親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会のアニメ映画「なぜ生きる」への傾斜とその影響を考える

現在親鸞会では映画「なぜ生きる‐蓮如上人と吉崎炎上‐」に全力を傾けています。昨年5月の完成以来、全国での映画館上映のあと、公式HPでは掲載されていないながら、各地の公民館などで映画上映が続いています。中には寺で上映会が行われるところもあるそうです。
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とはいえそれだけならば、過去に親鸞会で行われてた「イナヅマ作戦(本願寺なぜ答えぬの頒布)」や「光作戦(アニメ世界の光親鸞聖人シリーズの頒布)」とそれほど変わりません。しかし、今回の特徴は、映画「なぜ生きる」の扱いが、かつての著書やアニメより重いことです。言い換えれば、映画「なぜ生きる」が、お聖教より上の扱いをするようになっています。
その証拠に、映画「なぜ生きる」が公開されて以降、高森顕徹会長の座談会は全て「映画なぜ生きるの中の○○というセリフの意味は何でしょうか?」というものになりました。
それに答えるのは、映画の脚本を作成した高森顕徹会長です。その質問にどう答えたとしても、作者の答えが正解となります。たとえ、その回答が親鸞聖人のいわれなかったことであったとしてもです。
そこで、この映画「なぜ生きる」完成にあたって、親鸞会の中での大きな教義的な優先順位が変わったことが分かります。


映画完成前
お聖教>高森顕徹会長の言葉

映画完成後
映画(高森顕徹会長の言葉)>お聖教
これから分かる事は、親鸞会ではいつの間にか、お聖教(親鸞聖人の書かれたもの)よりも、映画「なぜ生きる」(高森顕徹会長の書いたもの)の方が権威が高いことになっています。
このようにしたのは、誰でもない高森顕徹会長ですが、その理由を想像するのは簡単です。
ここから遠くない将来に、高森顕徹会長が会員の前で毎月何回も話をすることは難しくなります。そうなった時に、親鸞会講師の誰が親鸞会館での法話やテレビ座談会で多くの会員の前で話をすることになります。
しかし、ここで大きな問題があります。それは会員の多くはよく知っていることですが、現会長の代わりに話ができる人がいないという問題です。


なぜなら、親鸞会講師は高森顕徹会長から「このご文はこういう意味だ」と聞いた以外に、自分の目と頭でお聖教を読んだことがないからです。そのため、高森顕徹会長が解説したご文以外のお聖教に関しては、まったく答えることもできません。また、高森顕徹会長が解説した部分に関しては、仮にどれだけ間違っていたとしても、それを認めようとはしません。これでは、「浄土真宗の正統」を看板に掲げる「宗教法人浄土真宗親鸞会」としては、まさに看板倒れになってしまいます。座談会はもちろん、法話もまともに開催できるかどうか甚だ疑問です。高森顕徹会長が会長の座をいつまでも譲らないのも、本人の性格以上に親鸞会の現状がそのような形になっているからです。


しかし、映画「なぜ生きる」の解説を、高森顕徹会長が話をしなくなった後に親鸞会講師が話をするとなったらどうでしょう。
仮にどんな解説(真宗教義的には疑問がある解説)をしたとしても、「脚本を書いた高森顕徹会長がこういわれていた」ということで親鸞会の中では正当性を保つことができます。とはいえ、これは考えて見るとおかしな話です。
浄土真宗の法話ということであれば、あくまでその根拠は親鸞聖人が書かれたものになければ成りません。親鸞聖人の教えはこうです、その根拠は「映画なぜ生きるです」では、話が通じません。しかし、その話が通じないことをしつつあるのが今の親鸞会です。
浄土真宗親鸞会」の看板を掲げて「親鸞会館」で法話や座談会を行い、そこで話をしていることは「これが本当の親鸞聖人のみ教えです」と言いつつ、その根拠を尋ねられると「映画なぜ生きるにこうあるから」と言っています。 


つまり、親鸞会では「親鸞聖人の教え」の根拠が「高森顕徹会長の作った『映画なぜ生きる』」にあるということです。はたしてこれを、浄土真宗の団体と言えるでしょうか?
キリスト教系の新宗教では、聖書に書かれていることの本当の意味はこの「教祖」の書いた本に書かれていると言っているのと大差はありません。
また、それらのキリスト教系の新宗教を信じている人は、「自分こそ本当のキリスト教を信じているもの」と言っています。それって、親鸞会の言っていることとよく似ていませんか?


外部からの批判を逃れ、自らの正当性を守るために行き着いたのが「根拠は映画『なぜ生きる』(脚本 高森顕徹会長)」です。しかし、会員歴の長い方はこれについて思い当たることがあるのではないでしょうか?
たとえば、教義的な疑問で、かつ高森顕徹会長が法話で言及しなかったことを、担当講師(支部長)に質問したとき、ほぼ100%「高森先生に聞いてきます」と言われたことないでしょうか?少なくとも、私が親鸞会講師部員だったころの講師部講義の質問は「会員からこんなことを聞かれたのですがどう答えたらいいでしょうか?」というのが大半でした。そうして、高森顕徹会長から回答されて初めて担当講師は、会員の教義的質問に答えられるという状況でした。
しかし、将来を考えると高森顕徹会長がそうやって回答出来る時間も限られてきます。そうなると、とるべき手段はそもそも質問がでる範囲を絞ることになります。最初にも書きましたが、最近の親鸞会の座談会や法話は映画「なぜ生きる」の内容についてです。機関紙を見る限りでも、もう質問することがなくなったのか、同じ内容が繰り返されている印象です。それもそのはず、映画「なぜ生きる」の蓮如上人のセリフと言っても文字数にすればそれほど多くある訳ではありません。まして、会員にとって知りたい部分は限られています。


未来の親鸞会を考えて見ると、会員は映画「なぜ生きる」の内容からしか質問を出せず、回答する親鸞会講師も過去の高森顕徹会長の回答をもってきて話をするだけという、長年の会員以外は聞くに堪えない話になることは目に見えています。
そうなると、高森顕徹会長が引退後に今の親鸞会を存続させるための映画「なぜ生きる」への傾斜が、皮肉なことに親鸞会そのものに止めを指すことになります。それもそのはずで、高森顕徹会長をそもそも知らない(あまり知らない)今後の入会者からすれば、「これが浄土真宗の教えです!根拠は映画『なぜ生きる』」と言われても、かつてのように「これぞ本当の浄土真宗」と思う人はありません。


「一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。」(御一代記聞書)
数年前の支部長会議で高森顕徹会長が、「信がなくても布教は出来る」と参加した講師部員に話をしたのが、親鸞会の終わりの始まりだったのだと今は思います。
親鸞会講師の方へ、映画なぜ生きるを見ることよりも、手元のお聖教を拝読することをお勧めします。