親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「追い詰められないと救われない」ように親鸞会会員が考える理由(顕正新聞平成29年3月15日号論説より)

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顕正新聞(宗教法人浄土真宗親鸞会の機関紙)平成29年3月15日号の論説(「弥陀の願心を聞く一つ」)を読みました。内容は、最近高森顕徹会長が話した内容をまとめたものですが、親鸞会における阿弥陀仏とその救済についてとても解りやすく書いてあったのでエントリーを書きます。

一部引用では、どういうことが書かれているか親鸞会会員でない人には分かりにくいと思いましたので、文末に全文を転載しています。気になった方は、そちらをご覧下さい。

今回の内容は、平成29年2月に行われた「茨城つくば会館」落慶座談会で高森会長が話したことを要約したもののようです。

特に親鸞会らしいと感じたのは、以下の部分です。

 ここで「摂取」と言われる「摂」はただ「取る」のではなく、「逃げ回るものを追いかけ、逃げ場のなくなったところを救い摂る」という意味がある。それが弥陀の御心だからである。
 親鸞聖人は弥陀の誓願を、人生の苦海に沈む私たちを乗せて極楽浄土まで楽しく渡してくださる「大船」と道破されている。その譬えでいうなら、逃げ続ける私たちを、願船が追い詰め、最後は眼前まで突進して、救い上げてくださるのである。(顕正新聞平成29年3月15日号論説)

摂取についてこのように解説しています。もちろん、そういう意味もあるのでこれ一つを取り上げて間違いだとは言えないのではないかと考える人もあると思います。

こちらのブログにも摂取について紹介されています。
tokuyoshimine.hatenablog.com

しかし、親鸞会にいた人間としてこういう話を聞いた会員は「『逃げ場のなくなったところ』まで私は追い詰められていないから救われないのだ」と考えるだろうと想像出来ます。そして、「まだまだ余裕のある私は追い詰められていない」とか「自分で求めているつもりになっているのは自惚れだ。まだ追い詰められていない」と考えます。

その証拠に、今回の論説の後半にはこう書かれています。

「私は乗りたいと思っている」「真剣に求めている」とうぬぼれているのは、わが身知らずも甚だしい。それを聖人は『正信偈』に、「邪見・憍慢の悪衆生(うぬぼれいっぱいの極悪人)は信楽受持する(大船に乗ずる)こと甚だもって難し」と仰っているのである。(顕正新聞平成29年3月15日号論説)

「助かりたい」とか「真剣に求めている」というのは、本当は求める心もないのに自惚れているのであり、そういう者は助からないと親鸞会会員の多くは理解をしています。

では、どうすればいいのか?

その弥陀の御心(願心)を、よく聞くことが肝要である。(顕正新聞平成29年3月15日号論説)

と、文章を読むと特に変に思われない人もあると思います。しかし、親鸞会会員「弥陀の願心を聞く」とは「高森会長の話を聞く」ことと同義語になっています。

結果として、毎月の親鸞会館(富山県射水市)での高森会長の法話には必ず参詣し、テレビ座談会、各地の会館の落慶座談会、人によっては講師部講義に参加することが肝要であるということになります。

そこまでして、懸命に足を運んだ高森会長の法話や座談会でどれだけ「弥陀の願心」が説かれているでしょうか?少し前では、ほとんどが因果の道理の話だった時もありました。映画「なぜ生きる」が完成すれば、セリフの解説、了顕がどうして仏法を聞くようになったかなど、午前午後と話があってもどれだけ弥陀の願心の話があったでしょうか?参加されている会員の方ならよくご存知のことと思います。

「初めての人の為に因果の道理の話がされている」などという説明が親鸞会の中ではよくされますが、初めての人だからこそ弥陀の願心の話がないのはおかしいです。     


追い詰められていないと救われないと聞かされた会員は、度重なるお布施や毎月の富山参詣で経済的精神的に追い詰められているのが現状です。それを「苦しい」と思うのは、「自惚れだ」と釘を刺されれば、下を向いて歯を食いしばって会長の勧め通りの活動(会長の話を聞く)以外にありません。また、追い詰められているのは自分が正しい道を歩んでいるからだと考えてしまいます。どうして、こう言えるのかといえば私もかつてはそう考えていたからです。

親鸞会の講師部員は、経済的精神的に追い詰められている状態が「正しい求道の姿」であり、逆に追い詰められていない状態、余裕の有る状態、楽な状態にあると「正しい道を外れている」と考えます。

しかし、親鸞聖人は阿弥陀仏は何も追いかけるばかりではないと書かれています。摂取について、最後にご文を紹介します。

最初は、和讃の「摂取」の左訓からです。

【左訓】「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(異本)

https://goo.gl/IEGlLM

次は、一念多念証文より。

摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。

https://goo.gl/mwGtP6

追いかけるばかりではなく「迎へとる」と言われています。

ただ今救うの仰せを、その通りとお受けする人は迎えとって下さいます。逃げるは救いの役に立つと考えるのではなく、本願の仰せをそのまま聞いて救われて下さい。また、「弥陀の願心を聞く一つ(論説)」なのですから、弥陀の願心がない話を聞きに苦労をする必要はありません。

参考までに 顕正新聞平成29年3月15日号 論説 全文

「弥陀の願心を聞く一つ」
「『弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり』 と信じて『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり。」(『歎異抄』第一章)
 有名な『歎異抄』書き出しの「弥陀の誓願」とは、「すべての人を必ず絶対幸福に救う」と言う阿弥陀仏の本願(お約束)のことである。弥陀の本願に助けていただくと、少しも変わらぬ、死ぬまで続く幸福になることを、「摂取不捨の利益」にあずかると表現されている。
 ここで「摂取」と言われる「摂」はただ「取る」のではなく、「逃げ回るものを追いかけ、逃げ場のなくなったところを救い摂る」という意味がある。それが弥陀の御心だからである。
 親鸞聖人は弥陀の誓願を、人生の苦海に沈む私たちを乗せて極楽浄土まで楽しく渡してくださる「大船」と道破されている。その譬えでいうなら、逃げ続ける私たちを、願船が追い詰め、最後は眼前まで突進して、救い上げてくださるのである。
 弥陀のお慈悲で大船に乗せていただくと、必ず浄土へ往ける「往生一定」の大安心になり、その歓喜は永久に変わらない。この無上の幸福になるためにに人間に生まれてきたのだから、弥陀は私たちをなんとか大船に乗せようと、追いかけてくださっているのである。
 ところが私たちは、近くに浮いている生きがいの丸太や板切れを求めることに心を奪われ、大船に「乗ろう」という気はさらになく、逃げに逃げ回っている。
「それでは人間は、苦しむために生きることになる」と、なおさら哀れに思し召す弥陀は、そんな者を追いかけ追いかけ、衆生済度に心休まれる時は一刻もないのである。
 そう聞くと、早く大船に乗りたいと真剣に求めている人は、なぜ自分が「逃げ回っている」と言われるのか、不審に思うだろう。だがそれは、阿弥陀仏がどんな者のために本願を建ててくだされたのか、その御心(願心)が分からないからである。
 例えるなら、こうもいえよう。庭の池の鯉を、湖に放してやろうと思った飼い主が、網で救おうとすると、鯉は死に物狂いで逃げ回る。捕まったら殺されると思い込んでいるのだ。いよいよ逃げ場がなくなって観念した鯉が網にかかり、湖に解放されて初めて、こんな広大で自由な世界に出そうとしてくれたのかと、感激するようなものである。
「助けよう」と思う人間と、「殺される」と逃げ回る鯉とでは心が反対なのは、境界が全く違うからだ。まして人間と阿弥陀仏では、無限の隔たりがあるから、「逃げている」自覚もなしに、命がけの弥陀の願心の疑い、御胸に五寸釘を打ちつける、恐ろしいことを思い続けているのである。
 弥陀は古今東西すべての人間を、欲や怒り、妬みそねみの煩悩の塊で、まことのカケラもない者と見抜かれている。十方衆生(すべての人)には、真実を見る目もなければ聞く耳もない。まことの阿弥陀仏の造られた「大悲の願船」は真実の船だから、私たちには見えないし、信じる心もなければ、「乗りたい」という心もない。
 そんな者だからこそ阿弥陀仏は、かかる煩悩具足の衆生を救うと言う本願を建立され、大船を造ってくださったのに、「私は乗りたいと思っている」「真剣に求めている」とうぬぼれているのは、わが身知らずも甚だしい。それを聖人は『正信偈』に、「邪見・憍慢の悪衆生(うぬぼれいっぱいの極悪人)は信楽受持する(大船に乗ずる)こと甚だもって難し」と仰っているのである。
「助かりたい」心は微塵もない我々だからこそ、阿弥陀仏のほうから、「助けさせてくれよ
」「任せてくれよ」と手を突いていておられるのだ。その弥陀の御心(願心)を、よく聞くことが肝要である。

 大悲の願船に乗せていただいた一念に弥陀の広大なお慈悲が知らされ感泣、懺悔させられる。その一端を歌ったのが、「信心数え歌」である。
 四ツとせ
 能く能く御慈悲を聞いて見りゃ、
 助くる弥陀が手を下げて、
 任せてくれよの仰せとは、
 ほんに今迄知らなんだ。
    (F)