親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「法友通信『知っただけでは何にもならん』という大邪義について」顕真_宗教法人浄土真宗親鸞会機関誌(平成26年9月号)の記事から見える親鸞会の本音

宗教法人浄土真宗親鸞会の機関誌「顕真」平成26年9月号を読みました。
今回書く気になったところは、法友通信「知っただけでは何にもならん」という大邪義について(P44-P45)です。

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真摯に聞法する人に、「獲信せねば、知っただけでは何にもならん」と非難する者がある。この発言は、どこに問題があるのか。正しく把握し、撃破しなければならない。高森先生へのお手紙から、邪偽の正体と、親鸞学徒の使命を学ぼう。(T)
(顕真平成26年9月号P44)

そもそもこの非難というのは、よくネット上で親鸞会に向けていわれる意見によく似ています。普通に読めばこの非難というのは「獲信せねば、知っただけでは浄土往生はできない」という意味です。そういう意味ならばなんら不思議でもない意見です。それが、高森顕徹会長にかかるとこれは「大邪義」になるとのことです。

どこが「大邪義」になるのか、同じ顕真に掲載されている講師部員の手紙から引用します。

因果の道理と三願転入を否定する外道 講師部 S
「獲信せねば、知っただけでは何にもならない」の非難は、因果の道理の破壊であり、十九願、二十願は何にもいらないという、三願転入の否定である、と教えて頂きました。
 因果の道理を否定すれば、仏教にならず、三願転入を否定すれば、親鸞聖人の教えになりません。
(略)
「まいた種は必ず生える」の業不滅の因果の道理から当然ですが、現に今、真実を知らされ、真実を求め、真実を伝えられる無上道に生かされている者には、信前信後を問わず出てこない発言です。
(略)



三願転入を説く善知識たれ 講師部 I
(略)
我々人間のやる善は、全て雑毒の善、虚仮の行であり、それで獲信はできません。しかし、それが「何にもならない」ならば、「善因善果、自因自果」の因果の道理の否定であり、釈迦一代の教えの否定です。
釈迦が雑毒の善と知り抜かれながら、私たちに廃悪修善を一生涯教え勧められたのは、それが、本師本仏の御心であり、弥陀の救いにあわせる目的以外にありません。
(略)
(同上 強調は本文ママ)


この手紙から分かることは、「知っただけでは何にもならない」という言葉を高森顕徹会長は随分無理をして否定していることです。ハッキリ言えば、理屈になっていません。

まず「知っただけでは」の部分が、普通に読めば「本願を聞いた分かった」いわゆる「知った、覚えた」だけでは……となるところです。しかし、なぜか高森顕徹会長の説明では「因果の道理を聞いて、実践しているだけでは」となっています。この時点で、親鸞会の会員でも理解ができない文章だと思います。私も読んでいて意味がわかりませんでした。


次の「何にもならない」の部分は、先に書きましたが普通は「浄土往生はできない」と読みます。しかし、高森顕徹会長の解説ではなぜか「仏教の否定、三願転入の否定である」となっています。


つまり、親鸞会で推進しているお布施と称する献金や勧誘活動に対しての批判に対して、「そんなことを言うものは三願転入を否定している者だ」と言いたいようです。しかし、私も含めて、元会員が親鸞会の活動を批判するのは、「それらの善をすることとと獲信が関係ある。さらに言えば、善を励むほど早く信仰が進む」という会員向けの指導があきらかに浄土真宗ではないからです。


これについて反論するなら「知ったことが何か往生の手助けになるのですか?」と尋ねるのが一番です。親鸞会講師はなにも答えることはできません。

ダブルスタンダード親鸞会

親鸞会の教義は、一方でいうことと、もう一方でいうことが全く異なることが多々あります。今回の手紙の短い文章にそれがよく現れています。その部分を再掲しますと、以下の部分です。

我々人間のやる善は、全て雑毒の善、虚仮の行であり、それで獲信はできません。(同上)

ここでは、自らの善によって獲信できないとハッキリ認めています。
しかし、その直後にそれと全く反対のことが書かれています。

しかし、それが「何にもならない」ならば、「善因善果、自因自果」の因果の道理の否定であり、釈迦一代の教えの否定です。(同上)

自力の行では往生できないといいながら、それが「何にもならない」なら因果の道理の否定である。と言っています。つまり、自力の行は浄土往生に必要であると言っているのです。


こうなると、「浄土往生に善は必要なのか?不要なのか?」と当然疑問が起きてきます。これは、過去から多くの会員が抱えている疑問です。しかも、「高森顕徹会長の言うことに間違いはない」と思い込まされているので、矛盾した二つのことを聞かされても「どちらも正しい」と無理やり信じ込もうとします。


もし、このエントリーを読まれている方が親鸞会の会員でしたら、少し冷静に考えて見てください。あきらかに正反対の二つの意見があった場合は、考えられることは、以下の二つしかありません。

  1. 一方が正しく、もう一方は間違い
  2. 両方間違い

この場合、「浄土往生に善は必要か?不要か?」ということですから、「善は不要」が正しく「善が必要」説は間違いとなります。

私が、浄土往生を遂げさせていただくのは他力の行信によるのであって、自力の行信(私の善、私の信心)ではありません。そのことを親鸞聖人は、正信偈の偈前に書かれています。

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。(教行信証行巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

http://goo.gl/HROhjN

大まかな意味として説明すると、「真実の行信」とは、念仏(真実の行)と信心(真実の信)の事です。その真実の行信によって、すべての人(一切善悪大小凡愚)は、報土往生し速やかに仏になるのだと言われています。
ここで「方便の行信あり」と書かれていますが、それについてここには書かれていません。その方便の行信(自力の行と自力の信心・十九願、二十願)では報土往生できないと詳しく書かれているのが、教行信証化身土巻です。


つまり、方便の行信では報土往生できないので、そこから速やかに離れて、真実の行信によって救われなさいと教えられたのが、本来の三願転入の意味です。これは「因果の道理」からして当然のことです。「蒔いたタネが生える」のですから、「蒔いたタネと違うものが生える」ということはありません。「真実の行信」によって「真仏土」という結果になるのであって、方便の行信からは「真仏土」という結果は絶対に出てきません。

「三願転入を否定する者」とは親鸞会

その意味では、親鸞会の三願転入のお言葉を否定して、「これは親鸞聖人か善をしないと助からないと言われたお言葉なのだ」と度重なるお布施を正当化するための道具にしているのが高森顕徹会長です。
私に相談される親鸞会会員からよく聞くことは「どうしてこんなにお金が必要なのでしょうか?」「どうして富山にまで話を聞きに行かねばならないのでしょうか?」です。

それに対して私は「全部高森顕徹会長の都合です」と答えています。親鸞会に多額のお布施をするのも、人集めをするのも、貴方が浄土往生することとは全く無関係です。それを知った上で、親鸞会の活動をするのは個人の自由ですが、「このお布施を出せねば、今回富山に行かねば助からない」と思うのは全くの間違いです。

「根拠を挙げて法を説く」と言いながら、上記のことには根拠がない顕真

上記あげたような「浄土往生には善が必要」であるかのように主張する親鸞会ですが、その根拠は実はありません。
しかも、同じ号の顕真(P42)には、以下のような記事があるにも関わらず、この説には根拠は掲載されていません。以前のエントリーに紹介した部分を再掲します。

「獲信せずに法を説けるか」と批判されグダグダになる親鸞会(顕真平成26年(2014年)9月号を読んで) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ

根拠を挙げて法を説く 講師部 H
(略)
根拠を挙げねば、ただの非難中傷です。善知識方は、常に根拠を挙げて法論をされているのですから、とても大切なことだと知らされました。
(顕真平成26年9月号)

ちなみに、上記のエントリーに紹介した記事には、本願成就文と改邪鈔の根拠が一応掲載されていました。ところが、この法友通信「知っただけでは何にもならん」という大邪義についてには、お聖教の根拠が掲載されていません。掲載されていたのは、以下の高森顕徹会長の作文です。
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これ以外に根拠はないということは、つまり高森顕徹会長の自説であり、これを「浄土真宗」というなら「捏造」というより他はありません。親鸞会の教義は「捏造された浄土真宗」です。いくら「これが浄土真宗だ」と高森顕徹会長をはじめ、親鸞会講師部員が主張しても、捏造しているがゆえに「お聖教の根拠」については「ないものはない」というよりありません。出したとしても、上記の高森顕徹会長の作文くらいです。


まとめ「疑問を持たずにお布施しなさい、人集めしなさい」が結論

今回紹介した顕真の記事が浄土真宗の教義として間違っている点については書きました。そこであらためて「講師部講義」(講師部・特専部のみ参加)の内容を、あえて顕真に載せる意図について書きます。
今回の記事の結論の部分を再掲します。

「獲信せねば、知っただけでは何にもならない」の非難は、(略)「まいた種は必ず生える」の業不滅の因果の道理から当然ですが、現に今、真実を知らされ、真実を求め、真実を伝えられる無上道に生かされている者には、信前信後を問わず出てこない発言です。(顕真平成26年9月号)

言い替えると「『お布施したからといって、人を誘ったからと言っても、獲信しなければ浄土往生できないではないか?』という疑問は親鸞会会員なら信前信後を問わず出てこない発言です」と会員に言っています。分かり易く言えば、「疑問を持たずにお布施しなさい、人集めしなさい」です。さらに本心をあからさまに言えば「獲信なんて考えてはならない、とにかくお布施しなさい、人を誘ってきなさい」ということです。



とはいえ、それだけ人を集めて開催する親鸞会報恩講は10月11日(土)12日(日)に開催されます。演題は「報恩講とは」「御正忌」の「御文章」を通して、ですが、最近は高森顕徹会長はほとんど話をしていません。現役会員から「行ったところで、高森顕徹先生はほとんど話をせず、アシスタントがほとんど話をしているのですが、それでも富山に行かなければならないのですか?」と相談を受けました。「全く行く意味はありません」と答えましたが、これが親鸞会の現状です。


全国に会館を建てて会員を増やし、富山県親鸞会会館を満堂にするために日々活動をしていますが、当の高森顕徹会長はほとんど話ができないのが現状です。

最後に、御正忌の御文章を、紹介しますが、この内容もそのまま読めば、顕真にある「(親鸞会的)三願転入の否定」です。もし、親鸞会報恩講に参加された方で、このエントリーを読まれた方があれば、その様子をコメント下さい。

 そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。もつてのほかの大事なり。そのゆゑは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。 人間は不定のさかひなり。極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。されば当流には信心のかたをもつて先とせられたるそのゆゑをよくしらずは、いたづらごとなり。いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがふべきなり。

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。

善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章5帖目11通)

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