親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会会員が「因果の道理」(因果の法則)と「三願転入」に拘る理由を考える

親鸞会で強調される教義は、「因果の道理」と「三願転入」です。今回は、なぜその二つに会員は固執するのかを考えて見ます。

因果の道理については、最近親鸞会講師が、一万年堂出版から本を出したところからも、その力の入れようも伺えます。

運命を切り開く因果の法則

運命を切り開く因果の法則

ただ、タイトルが「因果の道理」ではなく「因果の法則」にしたのは、「因果の道理」で検索をすると親鸞会関係者と、その批判記事が上位をほとんど占めているからだと思います。


また、親鸞会的三願転入は、その親鸞会でいうところの「因果の道理(因果の法則)」をベースとして話が組み立てられています。いわく「因果の道理は、善の勧め。だから善を勧められた19願をまず通らねば救われない」といいます。

そのため、親鸞会会員が親鸞会に居続ける理由として、大きなものが「因果の道理に間違いはないから」「三願転入しなければ救われないから」ということが出来ます。事実、外部の批判に対して親鸞会の講師部員、会員は直接でもネット上でも前述の二つを主張しています。

私が、親鸞会を除名になってから7年目に入ります。もちろん、会にいたころもこの二つは強調されていましたが、今はそれを強調する理由が変わってきたように感じます。

以前は「救われるため」に三願転入を聞いていた

私が親鸞会に入会したのは平成5年の5月でした。たまたまその年は、親鸞会結成35周年記念大会の年でもあり、「親鸞会的三願転入」を高森顕徹会長が強調するようになった年でもありました。当時三願転入を初めて聞いた私の率直な感想は、「こういう道を進んで救われるのか」という驚きと「まだ自分は救われていない理由が分かった」の両方でした。私が大学入学したころに、学生部担当講師や先輩からよく聞いた話は「平生業成」と「三重廃立」でした。言い換えれば、「平生業成」は「ただ今救われる」であり、「三重廃立」は「自力を捨てねば救われぬ」でした。その為、「三願転入」の話を聞くまでは、「今日の法座で救われよう。救われるという教えが平生業成だ」とか「今日こそ仮を捨てて、真に入ろう」と高森顕徹会長の法座を聞きに行っていました。また、回りの学生も「今日こそ救われよう」と有る意味本気で信じていました。


ところが、中々救われません。そうこうしている内に「三願転入の話」を聞いたときに、単純だった私は「この道を進んでいないから救われなかったのか」と妙に納得してしまいました。また、ならばその横の線(19願)を進んでさえいけば救われるのだなと思いました。


そうこうしている内に、高森顕徹会長の話を聞く心も「ただ今救われよう」から、「早く三願転入の道を進もう」に変わってきました。また、その横の線を進むには、「善行の実践」しかないわけですから自分の出来る範囲での「親鸞会の勧める善」を実践していきました。それでも、三願転入の話は「自分が救われるために」聞いていました。ところが、そこから何年も経ってくると、その「三願転入」で救われたという人も回りにいる訳もなく、「この三願転入の道はとても険しいのだ」と思うようになりました。


現在は「救われない言い訳」となった「三願転入」と「因果の道理」

そこから、現在になると、親鸞会において「因果の道理」と「三願転入」は以前にもまして強調されるようになりました。また、高森顕徹会長が強調する以上に、所属会員がそれに固執しているように感じます。ネット上の可視化された議論を見ていてもそれはよくわかります。

では、なぜ現在の親鸞会会員は「三願転入」と「因果の道理」にこだわるのでしょうか。また、そこを攻撃されるとむきになるのでしょうか。
その理由は、「現在自分が助からないことを正当化することに便利だから」です。親鸞会会員の立場で考えると、何十年も親鸞会に所属し、活動をしていながらも、未だに救われない理由として「高森顕徹会長の教えが違う」というのは最も避けねばならないことです。なぜなら、そのように考えるのは「善知識をおろそかに思う謗法罪」と教えられているからです。
しかし、他方では「平生業成」の教えですから、生きている間に救われないということもまた教義上はありえない話です。
そこで、高森顕徹会長を誹謗せず、自分が救われないことを正当化するのに一番都合がいいのが、「親鸞会的三願転入」と「親鸞会的因果の道理」です。

どのように言うか、一例を上げると「自分はまだ19願の道に乗ったばかりだから現在は救われない」とか、「まだまだ真剣に善をしているとは言えない、まかぬタネは生えないのだから仕方がない」といったものです。


このようにいうことによって、「現在自分が救われないこと」を正当化し、「仕方がない」という立場に身を置きたいだけなのが、今の親鸞会会員ではないでしょうか。そういう意味では、彼等にとって「親鸞会的三願転入」が「正しいか間違いか」はあまり問題ではないということになります。むしろ「救われない自分」という立場を、唯一正当化してくれる便利な道具に過ぎません。ですから、ネット上の議論もどこかしら親鸞会違憲を書く人に当事者意識が低く感じられるのは、「自分が救われないのは、自分が悪いのではない。そういう教えなのだ」という開き直りというか、諦めに似た感情が支配しているのではないかと思います。


「救われない自分」を正当化するために、高森顕徹会長の変わった教えも利用し、「正しき求道者」として死ぬか、阿弥陀仏の本願力をたのみ救われるか、どちらかの道を本気で選ぶ時が来ていると思います。


親鸞会会員の方でこれを読まれた方は考えて見てください。「正しい人として死にますか」それとも「間違った者として浄土に往生しますか」もう時間はあまりありません。ただ今救われて下さい。