証に以下のように書かれています。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(教行信証信巻)

仏法は聴聞に極まるといわれ、聞即信の言葉もあるように「聞」がすなわち「信心」という教えです。そこで「聞」とはどういうことかということ、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」だと言われています。そこで「仏願の生起本末」ということが、どういうことかよく分からねばならないのですが、この説明が、親鸞会と伝統的な真宗の教えでは全く違います。そこが違えば「聞いて疑い無い」という内容も異なるので大変大事なところです。

親鸞会の「仏願の生起本末」

では、親鸞会ではどのように仏願の生起本末を説明しているかを、2013年(平成25年)10月に行われた親鸞会結成55周年で高森顕徹会長が話した内容から紹介します。

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顕真平成25年11月号より・55周年大会の特集記事内での仏願の生起本末の図説
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顕正新聞平成25年10月15日号より 同年9月22日二千畳講演会の記事より

簡単に説明しますと、阿弥陀仏が本願について、親鸞会では以下のように説明をします。
「生起」は、全ての人は極悪人とみて取られてなんとか救おうとされた。
「本」は、全ての人を無条件で救うという本願を建てられた
「末」は、しかし自惚れ強い我々は自身を極悪人とも思えず、無条件の救いを疑う。そういう疑い深い我々を導く為に方便として19願と20願を建てられた。

浄土真宗辞典」の「仏願の生起本末」

本願寺出版からでている「浄土真宗辞典」(浄土真宗本願寺派総合研修所)から紹介します。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

  • 発売日: 2013/03/01
  • メディア: 単行本

ぶつがんのしょうきほんまつ 仏願の生起本末
阿弥陀仏の名号のいわれ。仏願の生起とは、阿弥陀仏が本願を起こした理由、すなわち自らの力では決して迷いの世界より出ることのできない衆生を救うために、本願が起こされたことをいう。仏願の本末とは、仏願の因果という意味で、法蔵菩薩の発願修行を本(因)といい、その願行が満足しさとりを成就し、名号となって十方衆生を済度しつつあることを末(果)という。(浄土真宗聖典より)

親鸞会浄土真宗辞典を比較する

仏願の生起本末について、それぞれ並べて書いてみます。
「生起」

  • 親鸞会…………全ての人は極悪人とみてとられて、それらを救う為に本願を起こされた
  • 浄土真宗辞典…自らの力では決して迷いの世界より出ることのできない衆生を救うために、本願が起こされた


「本」

  • 親鸞会…………全ての人を無条件で救うという18願を建てられた
  • 浄土真宗辞典…仏願の因果の「因」のことで、法蔵菩薩の発願修業のこと。(五劫思惟の願と兆載永劫の修行)

「末」

  • 親鸞会…………自惚れ強い我々は自身を極悪人とも思えず、無条件の救いを疑う。そういう疑い深い我々を導く為に方便として19願と20願を建てられた。だからその通りに実行しないと無条件の救いが分からない(救われない)
  • 浄土真宗辞典…仏願の因果の「果」のことで、法蔵菩薩の願行が満足しさとりを成就し、名号(南無阿弥陀仏)となって十方衆生を済度しつつあるこという。

比較して分かること

ご覧のように、全く同じところがありません。ここまで違っていると、言い回しが違うというものではないことが分かられると思います。

まず親鸞会では、仏願の「生起」のところで、「すべての人は極悪人」と言っているのに対して、浄土真宗辞典では「自らの力では決して迷いの世界より出ることのできないもの」と書かれてあります。
極悪人では、全く善をしたことのない者という意味になります。それに対して「自力では迷いを離れられない者」というと、極悪人以外に、善をする人も含まれます。ただ、どれだけ善を励んでも迷いを出ることが出来ない人ということです。これは、末法の全ての人にあてはまります。


次に、親鸞会では「本」が18願、浄土真宗辞典では、法蔵菩薩の願行となっておりこれも違います。元々が、浄土真宗辞典にもありますが「本末」が「仏願の因果」という意味なので、「本」でいきなり18願というのは説明として全く意味が通りません。


最後に、『末」について、親鸞会では本願を疑う者に対してそれを導くために19願と20願を建てられたとありますが、浄土真宗辞典では、阿弥陀仏の本願が成就して、いま南無阿弥陀仏となって我々を救おうとされていることとあるので全く違います。


特に、「末」の部分が最も影響が大きいところです。
なぜなら、本来は南無阿弥陀仏となって阿弥陀仏の方から私を救済しようとすでに働いておられるというのが浄土真宗辞典にある説明であるのに対して、親鸞会では19願、20願を実践しないと救われないというからです。


南無阿弥陀仏は、「ただ今助ける」の本願招喚の勅命です。ですから、その「ただ今助ける」の仰せを聞いて疑い無いのが信心です。それに対して、19願で修諸功徳とあるのを、一生懸命実践しなければ、18願の救いにあえないというのが親鸞会です。

まとめ

いままでいろいろ書きましたが、短くまとめるとこうなります。

  • 親鸞会…………阿弥陀仏衆生を救うために19願、20願を建てられたのだからその通り実践しないと18願の救いにあえない。
  • 浄土真宗辞典…南無阿弥陀仏となって、現在ただ今「ただ今救う」と呼びかけておられるので、その仰せを聞いて疑い無いのが信心


これだけ違うのが親鸞会の教えです。
ここまで読まれた会員の方に少し考えて頂きたいのは、親鸞会の言うように実践して来られたでしょうか?実勢してみて本当にいう通りに出来ると思われたでしょうか?
阿弥陀仏の救いは、ひょっとしたら救われるかもというものではありません。南無阿弥陀仏が私に、「ただ今救う」と呼びかけられています。それを聞いて疑い無いとは「ただ今助かる」の信心になるということです。ただ今南無阿弥陀仏を聞いてただ今救われて下さい。

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