親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の「親鸞学徒かくありたい」とは(正定聚No.113 2014年8月発行より)

親鸞会の機関誌「正定聚」(No.113)を読みました。「正定聚」は、ある一定額以上の会費を出している人対象の冊子です。

(正定聚No.113 2014年8月発行 表紙)
今回のテーマは、厳粛な「因果の道理」と「真実の自己」ー親鸞学徒かくありたいでした。この正定聚の内容は、高森顕徹会長の過去の文章がまとめられているもので、弘宣局の担当者が書いた文章は全くありません。

主に「顕真」の巻頭言(高森会長の作文)をまとめたものです。しかし、弘宣局での作文はないとは言いながら、どの内容をどの順番で掲載するかと言う点で、現在の親鸞会が会員に要求していることがとてもよくわかる内容となっています。

目次をみれば分かる「親鸞学徒かくあるべし」

そこで、目次を紹介します。
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(正定聚No.113 2014年8月発行より)
タイトルだけでなんとなくわかりますが、「結果はすべて自分の蒔いたタネ」であることを強調し、後半で「お布施せよ」「組織のいうことを詮索するな」「組織を裏切るな」と畳みかけています。

まとめて言えば、文句をいわず黙々と親鸞会に全財産を差し出す会員が、模範的な親鸞学徒のようです。そんな「親鸞学徒かくありたい」と会員に訴えるのがこの機関誌です。

親鸞会の変化をあらわした「法に捧ぐ」の章

親鸞会のいうことは、高森会長の気分と、会の事情でころころ変わります。教義面でも、外部からの批判で二転三転してきました。ですから、少々おかしなことが親鸞会機関誌に書いてあっても驚きません。それでも、今回掲載されていた「法に捧ぐ」を読んで驚きました。

法に捧ぐ
 惜しまなん
法に捧げし
  この身なり

 命がけ
法求むれば
  財が沸く
(正定聚No.113 2014年8月発行 P32)

親鸞会では、以前「財施の多寡は法施の多寡をあらわす」の高森会長の言葉が各会館、講師部員の居住地に貼られていました。その意味は、講師部員が経済的に恵まれるか困窮するかは、法施をどれだけしているかであり、金を求めるのではなく一生懸命法を伝えることに専念しなさい、そうすれば財はあとからついてくるというものでした。

元々はそういう意味だったと説明を受けていましたが、会員の間では「たくさん財施したら、たくさん法施がうけられる」意味で理解をしている人もありました。その理由は、会費やお布施を出すほど親鸞会館でより高森会長に近い場所で話を聞けるという制度になっていたからです。それでも、まだ「仏法を聞きたい」とか「なんとか早く救われたい」という気持ちなので、心情的には理解もできます。


しかし、上記の「法に捧ぐ」は全く趣旨が違います。「命がけ法求むれば財が沸く」は「財が沸く」から「命がけで法を求めよ」と言っています。現世利益が真宗であるかのように書いていますから、大変な間違いです。

まとめ 親鸞会のいうとおりにすればお金持ちになれると主張する「正定聚」

親鸞会は特に「因果の道理」を強調し、なにがあっても「自己責任(自因自果)」と会員に徹底します。その上で、会員に要求することは「命がけでお布施せよ」「組織に従え、あれこれ考えるな」ということです。

そうしてまで会のいうことに従うことでどうなるのかの結論が「財が沸く」では、現世利益を売り物にする似非宗教団体です。しかも、その通りに「財が沸く」ことがなかったとしても「命がけ 法求むれば」だから、そうしなかった会員の「自己責任(自因自果)」とするのが親鸞会です。


以前は、「世界で唯一の正しい親鸞聖人のみ教えを伝える団体」を標榜していた親鸞会でしたが、「世界で唯一の現世利益を謳う自称浄土真宗の団体」になっていました。そんな親鸞会の本音があらわれた「正定聚」でした。もちろん、この冊子には南無阿弥陀仏も浄土も出てきません。

このエントリーを読まれた会員の方は、親鸞会から早く離れて、阿弥陀仏に救われて下さい。