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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

最近の高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)の話に全く感動しない人にむけて書いた記事

最近の親鸞会の話が、映画「なぜ生きる」に関係したことばかりです。

これを聞くと親鸞会会員で熱心な方は「同じ話を聞くことが大事なのだ」と言われると思います。

「同じ話を聞くことが大事なのだ」については、私も異論はありません。南無阿弥陀仏のいわれを聞かせていただけるのであれば、それこそ有り難いと思います。しかし、その「同じこと」があまりにも多くの会員が聞きたい話ではなさそうなので、今回まとめてみることにしました。
なぜなら、親鸞会の会員の方は、常に未来を見ているためか、過去にどんな話があったかについてはあまり関心がないようです。だからこうしてまとめた形にでもしないと、どんな話があったのかさえも曖昧になってしまいがちです。こう書いている私も親鸞会にいたころは、例えば今なら5月の降誕会に向けてどうやって参詣目標を達成するかに頭が一杯で、一ヶ月前の話の内容についてあれこれ考えることはありませんでした。

そこで、ここ最近の高森顕徹会長の話の内容を振り返ってみたいと思います。

2017年02月04日
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります。」とは、どう変わるのでしょうか?についての話

2017年02月12日
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるります。」とは、どう変わるのでしょうか?についての話

2017年02月26日
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」についての話

2017年03月05日
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるります。」とは、どう変わるのでしょうか?についての話

2017年03月12日青年・学生大会
「映画『なぜ生きる』の中の了顕は、なぜ仏法を聞くようになったのか」について
御文章「白骨の章」からの話

2017年03月19日
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」についての話

2017年04月9日親鸞会館法話
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか」についての話

2017年4月23日講師部講義
映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」

まとめますと、3月12日の青年・学生大会での白骨の章について話した以外は(これもアニメ映画「なぜ生きる」についての話ですが)以下の二つです。

  1. 映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか」についての話
  2. 映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」


一つ目については、親鸞会会員にとって、特に聞きたい話ではありません。なぜなら、今迄何度もいわゆる「縦の線」(信の一念)で不可称不可説不可思議の体験をすると聞いているからです。親鸞会会員にとっては、「ガラリと変わる」のは「救われた後」の話であって、聞きたいのは「救われるにはどうしたらいいのか?」「救われるとはどういうことか?」ではないでしょうか?
個人的な記憶をたどると、私は「それ」を聞きたくて富山に足を運んでいました。いつかはそれを聞けるのではないかと期待をしていたからです。

二つ目について書きます。
映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」について何度も話をしていますが、話した内容からすると、本願のいわれを話しているとは言えず、全く意味がない話といえます。
なぜかといえば、南無阿弥陀仏阿弥陀仏の方から私に向かって差し向けられる(本願力回向)の話がないからです。
親鸞会会員の皆さんに少し記憶を紐解いて頂きたいと思います。高森顕徹会長が、阿弥陀仏の本願の話をするときは、どんな話だったでしょうか?
阿弥陀仏は命がけなんだぞ!!」で終わる話がほとんどではなかったでしょうか?事実ここ最近の話はそのような話でした。

高森顕徹会長の「阿弥陀仏は命がけなんだぞ!!」で終わる話は親鸞会会員にとっては「だから聞いている貴方も命がけになれ」「命がけになってないから助からないのだ」という話になってしまいます。かつて私もそのような話を聞いて「本当の命がけ」になれない自分は助かることはなのかな?とも思っていました。

しかし、私よりずっと先に高森顕徹会長の話を聞いて、かつ真面目に「求道」(親鸞会における活動)をしている人が阿弥陀仏に救われていないのが親鸞会の現状です。

そうなった場合、考えられるパターンは二つしかありません。

  1. 私の聞き方が間違っている(聞く側の責任)
  2. 説いている方が間違っている(説く側の責任)


ここで、多くの親鸞会会員は「私の聞き方が間違っている」と考えます。しかし、本当にそうでしょうか?よくよく思い出して見て下さい。高森顕徹会長の話に矛盾はなかったでしょうか?またその矛盾を「深い御心」ですませて来てはいないでしょうか?また、高森顕徹会長が声高に「本願寺(伝統教団)は間違い」ということに対して、一度でも伝統教団の話を聞いたり、本を読んだことは有るでしょうか?


少なくとも私は、親鸞会を除名されるまでは、そんな機会はありませんでした。


高森顕徹会長が親鸞聖人の教えとして正しい」という根拠が「高森顕徹会長がそう言っているから」の矛盾にそろそろ気がついてもいいのではないでしょうか?


真面目な会員の方なら、ここ最近の高森顕徹会長の話のメモはとっているかと思います。人によっては聴聞の記録をとっている人もいるかも知れません。可能ならば、ここ最近のメモを読み返して見て下さい。
ハッキリ言って、そのメモを読み返しても何の感慨もないのではないでしょうか?なぜなら、高森顕徹会長の話の中に、貴方が知りたいことがないからです。人は、自分が知りたいと思わない話について情動を動かされることはありません。貴方が、高森顕徹会長の話を聞いて心を動かされることがないのは、貴方が悪いのではなく、高森顕徹会長の話に問題があるからではないか?と少し疑問を持って頂ければ幸いです。


最後に、親鸞会のような善知識が絶対という考えを、真宗では「知識帰命(善知識だのみ)」といいます。それについて現親鸞会会員の人は抵抗があると思いますが、以下の文章を読んで頂きたいと思います。知識帰命について、これほど親鸞会会員にわかるように書かれた文章はないからです。

閉鎖的な信仰集団を形成していくものとして、覚如上人や蓮如上人が極力批判された異義に知識帰命(善知識だのみ)という信仰形態があります。それは善知識(先生)といわれる特定の人物が、自分は、外見は凡夫であるが、内実は浄土から出現してきた還相の菩薩であって、本体は仏そのものであるといい、阿弥陀仏に帰依するといっても目に見えないから、現身の仏である善知識に帰命すれば必ず浄土に生まれさせるというのです。このように善知識に身も心もささげて絶対的に服従することを誓わせる異義なのです。ですから一度その集団に入ると生涯そこから脱出することは許されず、脱出しようとするものは、この世ではさまざまな災難が降りかかり、死後には地獄におちて永劫の苦しみを受けると脅迫し、そればかりか実際にリンチを加えることもありました。親鸞聖人の流れを汲むと自称する門徒集団の一部に、念仏者の尊厳を踏みにじるような卑劣な異義集団があったのです。
私どもは、私を拝めという人を絶対に拝んでは成りません。ただ己を空しくして、如来のみ前に跪く人だけを真の善知識と仰ぐべきです。すべての人を如来の御子と信じて、あらゆる人に深い敬意を払っておられる人をこそあがめるべきなのです。(聖典セミナー 口伝鈔P102)

聖典セミナー 口伝鈔

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