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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会会員が念仏一つと聞いて拒絶反応をする理由を考える

「一向専念無量寿仏とは」「今、息の切れ際の臨終の人でも一念で助かる教えですについて思うこと」(前田さんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)を書いて思ったことを、こちらに書きます。

上記エントリーに一向専念無量寿仏について書きました。私が親鸞会にいたころは「一向専念無量寿仏」の意味は「阿弥陀如来一仏に向け、阿弥陀如来以外の全てを捨てよ(アニメ映画・世界の光親鸞聖人第2部【チューリップ企画販売】より 28:00-29:00頃ナレーション)」と聞かされ、そう信じていました。
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しかし、実際に親鸞聖人が教えられた「一向専念無量寿仏」は「専ら阿弥陀仏の名号を称念すること(念仏一つを称える)」が正しい意味です。

これが本来の意味ですから、親鸞聖人は「念仏一つ」を勧められたということがわかります。しかし、「親鸞聖人の教えを最も正確に迅速に一人でも多くの人に伝える」親鸞会では、念仏はそれほど重要視されていません。むしろ、忌避されているというのが適当だというのが私の正直な感想です。

一例として挙げると、高森顕徹会長の法話会場では、声高に念仏する人は「なに?この人」という目で見られていました。実際に私もその場にいましたのでよく分かります。高森顕徹会長が、壇上に現れてお仏壇に合掌するときに大きな声で繰り返し念仏する人がいました。その人に対して、当時同じ地区で活動をしていた先輩講師が言った事は「何であんなに大きな声で念仏するんだろね?自分は信仰が進んでいますと周りに言いたいのかな?」でした。親鸞会では、念仏する人は「これだけ私は信仰が進みました、私は20願まで行きましたアピールをする困った人」または「救われたと勘違いしている人」というようにしか見られていませんでした。

なぜ親鸞会会員は念仏一つとならないのか?

理由は二つあります。
一つは、「信心正因 称名報恩」を高森顕徹会長から、「念仏はお礼に限る」と教えられているからです。言い換えれば、念仏には「お礼以外の意味はない」と聞かされているからです。しかし、それは大変な間違いです。南無阿弥陀仏を聞いたのが信心であり、阿弥陀仏が選び択られた行ですからお礼の意味しかないということはありません。


二つは、念仏一つとすると、高森顕徹会長の教えと合わなくなるからです。
法然聖人、親鸞聖人は、念仏を「選択本願の行」とされました。この「選択」というのは「選び択られた」という意味です。言い換えると、「念仏一つを選び択り、それ以外は捨てる」と言うことです。つまり、念仏一つを勧められるだけなら、誰も文句は言いません。しかし、法然聖人が批判されたのは「念仏以外の全てを捨てよ」と言われたからです。それによって、当時の仏教学者から法然聖人は総攻撃を受けました。


法然聖人当時の聖道仏教の学者のように、親鸞会は「念仏一つでいい」という人を攻撃してきました。その最も顕著な例が「親鸞聖人の教えに善の勧め(念仏以外の行の勧め)があると主張するのが親鸞会」というビラです。
(以下)
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少しでも親鸞聖人の教えを学んだ事がある人なら、首をかしげるようなことも、親鸞会は「本願寺なぜ答えぬ」を出版して新聞広告も打っていました。


親鸞聖人は、念仏以外に諸行も必要だという浄土門内の人と、念仏一つを否定する聖道仏教の学者の論難に対して教行信証を書かれました。その親鸞聖人の教えを聞くならば、高森顕徹会長の主張は少なくとも真宗ではないと分かって頂けるのではないかと思います。


しかし、親鸞会現役会員は「善の勧め」を優先し、念仏一つにとはなりません。なぜなら、「念仏一つ(諸善は捨てよ)」の親鸞聖人の教えに従えば、高森顕徹会長の教え(諸善をせよ)に逆らうことになるからです。現在、親鸞会に所属している人は、親鸞聖人の教えと高森顕徹会長の教えを天秤にかけて、高森顕徹会長の教えにしたがっている人が多いと思います。

王様は裸だという勇気を

少しでも親鸞聖人の教えを学ぼうと、お聖教を拝読した人は高森顕徹会長の教えは、浄土真宗ではないとわかると思います。
それは丁度アンデルセン童話「裸の王様」に出てくる、「王様は裸だ」という子供と気持ちは同じです。
「信仰が進むにはお布施が必要だ」という衣服を身に付けた王様(高森顕徹会長)に対して、町の人々(会員)は「王様の言う通り」と平伏します。もちろん、実際には「王様って裸じゃないか」(善で助かるわけはない)と思っていますが、それは自分の胸の内にしまっています。


アンデルセン童話では「王様は裸だ」と少年が叫びますが、ややこしいことに親鸞会では高森顕徹会長自身が「善では助からない」と言っていることです。しかし、そう言いながら、「善をせよ」「お布施をせよ」「そうしないと信仰は進まない」と言っているは自己矛盾と言わざるをえません。つまり、高森顕徹王がみに纏っている「善をせよ」の衣は虚構だという事です。親鸞聖人の教えから言えば「善をせよ」という衣は存在しません。

現役会員の方は「王様は裸だ」と勇気をもって言ってみてください。それに対する反論は、当ブログでエントリーに書きます。