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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「獲信せずに法を説けるか」と批判されグダグダになる親鸞会(顕真平成26年(2014年)9月号を読んで)

宗教法人浄土真宗親鸞会の機関誌・顕真平成26年(2014年)9月号を読みました。
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以下は、気になった部分です。
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今回はこれについて書きます。今年の7月8月に行われた高森顕徹会長主催の講師部講義の内容が、参加者の手紙を紹介する形で書いてありました。

「獲信せずに法を説けるか」という非難に対してどう対応するか?(7月講師部講義より)

真の知識たる理由 講師部 M
(略)
その「願成就」の教えを伝えることが、善知識の善知識たるゆえんなのだと分かりました。
「獲信せずに、教えを説けるか」という非難が、いかにおかしいかが、分かります。



根拠を挙げて法を説く 講師部 H
(略)
根拠を挙げねば、ただの非難中傷です。善知識方は、常に根拠を挙げて法論をされているのですから、とても大切なことだと知らされました。
また、根拠を示して教えを伝えるのですから、「まだ救われていないから説法できない」という非難は、間違いだと分かりました。



教えの是非を論ずる 講師部 I
(略)
親鸞聖人や蓮如上人はお弟子に、「そなたは信心獲得していないから、説法してはいけない」とは、仰っていません。法然上人も、善慧房や念仏房らに「説法してはいけない」とは仰っていないとお聞きしました。信・不信が問題なのではなく、「知識伝持の仏語」を教えるかどうかだと、ハッキリいたします。
歴代の善知識方の法論は、教えの是非をめぐっての争いであり、信心の有無ではないと知らされました。人の上に信、不信を立てず、教えの是非を論じるよう、肝に銘じます。
(顕真顕真平成26年(2014年)9月号 P41-43 強調は本文ママ)

どこかで「獲信せずに法を説けるか」と非難をされたようですが、講師部講義でわざわざ取り上げるあたりが親鸞会の余裕のなさを感じました。また、機関誌にこのような手紙を掲載することは、そのまま講師部員に信心獲得した人はいないと公言しているようなものですが、それに気がつかないようです。私が講師部員だった頃とは随分様変わりしたものだなと思います。以前は、会員から「貴方は救われているのか?」と尋ねられたら、「もちろん」と答えてなんとなく救われたかのように対応しろと高森顕徹会長が話をしていたのは、もはや過去の話となったようです。本願寺派を始めとする伝統教団を無信仰団体とか、自力も他力もわからない無力安心と批判していたことを反省し、自分たちこそ無信心団体だと素直に認めたことは、大変結構なことです。

「獲信しないとお聖教は読めない」と言っていた高森顕徹会長(会報4集より)

しかし、親鸞会本願寺派をはじめ伝統教団を批判し、親鸞会が正しいと主張する根拠は「高森顕徹先生は獲信している」の一点だったはずです。また、「歎異抄をひらく」が「唯一の正しい歎異抄解説書だ」と親鸞会が主張する根拠も「獲信した高森先生が書いたものだから」です。

実際に、高森顕徹会長は会員向けの冊子「会報4集(現在は絶版)」に以下のように書いています。

 拝読する者の信心の純度で非常に意味の変るものが経典や御聖教であるが、『歎異鈔』はその中でも特に有名で、蓮如上人は「無信心の者には読ませてはならない」とまで仰せになっている御聖教である。何とか親鸞聖人の真実の教えを顕らかにしようと「なくなく筆を染て、これをしるす」と唯円坊が涙とともに書き残してくれた『歎異鈔』ではあるが古来、カミソリ聖教といわれ、大切にもされているが、また非常におそれられもしている。
 他力信の極意を開顕せられた『歎異鈔』は、真実信心の徹到した人が拝読すれば、くめどもつきせぬ妙味が滾々と湧き出ている書物だが、信心もない者が、いゝ加減な気持で読めばおそるべき誤解を生み、時には聖人の真意と正反対に受けとられる書物であるからである。
(略)
一言でいえば、真実の信心決定した指導者を善知識といゝ、無信の指導者を悪知識というのであるが、信心の有無はそれらの人々の教えること、語る言葉によって判断するより方法がない。(会報4集)

ここで「善知識」とは「真実の信心決定した指導者」といい、「悪知識」は「無信の指導者」と定義しています。その意味から言えば、親鸞会講師部員は「悪知識」の集団ということになります。しかし、そうなると「獲信せずに法を説けるか」の非難に反論できません。なぜなら、いくら「本願成就文」を読んでも、その意味が無信心ではその意味が分からないと高森会長は言っているからてす。そこで、「信心の有無ではない、願成就文の教えを(意味が分からなくても)説くかどうかだ」と路線を変更したようです。

「本願成就文の教え」を説いていない親鸞会

そこで、顕真には以下の文章が載っていました。
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上記の「知識伝持の仏語」が本願成就文の教えだと言っていますが、はたして「自力を捨てて他力に帰する」と高森顕徹会長はじめ、親鸞会の講師部員は話をしているのでしょうか?

一例を挙げると、高森顕徹会長主催の「テレビ座談会」は、7月〜9月の3ヶ月間連続で「因果の道理」の話です。
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紙面によれば、「自業自得の『自』とは何か?」「脳は私ではない」などの話があったようです。これのどこが「聞其名号」の教えでしょうか?各地で親鸞会講師が、会員、まだ会員になっていない人に話をしていることも大なり小なり同じです。
それそも「本願成就文」の教えを伝えるなら「名号」と「聞」の話は避けられません、しかし、親鸞会で「名号」と言えば「本尊」としてしか語られません。また「聞」に至っては、「高森会長の話を聞くこと」ですから、全くもって「知識伝持の仏語」を伝えていません。

まとめ 無信心だけでなく、教えも伝えない悪知識の集団が親鸞会講師部だと宣言した顕真平成26年9月号

まとめると上記の通りです。「信心がなくても、本願成就の教えを伝えれば善知識なんだ」と主張したところで、実体はその「本願成就の教え」も説かないのが高森会長始めとする親鸞会講師部員です。「自力を捨てて他力に帰する」ということを、会員の方は活動現場で聞かれたことはあるでしょうか?
会館を建てましょう、「動く法城(移動映画館)(5000万円)」を導入しましょう、そのためにお布施をしないと、善を実行しないと信仰はすすみませんよ、蒔かぬタネは生えませんよ、因果の道理ですよという話ばかりではないでしょうか?


全国を旅するバス型「移動映画館」 @三条通山科 2013/12/26 - YouTube
(これが親鸞会のアニメバスです)

最後に、根拠を出さない法論は「根拠を挙げねば、ただの非難中傷です。善知識方は、常に根拠を挙げて法論をされている」とのことですが、その通りにしてもらいたいところです。言行一致は親鸞会でいう善でしたよね?廃悪修善されることを期待しています。


いい加減、因果の道理の話や、アニメ上映をする時間があるなら、御文章を皆さんの前で拝読し、それ以外発言しない方法をお勧めします。