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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会が法論で常に勝利したと主張するたった一つの理由

このブログのコメント欄で、親鸞会関係者(講師部員らしき人物)と議論をしました。その内容については、以下のエントリーにまとめています。
親鸞会の「常に完膚なきまでにそれらの悪魔外道を摧破しつづけてきた」法論の実態。「浄土往生の自覚」の有無をめぐっての親鸞会関係者(ゼロさんナビさん)とのやりとりまとめ - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ
親鸞会の「常に完膚なきまでにそれらの悪魔外道を摧破しつづけてきた」法論の実態。「浄土往生の自覚」の有無をめぐっての親鸞会関係者(ゼロさんJBさん)とのやりとりまとめ2 - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ



議論そのものの内容については、エントリーをご覧になれば分かることなので関心のある方はリンク先からご覧下さい。ただし大変長いです(合計15万字超)。


今回のエントリーで書くことは、親鸞会における「法論」について彼らは「常に勝利してきたと本気で思っているのではないか?」についてです。


私は親鸞会を除名になってより、いろいろと真宗の勉強をした結果、親鸞会高森顕徹会長)の説は浄土真宗の教えとは全く違うものだと分かるようになりました。その知らされたことをこのブログにも書いてきました。また、私のエントリーについて異議を唱えてコメント欄に書き込む親鸞会会員や関係者は今までも有りました。また、当ブログ以外でもネット上で親鸞会教義について異議を唱える方は他にもあり、それらのブログ上でのコメント欄での議論は何度も行われてきました。それらの「法論」の結果は、客観的にみる限りは「親鸞会が負けた」というより他はないものでした。



どの議論も共通することは「自説を主張する親鸞会に対して、根拠を求める退会者」という図式になり、「根拠に答えられなくなった親鸞会が捨てぜりふを残して逃げる」と言ったものです。つまり、親鸞会は「自分は議論に負けたと自覚しながら、それを体面上認められないので捨てぜりふを書き残して議論の場からはなれている」のだと思っていました。


しかし、今回の議論で「ゼロさん」が最後に書き残したコメントを読んで、その考え方は間違っていたのでは無いかと思うようになりました。


例として、ゼロさんの最後のコメントの一部を紹介します。

ゼロ
(略)
結局、何度説明しても、あなたが自分自身の妄想から抜け出せないのは、日本語の理解もさることながら、あなた自身の信心によるものでしょう。

何か変わったな自己の体験をもとに、お聖教の言葉を解釈していますから、善知識方の正しい意味が汲み取れないのだと思います。

あなた自身が「獲信」と称している体験は、「浄土往生できるという自覚がない」 ものであり、「往生一定とハッキリしていない」ものであることは、もう十分すぎるくらい分かりました。

何とか、正しい信心を理解してもらいたいと、繰り返しコメントしてきましたが、一度つかんだものは、どうにも捨てられないようですね。

化城とは、恐ろしいものです。

そんなあなたが、いっぱしの知識になったつもりで、シンパの人たちを迷わせていることが恐ろしいのです。

法謗の大罪を自覚しなければなりません。

一度ゆっくり、私の示した善知識方のお言葉を、心を静めて、お読みください。

南無阿弥陀仏を賜って鮮やかに知らされたこと」か、「お聖教を読んで、信じているだけに過ぎないこと」か、いつかお分かりになるでしょう。

このことさえ、分かっていただければと思って、長々と続けてきましたが、これ以上の議論は不毛のようです。というより、あなたが自己の「体験」に拘泥して、日本語の文法や、基本的な単語の意味までねじまげてしまう現状では、議論にならず、進展もありません。

あなたが妄想から解きはなたれ、心静かに、お聖教を味読出来るようになったら議論を再開いたしましょう。

「まことに宿善まかせ」と仰せの蓮如上人の御心が染み透るばかりです。

2014/07/28

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2014/07/29/162012

最初私はこの文章を読んだときは「自分は議論に負けたと自覚しながら、それを体面上認められないので捨てぜりふを書き残して議論の場からはなれている」のだと思っていました。しかし、後からよくよく考えて見ると、上記の文章は「ゼロさんの中では本当のこと」なのではないかと思うようになりました。


振り返ってみると、親鸞会が過去に行った「法論」はとどのつまりは「相手は正しい信心を獲ていない(または理解していない)」が前提でした。そのため「親鸞会教義にどっぷり浸かっている人」には、まともに真宗の話をする人の言葉は正確に理解することはできません。そのような理解出来ないことをいう相手に対して、普通は「自分が勉強不足なのかも」とか「自分が間違っていたのでは」と少しは考えるものです。しかし、親鸞会にはそれが有りません。


タイトルにも書いた「親鸞会が法論で常に勝利したと主張するたった一つの理由」は、負けたことが本当に分からないからです。


親鸞会は「自分に理解出来ないことをいう相手は異安心だ」と固く信じて話を遮断してしまいます。今回のように脱会者は親鸞会と粘り強くやりとりを続けますが、普通の人は「これは話が通じない」と腹を立ててしまいます。そうやって、相手に見捨てられてことを「親鸞会の勝利」と信じて、「法戦」なる本を会員向けに出版してきたのが親鸞会です。「負けた」ことが分からないのですから、自分たちの説が真宗教義としておかしいことに気がつかないのは当然です。そうやって「俺達正しい」「俺達最強」と自分たちの殻に閉じこもる人は、どれだけたっても救われない人だと親鸞聖人は厳しく批判されています。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版 教行信証化土巻)

http://goo.gl/hJ2Jhm