今回書くのはタイトルの通り「常に正しい親鸞会」なのに会員(構成員)が息苦しさを感じる理由について考える、です。
このエントリーを書くきっかけは二つあります。
一つは、エントリーにもまとめた親鸞会関係者と思われる人が当ブログのコメント欄で展開した「親鸞会でいうところの法論」で感じたこと。
最初に
親鸞会の中にいますと、「自分は正しい真宗の教えを聞いている」と感じます。その反対に、「親鸞会の話を聞かない人はすべて正しい真宗の教えを聞いていない」と思います。そして、「正しい真宗の教えを聞かない、親鸞会会員で無い人は間違ったことを信じている可哀相な人だ」と考えています。事実、私も以前はそう考えていました。
当ブログでの「親鸞会でいう法論」で感じたこと
これについては、結論からいうと「親鸞会の人は自分が正しい、他は間違い」という考えをまったく外れないのだなということです。その経緯を読まれた方からのコメントにも「なんて上から目線なんだ」と親鸞会関係者の文章に感想を書かれた人もありました。
これは、私もかつてそうだったのでよく分かりますが、とにかく親鸞会の人(特に講師部員)は「教義的な正しさ」にこだわります。もちろん、その「教義的正しさ」は、自ら勉強した結果ではなく「高森顕徹会長が正しいから、親鸞会の教義はは正しい」という以外の根拠はありません。
以前高森会長は、「親鸞会は世界一幸福な集まりだ」と言ったことがあります 。しかし、当時の講師部員だった私の視点から言っても、除名になったあとではなおさらですが、少なくとも「会員が幸せだと感じている団体」ではありません。
その原因は、活動が厳しい、お布施が大変という以上に「自分が正しい」ということに執着しているからではないでしょうか?それについて、改めて考えたのが以下の事です。
最近私の親鸞会においての先輩から教えて頂いた中島みゆきの「Nobody Is Right」を聞いて考えたこと。
この歌の歌詞には以下のものがあります。
中島みゆき『Nobody is Right』/ soko - YouTube
(上記はカバー動画です)
以下抜粋
もしもあなたが全て正しくて とても正しくて周りを見れば
世にある限り全てのものは あなた以外は間違いばかり辛いだろうねその一日は 嫌いな人しか出会えない
寒いだろうねその一生は 軽蔑しか抱けない
(略)
争う人は正しさを説く 正しさゆえの争いを
その正しさは気分がいいか 正しさの勝利が気分いいんじゃないのか辛いだろうねその一日は 嫌いな人しか出会えない
寒いだろうねその一生は 軽蔑しか抱けない
思えば、私が親鸞会にいたころの心そのままの歌詞でした。大学一年で親鸞会に入会し、そのご講師部員になった私は親鸞会教義を信じない人を「世間の人」とひと括りにして見下していました。
ですが、当時もそれで「気分さっぱり」とはなりませんでした。
その理由は
辛いだろうねその一日は 嫌いな人しか出会えない
寒いだろうねその一生は 軽蔑しか抱けない
だったからです。
親鸞会に所属している自分は正しいという考えは、突き詰めるとは「自分以外はみな正しくない」ということです。そうなれば、「嫌いな人しか出会えない」「軽蔑しか抱けない」人生となってしまいます。
自らの救いと、自らの正しさを取り違える
そのようになってしまう原因は、考えてみると一つに収まります。
それは、「救われる」ことを求めていた人が、いつのまにか「正しさ」を求めてしまうからです。
このエントリーを読まれている方は、親鸞会会員か、元会員の人か多いと思います。私は、幸せになりたくて大学で勧誘され、親鸞会に入会しました。それが、いつのまにか「正しい」ことを求める人になっていました。
どれだけ自分一人が正しいと叫んだとしても、それが自分の救いになるわけもありません。辛く、寒い荒野が胸に広がるだけです。
私は、元講師部として、会員として言いたいことは「どれだけ正しいと主張しても、救われない教えは私にとって意味がない」ということです。それはそのまま、法然聖人、親鸞聖人が聖道仏教の学者に主張されたことです。
聖道は「間違い」ではありません。ただ「末代の私が救われる教えではない」という点で親鸞聖人は教えを説かれました。
親鸞会の教えは「親鸞会の人にとっては」正しいのでしょう。しかし、正しければ救われなくてもいいというのは貴方が親鸞会に入った当初の志と違うのではないかは考えて頂きたいと思います。
阿弥陀仏の救いは、正邪、善悪を超えたものです。分別を超えた阿弥陀仏の救いにあって、ただ今救われて下さい。正しいものも、正しくないものも阿弥陀仏の救いの対象です。