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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「因果の道理が分からなければ、親鸞聖人の教えは分からない」(「親鸞聖人を学ぶ」より)は間違いといえるのは、なぜか

親鸞聖人を学ぶ

親鸞聖人を学ぶ

今回紹介する部分は「親鸞聖人を学ぶ」の「第7章親鸞聖人は何を教えられたのか」の中にある章です。それまでの章は、ほとんどが「アニメ映画 世界の光親鸞聖人」シリーズの場面紹介でした。この第7章は、アニメのシーンには収録されていない話と親鸞会教義を掲載したものです。ある意味、親鸞会色がとてもよく現れているのがこの第7章です。



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その中でも、この「因果の道理が分からなければ、親鸞聖人の教えは分からない」は、親鸞会のでよく聞く言い回しです。また、親鸞会教義、高森顕徹会長の話が「浄土真宗ではない」ことはよく表れている言葉でもあります。

私はこの章の表題を読んだとき「因果の道理が分からなければ、親鸞会の教えは分からない」の誤植ではないかと思いました。それほど、「因果の道理が分からなければ、親鸞聖人の教えは分からない」というのは「さらに珍しい法を弘めている」ことになるのです。


因果の道理と親鸞聖人の教えの関係

親鸞会で言う「因果の道理」は、結論を言えば「廃悪修善」であり「善の勧め」です。また「親鸞聖人の教え」とは、別の言葉で言えば「阿弥陀仏の第18願の教え」です。
いいかえると、「因果の道理と親鸞聖人の教えの関係」は、「善の勧めと阿弥陀仏の第18願の教えの関係」となります。その関係は、この章の表題を借りると、「因果の道理(廃悪修善、善の勧め)から見ると阿弥陀仏の第18願は分からない」というものです。

因果の道理とはこの本から引用すると

平たい言葉でいうと、「まかぬタネは絶対に生えないが、まいたタネは必ず生える」ということである。(「親鸞聖人を学ぶ」P258)

大根の種をまいてスイカが出てきたり、スイカの種をまいて大根が出てくることは絶対にない。まいた種と同じものしか生えてはこないのである。(同 P260)

ということです。

その理屈は、阿弥陀仏の第18願とは合いません。その証拠に、この「因果の道理」に基づき修業してさとりを開く聖道仏教から激しく批判をうけたのが、法然聖人です。

では、具体的にはどのように非難を解脱貞慶をはじめとした学者から批判をうけたのかについては、興福寺奏状をよむと分かります。

興福寺奏状の原文は、以下のリンク先から参照できます。その中から、9つの項目にわたっての批判を最初に出した部分を紹介します

法然聖人流罪事
   貞慶解脱上人御草
   同形状詞少少
 九箇条の失の事
第一 新宗を立つる失。
第二 新像を図する失。
第三 釈尊を軽んずる失。
第四 万善を妨ぐる失。
第五 霊神に背く失。
第六 浄土に暗き失(浄土を暗くする失)。
第七 念仏を誤る失。
第八 釈衆を損ずる失。
第九 国土を乱る失。

http://goo.gl/46DgeW

興福寺奏状については、親鸞会の公式サイトにも掲載されています。

親鸞聖人略年表|承元の法難2|浄土真宗 親鸞会 公式ホームページ
原文は、高森顕徹会長の作「こんなことが知りたい3」の11番目の問と答えの部分です。しかし、この中では9項目の非難を説明していくなかで、あえて一つ省略してあります。それは、「第六 浄土に暗き失(浄土を暗くする失)」です。

第5には、日本では古来仏教と神道とは固く結びついている。だからこそ伝教や弘法のような高僧たちも、みな神々をあがめ尊んできたのである。それにもかかわらず法然らは、「もし神を拝めば必ず地獄に堕ちるぞ」と言いふらし世人を迷わせている。もし法然らの言が正しければ、伝教や弘法は地獄に堕ちていることになる。法然は伝教や弘法たちより偉いとでも思っているのだろうか。このような暴挙は即刻禁止させないと大変なことになる。
第7には、念仏というのは本来、「阿弥陀仏のことを心の中で念じる」ことなのに、法然らは称えさえすればよい(以下略 原文ママ
親鸞聖人略年表|承元の法難2|浄土真宗 親鸞会 公式ホームページ

なぜか第5の次が、第7になっています。どう見ても第6をあえて抜かしたのは明白です。

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また、「親鸞聖人を学ぶ」では、9項目あることは書いてあるものの、その内容の紹介は大まかな内容を現代文で2種類挙げているにとどまります。

高森会長が敢えて省略した「第六 浄土に暗き失」はまさに親鸞会の主張

では、この高森顕徹会長があえて省略した、興福寺奏状の「第六 浄土に暗き失」について説明します。
原文は、このエントリーの最後に転載しますのでご覧下さい。
結論を先に言うと、興福寺奏状の主張は法然聖人が説かれた阿弥陀仏の第18願の教え、選択本願念仏一つで救われる教えは、「因果の道理」に合わないから間違いだというものです。
では、どのように合わないかというと、聖道仏教でも「浄土往生」を説くことは有りましたが、彼等の解釈する「浄土往生」はあくまでも、因果の道理に基づいたものでした。そのため、観無量寿経にある九品の往生を取り上げて、「まいた種に応じて往生にも差があるのは当然であるのに、法然の主張は、誰でも平等に念仏一つで同じ浄土に往生するというのは因果の道理を破壊している。浄土往生がわかっていない。」というものです。彼等聖道仏教では、因果の道理にもとづいて修業してさとりをひらくことこそが仏教ですから、阿弥陀仏の本願もその見方でしか考えることが出来ませんでした。そのため、法然聖人の説かれる念仏一つで、どんな人も等しく浄土往生できるという教えは、とても仏教とは思えなかったのです。


この主張は、高森顕徹会長が、過去に本願寺派を相手に「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるかないか」と論争をしかけたものとほぼ同じです。
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(「本願寺なぜ答えぬ」(高森顕徹著)より)


この「親鸞聖人のみ教え」とは、前述しましたが「阿弥陀仏の第18願の教え」です。ですから、親鸞会は「阿弥陀仏の第18願に善のすすめはある」と主張したのです。それはそのまま、興福寺奏状の主張通り、「善をしたものとしないものとで結果が同じことはありえない」と言っているに等しいのです。


阿弥陀仏の第十八願の救いは、阿弥陀仏の救急の慈悲によって起こされた本願力による救いであり、南無阿弥陀仏を信じ念仏するものは必ず浄土に生まれさせるというものです。そこには、救われる側の行為の善し悪しは関係ありません。ですから、阿弥陀仏の第18願は医療行為にも譬えられます。なぜなら、悪人だから、善人だからということが、医者にかかって病気が治ることに関係しないのに似ているからです。

にもかかわらず、「親鸞聖人を学ぶ」の今回紹介する章には最後こう書いてあります。

私の運命の全ては、私のやった行為が生み出したものであり、それは万に一つも例外はないと教えられているのが仏教であり、親鸞聖人なのである。(同 P261)

「私の運命の全て」と言えば、「私が阿弥陀仏に救われる」ことも「浄土往生を遂げる」ことも含まれます。それが「私のやった行為が生み出したものであり、それは万に一つも例外はない」と親鸞会聖人は教えられていません。また、法然聖人も教えられていませんから、興福寺奏状で批判され流刑にまで遭われたのです。


「浄土真宗」を掲げながら「親鸞聖人の教え」を誹謗する親鸞会

以上書いてきたように「因果の道理が分からなければ、親鸞聖人の教えは分からない」と「親鸞聖人を学ぶ」というタイトルの本を出版する親鸞会は、法然聖人、親鸞聖人を批判した興福寺奏状と同じ主張をしているということです。



親鸞会自体に当時の興福寺のような政治力はありませんが、やっていることは念仏弾圧です。
「まかぬ種は生えぬ」とか「好き放題している者が救われるか」というのは、あくまで聖道仏教の発想であり、また、倫理の問題です。阿弥陀仏の救いは、救急の大悲によって起こされたものだと前述しました。それは、現在まさに水に溺れているものを助けるときには、救済者は自ら飛び込んでその人を直接救って下さるからです。そのときに「溺れている人の過去の行為によって救いを変えよう」ということはあり得ないことです。なぜなら、阿弥陀仏の大慈悲は、「現に私が溺れている」点にかかるからです。仮に、いままで善らしいことをしたことがない悪人でも、目の前で溺れていたら躊躇なく飛び込んで救って下さるのが阿弥陀仏の本願ではないでしょうか?いつから「正しい人」を救う本願になったのでしょうか?


まとめ「因果の道理が分からなければ、親鸞会の教えは分からない」

親鸞会の外にいる人から見ると、「なぜ親鸞会会員はあれだけ熱心に聞法する人がいるのだろう」「なぜ次々と会館を建てるのだろう」「なぜあれだけ新聞広告を出せるのだろう」と疑問に思うことが多々有ります。


それに対する答えは「因果の道理が分からなければ、親鸞会の教え(活動)は分からない」です。全ては「まかぬ種は生えぬ」「まいた種と同じものしか生えてはこないのである」が、その行動原理となっています。
そこから、「信仰がすすむには」とか「19願から言えば」などといっては、会員を「阿弥陀仏の救いに遇うには廃悪修善をせねば」という思考に閉じこめるのが、これまでの親鸞会です。おそらくこれからもそうでしょう。


会員がなぜそこまで「廃悪修善」に励むのかといえば、平たく言えば「廃悪修善しないと救われない」と信じているからです。それは、阿弥陀仏の第18願の破壊であり、念仏誹謗なのです。このエントリーを読まれた、会員および、アニメ上映会の参加者、アニメ上映会のチラシをご覧になった方はよくよく、親鸞聖人の教えと親鸞会教義は違うということを知ってください。

阿弥陀仏の本願を、因果の道理に基づいて考える人は、仏智の不思議を疑う人であり、報土往生はできないと親鸞聖人は、ご和讃で戒められています。

(67)
自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける(誡疑讃)

http://goo.gl/mLS1Up

参照 興福寺奏状 「第六 浄土に暗き失」

観無量寿経を勘ふるに、云く、「一切の凡夫、かの国に生ぜんと欲せば、まさに三業を修すべし。
一は、父母に孝養し、師長に奉仕し、慈心にして殺さず、十善の業を修す。
二は、三帰を受持し、衆戒を具足して、威儀を犯さず。
三は、菩提心を起して、深く因果を信じ、大乗を読誦すべし」と云云。
また九品生の中に上品上生を説いて云く、「諸の戒行を具し、大乗を読誦すべし」、中品下生に、「父母に孝養し、世の仁愛を行ふべし」と云云。
曇鸞大師は念仏の大祖なり。往生の上輩において五種の縁を出せり。その四に云く、「修諸功徳」、中輩七縁の中に、「起塔寺」「飯食沙門」と云云。
また道綽禅師、常修念仏三昧の文を会して云く、「念仏三昧を行ずること多きが故に常修と言ふ、全くに余の三昧を行ぜずと謂ふにはあらざるなり」と云云。善導和尚は、見るところの塔寺、修葺(しゅうしゅう)せずといふことなし。しからば、上、三部の本経より、下、一宗の解釈に至るまで、諸行往生、盛んに許すところなり
しかのみならず、曇融、橋を亘し、善晟、路を造り、常旻、堂を修し、善冑、坊を払ひ、空忍、花を採み、安忍、香を焼き、道如、食を施し、僧慶、衣を縫ふ。おのおの事相の一善を以て、皆順次の往生を得。僧喩の阿含を持し、行衍の摂論を論ぜし、小乗の一経と雖も、おのおの感応あり、実に浄土に詣す。沙門道俊は、念仏隙なくして大般若を書せず、覚親論師は、専修他を忘れて釈迦の像を造らず。皆往生の願を妨げて、大聖の誡を蒙る。永くその執を改めて、遂に西方に生ず。まさに知るべし、余行によらず、念仏によらず、出離の道、ただ心に在り。
もし夫れ法花に即住安楽の文ありと雖も、般若に随願往生の説ありと雖も、彼はなほ惣相なり、少分なり。別相の念仏に如かず、決定の業因に及ばずとならば、惣は則ち別を摂して、上は必ず下を兼ぬ。仏法の理、その徳必ず然(しか)なり。何ぞ凡夫親疎の習を以て、誤って仏界平等の道を失はんや。
もし往生浄土は、行者の自力にあらざれば、ただ弥陀の願力を憑む。余経余業においては、引摂の別縁なく、来迎の別願なし。念仏の人に対して及ぶこと能はざるにおいては、弥陀の所化として来迎に預るべし。あに異人ならんや、是の人なり。釈迦の遺法に逢ひて、大乗の行業を修す、即ちその体なり。もしかの尊に帰せざれば、実に無縁と謂ふべし。もし念仏を兼ねざれば、かつは闕業たるべし。
既に二辺を兼ねたり、何ぞ引摂に漏れん。もし専念なき故に往生せずとならば、智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや。およそ造悪の人は、救ひ難くして恣(ほしいまま)に救ひ、口に小善を称するは、生じ難くして倶に生ず。「乃至十念」の文、その意知るべし。しかるに近代の人、あまつさへ本を忘れて末に付き、劣を憑みて勝を欺く。寧ぞ仏意に叶はんや。

かの帝王の政を布くの庭に、天に代わって官を授くるの日、賢愚品に随ひ、貴賤家を尋ぬ。至愚の者、たとひ夙夜(しゅくや)の功ありと雖も、非分の職に任せず。下賤の輩、たとひ奉公の労を積むと雖も、卿相の位に進み難し。大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。なかんづく、仮名の念仏、浄業熟し難く、順次往生、本意に違失あり、戒恵倶に闕く、恃むところ何事ぞや。もし生生を経て漸(ようや)く成就すべくは、一乗の薫修、三密の加持。あにまたその力なからんや。同じく沈むと雖も、愚団の者は深く沈み、共に浮むと雖も、智鉢は早く浮む。況や智の行を兼ぬるは、虎の翅(つばさ)あるなり、一を以て多を遮す。仏宜しく照見すべし。

ただし此のごときの評定、本より好まず。専修の党類、謬って井蛙(せいあ)の智を以てし、猥(みだりがわ)しく海鼈(かいべつ)の徳を斥(きら)ふの間、黙して止み難く、遂に天奏に及べり。もし愚癡の道俗、この意を得ず、或いは往生の道を軽んじ、或いは念仏の行を退け、或いは余行を兼ねずして、浄土に生ずることなくは、全くに本懐にあらず、還って禁制すべし。たとひまたこの事によって、念仏の瑕瑾たりと雖も、その軽重を比するに、なほ宣下に如かざるか。