親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会における「弥陀の救いは『そのまま』」を読んで思ったこと(親鸞会機関紙顕正新聞平成29年1月15日号より)

親鸞会機関紙顕正新聞平成29年1月15日号を読みました。以下、思ったことを書きます。
その中で、平成28年末のテレビ座談会の内容に関する論説と、法友通信から紹介します。
論説は、「すべての人は五逆、謗法、闡提」といつもの文章を掲載していました。

すべての人は、大宇宙の諸仏から「助ける縁なき者」とさじを投げられた極悪人と、蓮如上人は仰せである。これは釈迦の教説であり、かかる永久に救われぬ極悪人を、経典には「五逆「謗法」「闡提」の者と説かれている。
(顕正新聞平成29年1月15日号3面論説)

ここで、語句説明として、欄外に出てきますが、なぜか「闡提」は載っていません。
f:id:yamamoya:20170205084129p:plain
考えてみると、親鸞会では「十悪五逆」と「謗法」については、それを自覚せよとやかましく根拠もあげて言います。しかし、「闡提」については、根拠らしいこともなく、今回掲載されていたような内容しかありません。

三番目の「闡提」とは、真実をはねつける心である。どれだけ因果の道理を聞いても、少しも罪悪はやまらない。恐れながら悪を犯すのではなく、地獄覚悟で悪に走っているのではないか。
今宵も知れぬ命といわれても、まだまだ死なぬと、のんきに構えている。
(同上)

これ以下は、こんなことが知りたいのコピーの作文が続きます。
これでは、闡提の説明としては不十分です。そこで、闡提の意味については浄土真宗辞典から紹介します。

いっせんだい 一闡提 
(略)また、断善根・信不具足などと意訳する。世俗的な快楽を追求するのみで、正法を信じず、さとりを求める心がなく成仏することのできない衆生のこと。浄土教では、これらの者も回心すれば往生することができると説く。『法事讃』には「謗法・闡提、回心すればみな往く」(信巻引文 註303)とある。(浄土真宗辞典

闡提とは、元々仏法を信じない人のことで、さとりを求める心もない人のことです。ですから、親鸞会で言えば正月から親鸞会館に来るような人は闡提ではないということになります。このように、闡提については正確にいえば言うほど、熱心な会員からすると「身に覚えの無いこと」となるので、「まだまだ死なぬと、のんきに構えている」と話をすり替えます。また、心当たりのありそうな十悪や五逆、謗法の話を強調します。
またテレビ座談会で高森顕徹会長は、「五逆・謗法・闡提の者をそのまま乗せる」と説明していたそうです。

法友通信 弥陀の救いは「そのまま」
映画『なぜ生きる』で蓮如上人は、「阿弥陀仏が、そんな者をそのまま乗せて、必ず弥陀の浄土まで渡す大きな船を造ったのだよ、と仰せです」と教えておられます。「そのまま」とはどんなことか、昨年末のテレビ座談会(12/19)のご教導を、法友通信の手紙から振り替えりましょう。
十方衆生の姿は 特専部(弁護士)U
阿弥陀仏は、五逆・謗法・闡提の者をそのまま乗せると誓われていると聞かせていただきました。
私たちは手にかけて殺さずとも、心で大恩ある親を殺しています。また、口に出して謗らずとも仏法を軽んじて謗法罪を造っています(略)
逆謗闡提をそのまま 特専部(弁護士)M
「そのまま」とは、五逆・謗法・闡提の難化の三機を、そのまま阿弥陀仏が大船に乗せてくださるということだと教えて頂きました。(略)
(顕正新聞平成29年1月15日号6面)

上記に転載した浄土真宗辞典にもありますが、「謗法・闡提、回心すればみな往く」ですから、回心しないと往生はありません。そういう意味では「そのまま」ではないのです。

今回の記事を読んで、また私が親鸞会高森顕徹会長から聞いていた話からすると、会員は今回の話を「五逆・謗法・闡提と自覚できたらそのまま救われる」と理解したようです。しかし、それでは文字通りの「そのまま」ではありません。「そのまま」とは、言い換えれば「今の姿そのまま」ということですから、罪悪に付いての自覚が深くない人は、深くないままということです。「そのまま救う」というのは、親鸞会会員にとっては「このまま」ではありません。「このまま」では駄目だから、求道を必死でしています。
しかし、「回心すればみな往く」ですから、我が身の姿として「そのまま」が「どのまま」なのか、「このまま」と問題にするよりも、回心することが大事です。親鸞会は、「信心」とやかましく言っている割には、よくよく聞いて見ると「信心(回心)」ではなく、自分の姿しか話をしていないのが実態だということが、今回の記事にもよく現れています。

本願文で「五逆誹謗正法」の話をしているときは「至心信楽欲生我国 乃至十念」の話をしないのが高森顕徹会長です。「五逆誹謗正法」の者も、本願を聞き入れ「至心信楽欲生我国 乃至十念」するものは、必ず浄土に生まれさせるというのが阿弥陀仏の本願です。
「そのまま救う」というのを、「五逆・謗法・闡提と自覚できたらそのまま救われる」ではありません。今回の法友通信にも論説にも、日ごろ強調する信心の話が全くないところに、高森顕徹会長の話がその場その場で適当なことを言っていることがよく現れています。
「映画『なぜ生きる』の徹底」が、新春大会の標語だったと新聞に掲載されていましたが、こんな映画を100回覩て祝賀会を温泉でする時間があったら、論説に一部しか引用されていなかった御文章2帖8通を、最初から最後までよくよく拝読することをお勧めします。