親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森顕徹会長の「体験談を言うな聞くな」が、実際のところは「信心の沙汰をするな」になっている件(顕真平成27年7月号)

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顕真(宗教法人浄土真宗親鸞会機関誌)平成27年7月号を読みました。
今回は、「法友通信(5/31講師部講義)各人各様の体験とは異なる 善知識方の三世十方を貫く教え」の記事について書きます。

大体どのような内容かについて、記事から一部引用して紹介します。

5月の講師部講義では、明治以降の浄土真宗の改革運動が線香花火のようにあっけなく消滅したのはなぜか、善知識方のご教導とどこが違うのか。御聞きしました。(顕真平成27年7月号 P40)

ではそれは何なのかと言えば

蓮如上人と明治の改革者の決定的違い 
 講師部 K
(略)
それは、獲信の具体的な体験を一切書かれず、仰らなかった上人と、体験重視の彼らとの違いでした。
(略)
(顕真平成27年7月号 P40)

だそうです。

それだけを聞けば、正しいことのようにも思えます。
しかし、ほかの手紙の内容からすると、どうも様子が違ってきます。

人の上に信を立てず 本質的に違う法と体験
講師部 M
絶対に、人の上に信、不信を立ててはならない、と教えて頂きました。誰が獲信したかを知りたい心は根深く、学徒の会話でも、人の上に信、不信を問う声が聞こえてくることがあります。重ねて伝えて行かねばならないことと知らされました。
(略)
いちばん心に残ったのは、法と体験の本質的な違いです。法は三世十方を貫く教えであり、具体的な体験は、各人各様異なるとお聞きしました。
(略)
(顕真平成27年7月号 P44)

この「絶対に人の上に信、不信を立ててはならない」は、言葉を変えると「あの人は救われた、救われていないと言ってはならない」の意味です。
これまでは、「信心決定した人は自らの具体的な体験を語ってはならない」という主張でした。それが、「会員同士で、誰が信心決定したかを話題にしてはならない」となっています。

確かに、第三者があの人は救われている、救われていないなどという認定、判断をすることは出来ません。しかし、それはそれとして、上記の文脈からすれば、「自分が信心決定した」ことを語ることも、それを他人に尋ねることも「箝口令」が敷かれたのが親鸞会のようです。

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しかし、これは考えてみると大変危険なことです。
例えば、ある会員が「自分は信心決定した」と思ったとしても、それを誰にも語ることは親鸞会の中では出来ません。なぜなら「体験談を語るな」が、親鸞会では「味わいもいうな」になっているからです。その人が「思い込みの信心」であったとしても誰にも語ることもなく、また他の会員も「誰が信心決定したかを聞いてはならぬ」と指示されているのでその人に尋ねることも出来ません。その結果として、「自分は信心決定した」と思ったその会員の信心は、どこでも沙汰することがないために、間違いであってもそれが正されることはありません。

数年前に、信心の沙汰をせよと号令をかけていた親鸞会とは全く変わっています。
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(顕真平成19年5月号 目次)
「同朋の里」で信心の沙汰
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(顕真平成19年 6月号 目次)
信心の沙汰で誤解が正される。

平成19年から暫くは「信心の沙汰をせよ」と親鸞会では会員にむけて機関誌にも書いていました。

そもそも蓮如上人は、確かにご自身の体験談を書かれてはいませんが、ご門徒のみなさんに対して「信心を語るな」とは言われていません。むしろ、大いに語りなさいと言われています。

一 仏法の由来を、障子・かきごしに聴聞して、内心にさぞとたとひ領解すといふとも、かさねて人にそのおもむきをよくよくあひたづねて、信心のかたをば治定すべし。そのままわが心にまかせば、かならずかならずあやまりなるべし。ちかごろこれらの子細当時さかんなりと云々。
一 信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて他力の安心をば治定すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。
(御文章4帖目7通 六箇条)

仮に、親鸞会会員で「私は信心決定した」と思った人があらわれたとして、その人に対して蓮如上人は「かさねて人にそのおもむきをよくよくあひたづね」なさいと言われています。なぜなら「そのままわが心にまかせば、かならずかならずあやまりなる」からです。
また重ねて「信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづね」なさい、「一往聴聞してはかならずあやまりあるべき」と言われています。


高森顕徹会長は「自己の体験談を語るな」と一見もっともらしいことを言いながら、実際は「仮に信心決定したという会員がいてもその信心を語るな、また会員同士でそのことを話題にもするな」と言っています。つまり信心の沙汰をするなと言っています。


その結果どうなるかと言えば、会員ひたすら「なぜ生きる2」に書かれたような親鸞会流三願転入の話を聞き、仮に「信心決定したと思った会員」がいても人と沙汰しない訳ですから「内心にさぞとたとひ領解すといふとも」必ずあやまりなるべしです。


また、講師部や会員で「信心決定したっぽいこと」をほのめかす人があらわれても(今後必ず現れると思われます)、それらの人は「それを語ると体験談だから私は語りません」といって、他人からの沙汰を遮断します。加えて、まわりの会員も、それを話題にすること自体が「人の上に信、不信を語る」という親鸞会内での禁忌を犯すことになるので話題にできません。


そのため、今後の親鸞会では「信心決定したっぼいことをほのめかす一部の講師部員」が話をし、会員で「信心決定したと思い込んだ人」とそうではない会員が話を聞き、御互い信心の沙汰をしないまま、「親鸞会的三願転入の話」だけが繰り返されると状況になるでしょう。


かつては、伝統教団を「無安心集団」と批判してきた親鸞会ですが、時は移り自身が「無安心、無沙汰集団、一部なんちゃって信心決定の人の会」となってしまいました。


高森顕徹会長は、自分がいなくなった後を見越して、今回のような話をしたのでしょうが、ますます親鸞会は「本道」から外れていったのは間違いありません。親鸞会の活動は、線香花火どころか、打ち上がらないまま暴発する打ち上げ花火で終わりそうです。