親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

教義のダブルスタンダードを機関誌に堂々と書く親鸞会(顕真2015年10月号を読んで)

f:id:yamamoya:20151213064012p:plain顕真*12015年10月号を読みました。内容としては、奈良会館の建立に関するものが大半でした。現在もほぼ毎月の様に全国各地に会館が出来ているようです。それ以外で気になったところを紹介します。


それは、この10月号から始まった、「『なぜ生きる2』解説(1回目)P30」と、以前から続いている「『なぜ生きる2』に学ぶ第9回P42」の内容が矛盾している点です。

どこが矛盾しているのかを、結論から言いますと、前者では「名号を聞く一つで救われる」と書き、後者では「善の勧めは弥陀の救いに関係ある」と書いている点です。


『なぜ生きる2』解説(1回目)より

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まず、後で紹介する後者の記事に比べて明らかに文字が大きいです。親鸞会弘宣局としては、こちらの記事を強調したいのだと解ります。それはどこかと言えば、以下の部分です。

名号は、弥陀の“そのまま来い”の一声となって、私たちの心に満ちあふれるのです。
ですから名号を頂くのは、聞く一念で、私と一体になるのです。(顕真H27年10月号P31)

この記事から親鸞会弘宣局の言いたい事は「なぜ生きる2にも正しいことが書いてあるんだ」「ネットであれこれ『なぜ生きる2』の批判があるが、的外れだ」だと思われます。


確かに、親鸞会の言っていることのなかに、浄土真宗の要素が一つもなければ、誰も批判はしません。例えば、「阿弥陀仏が私を救って下さる」とか「平生業成」などは、親鸞聖人の教えに違いはありません。


しかし、そういった浄土真宗の教えを看板に掲げながら、浄土真宗ではない教えを混ぜて伝えているのが親鸞会であり、高森顕徹会長です。食品に例えると、産地偽装にあたります。
一例をあげれば、中国で採れたあさりを、日本の海に一回放して採取して「国産です」と言うようなものです。確かに日本の海で採れたものに違いはないですから、「国産」と言えないこともないですが、やはり中国産には違いありません。同じように、親鸞会の教義は大まかにいえば「善をしないものは救われない」あるいは、「阿弥陀仏は全ての人を救うために十九願で善を勧められた」です。にもかかわらず、一方では「南無阿弥陀仏を聞く一つですよ」といいます。親鸞会本体は「善をしないものは救われない」である教義を、「南無阿弥陀仏を聞く一つ」と偽装して伝えています。


その本体を書いているのが以下の記事です。

『なぜ生きる2』に学ぶ第9回「救いに善の勧めは必要」

特に気になる箇所を紹介します。

 もし方便(善)が弥陀の救いに不要なら、弥陀の十九願は要門でも仮門でもなく不要門と呼ばれよう。
 釈迦の定散二善を説かれた『観無量寿経』は反古となり、聖人の「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」は、激しい謗りを浴びよう。
 また善の勧めが弥陀の救いと無関係ならば、弥陀も釈迦も聖人も、弥陀の救いにつながらない教えを説かれたとこになる。(顕真H27年10月号P45)

この記事を一言で言えば、「阿弥陀仏の救いに善は必要」です。親鸞会の主張は、言葉が変っても結論はこれ以外にありません。だから、度重なる御布施が正当化されています。しかし、考えて見ますと、これは本当なのでしょうか?阿弥陀仏の救いは、人並み外れた行動力で御布施を続けられるような、経済力と精神を持った人でなければ、救われることはないのでしょうか?もしそうだとすれば、上に紹介した、「名号は、弥陀の“そのまま来い”の一声となって、私たちの心に満ちあふれるのです。」と矛盾します。なぜなら、名号を一声聞くのに、経済力も精神もいらないからです。


一つ根拠をあげると、親鸞聖人は御和讃に、どれだけ善に励んだ人でも、その善果で浄土には往生できないといわれているからです。

(72)
願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり
(高僧和讃 善導讃)

http://goo.gl/fvC2Aq

これは、阿弥陀仏の本願によって成就した浄土には、自力で励んだ善や信念では往生できないということです。だから、さまざまな修行を実際に行ってある程度のさとりを開いた聖人も、阿弥陀仏の第十八願にまかせてすくわれたのだと言われています。


「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」を親鸞会では、「だから救いに善は必要」と主張しますが、それを押し通すなら、上記の「願力成就の報土には 自力の心行いたらねば」は、どう説明するのでしょうか?詳しい説明は、以下の記事を御覧下さい。
飛雲


「なぜ生きる2」の矛盾。親鸞会教義の矛盾。

この連載記事は「三願転入を非難する外道より浅ましき輩を破る」と題して、今回で9回目です。「三願転入を非難する外道より浅ましき輩」とは、私も含めて親鸞会教義に異を唱える人全てを指しています。ただ、ここで改めて言っておきたいのは、私が批判しているのは「親鸞会(高森顕徹会長)がいうところの三願転入は間違い」と言っているのであって、「親鸞聖人の三願転入が間違い」と言っているのではありません。親鸞聖人が仰っているのは、「私が救われたのは全て阿弥陀仏のお力であった」のであって「阿弥陀仏によって修行させられたから、善をしたから救われた」と言われているのではありません。


ところが、この顕真の記事二つを比べてみると、前者は「南無阿弥陀仏で救われる」後者は「善をしないと救われない」となっています。


両者は、明らかに矛盾しているだけではなく、それが「なぜ生きる2」という一冊の本に収まっているのですから、親鸞会を知らない人が読めば「なにこれ?」と思います。しかし、会員の多くはこのような矛盾している内容を、「さすが高森先生は『絶対矛盾的自己同一』の信心の方だからなぁ」と流しています。だからこそ、機関誌にこのような記事を書いて、かつ複数の親鸞会講師部、親友部員で校正をしても誰も疑問に思わず発行出来るのです。例えて言えば、同じ新聞で、消費税増税賛成と反対の記事が載るようなものです。とはいえ、高森顕徹会長の書いた本ですから、親鸞会で話しをしている内容が「矛盾している」と言っているようなものです。


私が、親鸞会にいたころに、自分自身もまた周りの人も疑問に思ったことの多くは「前聞いた話しと、今回の話しは矛盾している。だけど、高森顕徹会長の話に間違いはないのだが、どう理解したらいいのだろうか?」ということでした。当時は私の「理解不足」あるいは「信心決定してないから」だと思っていました。しかし、今振り返ると「解らない」ことと「矛盾している」は違います。例えば「南無阿弥陀仏で救われる。自力の心行では浄土に往生できない」なら、「解らない」ことはあっても「矛盾している」とはなりません。それに対して「南無阿弥陀仏を聞く一つで救われる。だけど、善も必要」では、「矛盾している」ので「結果として解らない」となります。この二つは違うのですが、親鸞会にいたころは、私には解っていませんでした。


しかし、このような「矛盾している教え」を「自分の理解不足」を原因にして聞き続けると、「思考停止状態」に陥ってしまいます。言い換えると「どうせ自分の力では解らないのだから、高森顕徹先生の話を聞いていくしかない」となります。これが教義のダブルスタンダードの行く末です。結果として、会にとって都合のいい活動員となります。本当にそれでいいのでしょうか?

最後に

阿弥陀仏の救いは、私に理解能力が必要とは言われていません。強い精神力も要りません。経済力も要りません。しかし、南無阿弥陀仏と称えて下さいと言われます。南無阿弥陀仏を信じ、念仏するものは浄土に往生するという救いです。「理解不足」でも、南無阿弥陀仏を信じ、念仏する一つで必ずただ今救われます。


このエントリーを読まれている親鸞会の会員、元会員の皆さん。貴方が親鸞会で感じた「あれ?教義が何かおかしい!?」と感じた直感は正しいです。その直感に従って行動してみてください。

*1:宗教法人浄土真宗親鸞会(高森顕徹会長_富山県射水市本部)の機関誌