親鸞会が主張する「三願転入しなければ救われない」は、「19願の通りに善を実行しなければ、19願を出て20願に入ることはできない。20願の通り自力念仏を称えなければ、20願を出て18願に入ることは出来ない」というものです。
そのため前回のエントリーでも紹介しましたが、「19願は不要」という相手に対しては「三願転入を破壊するもの」として批判をしています。
とはいえ、会員の方ならよくご存じのことですが、高森会長の話は、「三願転入しなければ救われない(方便は必要)」と言っている場合と「方便を捨てねば救われない」と言う場合があります。私が、親鸞会にいたころもしばしば、このような「以前聞いた話と、今回の話しは矛盾するがどう考えたらいいのだろか」と会員同士で話題になったことがありました。
そんな場合の高森会長の答えは、2つしかありませんでした。
1つは、「ワシはそんなこと言うとらん(聞いたものが悪い)」
2つは、「救われたらわかる。(矛盾が矛盾とならない世界が信心決定した世界)」
だいたいこの二つで、会員は高森会長の話しに矛盾がある点をなんとか呑み込んで、「いつかそれが矛盾とならない世界にでられるかも」と期待をして会員を続けています。
ただ、ここで私がなにかを書いても「ワシはそんなこと言うとらん(聞いたものが悪い)」という反応をされる方もあるので、「親鸞会発行の書籍」の中から紹介します。
今回は、「親鸞聖人を学ぶ」です。会員にとっては周知の事実ですが「高森会長の最新著作」です。(ただし表には出ていません)
- 作者: 伊藤健太郎,仙波芳一
- 出版社/メーカー: 1万年堂出版
- 発売日: 2014/12/19
- メディア: 単行本
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この「親鸞聖人を学ぶ」には、前作「なぜ生きる2」であれだけ書いていた「三願転入」が一言も書かれていません。それどころか、前作「なぜ生きる2」の内容を「なかったこと」にするかのような文章が書かれています。
一例を挙げると、以下の部分です。
親鸞聖人の教えの全ては、「教行信証」に書き残されている。その「教行信証」は、「三重廃立」を明らかにした書といわれる。三重廃立以外に、『教行信証』の教えはない。『廃立』の「廃」とは「捨てもの」ということであり、「立」とは「拾いもの」ということである。
弥陀の本願に救われて絶対の幸福を獲得するには、捨てるべきものは速やかに捨て、拾うべきものは速やかに取らねばならない。(親鸞聖人を学ぶ P172ーP173)
もちろん「教行信証」には「三重廃立」なる単語は一つも出てきません。しかし、内容を読めば「方便を実行しなければ救われない」という高森会長の説よりは、余程親鸞聖人の教えの通りだと思います。
その「弥陀の本願に救われて絶対の幸福を獲得するには、捨てるべきものは速やかに捨て、拾うべきものは速やかに取らねばならない。」について、同書では次に以下のように書かれています。
38 親鸞聖人の教えは、なぜ、こんなに厳しいのか
「仏教以外の一切の宗教を捨てよ」
「聖道仏教を捨てよ」
「自力(仮)を捨てよ」
(「親鸞聖人を学ぶ」P174)
捨てるものとしての三つ目に挙げてある「自力(仮)を捨てよ」が、説明不十分です。いや、むしろ意図的にそう書いているとしか思えません。
この本では、
真(他力)と仮(自力)を峻別し『自力を捨てて、他力に入れ』ということ一つを説かれた方が親鸞聖人であった。(「親鸞聖人を学ぶ」P177)
とあります。しかし、正確にいうと「方便(自力)の行信を捨てて、他力の行信に入れ」ということです。
おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。(教行信証行巻)
真実の行信に入れ(17願の称名、18願の信心)と勧められ、方便の行信(19願の修諸功徳、至心発願、20願の植諸徳本 至心回向)を捨てよと言われています。
言い換えると、「19願を捨てよ、20願を捨てよ」「真実の行信(17願、18願)に救われよ」と親鸞聖人が勧められたのが教行信証に書かれていることです。
親鸞聖人はそのように、
一切の妥協を排し、徹頭徹尾あらゆる不純物を払いのけ、釈迦の真意を明らかにされる、冷徹無比な廃立の教えである。(同上)
とされています。
それにもかかわらず、親鸞会ではなぜ『19願の実践』が強調されるのでしょうか?
答えは、上記の文章の通りです。「一切の妥協を排し」伝えられた親鸞聖人の教えを、「会館を建てたい」「建てた会館の維持費がかかる」などの理由で、妥協して教えを曲げているからです。
最後に、高森会長が矛盾したことを言った場合に会員が考える2つ目、「救われたらわかる。(矛盾が矛盾とならない世界が信心決定した世界)」について書きます。
これについて、元講師部員として言わせ頂きますと、その期待がかなうことはありません。私自身もそうですが、会を辞めて、また実際に救われて分かる事は「高森会長の矛盾した話は、単なる高森会長の理解不足とその場限りの話によるもので、『深い御心』はそこにはなかった」ということです。
「深い御心」どころか、会員に「本願寺より大きな会館が欲しい」「アニメバスが欲しい」「全国に会館が欲しい」と、「欲しい欲しい」の非常に分かりやすい動機しかありません。
それらに必要なもろもろの経費を会員が負担することが「19願
の実践」だとしても、親鸞聖人は「それは捨てよ」と言われています。
会員のみなさんは、三願転入の「なぜ生きる2」と、三重廃立の「親鸞聖人を学ぶ」は、どちらが正しいと思いますか?
答えは、両書ではなく、ご自身でお聖教を読むなり、それ以外の本や、それ以外の人の話を聞いて判断してください。
最後の最後に、会員の人に言いたいことは、「貴方が親鸞会で『おかしい』と思ったことは、ほぼ100%おかしい」ということです。お聖教と、自分の直感を信じてください。