読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

平成29年親鸞会機関紙顕正新聞・年頭所感「大悲の願船に乗じ難度海を普く照らそう」(高森顕徹会長)を読んで思ったこと。

顕正新聞 親鸞会機関誌より

f:id:yamamoya:20170101072757p:plain
宗教法人浄土真宗親鸞会機関紙「顕正新聞」平成29年1月1日号一面より。福井県の吉崎御坊(親鸞会)からの写真。※細かい事ですが、これだけ大きな写真を載せるのなら、説明が必要です。)

年頭所感は「高森顕徹会長から会員への年賀状」

親鸞会会員にとって、顕正新聞1月1日号はいつもの機関紙とは異なります。なぜなら、この1月1日号には高森顕徹会長直々の文章「年頭所感」が掲載されるからです。法話や座談会、一万年堂出版の著作以外に、高森顕徹会長が文章で会員に何かを発信することはこの年頭所感以外には基本的にありません。そのためこの年頭所感は「高森顕徹会長からの年賀状」ということで、会員は封筒に入れて配布された顕正新聞は、1月1日まで開封してはいけないことに成っています。
私も会員だった当時は、1月1日に封をされた茶封筒を恭しく開封して毎年の年頭所感を読んでいました。それだけでなく、高森顕徹会長の年頭所感に関しては講師部員は「覚える」ことが指示されており、何回も読んで記憶をしていました。年初めの「初聞法会」(富山県親鸞会館で開催)の前日に行われる新春大会では、その年頭所感を覚えた会員が高森顕徹会長の前で暗誦するというのが一つの恒例となっていました。


それだけにこの高森顕徹会長の年頭所感は、その一年の親鸞会の方針を会長自らが発信するものとして、重要視されていました。ところが、高森顕徹会長が平成13年に「なぜ生きる」を発行して以降は、ほぼ一万年堂出版での会長の著作の一部を転載する形になっていました。しかし、今年に関しては珍しく著作からの転載ではない形式になっていました。とはいえ、その内容を一言で言えば、いよいよ余裕がなくなり内向きになって来た親鸞会の内情を示すものでした。以下、それについて書いて行きます。

「難度海を度する大船」の厳存と、「その乗り方」?

冒頭から

親鸞聖人の「教行信証」には「難度海を度する大船」の厳存と、「その乗り方」以外に記されてはいない。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

とありますが、これは間違いです。正しくは、「難度海を度する大船に阿弥陀仏がどうやって私を乗せるかの乗せ方」が記されているのが教行信証です。
そのため

あの大船にどうすれば、乗せてもらえるのか。人類の最も知りたいこの問いに、答えられたのが親鸞聖人である。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

というのも間違いです。

聞法は「命かけて聞け」(年頭所感の小見出し

その後続く年頭所感は、とにかく「命かけて聞け」で貫かれています。

たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、そのなか押して南無阿弥陀仏のいわれを聞く人は、永久に変わらぬ幸せに救われるのである。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

とありますが、この年頭所感には「南無阿弥陀仏のいわれ」はどこにも書かれていません。「南無阿弥陀仏のいわれ」の語はこの一箇所だけです。

無常と罪悪を凝視して(年頭所感の小見出し

そして

“無常と罪悪にせめ立てられて、仏法は聞きなさいよ”と教誨された道綽禅師の例えである。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

と「命がけで」とは「無常と罪悪にせめ立てられて聞く」ことだとしています。現状として自身の無常(年齢によるもの)と罪悪(法を曲げること)に全く目を向けない会長が、「南無阿弥陀仏のいわれ」も言わずに「聞きなさいよ」と言っても説得力はまるでありません。


会長のお見舞いは「聞法」とはいいません。

最後は、以下の文章で今年の「年頭所感」は終わっています。

それを蓮如上人は、こう教えられている。
「誰のひとも、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」(白骨の章)
今日までの無事が、明日の安全を保証してくれないことを肝に銘じて、真剣な聞法に身を投じ、大悲の願船に乗じて、難度の海を遍く照らす、輝く親鸞学徒の年に生きよう。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

ここでは「阿弥陀仏を深くたのみ」も「念仏申す」も全く説明がありません。ただ「今日までの無事が、明日の安全を保証してくれないこと」(ここでは後生の一大事)しか説明がないのが、高森顕徹会長の話の特徴が顕れています。それで「難度の海を遍く照らす、輝く親鸞学徒」なんでしょうか?むしろ、自身が築き上げた親鸞会が「今日までの無事が、明日の安全を保証してくれない」ことを不安に思い、「命かけて聞け(命かけて親鸞会館に来い)」としているのが、今年の高森顕徹会長の会員へのメッセージです。

まとめ

会長を安心させるために親鸞会館に命かけて来いというのが、今年の年頭所感の骨子のようですが、この記事を読まれた会員の方に申し上げます。貴方は「会長を安心させるため」に会館に足を運んでいるのでしょうか?それとも「自身の後生の一大事をこころにかけて」足を運んでいるのでしょうか?

前者は、会長の見舞いか介護です。後者は聞法となりますが、肝心の「法」がなければ「聞法」ではなく「聞『よくわからない話』」にしかなりません。


長年の会員からすれば、親鸞会館に足を運ぶのは「会長が元気かどうかの見舞い」になっているのでしょうが、それを「命かけて見舞いに来い」と言っているのが高森顕徹会長です。そのため、それに嫌気が差して会を辞める人も増えているのではないかと思います。
少なくとも、「ワシを見舞え」「命かけて見舞え」と言う人は、「善知識」ではありません。「阿弥陀仏をふかくたのめ」と「南無阿弥陀仏のいわれ」を勧める人が善知識です。
年も改まり、親鸞会館の初聞法会に行く人もあるでしょうが、年明け早々お見舞いのために足を運ぶのでしょうか?(お見舞いそのものが悪いとはいいません)それとも法を聞きたいのでしょうか?年始に考えてみて下さい。
-