親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「高森顕徹会長は今年引退するかも」と思った「歎異抄をひらく」出版10周年記念講演(2018年05月12日(土)13(日)親鸞会館)

2018年05月12日(土)13(日)富山県射水市親鸞会館で、降誕会が開かれました。
詳しい内容は、すでに他の方がブログに書かれています。
hiun.cocolog-nifty.com
shingikensho.blog12.fc2.com

参加された人からの話を聞いた私の感想は、教義が正しいとか以前に高森顕徹会長には二日続いての話はすでに難しいのではないかということでした。


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今回の話の内容をまとめると以下のようになります。

演題「念仏者は無碍の一道なり」
1日目

  • 煩悩しかない者が救われるとどうなるか?
  • 無碍の一道の身になる
  • 煩悩あるままで「絶対の幸福になる」
  • 絶対の幸福とは、「死んだらどうなるかハッキリする」
  • 煩悩あるままで絶対の幸福になるといわれたのが正信偈の「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」
  • 雲霧(煩悩)がなくならないけれども、闇(人生の目的がわからない心、死んだらどうなるか分からない心)はない。

2日目(座談会)

  • 念仏者とは何か?
  • 念仏に3通りある。
  • 涙といってもいろいろある、悲しい涙、悔しい涙、嬉しい涙
  • 闇にいるとき称えるのは悲し涙
  • 自力の心でなんとかしようとするのは自力の念仏
  • お礼の心で称えるが他力念仏
  • 念仏に自力の念仏と他力の念仏があるから、他力の念仏になりなさい

こうしてまとめて見ると、演題「念仏者は無碍の一道なり」の話だとわかる人はないと思います。
さらに短くまとめてみると、このようになります。

煩悩あるままで死んだらどうなるかハッキリする絶対の幸福になれる。念仏には自力の念仏とお礼の心で称える他力の念仏がある。以上

普通は「念仏者は無碍の一道なり」とあれば、歎異抄第7条の話だと考えます。
参考までに、歎異抄第7条と現代文を紹介します。

第7条
(7) 一 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。(現代文)
念仏者は、何ものにもさまたげられないただひとすじの道を歩むものです。
それはなぜかというと、本願を信じて念仏する人には、あらゆる神々が敬ってひれ伏し、悪魔も、よこしまな教えを信じるものも、その歩みをさまたげることはなく、また、どのような罪悪もその報いをもたらすことはできず、どのような善も本願の念仏には及ばないからです。

http://labo.wikidharma.org/index.php/歎異抄#.E7.AC.AC7.E6.9D.A1

少なくとも、原文と現代文を一読して見て、今回の二日間の話が該当するところはないに等しいと思います。

引退説も納得。高森顕徹会長の話の特徴がよく現れた話。

こういうことを書くと、現在会員の人はあまり納得されないと思いますが、加齢をさしひいても高森顕徹会長の話は年々聞いてもわからないものになってきています。こういうと過去はまともな話をしていたかのように思う人も有りますが、教義的な意味で正しくないという意味では昔も今も変わりません。
ただ、以前は教義の正当性を抜きにすると、始めてきた人でも「そうか」と思わせる話をしていました。それは、高森顕徹会長の才能の一つ、詭弁でもなんでもとにかく弁が立つというのがそう思わせていました。


その話に魅了されて会員になったり講師部になった人が今でも残っている会員だと思います。しかし、詭弁も押し出しの強い人がまくし立ててると本当のように聞こえても文章に書くと矛盾が明らかになるように、高森顕徹会長の話も自慢の弁舌が衰えることによって「何を60年間話をしてきたか」という正体がハッキリするようになってきました。

その特徴をあげると以下の2点です。
1 実は何も話をしていない。
2 真宗の単語は出しても、その説明は説明になっていない。

1に関しては、今回の話のまとめを見ると分かります。なんとなく「絶対の幸福」というすごい幸福になれるような話をしているように思います。しかし、絶対の幸福がどんなものかは、語っているようで語っていません。また、どうしたらなれるかという話もありません。また、とってつけたように2日目に念仏の話を始めますが、絶対の幸福との関係はほとんど語りません。


2に関しては、「無碍の一道」「念仏」は説明するものの実際の真宗の解説とは違う話をします。
その間に「凡夫というは無明煩悩われらが身にみちみちて〜」のような、誰が読んでも間違わないような部分だけ取りだして話をし、それらしい話に見せています。
例えば「阿弥陀仏」とか「お釈迦さま」とか「親鸞聖人はいつごろの人か」などの話は普通にするものの、「念仏」や「信心」といったとても大事な部分についてはほぼしないか、しても自分に都合のよい説明しかしません。


間違った教えを伝える事は恐ろしい罪になります。しかし、それに加えて「実は何も話をしていない」というのが輪をかけて参詣者にとってはいい迷惑です。
ネットでの批判を意識してか以前は「50年間縦の線と横の線を書かなかったことはない」と豪語していたあの図(会員の人はよく知っている)も今回は書きませんでした。

今年で引退を見据えた行事

今回は、地元の新聞に1面広告で行事案内をしたり、その後行事の内容を富山新聞に記事に書いてもらったりと過去にないことをやっていました。おそらくこれだけ人を集めねばならないのは、映画「歎異抄をひらく」の制作資金を銀行から融資をとりつけるために必要なアピールだったのでしょう。「これだけ人が集まる団体ならば制作資金は回収できる」と銀行に思わせたかったのでしょう。
そして、今年の秋の親鸞会結成60周年大会と、映画「歎異抄をひらく」の完成をもって高森顕徹会長は自分の思い描く「有終の美」を飾って引退すると今の所は言っているのでしょう。「今回が最後」の案内で、それなりに参詣者が来たことに気を良くして、今度の60周年大会は、「高森顕徹会長引退講演」の冠をつけて悲願の1万人参詣を目指していることと思います。


しかし、仮にそれで一万人参詣したとして、高森顕徹会長が引退した親鸞会には何があるでしょうか?
待っているのは「高森顕徹会長が話をしないなら私は会をやめます」と思っている長年の会員の大量退会と、全国にある沢山の箱物しかないのではないでしょうか。実際それを見据えてか、講師部員のほとんどは支部長から無担当となり、事実上の解雇(2回目)状態です。
講師部員の皆さんは、「なぜ生きる」のまえに「まず生きる」ことを考えたほうがいい時期になったのではないかと思います。