親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

映画「なぜ生きる」も「聖典」に追加されたようです。(平成28年8月7日(日)親鸞会館追悼法要より)

平成28年8月7日(日)は、親鸞会館で追悼法要が開かれました。参加された方から聞いたことで感じたことを書きます。
演題は「平生業成と墓参り」で、珍しく高森会長が一日話をしたとのことです。とはいっても、午前1時間、午後1時間の一日二時間の法話でした。

話しの内容そのものは、良くも悪くもいつも通りだったとのことでしたが、映画「なぜ生きる」シナリオブックが話しの都度都度に、根拠として引用されていたそうです。
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(映画「なぜ生きる」シナリオブック)

以前このブログで、「なぜ生きる」が「ご著書」から「聖典」になったと書きましたが、実際その方向に動いているのだと実感しました。
shinrankaidakkai.hatenablog.com

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(映画「なぜ生きる」より、黄金に輝く腹ごもりの聖教)


真宗聖典にある親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を出す回数はどんどん減り、「なぜ生きる」の本や映画のシナリオを根拠として出す場面は今後どんどん増える事でしょう。
高森会長は以前、「親鸞聖人の教えを学ぶ人は親鸞学徒だ」といい、「会員」という呼称が「学徒」とかわりました。しかし、現在の会員「高森会長の著作を読み、高森会長の映画に学ぶ人の集まり」ですから、「高森学徒」になります。この「高森学徒」と呼ばれて違和感を感じる人は、よくよく聞いて下さい。


最早、親鸞会の教義について、外部から親鸞聖人のお言葉と違うではないかといくら批判しても、何も言えなくなったのだと思います。なぜなら、高森会長が言っていることが正しい根拠は「なぜ生きる」「同2」「映画なぜ生きる」にしかないからです。



今回の追悼法要の後に、いわゆる親鸞会でいう「信心の沙汰」がされたでしょうが、その内容は、ここでいわれたことは「映画なぜ生きるにはこうある」とか「本のなぜ生きるにはこう書かれている」という話がほとんどでしょう。文学研究者が、著者の作品を通してその考えに迫ろうとするように、会員は高森会長の著作を通して「高森先生の御心」に迫ろうとしているのでしょう。よしんば、その「高森先生の御心」に迫れたとして、それが何だというのでしょうか?貴方が高森会長でないように、高森会長も貴方ではありません。仮に高森会長の気持ちが分かったらそれが救われたことになるのでしょうか?
貴方を救って下さるのは、阿弥陀仏であって「高森先生の深い御心」ではありません。高森会長の著作から妄想を膨らませてみても、楽しいかも知れませんがすくわれません。


映画「なぜ生きる」を何度見ても、信心を獲られることはありません。著作「なぜ生きる」を何度読んでも、親鸞聖人のみ教えは分かりません。阿弥陀仏の本願は、阿弥陀仏から聞かねば聞けません。親鸞聖人のみ教えは、親鸞聖人の著作によらねば分かりません。


真宗の「聖典」は、真宗聖典に収蔵されているものであって、高森会長の作品ではありません。親鸞聖人の教えを、親鸞聖人のお言葉以外で説明する現状に疑問を持っている方は、早くその場を離れることをお勧めします。
南無阿弥陀仏は、常に貴方をただ今救って下さいます。