2018年08月05日(日)、親鸞会館で追悼法要が行われました。話をしたのは、高森顕徹会長です。
演題は、「『私が死んだら、川へ捨てて魚に与えよ』親鸞聖人は、なぜ言われたのでしょうか。」について でした。
今回は、新聞広告と多くの会員の誘いで通常の報恩講くらいの参詣者があったとのことです。
詳しい内容は、以下のブログにも書かれています。
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shingikensho.blog12.fc2.com
今回も「阿弥陀仏の本願はどんな人でも絶対の幸福に救う、死ねば必ず極楽浄土に連れて行くお約束」と説明していたそうです。
今回も、といいましたが気になったのは「阿弥陀仏の本願は、絶対の幸福にするというもの」という言い回しでした。
熱心な親鸞会会員の方ならば「それがどうした?」と思われるかもしれませんが、これこそ親鸞会教義(高森顕徹会長の独自教義)の代表的なものです。
今回は、阿弥陀仏の本願は「どんな人も絶対の幸福に救う、死ねば必ず極楽浄土へ連れて行くという二つの約束。二益である」と説明をしていました。
その説明に、違和感を覚えない人も多いかもしれませんが、高森顕徹会長の説明では「二益」にはなりません。なぜなら、高森会長のいうところの「絶対の幸福」は、「一益法門」だからです。それに付け足しで、「死ねば必ず極楽浄土へ連れて行く」といっても説明にはなりません。
親鸞会のいう二益法門が、実のところ一益法門になっている理由
二益法門というのは、現世の利益と当来の利益の二つのことをいわれたものです。
現当二益 げんとうにやく
(略)
浄土真宗では、現在世(此土)において正定聚の位に入る現益と未来世(彼土)において大般涅槃をさとるという当益を説く。
(浄土真宗辞典)
親鸞会では、阿弥陀仏に救われると、現生で正定聚の位に入るといいます。それだけならば、特に問題はないのですが、そのことをまた「仏凡一体」ともいいます。今回の追悼法要では、
本願を信受すると、仏凡一体となる
と説明をしていました。
これも、それだけならば特に問題はないように思いますが、高森顕徹会長の説明する「仏凡一体」は、多くの会員が理解している通りならば間違いです。そのため、「絶対の幸福=間違った仏凡一体」という理解も頭の中で成り立ち、会員の多くはそれを不思議に思いません。
仏凡一体の理解が間違っているところ。
そもそも絶対の幸福とは何でしょうか?最近の法話で高森顕徹会長は「話すことは出来ない」と言い切っていました。今回では「仏凡一体」と言っていました。それが、会員の多くの誤解の始まりです。なぜなら、「絶対の幸福」は高森顕徹会長の造語ですが、「仏凡一体」はお聖教に載っている言葉だからです。しかし、その「仏凡一体」を誤解するので、その「誤解した仏凡一体=絶対の幸福」という理解をしているのが親鸞会会員です。
では、仏凡一体とはどういうことか、以下書いて行きます。
まず、仏凡一体とは御文章に、以下のように書かれています。
さらに一念も本願をうたがうこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまうなり。このいわれをもって、仏心と凡心と一体になるといえるはこのこころなり。これによりて、弥陀如来の遍照の光明のなかにおさめとられまいらせて、一期のあいだはこの光明のうちにすむ身なりとおもうべし。(御文章二帖九通 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1120)
http://labo.wikidharma.org/index.php/御文章_(二帖)#P--1120
ここの「行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまうなり。このいわれをもって、仏心と凡心と一体になるといえるはこのこころなり」といわれているところを、まるで「仏に成る(または仏の次の正定聚の菩薩になる)」ように話をしているのが高森顕徹会長です。
実際私も、親鸞会にいるころは、「いまより凄いなにか」になれるように思っていました。どんなお聖教も読めるようになるとか、ものすごい説得力のある話が出来るようになるというイメージをもっていました。
しかし、これは、阿弥陀仏の真実心が私の心に入って下さり、真実信心になるということであって、私の心が仏になるということではありません。
そのことを、御一代記聞書では
(64)
http://labo.wikidharma.org/index.php/蓮如上人御一代記聞書#P--1252
一 衆生をしつらひたまふ。「しつらふ」といふは、衆生のこころをそのままおきて、よきこころを御くはへ候ひて、よくめされ候ふ。衆生のこころをみなとりかへて、仏智ばかりにて、別に御みたて候ふことにてはなく候ふ。 (御一代記聞書 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1252)
(現代語訳)
阿弥陀如来は、衆生を調えてくださる。
調えるというのは、衆生のあさましい心をそのままにしておいて、そこへ真実の心をお与えになり、立派になさることである。
人々のあさましい心を取り除き、如来の智慧だけにして、まったく別のものにしてしまうということではないのである。
といわれています。
「衆生のこころをそのままおきて」でありますから、私の心は変わりません。「衆生のこころをみなとりかへて、仏智ばかりに」することではないといわれています。
あくまでも、仏凡一体とは、真実信心や南無阿弥陀仏の徳は私の心の上に働いて下さっている、その法の徳をいわれたものです。これを法徳といいます。決して、現在の私の姿(機相)が変わるというものではありません。
例えば、石は光に照らされても、石であることには変わりません。それを、石に光があたると、石がダイヤモンドに変化してしまうように説明をしているのが高森顕徹会長です。そのように、現実の私が仏凡一体になったからといって仏になるかのように理解するのを一益法門といいます。
そんなことはないというかも知れませんが、この一年を振り返って見ても何回高森顕徹会長は「大船に乗ると人生がガラリと変わる」と話をしたでしょうか。それに付いてくる言葉は、必ず「絶対の幸福にガラリと変わる」です。意味はよくわかりませんが、「誤解した仏凡一体」と同じ意味だと思った会員、まるで自分が弥勒菩薩に等しい者か、スーパーサイヤ人か、魔法少女になるかのように思います。
しかし、前述したように仏凡一体を一益法門のように理解するのは全くの誤解です。
仮に一益法門だと理解しているのならば、二益ではありませんので間違いです。
南無阿弥陀仏を頂いたというのは、仏に成るタネを頂いたようなものですから、そのタネが実際に仏となるのはあくまで未来世に於いてのことです。現在世は、煩悩具足の凡夫であることには全く変わりはありません。
その意味で「誤解した仏凡一体=絶対の幸福」になれないと悩んでおられる親鸞会会員の方は、悩む必要はありません。そんなものはないからです。「なぜ絶対の幸福になれないのか」と悩むのではなく「絶対の幸福ってなんだろう」「絶対の幸福って本当にあるのだろうか」と疑問を起こしてみて下さい。