親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の「常に完膚なきまでにそれらの悪魔外道を摧破しつづけてきた」法論の実態。「浄土往生の自覚」の有無をめぐっての親鸞会関係者(ゼロさんJBさん)とのやりとりまとめ2

当ブログのコメント欄で、ゼロさん、ナビさん、JBさんを名乗る親鸞会講師部員と思われる人との議論のまとめの2回目です。

前回のコメントに劣らず大変な長文です。(6万字超)関心のある方のみ続きを読むからご覧ください。

コメント全文をよまない方に結論だけお知らせしますと、親鸞会との法論はこちらが放棄しなければ、勝手に親鸞会が撤退していく程度のものということです。
言い換えると「お聖教の根拠」という土俵をもってきて「出るとこに出ましょうか?」と言い続けると、勝手に撤退していくようなものです。その点ではヤクザの恫喝に似ています。

詭弁とレッテル貼り以外にない親鸞会の法論(おそらく書き込んでいるのは講師部員)を読みたい方は<親鸞会の「常に完膚なきまでにそれらの悪魔外道を摧破しつづけてきた」法論の実態。「浄土往生の自覚」の有無をめぐっての親鸞会関係者(ゼロさんナビさん)とのやりとりまとめ - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ>のコメント欄を転載します。
ご覧下さい。



(元)首都ブロック

長かったですがすべて読みました。

これを読めば、現会員も親鸞会の間違いがよくわかると思います。

私は親鸞会で教えていることが誤っていることをよく理解して辞めたのではありませんでしたが、こういうやりとりを読んで、段々とわかってきました。

今残っている人は、早く退会して頂きたい。あなたの人生は高森教団に貢ぐためにあるのではありません。月々の会費も時間も本当に勿体ない。自分や家族のために使って下さい。心よりそう願っています。

2014/07/19




ゼロ

■ゼロから宮田さんへ(7月18日A)

こんばんは。

突然、
「これに回答ない場合は、ゼロさんは根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、この議論は終了です」
と言い出されるとは、どうしたのでしょう(笑)

追い詰められて、余裕がなくなったのでしょうか?

「私の勝手な予想では、今までの親鸞会では次のコメントで勝利宣言して逃走のパターンですね」

と宮田さん自身がコメントしたばかりですのに、本人が逃走のパターンそのままとは驚きました。

時間をおきましたので、少しは落ち着かれました?

勝った負けたのレベルでなく、ことは親鸞聖人の本当の教えを明らかにする、ひとつ。
そのことに腰をすえてお答えしましょう。

その前に、下記、今回の質問を先にまとめておきます。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


【A】獲信しても現生十種の利益が自覚できないお聖教上の根拠を出してください。

    「現在獲ている幸せが自覚できない」と力説する宮田さんの根拠です。

【B】「獲信した人が、現生十種の利益の自覚がある」=「浄土の世界がアリアリと映像となって見える。仏が見える」
   となぜなるのか、お聖教の根拠をもって示してください。

【C】「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」

   このお言葉のどこに、「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」と書かれてありますか?
   このお言葉のどこに、「仏が見える」と書かれてありますか?

    書かれてある箇所を具体的に示してください。

   「●●」というお言葉は「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」という意味ではありませんか。。
   「●●」というお言葉が「仏が見える」という意味ですよ。
    という形で。そして、なぜそうなるのかお聖教の根拠を示してください。

 ※日本語レベルの問題ではない、と反論なさる場合:【D】【E】のように、あなたこそお聖教の根拠をこそ
  示してください。根拠がなければ、やはり日本語の理解の問題ということです。

【F】仏【心】と凡【心】がひとつになると、心ではなくなるお聖教の根拠を示してください。

【G】『「決定のこころ」とは「決定心」の心ですから、他力信心の事です』

   と宮田さんは書いていますが、同じ宮田さんが同じ日に

  『「他力信心」は「心」ではない』と、何度も何度も繰り返しています。

  これが矛盾でないことを分かりやすく説明してください。
  もちろん、お聖教の根拠をつけて。

【H】「行者のおこすところの信心にあらず」のどこに「信心とは、心にあらず」と
   書かれてありますか?
   分かりやすく説明してください。お聖教の根拠もつけて。

【I】仮に「法の上の話」にしてでも、「今こそ明らかに知られたり」とは、
   獲信した本人以外の誰が他力の信心だと明らかに知らされるのですか?
   分かりやすく説明してください。お聖教の根拠をつけて【I】

【J】

α:獲信すれば、私の不定の心(極楽浄土に往生できるかどうか定まらず不安な
心)はツユチリほどもなくなる。

β:獲信しても、極楽浄土に多分往生できると、信じるに過ぎない。

「α」と「β」は明らかに矛盾しています。
小学生でも分かる矛盾ですが、これが矛盾でないと強弁するのでしたら、
分かりやすく説明してください。お聖教の根拠をつけて。

【K】「私が本願を疑っている(自力の信心)」のは心なのに、
   「私の心に本願を疑う心がなくなった(他力の信心)」のは「心ではない」とはどういうことでしょう?
   分かりやすく説明してください。もちろんお聖教の根拠をつけて。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

たまに、「あなたの文章は読みませんが、負けが確定しました」などと、
驚くほど恥ずかしいことを明文化する人がありますが、汚名を刻み込むことに
なりますので、宮田さんが、そんな恥ずかしいことにならないことを念じております。

では、話を戻します。

私の

> 私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、
> 「仏が見える」とか聞いたことがありません。

という言葉に対して、宮田さんは、

> いえ、そんなことをいうために根拠を出しています。次の7月15日(火)Cで書きます。

と述べ、その根拠のひとつとして「7月15日(火)C」で出してきたのが

親鸞聖人が現生十種の利益の自覚があるといわれた根拠を教えてください。

でした。

全く理解できません。

「現生十種の利益の自覚がある」=「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える、仏が見える」

ということになぜなるのですか?

「現生十種の利益の自覚がある」=「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える、仏が見える」

というお聖教の根拠をお示しください。
★次回のコメントで根拠が示せない場合、この議論は終了です。

 ※自分はお聖教の根拠を示せないのに、今回の私の答えを無理やり一方的に「答えになってない」
  などといって、強引な勝利宣言するような恥ずかしいことはなしですよ。
  サイクロンさんの時も、強引な幕引きでしたね。ひどいものです。
  何度もそんなことをするのは「卑劣極まりない」という烙印をおされてしまいますし、
  自ら敗北宣言して脱走するようなものです。

ということで、あなたが出した根拠の意味は全くわからないのですが、
せっかくのご縁をいただきましたので、「現生十種の利益」についてお話しいたしましょう。

「現生十種の利益」が書かれているのは『教行信証』信巻です。
その「標挙(ひょうこ)」には「正定聚の機」と明記されています。

「信巻」が「機」を中心に書かれていることを表明されているところです。
「法の上の話のみ」ではないことは明らかです。
 獲信すれば、その人が、正定聚の機になるのです。
「機の上」でのことですから、自覚できます。
「機(人)」と関係のない救いは親鸞聖人の教えではありません。

これだけでも十分な答えですが、もう少し説明を加えておきましょう。

「信巻・末」の最初に「信一念釈」を著され、その流れで「現生十益」と題され
「現生十種の利益」をお書き下さっています。

 そもそも親鸞聖人は『教行信証』行巻において、

「行に一念あり、また、信に一念あり」

と仰言って、まず、行の一念を解釈しておられます。
それが終って信巻で、次の信の一念について述べられた文章でありますから、
信一念の機相でなければなりません。

また、慶喜も機受の信心をあらわす異名であることは、

「信心をうるを慶喜という」(唯信鈔文意)

「能発一念喜愛心というは一念慶喜の真実信よく発すれば、必ず本願の実報土に
むまるべし」(尊号真像銘文)

とも言われていることからも明らかです。
ここからも「法の上」でしか分からないのではないことは明白です。

信一念の妙味はこの大安心大満足の心が生ずることです。
当然ながら、この大安心は私の心ですから、この私の心が私に分からないという馬鹿げたことは断じてありません。

「あながちに、もろもろの聖教を読み物を知りたりと言うとも、一念の信心の謂を知らざる人は、いたづら事なり」(御文章)
と、ハッキリ蓮如上人も仰せですから、救われた一念の妙味のないのは親鸞聖人の教えに反します。

覚如上人は『改邪鈔』に、正定聚之数に入られた「即得往生」の明らかな大自覚を、
次のようにおっしゃっています。

「能発一念喜愛心」とも、「不断煩悩得涅槃」とも、「【入正定聚之数】」とも、
「住不退転」とも、聖人釈しましませり。これすなはち「【即得往生】」の時分なり。
この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといえども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、
「共発金剛心」の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、
「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「【即得往生】」とも、ならいはんべれ。

あなたのいわれる

「自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに違いない、
 と信じるに過ぎないのです」

とは大分違いますね。

それでもさすがに獲信したら本願に疑い晴れるということは宮田さんも認めました。
ということは、「即得往生」にも疑い晴れるということです。

「即得往生」に疑い晴れた = 「正定聚」になれるだろうかの疑いが晴れた

とうことです。

だいいち、
「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情(三世を迷わせ続ける苦悩の根元)が一念にやぶれ
自力をすてて他力に帰し、「即得往生」と救われるのに、自覚がないのはおかしいでしょう。
あなたは獲信したそうですが、自力の迷情が一念にやぶれなかったのですか?それなら「即得往生」の自覚がないのもうなづけます。

ちなみにあなたは、

>ゼロさんは、「疑心がない+往生浄土」の自覚をさして「自覚」と言い続けているので、「そのような二つセットの自覚はない」といっています。

と言っていますが、正しく理解していませんね。

弥陀の本願は、死んで浄土に往生させると誓われたのですから

「死んで浄土に往生させる本願に疑い晴れた」=「死んで浄土に往生できるだろうかという疑いが晴れた」

です。二つのセットではなく、一つのことなのです。

これもあなたの妄想で、二つに分けれらていますが、自分勝手につくりあげた間違いを、私の間違いとするのはいい加減やめてくださいと、繰り返し言っています。

そもそもあなた自身が

「喜びというのは(中略)、正定聚に定まった喜び」

と書いていますよ。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110328/1301290051

間違いだらけの記事ですが、ここだけはあっています。
(中略の部分は間違っている箇所なのでカットしておきました)
 断章取義などと逆ギレしないようにしてください。
 意味は変わりませんので。

あなたの大好きな『浄土真宗辞典』(本願寺出版社)にも

慶喜】よろこびのこと
親鸞(聖人)は、すでに自身の上に実現していることがら(現生に正定聚の位に入ること)をよろこぶことの意として用いた」

とあります。よろこぶのは、心です。自身の上に実現したから、よろこぶのです。

さらに、あなたが支持している紅楳英顕氏も、こう書いていますよ。

ひとたび現生【正定聚の身】となったならば、たとえ何が起ころうとも、
自分が【往生成仏】することは、【絶対間違いない】という【確信】をもっていた
のであります。
当然のことながら大安堵(だいあんど)のこころにも住していたのであります。

本願他力のすくいにより往生一定(【往生は絶対に間違いなし】)の
安堵心に住し、仏に対する感謝のこころやすくわれたよろこびのこころにも
恵まれるのが浄土真宗 のすくいであります。

http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/gensekaranosu.htm

「往生を不定におぼしめさんひとは」とは、【自分は】浄土に生まれるかどうかが
【はっきりとは分からない人】、ということであります。いわゆる「若存若亡」
(あるときは往生できるような気がするが、ある時は往生できない
と思う)の心の人であり、【信心未決定の人】であります。

http://www.hongwanji.or.jp/daionki/pdf/2007_06.pdf

「往生は已にさだまりぬと決定歓喜して。正覚華に昇るまで。少も動乱せぬ安心」、
「これが心中におちつかぬ間は。いつまでも彌陀をたのみたるに非ず」とある処
から大瀛自身はっきりと自分自身の信心決定、【往生一定を確信】(【自覚】)し
ていたと窺うことができよう。

信そのものの覚不については自分自身の信心決定、【往生一定を確信】(【自覚】)
していたことは明らかであり、【信の不覚を否定】した、【覚の立場】であったと
いえるのである。

行者の信心決定の自覚を否定し、信心不覚説の根拠とよくされるのが、
蓮如上人御一代記聞書』末二一三に
  心得たとおもふは心得ぬなり、心得ぬ思ふはこゝえたるなり。彌陀の御たすけあるべき
ことのたふとさよ思が心得たるなり。少も心得たると思ことはあるまじきことなりと仰られ候。
(真聖全三の五八四)
とある文である。【この文を信心不覚説の根拠とすることが誤り】であることは前回述べた

「領解文には【往生一定】御助け治定と存じとある、存は亡に対して心内にあることなり、
仏智を凡心に領受したる処なり」と信心は【自覚】されるものであることを述べ、
【決定心】を否定して生涯不決定を安心とすることを否定し、それは【十劫秘事】
であると述べているのである。

【往生一定】と安堵する救済の事実(信心決定の【自覚】)を否定することは
親鸞蓮如の意】に反するものであり、また『御裁断御書』にも反し、さらに生
命を賭して惑乱を
終結せしめた大瀛の意にも反するものであることが明らかである。

http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/kyuusainorinentojijitu.htm

浄土和讃』に「真実信心うるひとは すなはち【定聚】のかずにいる 
不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」とあるように、
信心をうることにより【正定聚】の位に入り、【往生成仏の定まった身】となるの
である。浄土真宗の信心は自分が作るのではなく、如来より頂くものであり、
「本願力回向の信心」であり、「如来よりたまはりたる信心」である。
信心とは如何なるものかについて聖人は「疑蓋間雑なきがゆえに、これを
信楽と名づく」 (「信巻」)、「信心は如来の御ちかひをききてうたがう
こころのなきなり」(『一念多念文意』)といわれている。このように
信心とは如来より頂くものではあるが、【衆生の心の上にも現れる】ものである。

大事なことはこの心は「如来よりたまはりたる信心」であり、
そして【衆生の心の上にも現れる心】なのである。
【この心が生ずる】ことを信心をえる(御信心を頂く)というのである。

親鸞聖人がここでもっと大事なこととされているのは「わが身の往生一定と
おぼしめさんひとは」とあることなのである。信心をえて「【往生一定】」と
安堵し【慶ぶ身】となることである。「

http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/shinjino.htm

紅楳英顕氏によると、「往生一定(正定聚)」の自覚がない宮田さんは、
親鸞聖人、蓮如上人の意に反し、【信心未決定の人】で【十劫秘事】だそうですよ。

気をつけましょう。

そもそも、「現在、広大なる幸せを獲た! でも幸せを感じない」などという滑稽なことがあるでしょうか?
それはまだ獲ていないのです。

あなたは、「現在獲ている幸せが自覚できるはずがない、根拠を出せ」と言っていますが、もし自覚できないなら驚きです。

今度は、あなたが、獲信しても現生十種の利益が自覚できないお聖教上の根拠を出してください。【A】

「現在獲ている幸せが自覚できない、根拠」です。

(もちろん、現生十種の利益の10の言葉がパッと頭に浮かぶというような意味ではありません。
 言葉ではなく、中身です。
 特に、今問題になっている総益の入正定聚の益についてです)

そして、獲信した人が、現生十種の利益の自覚があるということが、どうして私が、

「浄土の世界がアリアリと映像となって見える。仏が見える」と言った根拠になるのか、

聖教の根拠をもって示してください。【B】

★次回のコメントで【A】【B】についてお聖教の根拠をもって答えられない場合、宮田さんは根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、この議論は終了です。

今までは、かなり大目に見てきましたが、今回からはそうはいきませんので、そのおつもりで。

あなたが「議論終了」と一方的にチラつかせてきたのですから。

こちらの根拠はまだまだありますよ!

でも、長いのがお嫌いのようですから、今回はここまでにしておきましょう。

では、次回のコメントで、宮田さんのお答え、お待ちしております。

(7月18日Bにつづく)

2014/07/19




ゼロ

■ゼロから宮田さんへ(7月18日B)

では、次にいきましょう。
長くなりますが、あなたのコメントも長かったので、おあいこということで、失礼します。

> ゼロさんの文章では「真に知んぬ」以降はハッキリ知らされるということになります。
> 「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」もハッキリするんですよね?
>
> (ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
> だからといって、浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、
> 仏が見えるのでもありません。

> なら、なぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」と親鸞聖人は書かれたのか、納得のいく説明をお願いします。
> もちろん、根拠を示してください。

これまたあなたの論理がサッパリわかりません。

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」

このお言葉のどこに、「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」と書かれてありますか?
このお言葉のどこに、「仏が見える」と書かれてありますか?

書かれてある箇所を具体的に示してください。

「●●」というお言葉は「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」という意味ではありませんか。。

「●●」というお言葉が「仏が見える」という意味ですよ。

という形で。そして、なぜそうなるのかお聖教の根拠を示してください。

★答えられないなら宮田さんは根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、この議論は終了です。【C】

上記のように、そもそもこの質問にも答える必要もないのですが、宮田さんは無理やりでも勝利宣言して逃げるしか道はないようですから、答えておきましょう。

いや、冗談はさておき、親鸞聖人のみ教えを明らかにするために以下、お伝えいたします。

(ただ、これも言葉のセンスがないと難しいかも)

まず、

真に知んぬ 弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに 龍三会の暁 まさに無上覚位を極むべし
念仏の衆生は 横超の金剛心を窮むるが故に 臨終一念の夕 大般涅槃を超証す(教行信証・信巻末)

ですが、ここで親鸞聖人がおっしゃりたかったのは、

「念仏の衆生は 横超の金剛心を窮むるが故に 臨終一念の夕 大般涅槃を超証す」

の箇所です。この横超の金剛心(他力の信心)のすばらしさを私たちに明らかにせんがために、弥勒菩薩と比較されているのは、文章の流れからみても、親鸞聖人が生涯、
何を教えていかれたかということからも明らかです。

教行信証』信巻は、いうまでもなく、他力信心の素晴らしさを著しておられるのであって、
自力の信心を眼目とはされていません。
題も「横超大益」となっており、横超(他力)の素晴らしい利益を教えておられるところと
なっています。

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに 龍華三会の暁 まさに無上覚位を極むべし」
は自力の信心

「念仏の衆生は 横超の金剛心を窮むるが故に 臨終一念の夕 大般涅槃を超証す」
は他力の信心

について書かれたものです。

ですから、まずこの二つの文は、同じレベルで書かれたものではない、ということです。
これが第一段階。

宮田さん、ここまでは理解されましたか?

もし、無理やり、この段階で「お聖教の根拠を出せ!」という暴論を吐くのであれば、
この二つの文が「同じレベルである」お聖教の根拠を出してください。【D】

先に進みます。

上記の理由から、

念仏の衆生になられた親鸞聖人が、「真に知んぬ」とハッキリ知らされたのは、

「念仏の衆生は 横超の金剛心を窮むるが故に 臨終一念の夕 大般涅槃を超証す」です。

ご自身のことですから、「真に知んぬ」と明らかに知らされるのです。

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに 龍三会の暁 まさに無上覚位を極むべし」
と断言されているではないか、と宮田さんは言われたかもしれませんが、他人のことでも断定することは
いくらでもあります。

(例)
Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格したから、春から念願の高校生になる。
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっていた。

Mくん(他人)への断言と、私への断言は、同じ断言でも、同じレベルの断言でないのは当然でしょう。
こんな例はいくつでもあげることができます。

もし、これも、「他人のことを断言することがあるお聖教の根拠を出せ!」というのなら、
「他人のことはいかなるレベルでも断言しない、できない」というお聖教の根拠を示してください。【E】

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに 龍三会の暁 まさに無上覚位を極むべし」

といわれた根拠は、『菩薩処胎経三世等品』。

「仏語に虚妄なし」『執持鈔』が宮田さんには分かりやすいでしょうか。

今回は、下記の質問でしたので、その部分のみ答えておきます。

> なぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」と親鸞聖人は書かれたのか、納得のいく説明をお願いします。
> もちろん、根拠を示してください。ください。


次回、【C】について、根拠をもって答えられなかった場合、これで終了です。

また、反論ある場合、【D】や【E】のように一方的に「お聖教の根拠がない場合負け」とするのではなく、
あなたこそ、お聖教の根拠を出すべきです。

日本語の問題でないというのなら、お聖教の根拠があるはずです。

次回、何か反論らしいことをして、「あなたは間違い、だからあなたの負け」と一方的な
恥ずかしい勝利宣言はしないように。その次にちゃんと答えてあげますから。

お互い議論の真っ最中なのですから当然でしょう。
人間としての、最低限のマナーは守りましょうね。

(7月18日Cにつづく)

2014/07/19




ゼロ

■ゼロから宮田さんへ(7月18日C)

次にいきます。

文章が長いと言われながら、質問には答えよという。
困ったものです。

すでに長いのですが、果てしなく長くならないよう、あなたの質問に答えないものも多くなると思いますが、
それは答えられないものではありませんし、あなたの主張を認めたわけではないことをご了承ください。
(言いたいことはまだまだ山ほどあります)

以下、代表的な宮田さんの教えのおかしなところをピックアップしてみました。

【宮田さんの問題点1】

●「信心」は「心」ではないと断言している。

「信心」は「心」です。

これまたあなたの大好きな『浄土真宗辞典』(本願寺出版社)にでさえ

そのものズバリ、「信心」のところに

浄土教においては、阿弥陀仏の本願を深く信じて疑わない【心】」

と書かれてありますよ。「信心=心」ですね。

また「真実信心」のところでも、

「疑心なく本願の名号を領受した【心】」とあり、

「【歓喜】や【慶喜】の語を真実信心の異称として用いることがある」

とも書かれてあります。

いずれも、【信心 = 心】と書かれてあります。

そもそも「行」と「信」と何のために分けておられると思うのですか?

また、教行信証の眼目『信巻』の標挙(ひょうこ)に「正定聚の【機】」とあります。

親鸞聖人のみ教えは機(人・心)と関係のない救いではありません。

信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」(教行信証

私の力で、信楽の心にはなれませんが、阿弥陀仏のお力で私が信楽の心を獲得します。
私が獲得したら、信楽は【心】でなくなるというのですか?

「仏心と凡心と一つになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり」
                          (御文章 二帖目第九通)

「仏【心】」と「凡【心】」が一体になったとたん、【心】ではなくなるのですか?
もし、そうならお聖教の根拠でお示しください【F】

※【心】と【心】が一つになっても【心】
 というのは、あまりにも自明なこと。
 それを違うというのですから、それ相当のお聖教の根拠が必要でしょう。

「信【心】は【心】ではない」なんて、まるで「男性は男ではない」と

言ってるみたいですね。

どうやら、あなたの根本問題は、ここにあるようです。

ところでが。。

あなた自身

> 「決定のこころ」とは「決定心」の心ですから、他力信心の事です。

と書いています、「他力信心」は「心」だと。

これは一体全体、どう理解すればよいのでしょうか?????【G】

分かりやすく説明してください。お聖教の根拠もつけて。


【宮田さんの問題点2】

●「私の力」と「他力」がゴチャゴチャになっている。

どうも宮田さんは、以下の「X」と「Y]をゴチャゴチャに論じているようです。

X:私の力(私の心)で、私の本願疑惑心(必ず極楽往生させると誓われた弥陀
の本願を疑う心)は晴れません。

Y: 南無阿弥陀仏のお力(他力)によって、私の本願疑惑心(必ず極楽往生
せると誓われた弥陀の本願を疑う心)が晴れます。

さすがに、この「X]「Y」自体に反論はないでしょう。

ところが、この二つが整理できていないため、宮田さんは、このようなことを言います。

  ↓↓↓

  「私の力(心)で知ることができない」と言われている。

    だから

   阿弥陀仏のお力によってでも、私は何も知らされない。

 ????????

 理論の飛躍もはなはだしいです。どうして「だから」なのでしょうね。

★具体例をあげましょう。

 例えば宮田さんは、

 「行者のおこすところの信心にあらず」とある

   だから、

 「信心=心 ではない」

 と主張しています。

 ????????

「行者のおこすところの信心にあらず」のどこに「信心とは、心にあらず」と書
かれてありますか?
分かりやすく説明してください。お聖教の根拠もつけて。【H】

「行者のおこすところの」と【限定】されているということは、
「行者のおこすところの信心とは違う信心がある」ということです。

 では、違う信心とは何か。いうまでもなく「他力の信心」です。

 それを蓮如上人はこう教えておられます。

「弥陀如来他力の大信心ということは、今こそ明らかに知られたり」

 「自力の信心ではない。他力より賜る信心と、私は明らかに知らされた」ということです。

これを、
「行者が自らおこす信心ではない」=「信心は心ではない」
と読むのは、これまた一体全体、どういう言語感覚でしょうか?

限定された意味をもの凄くおおざっぱにとらえていると上記のように間違ってしまいます。
反論あればどうぞ。
(レッテル張りでも決めつけでもなく、ごく普通に考えれば小学生でも分かる
 簡単な話をしています)

今後は、あなたの頭の混乱が少しでもなくなるように、「人の力で」「他力で」
という言葉を極力入れていただきたいものです。
(「自力の心で」、「煩悩で」など、さらに詳しく書いてもらえると、よりハッキリします)

お分かりいただけましたでしょうか?

それともまだ、「蓮如上人は、明らかに知らされなかった」と強弁されますか?

もし、蓮如上人が明らかに知らされていないのならば、一体、誰が明らかに
知らされたのですか?

「弥陀如来他力の大信心ということは、この蓮如、今こそ明らかに知られたり」

の文章を宮田さんの説明に合わせて書き直してみてください。

他の言葉を持ち出してゴチャゴチャいわずに、以下の形式でスッキリ答えてください。

「弥陀如来他力の大信心ということは、この●●、今こそ明らかに知られたり」

誰も知らされてないのはありえないのですからね。
「明らかに知らされた」とハッキリ書かれていますから。

いい加減、逃げずに答えてください。

それとも、

蓮如上人は、「明らかに知られたり」と言われていますが、

宮田さんは、「法の上の話で、本当は獲信しても、誰も明らかに知らされない」という教えを説かれるのですか?

それでは宮田さんの教えは、蓮如上人と違う教えですね。

仮に「法の上の話」にしてでも、「今こそ明らかに知られたり」とは、獲信した本人以外の誰が他力の信心だと明らかに知らされるのですか?

法の上で「明らかに知られたり」とはこれ如何?

分かりやすく説明してください。お聖教の根拠をつけて【I】


【宮田さんの問題点3】

●法は「人」を救うためのもの、ということが抜けている。

宮田さんの説はこうです。(下記の「α」も「β」も共に宮田さんの説です)

α:獲信すれば、私の不定の心(極楽浄土に往生できるかどうか定まらず不安な
心)はツユチリほどもなくなる。

β:獲信しても、極楽浄土に多分往生できると、信じるに過ぎない。

「α」と「β」は明らかに矛盾しています。
小学生でも分かるこの矛盾ですが、これが矛盾でないと強弁するのでしたら、
分かりやすく説明してください。お聖教の根拠をつけて。【J】

というのも「(他力の)信心 ≠ 心」では、ますます説明にならないですし、
(そもそも、あなた自身が「他力信心=心」と明言しているのですから、全く説得力がないのです)
「α」は「無疑そのもの」、「β」は「自覚」から、では意味が分かりません。答えになっていません。
分かるように、お聖教の根拠をつけて説明してください。

「(獲信した人の心に)往生を疑う心(疑情・自力心)がない」=「不定の心(疑情・自力心)がない」=「無疑心」=「他力の信心」と主張しながら、

その人の心に「往生一定の心」も「決定の心」もないというのはどうしたことでしょう?

「私が本願を疑っている(自力の信心)」のは心なのに、「私の心に本願を疑う心がなくなった(他力の信心)」のは「心ではない」とはどういうことでしょう?
分かりやすく説明してください。お聖教の根拠をつけて【K】


そもそも三世の業障という重荷に苦しんだ人が、三世の業障の重荷を一念で
とっていただいても、その苦しみとられたのやらとられてないのやらボンヤリしているということがありうるでしょうか?

人(私)が抜けています。

問題点を3つ挙げましたが角度を変えただけで、根本は救われるべき「私」「私の心」が抜けていること一つです。

一つに絞っても長くなってしまいました。

これ以上長くならないよう、他の質問に、今回は答えません。
(すでに相当長くなってしまいました)
ですが、あなたの説をひとつとして認めたわけではありませんので。
それは最初に申し述べたとおりです。ご了解ください。

なにせ、あなたは全速力で逃げる気まんまんですから、しっかり話をしておかないと、
無理やり、恥知らずの勝利宣言をするでしょうからね。

仮に、そんなことをしたら、間違いなく「逃げた」の烙印をおされ、様々なところで
その事実が伝わり、広がっていくでしょうけれど。

そうなるのも哀れですので、そうならないことを念じております。

なお、「まさか宮田さん、こんなメチャクチャなこと思ってませんよね」と
質問したことを「ゼロさんは、そんなことを思ってるのはおかしい」と、
あたかも、私がメチャクチャなことを思っていると非難するのはやめてください
ね。

質問は質問であって、私の意見とは限りませんから、落ち着いて文章は読みましょう。

(次回、まとめ)

2014/07/19




ゼロ

■ゼロから宮田さんへ(7月18日D)

長くなりましたので、まとめておきます。

【A】獲信しても現生十種の利益が自覚できないお聖教上の根拠を出してください。

    「現在獲ている幸せが自覚できない」と力説する宮田さんの根拠です。

【B】「獲信した人が、現生十種の利益の自覚がある」=「浄土の世界がアリアリと映像となって見える。仏が見える」
   となぜなるのか、お聖教の根拠をもって示してください。

【C】「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、龍華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」

   このお言葉のどこに、「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」と書かれてありますか?
   このお言葉のどこに、「仏が見える」と書かれてありますか?

    書かれてある箇所を具体的に示してください。

   「●●」というお言葉は「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」という意味ではありませんか。。
   「●●」というお言葉が「仏が見える」という意味ですよ。
    という形で。そして、なぜそうなるのかお聖教の根拠を示してください。

 ※日本語レベルの問題ではない、と反論なさる場合:【D】【E】のように、あなたこそお聖教の根拠をこそ
  示してください。根拠がなければ、やはり日本語レベルの問題ということです。

【F】仏【心】と凡【心】がひとつになると、心ではなくなるお聖教の根拠を示してください。

【G】『「決定のこころ」とは「決定心」の心ですから、他力信心の事です』

   と宮田さんは書いていますが、同じ宮田さんが同じ日に

  『「他力信心」は「心」ではない』と、何度も何度も繰り返しています。

  これが矛盾でないことを分かりやすく説明してください。
  もちろん、お聖教の根拠をつけて。

【H】「行者のおこすところの信心にあらず」のどこに「信心とは、心にあらず」と
   書かれてありますか?
   分かりやすく説明してください。お聖教の根拠もつけて。

【I】仮に「法の上の話」にしてでも、「今こそ明らかに知られたり」とは、
   獲信した本人以外の誰が他力の信心だと明らかに知らされるのですか?
   分かりやすく説明してください。お聖教の根拠をつけて【I】

【J】

α:獲信すれば、私の不定の心(極楽浄土に往生できるかどうか定まらず不安な
心)はツユチリほどもなくなる。

β:獲信しても、極楽浄土に多分往生できると、信じるに過ぎない。

「α」と「β」は明らかに矛盾しています。
小学生でも分かるこの矛盾ですが、これが矛盾でないと強弁するのでしたら、
分かりやすく説明してください。お聖教の根拠をつけて。

【K】「私が本願を疑っている(自力の信心)」のは心なのに、
   「私の心に本願を疑う心がなくなった(他力の信心)」のは「心ではない」とはどういうことでしょう?
   分かりやすく説明してください。もちろんお聖教の根拠をつけて。

あまりにもおかしなところが多すぎるのですが、何とか、これだけにしぼっておきました。

宮田さんが、一方的な勝利宣言をしてムリやり終わらせたいお気持ちは、よくよく承知しておりますが、逃げたほうがあとあと恥ずかしいことに間違いなくなりますから、ここが踏ん張りどころです!

お互い、本当の親鸞聖人のみ教えを明らかにするご縁です。
勝った負けたの問題ではありません。

間違いならば、間違いを認め、正せばよいではありませんか。

本当の親鸞聖人の教えひとつに生き抜きましょう。


■(覚書)宮田さんが明言していること。

【1】

他力・・・阿弥陀仏にすべてお任せ
     (経典・お聖教の通りに師と共に往生できると【信じている】)
異安心・・・浄土に往けるチケット(信心)を持っている
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【2】

 地獄も浄土も、凡夫に分かる訳がないのです。
 分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
 自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
 と【信じるに過ぎない】。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【3】

真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?(ここまでが私の質問)
ーーー
>それが、三随順ということです。(宮田さんの答え)

【4】

獲信しても死後の世界については何もわからない、曖昧。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336675469

【5】

「よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
と言われているのが無疑と言うことです。
私が「信ずるに過ぎない」と書いたのはそのことです。
自らに釈尊法然聖人のようの智慧はないから、その方の仰せを疑い無く
受け入れているだけであるということです。
そこには、ご自身を煩悩具足の凡夫と仰った親鸞聖人の御心が窺えます。

【6】

真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、
まさに無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証・信巻末)
http://goo.gl/za4hbw

これは、親鸞聖人が「真実の教」でいわれる釈尊の大無量寿経の内容を知らされたということです。

【7】

「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」

【8】

無疑とは、御消息でいうと「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば
極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」ことに疑い無いこと。
本願の上で、浄土往生は決まっているのであって、自分の手元で「いつ死んでも
極楽往生間違いなし」と言うものではない。

【9】

「信心獲得の確信(機辺の決定心)をも否定」というのは、本願に疑い晴れた
信心獲得をしたということがあるという自覚(自覚というのもいろいろ問題ある
言い方ですが)の意味で「信心獲得の確信(機辺の決定心)」と言われている。
信心は機の上でいう言葉だから、確信という言葉を使うことが悪いとは言わない
。(言い方によってはまた誤解を生むかもしれない)。
本願に疑いないというのは、信心獲得の上ではいつでも疑い無いが、
往生浄土については「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひ
とすぢに如来にまかせたてまつるべし」ということ。

【10】

二種深信はを経釈に則って表されたものだから、
「さすがは善導大師だなあ」と聞いておけばよい。

【11】7月7日

「実際に機も法も疑いなく知らされるものではない」
の一文は、二種深信の説明としては不十分。
「二種深信=真実信心=無疑心」だから、「機も法も」と二つに分解して言うも
のでは無い。
本願を聞いて疑い無い(無疑心)の信相を書かれたのが二種深信。
機と法と、分けることができない。
文章としては機法ともに無疑というのが二種深信となる。

【12】7月8日

 浄土往生は、凡夫が分かる性質のものではない。なぜなら本願の領域のことで
あるからである。
 しかし、阿弥陀仏の本願は本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせると仰せであるから、それを聞いて疑い無ければ本願の通りになる。
 阿弥陀仏の本願とそれを説かれた、釈尊はじめ高僧方の仰せを信じるほかになにもない。
 これを無疑と言う。

【13】7月8日

他力の信心は、本願を聞いて疑心あることないそれだけのことであって、自分になにか智慧が身に付くものでは
ない。

【14】7月8日

仏願の生起本末を聞いて疑心あることないだけであって、私の中になにかが「立つ」ようなイメージは間違い。

【15】

「獲信しても死後どうなるかは分からず、お師匠さまと同じところにいくにすぎない。
つまり、死後は、地獄やら極楽やら餓鬼道やらハッキリしない。
だから、「浄土往生がハッキリする」わけではない」

【16】

本願に疑い晴れて、それだけですか?と言われているようですが、「浄土往生が凡夫にハッキリする」の説は間違いだと言っているだけです。
法を聞けば有り難いの思いも起きますし、本願のいわれを知り、疑いないという意味での三忍はあります。



■それに対し、浄土往生を断定されているお言葉 (ほんの一例です)

『末灯鈔』12

この身は、いまは、としきはまりて候へば、【さだめてさきだちて往生】し候はんずれば、【浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふ】べし。
 

『末灯鈔』13 

まことの信心の定まることは、釈迦・弥陀の御はからひとみえて候ふ。
【往生の心に疑なくなり候ふ】は、摂取せられまゐらするゆゑとみえて候ふ。

信心の定まると申すは摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位
にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべし

『御臨末の御書』

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す

『執持鈔』

われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶ

『御文章』五帖目二通

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、【後世をしるを智者】とすといへり。

このゆゑにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行をすてて、
一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、
十人も百人もみなともに【弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目四通

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、【みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし】。

『御文章』五帖目六通

ただ一念に弥陀をたのむ衆生は【みなことごとく報土に往生すべきこと、
ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目二十二通

われらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、【極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし】。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、【往生をばとぐるなりと信じ】
て念仏申さんとおもひたつこころの おこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあ
づけしめ たまふなり

歎異抄

2014/07/19




やめやめ学徒

さすがゼロナビさん(笑)

質問に答えられないから、質問で返す。

これこそ、ゼロナビさんの敗北を示してる(笑)

2014/07/19




id:shinrankaiuso

ゼロさん(ナビさん)、みっともないですよ。

自分が最初に自信満々に出した根拠に対する説明さえできないなんてね。

もう一度言いましょうか、ゼロさんが自分で最初に出した根拠に対する説明を求められて、それを拒否。

これだけで惨敗なのですよ。

貴方の愚問には、すでに答えていますし。

もう終わったのです。

2014/07/19




id:shinrankaiuso

再掲

A.ゼロさんが自信満々で出した根拠

●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

について

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

B.執持鈔にある親鸞聖人の御言葉からいえることは、

他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

よって結論は、

阿弥陀仏に救われたということは、往生の一大事が分かるのではなく、阿弥陀仏に死後のことをおまかせしたことをいう。
浄土に往けるとか地獄に堕ちるとか決めつけてはいけない。
阿弥陀仏が連れて往って下されるところへ往く。善知識と同じところへ往く。

2014/07/19




id:shinrankaiuso

真宗学のイロハのイも知らないナビさん(ゼロさん)のために、「成等覚証大涅槃」について少し講義をば。

これは阿弥陀仏の11願で、大経の異訳経である無量寿如来会にある御言葉。

「もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ」

「国のうちの有情」とは阿弥陀仏の浄土の中の有情のこと。

よって、「成等覚証大涅槃」とは、浄土に往生後、等正覚を成り、大涅槃を証するの意になり、往生後に正定聚に入ることなんですね。

次に曇鸞大師は浄土論註に11願を言い換えられて

「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る」

往生の後に正定聚に入るの意以外には解釈のしようがない。
これは他の高僧方も同じですね。

問題は親鸞聖人が、往生後に正定聚に入るとしか解釈のしようの無い11願を現生に解釈なされたのかということですが、これを正当化させるために親鸞聖人が度々なされる漢文の読み替えという方法をとられたわけですよ。

曇鸞大師
「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る」

親鸞聖人
「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る」

これで「生ぜんと願ぜんもの」が「すなはち正定聚に入る」と本来の意を変えられてしまったわけですよ。

真宗学のイロハのイも知らない、日本語に不慣れで、大嘘付きのナビさんには難し過ぎて訳が分からないでしょうが、結論は、

親鸞聖人は曇鸞大師の御言葉を読み替えなされなければならなかった理由は、
曇鸞大師と親鸞聖人の解釈が違うから】

2014/07/19




id:shinrankaiuso

七高僧 正定聚は死後に往生してから入る
親鸞聖人 正定聚は現生で往生が定まった時に入る

要するに、現生十種の益の総益である入正定聚の益は、七高僧は自覚されていない。しかし、信心は親鸞聖人と同じ。

だったら、ゼロさんの説は根底から覆る。

2014/07/19




まさき

また出てきたの? なんや、可哀想なくらい必死やね(笑)。

“質問に答えられないから、質問で返す。”これも親鸞会の常套手段。かぼちゃさんの時と同じ。

ゼロさんは、獲信していないから分からないのですよ。
獲信しても、浄土往生できるかどうかは分かりません。
でも、後生は阿弥陀仏にすべておまかせしてありますから、死後に対する不安はなくなります。
もちろん煩悩がありますから、死ぬのが平気になるというわけではありませんよ。

あなたは、『弥陀にまかせた』ということを知らないから、「本願に疑い晴れたということは、浄土往生に疑い晴れたということだ。」というようにしか御聖教を読めないのです。

「自分が答えよりも先に、自分の質問に答えろ。」と言われても、まずゼロさんに答えてもらわないことには、ゼロさんの主張を誤解したまま法論を進めることになってしまいますから、何はともあれ、真っ先にまずゼロさんから答えて下さい。

何で未信の人が、分かってもいない信後のことを「こうに違いない!」と頑なに言い張るのか、私には理解に苦しみますが、信後「浄土往生できる」ことが分かると言うなら、二種深信が立っている人は「地獄に堕ちる」ということも分かるということになりますが、これなんかは、どう説明するのでしょうか?

まあ、高森教の邪義しか聞いていないゼロさんのことですから、「二つの心が同時に起こる。」などと、ど~せトンデモナイ説明で済ますんでしょうけどね。
そんな人が実際にいたら、それこそ“精神病患者”ですよ。

信後の者にしか分からないテーマで法論をしても、どんどんボロが出てくるだけですよ。
想像だけで語っているから、結局は行き詰まるのです。

とにかく自分で最初に出した根拠に対する説明をするのが先です。
それをしてもらわないことには、何を書き連ねても、ただの“負け犬の遠吠え”です。

寝れない程くやしいでしょうけど、冷静になって下さいね、ゼロさん。

2014/07/19




さて

飛雲(http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/cat49468349/index.html)より

問い

信心決定したならば、浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされるのです。

答え

覚如上人が親鸞聖人の御言葉を以下のように伝えて下されています。
「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。」(執持鈔)
往生ということは、補処の弥勒菩薩でも判らないことで、ましてや凡夫に判る筈がないと仰っています。信心決定は成仏とは違いますよ。

問い

蓮如上人は「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ」(領解文)と、往生がハッキリ判ったと仰っているではないですか。

答え

「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。」(執持鈔)と仰っているように、往生が判らないまま阿弥陀仏の18願におまかせをしたのが、他力信心の行者です。
また、「かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。」(浄土論註)とあるように、往生の理屈さえも判らないのに、往生できると仰っています。
要するに、往生の理屈も、浄土がどんなところかも判らないまま、阿弥陀仏にすべておまかせしたことが、「往生一定」なのです。

問い

親鸞聖人は、「まことに知んぬ、(中略)念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」(教行信証信巻)と仰っていますから、浄土に往生することがハッキリと知らされることは、間違いないです。

答え

親鸞聖人が仰っていることは、信心獲得した人は臨終と同時に仏のさとりを開くと知らされた、ということです。
ところがこれは七高僧方は仰っていないことです。たとえば曇鸞大師は、「仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。」(浄土論註)とあるように、浄土に往生してから、正定聚に入り、そして仏になるということです。他の方も同じです。
また聖覚法印も、「順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。」(唯信鈔)と言われています。
もし信心獲得したら親鸞聖人が仰ったことをハッキリと知らされるとするなら、七高僧方や聖覚法印は、異安心になりますよ。

問い

親鸞聖人が、「まことに知んぬ」と仰っているのを否定するのですか。

答え

親鸞聖人は『教行信証真仏土巻』で、経典と天親菩薩・曇鸞大師・善導大師等の御文にある浄土の記述を紹介された後、初めて御自身のお言葉を述べられています。
「しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。」
親鸞聖人は、経典と天親菩薩・曇鸞大師・善導大師等の御文を通して浄土を「あきらかに知んぬ」なのです。体験を通してではありません。その証拠が後の文で、煩悩にまみれた衆生が仏性の浄土を見ることはできない、と仰っています。同じことで、「まことに知んぬ」は聖教を通して解釈するとこのように知らされたということであって、体験上知らされたのではないから、七高僧方と知らされた内容が違っていても、信心として異なることにはなりません。

問い

仏性は見えないかもしれませんが、阿弥陀仏の喚び声を聞くのですから、阿弥陀仏が判らない筈がないです。

答え

朝晩のお勤めはしていますか。
正信偈』に、「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」とありますが、この元は源信僧都の『往生要集』にある御言葉です。
この意味について蓮如上人が解説されています。「真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。」(正信偈大意)。獲信しても、煩悩が邪魔をして阿弥陀仏を見えなくしていると仰っていますよ。

問い

法の深信は「かの阿弥陀仏四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と深信す」ですから、救われたら往生が判ると仰っているではないですか。

答え

善導大師は法の深信について別の言い方をされています。
「二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。(中略)いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して」(往生礼讃)
念仏称えて往生できると信知(深信)すると仰っています。念仏称えて助かるは間違いだ、と言いきっている高森会長は異安心確定ですね。
「さだめて往生を得」と仰っているのは、未だ遂げていない往生について、その道は「かの願力に乗じて」「名号を称する」ことだけだとハッキリしたことと仰っています。浄土往生が認識できたのではなく、浄土往生への道を信知(深信)するのです。

問い

法の深信に「さだめて往生を得と深信す」とあるのですから、往生がハッキリ判ることになるでしょう。

答え

善導大師は二河白道の譬喩の前に、「この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して、一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり。」(観無量寿経疏)と仰っています。
周りからの非難攻撃に全く動揺することなく、この道に間違いないと金剛の如き疑いの無い心が、真実の信心だということです。往生への道を深信するとしか仰っていません。

問い

往生がハッキリしてこその、往生への道ではないですか。往生への道がハッキリしたということは、往生がハッキリしたことになるのではないですか。

答え

往生を願うのは、浄土門では大前提です。
二河白道の譬喩で言えば、西の岸に行きたいと願った上で、白道に乗って進むのか乗らないのかの選択です。西の岸から喚ぶ声を聞いて「この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。」(観無量寿経疏)と心が定まります。何に心が定まったのかと言えば、白道を進むことについて「疑怯退心を生ぜず」で、これが無疑の真実信心です。
一方で、西の岸に対する認識は、白道に乗る前も乗った後も何も変わっていません。
つまり、往生を願っている人が、どのようにして往生するのかと心が定まっていないのが信前、18願の念仏1つで往生できる、阿弥陀仏の仰せに信順する、と心が定まったのが信後です。

問い

往生も含めての往生への道ではないですか。往生自体が判らない信心など考えられません。

答え

歎異抄』で言うなら、
「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」が自力の信心、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」が他力の信心です。
自力の信心と他力の信心との違いは、「往生のみち」が、「念仏よりほかに」あると思っているか、「ただ念仏して」と心が定まるかの違いです。
往生が判らない判るで、自力と他力の違いを説明された根拠があるなら出してください。

問い

親鸞聖人は、御自身の往生について断言されている御文はいくつもあります。これこそ往生がハッキリする証拠ではありませんか。

答え

親鸞聖人は、他人の往生も断言されています。七高僧を初め、聖覚法印、隆寛律師、明法房などです。以前にあなたが出した『教行信証信巻』の略した箇所「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、弥勒菩薩が仏に成るのがいつなのかを断言されています。仏智でなければ判らないことで、『菩薩処胎経』に説かれてあることを親鸞聖人はそのまま断言されただけです。
参考までに、『教行信証』で「まことに知んぬ」と断言された箇所は、ほとんどが聖教の解釈上での話で、理解できたの意味です。もちろん獲信したことで難しい聖教が理解できるようになることはありません。

「これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)
「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)
「しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)
「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)
「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)
「しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)
「まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)

2014/07/19




さて

(ゼロさん2014/07/02コメントより抜粋)
●金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、
 【必ず】現生に十種の益を獲。
 なにものをか十とする。(中略)十には入正定聚の益なり。
     (教行信証『信巻』・親鸞聖人)
についてですが、宮田さんは、獲信しても、現生十種の利益の
自覚はない、ということでしょうか?
(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、
「獲信すれば、浄土往生がハッキリする」
と主張しています。
根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す
  一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。
とおっしゃっています。
 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 
間違っても、
「この親鸞
 『念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?

2014/07/19




まさき

宮田さんが、逃げる?
バッカじゃないの!

宮田さんは、逃げも隠れもしませんよ。

第一宮田さんは、このブログの管理人さんですよ。
ブログを閉鎖する以外に、逃げようがないじゃないですか。
カルトに洗脳されてしまうと、そんな事も分からなくなるんですかね?(苦笑)

質問に答えられないのを必死で誤魔化す為に“逆質問”を書き並べて、全力で逃走する準備をしているのはゼロさんの方です。
皆、笑っていますよ。

『弥陀にまかせた』とは、文字通り『まかせた』ということです。
凡夫の側で、後生の行き先をあれこれ計らうことを『まかせた』とは言わないのです。

ゼロさんは、『まかせた』という言葉を一体どう領解しておられるんでしょうかね?

まあ『弥陀にまかせた』ということがないゼロさんに聞いても、無駄ですけど・・・。

2014/07/19




ヒマ

『絶対の幸福』という観念が崩れることを恐れているのでしょうね。
長年自分たちが求めていた『絶対の幸福』なるものが『浄土往生の確信』で間違いのない幸福になれると 親鸞会に人生を捧げてきたのに『ない』と言われるとすべてが崩れるような恐怖感に襲われるのじゃないですか。

又は このブログを見た会員から質問が出ているとか。

どちらにしても間違った高森教義で会員を苦しめている高森会長から離れることが一番良いことです。
あなた方も気づいていることじゃないんですか。
  

2014/07/19




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさん(7月19日A)

9000文字を超える長文コメントを頂き有り難うございました。
勝手に勝利宣言をしたつもりはございません。ご気分を害されたのでしたらおわび致します。
双方、勝手に勝利宣言をすることも、逃げる気持ちもないということが確認できたので、また議論を進めて行きたいと思います。前回は、私の勝手な思い込みで「ゼロさんからもうコメントが来ないかもしれない」と思い、これが最後のつもりでゼロさんの7月14日コメントでお訊ねの部分については簡単にでも全部書きました。そのためかなりの長文コメントになってしまいました。

今回のゼロさんの7月18日コメントに対して全て回答し、かつ私が気になったとこを書いていくとおそらく一万字を超えてしまうと思います。対面の議論ならおそらくここまで一方が多方面に渡って話をして、それにまた多方面に話をすれば議論がそもそも進まなくなってしまいます。

また、今回ゼロさんは、私への意趣返しか、いきなり勝利宣言に近いことを3回も書かれていますね。

以下、ゼロさんのコメントより抜粋

(ゼロさん 7月18日A)
★次回のコメントで根拠が示せない場合、この議論は終了です。

(ゼロさん 7月18日A)
★次回のコメントで【A】【B】についてお聖教の根拠をもって答えられない場合、宮田さんは根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、この議論は終了です。

今までは、かなり大目に見てきましたが、今回からはそうはいきませんので、そのおつもりで。

あなたが「議論終了」と一方的にチラつかせてきたのですから。

こちらの根拠はまだまだありますよ!

でも、長いのがお嫌いのようですから、今回はここまでにしておきましょう。

(ゼロさん 7月18日B)
という形で。そして、なぜそうなるのかお聖教の根拠を示してください。

★答えられないなら宮田さんは根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、この議論は終了です。【C】

先ほど書きましたが、全部に書いているとお互い文章が非常に長くなり、かつ第三者がこの議論を読んでも非常に煩瑣となりますので、お互い「答えられないなら貴殿は根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、この議論は終了です。」と長文コメントをするのはやめにしませんか?

受け入れられない場合は、私が先に書いたことにゼロさんは全く説明をせずに質問に対して質問を出しただけなので本当に終了になります。それは、ゼロさんも望むところではないと思いますが、上記の提案について如何でしょうか?
もう一つは、お互い一回の質問は一つにし、それについて合意が形成されるまで、次の話題には移らないというものです。


私はゼロさんが書かれた以下の文章がゼロさんの本心だと信じて提案致しました。

(ゼロさん 7月18日D コメントより抜粋)
お互い、本当の親鸞聖人のみ教えを明らかにするご縁です。
勝った負けたの問題ではありません。

間違いならば、間違いを認め、正せばよいではありませんか。

本当の親鸞聖人の教えひとつに生き抜きましょう。

上記提案を受け入れていただけるのでしたら、私が逃亡することを心配されているようですから、以下の点についてはゼロさんとお約束をいたします。
1.脱会ブログそのものを削除しません。
2.コメント欄にある「ゼロさん」名義のコメントは過去から全て削除しません。
(ただし、議論に関係ないコメントの連投や、宮田の回答を待たずにコメントを連投して勝利宣言をする場合はその限りでは有りません。)

○今回の提案(ガイドライン)まとめ
1.お互い「答えられないなら貴殿は根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、この議論は終了です」と長文コメントをしない。
2.お互い同日の質問は一つにし、それについて合意が形成されるまで、次の話題には移らない。(コメント文章の長文かと議論の内容の拡散を防ぐため)
3.脱会ブログそのものを削除しません。
4.コメント欄にある「ゼロさん」名義のコメントは過去から全て削除しません。
(ただし、議論に関係ないコメントの連投や、宮田の回答を待たずにコメントを連投して勝利宣言をする場合はその限りでは有りません。)
5.上記にゼロさんが同意していただけない場合は、前回の私のコメントの文面から議論が終了になります。(もちろん議論を勝手に終わらせたいわけでは有りません。前回の私のコメントについての議論が続きます)

私は、ゼロさんが逃げない限り、極端なことを言えばお互いどちらかが死ぬまで議論をしたいと思っています。とはいえ、今までの形式の議論を続けていけば、そのうちゼロさんが100万字のコメントを書き、私が101万字のコメントを書くようになってしまいます。さすがにそこまでいくと、お互い日常生活に支障をきたすだけでなく、何の議論をしているのかわからなくなってしまいます。そこで、今回提案したのが、「2.お互い同日の質問は一つにし、それについて合意が形成されるまで、次の話題には移らない」です。

私は、ゼロさんが放棄しない限り議論を続けることをお約束します。それが、元親鸞会会員であり講師部員であったものの責任だと思うからです。

そこで、勝手ながら私のコメントから前回の私からゼロさんへの質問を、加筆と対象をしぼって次のコメントに書きます。

ゼロさんが勝手に勝利宣言をされるのは勝手ですが、上記エントリーとコメントを読めばほとんどの人は、ゼロさんが「勝利宣言をして逃げた」と感じられると思います。
ゼロさんが、どういう立場の方かは存知上げませんが、

(ゼロさん 7月18日D コメントより抜粋)
お互い、本当の親鸞聖人のみ教えを明らかにするご縁です。
勝った負けたの問題ではありません。

間違いならば、間違いを認め、正せばよいではありませんか。

本当の親鸞聖人の教えひとつに生き抜きましょう。

と仰有ることを信用します。くれぐれも勝手な勝利宣言はしないで下さいね。
正直いいまして、私はゼロさんの書かれた文章に言いたいことは山ほどあります、またゼロさんも私の書いたことに言いたい事が山ほどあるのでしょう。

だからといって、お互いが言いたいことだけいいあっていたら、議論になりません。とりあえず、前回の私のコメントに応えていただけないでしょうか?もちろん質問は一つに絞ります。

(Bに続く)

2014/07/18




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ(2014年07月19日B)

質問を絞り、一つだけお尋ねします。
(再掲)

(ゼロさん2014/07/02コメントより抜粋)
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?
分かりやすく教えてもらえませんか。

これに対して、お訊ねします(質問1)

真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証・信巻末)
http://goo.gl/za4hbw

ゼロさんの文章では「真に知んぬ」以降はハッキリ知らされるということになります。
「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」もハッキリするんですよね?

根拠をだせとはいいませんが、ゼロさんの主張として弥勒大士が「竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」を、親鸞聖人がハッキリすると仰有ったのか、否かをお示し下さい。


お互い言いたいことは山ほどあるのは理解しました。そこを長文で言い合うのは建設的ではありません。議論を進めるために、上記の私の質問にお答えください。今回は根拠まではもとめません。ゼロさんが主張される理路をお示し下さい。

今回からは、お互い言いたい事があるのは承知の上でまず、質問に答えた上で、こちらの質問の不明点をお訊ねください。

よろしくお願い致します。

2014/07/18




id:shinrankaiuso

ゼロさんの対応は如何に。

ケース1 質問を無視して、自分の質問に答えろと言い続ける。

ケース2 「弥勒菩薩の成仏の時期を、親鸞聖人が体験からハッキリ知らされた」と回答。(すると親鸞聖人は仏智並みの智慧を体得されたことになる?)

ケース3 「弥勒菩薩の成仏の時期は、経典を通して知られただけ」と回答。(すると次の「念仏の衆生は…」も「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」と言えるのでは?)

ケース4 逃亡。

予想は、ケース1。
しかし、自分が最初に出した根拠に対する質問なのだから、まずはゼロさんが説明しないと示しがつかないよ。

2014/07/21




まさき

宮田さんが、ここまで譲歩して真摯に対応して下さっているのに、ケース1を貫いたら最悪じゃん。

ここまでの法論でゼロナビさんは、もう充分過ぎる程親鸞会の印象を悪くしてきたのだから、もうこれ以上駄々っ子のような真似はしない方が賢明だと思うよ。

私も退会前、ネットで親鸞会の批判サイトを見たけど、すぐに親鸞会教義の間違いに気付いたわけじゃない。

ただ、読めば読む程(親鸞会アンチの方が、頭良くないか?)と思うようになり、次第にマインドコントロールから解放されていったっけ・・・。

自分が最初に出した根拠を理路整然と説明できなければ、ゼロさんは、もう出てこない方がいいと思う。

ただし、もっと退会者を増やしたいのなら、もうひと暴れして下さい(苦笑)。

2014/07/21




やめやめ学徒

俺は、ゼロナビさんのお蔭で退会決意(笑)

自分の出した根拠に、苦悶するゼロナビさん(笑)

責任もって説明してくれたら、退会決意を撤回するかも(笑)

2014/07/21




ヒマ

ちょっとすみません。
今のテーマとまったく関係ありませんので削除していただいても構いませんが 気になったのでコメントさせて下さい。

〇田氏の〇土真宗講義を見ました。
6月の説法の中に
『信心決定と後生の一大事の解決』というテーマがあったので 少し聞きました。
「信心決定とはこの世に法蔵菩薩が誕生すること。人々を後生の一大事の解決まで導く存在になることが信心決定」?????
あの~あの方はどういう方ですか?

親鸞会を脱会した人』なのでコメントしてもいいかなと思いました。
親鸞会さんこちらに来るより 先に
あちらへ行かれた方が良いのではないでしょうか。
管理人さん削除していただいても問題ありません。すみません。

2014/07/21




id:shinrankaiuso

U氏の言っていることは、高森教学に大谷派教学を加えたようなものです。突っ込みどころ満載で、親鸞会とU氏らが法論すると、訳がわからなくなるでしょう。

2014/07/21




ヒマ

親鸞会負の遺産。 
大きな責任があると思います。

2014/07/21




まさき

また親鸞会で、大きな財施が募られるらしいです。

ここ最近、親鸞会から“荒らし”が頻繁に来るのも、その為かな?

とにかく親鸞会にとっては、『正しい親鸞聖人の御教え』を伝えている「安心問答」は、目の上の瘤ですからね。

親鸞聖人は、一枚の紙やほんのわずかな金銭を寄進することすらなくても獲信とは全く関係ない、と言い切っておられます。

「浄土真宗」を己の世俗的な欲望の為にネジ曲げる高森会長の教えに、そろそろ会員さんも気付き始めたのかもしれません。

以前よりも財施を出し渋り始めたのでしょうね、きっと。

だって、どこを見渡しても獲信者が皆無となれば、誰だって(本当に金出して助かるのか?)と思いますよね。

そのことに危機感を持ったゼロさんが、高森会長の教えこそ間違いない、ということを証明する為に、今回法論を仕掛けてきたのではないのでしょうか?

結果は、墓穴を掘って、足を引っ張っただけに終わりましたがね・・・残念。

2014/07/21




ゼロ

ゼロから宮田さんへ(7月21日)

コメント読みました。

> 1.お互い「答えられないなら貴殿は根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、
> この議論は終了です」と長文コメントをしない。
>
> 2.お互い同日の質問は一つにし、それについて合意が形成されるまで、
> 次の話題には移らない。(コメント文章の長文かと議論の内容の拡散を防ぐため)

「同日の質問は一つ」ということは了解しました。

いくつか分からないところがあるのでお尋ねします。
「1」に、「長文コメントをしない」とありますが、「短文ならばいい」ということでしょうか?

文章としては、限定した意味ととれますが確認しておきます。

「2」についてですが、質問は、お互い1つずつ出来るという理解でいいでしょうか?

今の流れですと、あなたの質問に私が答え(納得はしてないと思いますが)、
私が質問したところで終わっていました。

ところが今回の提案は、私の質問は無視して、あなたの質問からスタートしています。
これはアンフェアではありませんか?

サイクロンさんの時、「ハッキリする」という言葉を
「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」「仏が見える」という意味で宮田さんが使っていたとは思っていませんでした。きっとサイクロンさんもそうだと思います。
その状態で一方的に、議論が終了され、

かつ、今度もまた、私の

> 私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、
> 「仏が見える」とか聞いたことがありません。

という言葉に対して、宮田さんは、

> いえ、そんなことをいうために根拠を出しています。

と明言してきました。
それに対して、私は

> 「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、龍華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」
>
>  このお言葉のどこに、「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」と書かれてありますか?
>  このお言葉のどこに、「仏が見える」と書かれてありますか?
>
>  書かれてある箇所を具体的に示してください。
>
>  「●●」というお言葉は「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」という意味ではありませんか。。
>  「●●」というお言葉が「仏が見える」という意味ですよ。
>  という形で。そして、なぜそうなるのかお聖教の根拠を示してください。
>
と質問したのです。
前回(サイクロンさんのとき)も今回も、相手が思ってもいないのに、
「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」 「仏が見える」という
意味で、「往生浄土がハッキリするなどおかしい」と主張するのは、本当に許しがたいことです。

なので、こちらからも、1つのみ上記の質問を、今回改めていたします。

この質問さえ許されないという提案ならば、あなたの提案をのむことは出来ません。

もちろん、宮田さんが提示した1つの質問には答えておきます。

> 根拠をだせとはいいませんが、ゼロさんの主張として弥勒大士が「竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」を、
>親鸞聖人がハッキリすると仰有ったのか、否かをお示し下さい。

宮田さんは独特(勝手)な言葉の理解が多いので、正しいこちらの意図が伝わるかどうか一抹の不安がありますが、
このお言葉は、「浄土の世界ががアリアリと映像となって見える」「仏が見える」という意味で「ハッキリする」とおっしゃたのではありません。

あなたの質問には答えました。

今度は、あなたが、答える番です。


なお、純粋な教えの議論ならよいのですが、日本語の理解の議論には正直、辟易しています。
言葉のレベルで議論が平行線にならないか危惧しています。

このサイト以外にも親鸞聖人の教えを聞きたい方はとても多くおられますし、
どちらが親鸞聖人の本当の教えなのか、真面目に議論されたい方もおられます。
そのことも考慮し、コメントの返事が1週間後など時間をおくことがあるかも知れませんが、
その点、ご了承ください。

この機会に、このことをお伝えしておきます。

あと、3以降の提案ですが、
>
> 3.脱会ブログそのものを削除しません。

逆に、今回のことで宮田さんが間違いと判明すれば、ブログを削除するほうが
責任ある態度だと思います。
もちろん、私からは強制できませんが、さんざん非難中傷を繰り返した内容
ですので、宮田さん自身が間違いものなら、そんな内容をアップしたままにしておくべきではないと考えます。
ご検討ください。
>
> 4.コメント欄にある「ゼロさん」名義のコメントは過去から全て削除しません。
> (ただし、議論に関係ないコメントの連投や、宮田の回答を待たずにコメントを
> 連投して勝利宣言をする場合はその限りでは有りません。)
>
上記のように、ブログごと削除するのなら、私のコメントも削除してかまいません。
私のコメントのみ削除することはないということは了解しました。

では、返信お待ちしております。

2014/07/21




id:shinrankaiuso

実に曖昧な表現での誤魔化しですな。

>> 根拠をだせとはいいませんが、ゼロさんの主張として弥勒大士が「竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」を、
>>親鸞聖人がハッキリすると仰有ったのか、否かをお示し下さい。
>
>宮田さんは独特(勝手)な言葉の理解が多いので、正しいこちらの意図が伝わるかどうか一抹の不安がありますが、
>このお言葉は、「浄土の世界ががアリアリと映像となって見える」「仏が見える」という意味で「ハッキリする」とおっしゃたのではありません。

弥勒菩薩が五十六億七千万年後に成仏することが「ハッキリする」かどうかの質問に対して、「浄土の世界ががアリアリと映像となって見える」「仏が見える」とは、はぐらかし以外の何物でもありませんね。

弥勒菩薩が五十六億七千万年後に成仏することが「ハッキリする」と親鸞聖人が仰ったかどうかの話ですよ。
この回答で、

弥勒菩薩が五十六億七千万年後に成仏することが「ハッキリする」と親鸞聖人が仰ったのではない、と言いたいのであれば、

ケース3 「弥勒菩薩の成仏の時期は、経典を通して知られただけ」と回答。(すると次の「念仏の衆生は…」も「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」と言えるのでは?)

これに相当します。

つまりは、宮田さんの主張が正しいことを認めた、ということですよ。

2014/07/21




ミリダン王

「ハッキリすると仰有ったかどうか?」に対して「映像として見えるわけではありません」と答えるのは誤魔化しです。
親鸞会講師の菊谷氏もこう言っていますよ。
***********************************

自信のある人なら
「正しいのはこうです。」
と言います。
「ごたごた言わんと、正しいこと明らかにしなさい。」
と言いたい。
*********************************

「何々ではありません」ではなく「正しいのはこうです」とハッキリ言えばいいですよ。
尤も、昔から親鸞会講師は誤魔化しが上手かった。
私の場合は、真剣な求道上の悩みを講師に相談すると、誤魔化し・言い訳ばかりするので、これでは求道にならないと思い会を辞めました。
真剣に求めている人はいずれ気付いて退会するでしょうし、サークル気分の目的違いの人は会に残るでしょう。

2014/07/21




さて

今回のゼロさんの回答は

ケース1 質問を無視して、自分の質問に答えろと言い続ける。

ケース3 「弥勒菩薩の成仏の時期は、経典を通して知られただけ」と回答。(すると次の「念仏の衆生は…」も「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」と言えるのでは?)

この折衷案というところ。

質問に答えた振りをして、自分の質問に答えよという展開。
飛雲でも南風を名乗る人物がやった手口と同じ。あの時は、飛雲氏がそれでは回答が分らないから、ハッキリ書くように要求すると、それを拒否して質問をし続けたので、飛雲氏が結論を述べて終了。

今回も同様にすべき。

回答になっていないものを認めては、何のための質問かわからない。

2014/07/21




まさき

>このお言葉は、「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」「仏が見える」という意味で「ハッキリする」とおっしゃったのではありません。

これはつまり、信心決定して、経典に書いてあることに疑い晴れたという意味。

ですからゼロさんは、宮田さんの『お聖教にあるから信じます』に同意したものと思われます。

2014/07/22




やめやめ学徒

ゼロナビさんの期待通り、退会は撤回しません(笑)

ケース3 「弥勒菩薩の成仏の時期は、経典を通して知られただけ」と回答。(すると次の「念仏の衆生は…」も「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」と言えるのでは?)

宮田さん、これでいいかどうかだけ、確認してください。
他はいりません(笑)

2014/07/22




まさき

親鸞聖人が、全く経典を読んでおられない状態であったとしても、獲信して仏智を得て「弥勒菩薩の成仏の時期」がアリアリと分かるようになったわけではないと言うのなら・・・
経典の御文に疑いが無くなった、つまり「お聖教にあるから信じます」という意味以外に解釈の仕様がない。

やはり、どう考えても、ゼロさんは宮田さんに同意してますね。

なんだ…それならそうと最初から素直に言えばいいのに。 あまのじゃくさん❤

2014/07/22




マイナス

どう考えても、ゼロさんの完敗。
弥勒菩薩のことが、ありありとわかるわけではない、つまり、お聖教にあるから信じているに過ぎない、としかゼロさんも言っていないわけよ。

しかし、宮田さんがそれを言うと、そんなことはどこにも言っていないのに、勝手に言ったと誤魔化す。

2014/07/22




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ(7月21日A)

○議論の進め方について

いくつか分からないところがあるのでお尋ねします。
「1」に、「長文コメントをしない」とありますが、「短文ならばいい」ということでしょうか?

(ゼロさんコメントより)
文章としては、限定した意味ととれますが確認しておきます。

短文ならいいということでは有りません。お互い勝利宣言をいきなりするのはやめましょうという提案です。文章の長さは問題ではありませんが、最近ずっとお互い長文コメントになっていたので「長文コメントをしない」と書きました。

(ゼロさんコメントより)
「2」についてですが、質問は、お互い1つずつ出来るという理解でいいでしょうか?

今の流れですと、あなたの質問に私が答え(納得はしてないと思いますが)、
私が質問したところで終わっていました。

ところが今回の提案は、私の質問は無視して、あなたの質問からスタートしています。
これはアンフェアではありませんか?


質問は、一回のコメントで一つということでお願いします。私の考えでは、一つのことについてお互いが回答、質問を繰り返して、議論がつくされたら次の話題に移るものにしたいと思っています。それで進めたいと私は思いますが、ゼロさんは如何でしょうか?

それと、前回の私の質問に対してゼロさんは、回答せず質問で返したものと理解しております。私が出した質問は、前回の質問をさらに絞り込んだものなので公正だと思っています。

(ゼロさんコメントより)
サイクロンさんの時、「ハッキリする」という言葉を
「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」「仏が見える」という意味で宮田さんが使っていたとは思っていませんでした。きっとサイクロンさんもそうだと思います。


私は、ゼロさんが上記あげた例文を使用しましたが、そもそもこれは私が言い始めたことでは有りません。上記表現に代表されるような、悟りに近いものを想定してゼロさんが言われているのではないかと思った次第です。

それが

(ゼロさんコメントより)
> 私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、
> 「仏が見える」とか聞いたことがありません。

という言葉に対して、宮田さんは、

> いえ、そんなことをいうために根拠を出しています。

と明言してきました。

の文章です。

その文脈での質問ですから

それに対して、私は

(ゼロさんコメントより)
> 「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、龍華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」
>
>  このお言葉のどこに、「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」と書かれてありますか?
>  このお言葉のどこに、「仏が見える」と書かれてありますか?
>
>  書かれてある箇所を具体的に示してください。
>
>  「●●」というお言葉は「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」という意味ではありませんか。。
>  「●●」というお言葉が「仏が見える」という意味ですよ。
>  という形で。そして、なぜそうなるのかお聖教の根拠を示してください。
と質問したのです。

は、ゼロさんが自覚された上での論点ずらしとしか私は思いません。だから、質問に質問で返しただけで、回答はしていないと書きました。

浄土往生の自覚の有無の議論でゼロさんが出した根拠について私が訊ねただけですよ。
「真に知んぬ」が、「(信心の智慧で)ハッキリ知らされた」なので、信前では知らされないいろいろなことがハッキリするというのがゼロさんの主張でしたね。そこで、「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、龍華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」は親鸞聖人はハッキリされたのでしょうか?という趣旨で訊ねました。
くりかえしますが「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか「仏が見える」の表現は、「そんなことはない」とゼロさんが言われた例文です。しかし、それに近いようなものをゼロさんはお考えではないですか?という私の疑問から出した問いです。

私の質問の仕方も分かりにくかったと反省しております。
そこで、前回のコメントに書いた質問から改めて出させて頂きましたのでご理解ください。

この質問さえ許されないという提案ならば、あなたの提案をのむことは出来ません。

質問の仕方が悪くご気分を悪くされたことをおわび致します。質問の意図は上記に書きました。

> 3.脱会ブログそのものを削除しません。

逆に、今回のことで宮田さんが間違いと判明すれば、ブログを削除するほうが
責任ある態度だと思います。
もちろん、私からは強制できませんが、さんざん非難中傷を繰り返した内容
ですので、宮田さん自身が間違いものなら、そんな内容をアップしたままにしておくべきではないと考えます。
ご検討ください。

間違っていたなら、そのまま残すのも一つの責任だと考えております。
そのため、安心問答も親鸞会在籍時の親鸞会擁護をしていたころの記事もそのまま残しています。自分が間違っていたなら、間違っていたことも公開するのが正しいことと思います。

2014/07/22




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ(7月21日B)

(ゼロさんコメントより)
> 根拠をだせとはいいませんが、ゼロさんの主張として弥勒大士が「竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」を、
>親鸞聖人がハッキリすると仰有ったのか、否かをお示し下さい。

宮田さんは独特(勝手)な言葉の理解が多いので、正しいこちらの意図が伝わるかどうか一抹の不安がありますが、
このお言葉は、「浄土の世界ががアリアリと映像となって見える」「仏が見える」という意味で「ハッキリする」とおっしゃたのではありません。

あなたの質問には答えました。

そういうことでしたら、「弥勒大士が竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」はアリアリと映像となって見えるということではないということですね。私もそう思います。

では、お訊ねします。
「弥勒大士が竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」は経典に載っていることを、親鸞聖人が信心決定されて「真に知んぬ」と言われている文章ということでよろしいでしょうか?

私が、「お聖教にあるから信じる」と言ったことと同義となります。

以上回答よろしくお願い致します。

2014/07/22




まさき

ゼロさんが、宮田さんの主張に異論を称えたので、皆、(ゼロさんは、浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのか?)と思ったのに、
「弥勒大士は・・・」のお言葉のどこに、「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」と書かれてありますか?と聞き返してくる・・・。

一体全体、どっちやねん?!

>言葉のレベルで議論が平行線にならないか危惧しています。

・・・危惧しているのは、こっちの方です。

2014/07/22




ヒマ

「三願転入の教え」を否定されても知識の問題だと笑っていられたかもしれませんが、「浄土往生がハッキリする」を否定されると 親鸞会の『絶対の幸福、人生の目的、高森会長の信心、教学力』全てが 否定されてしまいます。
そうなると自分たちのしてきたことは単なる詐欺師の片棒を担いできただけになってしまうので そりゃ必死でしょうね。

最近の退会者の多くが救われたと言っている。
「そんなバカな」って笑っていても退会者が一つの組織団体に 加入してるわけでもないし口裏合わせしていることもない。
でも言ってることは一貫して
「ハッキリしない」です。
不安になるでしょうね。

K光会を非難しているときは
「あの団体は間違っている」と言っていられたが これだけの退会者が異口同音に「浄土往生がハッキリするものではないし、地獄に堕ちる、極楽に浮かぶ が、ハッキリするものではない」と否定するのを聞くと 「自分たちが求めてきた『人生の目的』っていったいなんだったんだろう?」「高森会長ってどんな信心を得たんだろう?」「何のために大学を中退し、就職もせず、反対する家族を泣かせてまで献身的に親鸞会に尽してきたんだろう?」って不安になって「この議論、負けるわけにはいかない」って根拠が有ろうが無かろうが 話があっち向こうがこっちむこうが「ハッキリしない」ということを認めるわけにはいかない。のでしょうね。

当然裏で高森会長が何らかの指示を出していると思いますがね。
なんせ陣頭指揮をとるのがトップの責任ですしね。
いやいやご苦労様です。
人生のやり直しは何時でもできますよ。早く間違いを認めて下さい。お願いします。

2014/07/22




まさき

>宮田さんは独特(勝手)な言葉の理解が多いので、・・・

はあ?
仏語を従来の意味で使っていない親鸞会にそんなことを言われたくありません。

宮田さんの理解が独特なのではなくて、そちらの使い方が独特なのです。

例えば『宿善』なんて、その最たるもの!!

それ以外に造語も多いですよね、親鸞会は。

「絶対の幸福」「相対の幸福」、こんな言葉は浄土真宗では使いませんよ。

あ、これは造語ではなくて、創価学会のパクリでした、いや失礼。

池田大作氏に憧れて親鸞会をつくったけど、とうとう池田大作になれずに終わったのが、弱小カルト教団会長“高森顕徹”氏なのでした。

哀しいねぇ。

2014/07/22




ゼロ

ゼロから宮田さんへ(7月22日)

学生の頃から色々な人と様々な議論を交わしてきましたが、こんなにひどいのは初めてです。

いかにひどいか。もう一度、自分の発言を読み直してみてください。

(ゼロ 7月14日コメント)
> 浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、
> 仏が見えるのでもありません。
>
> =======================
> >★ 以前は、コメントでそのようなことを書いていましたね。それも次の7月15日(火)Cで書きます。(宮田さんの発言)
> =======================
>
> > (ゼロ 7月14日コメント)
> > 「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、
> >身は娑婆にあれども かの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをが
> >みたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしまし ますといへるこころなり。
> > と『正信偈大意』に教えられているとおりです。
> > 私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、
> > 「仏が見える」とか聞いたことがありません。
>
> =======================
> >★ いえ、そんなことをいうために根拠を出しています。次の7月15日(火)Cで書きます。(宮田さんの発言)
> =======================
>
> ■7月15日(火)C
>
> > ★では、根拠を書きます。根拠は、ゼロさん自身のコメントに有ります。(宮田さんの発言)
> =======================
> > 親鸞聖人が現生十種の利益の自覚があるといわれた根拠を教えてください。(宮田さんの発言)
> =======================
> > (ゼロ 7月14日コメント)
> > ★浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、
> >  仏が見えるのでもありません。
> =======================
> >★ なら、なぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、
> >まさに無上覚位を極むべし」と親鸞聖人は書かれたのか、納得のいく説明をお願いします。
> > もちろん、根拠を示してください。それがないなら、ゼロさんの主張は
> >「高森会長の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」のお聖教に基づかない主張ということになります。
> > ながながとコメントを書きましたが、回答はこの7月15日Cだけでも結構です。
> >
> > ★これに回答ない場合は、ゼロさんは根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、この議論は終了です。
> > 2014/07/15
> >
> =======================
> (★は、私が追加でつけました)
>
>
宮田さん、読まれましたか?

私が、

> >「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、
> > 「仏が見える」とか聞いたことがありません。
>
と明言し、『正信偈大意』の根拠も出しているのに、あなたは
>
> > >★ いえ、そんなことをいうために根拠を出しています。(宮田さんの発言)
>
と、私が、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、
「仏が見える」と言っている根拠があると【断言】し、二つの根拠をあげてきました。

一つが、獲信したら「現生十種の利益」の自覚があると私が言ったこと。

もう一つは以下のやりとりです。

> =======================
> > (ゼロ 7月14日コメント)
> > ★だからといって、浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、
> > 仏が見えるのでもありません。
> =======================
> >★ なら、なぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、
> >まさに無上覚位を極むべし」と親鸞聖人は書かれたのか、納得のいく説明をお願いします。
> > もちろん、根拠を示してください。それがないなら、ゼロさんの主張は
> >「高森会長の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」のお聖教に基づかない主張ということになります。
> > ながながとコメントを書きましたが、回答はこの7月15日Cだけでも結構です。(宮田さんの発言)
> >

そして、この質問に答えなければ、【根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、この議論は終了】
と、いきなり一方的に突きつけてきました。
ですから、これは極めて重要な問題と考えるのが普通です。

これは一時的な感情でちょっと言い過ぎたとか、議論の中で、そういう一文もあったという程度のものではありません。答えなかったら議論が終わる最重要の内容をあなたは断定して書いたのです。

実際、このやりとりがあった後の、前回のコメントでも

> 上記表現に代表されるような、悟りに近いものを想定してゼロさんが言われているのではないかと思った

と自ら書いているではないですか。
「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」「仏が見える」が私の代表的な表現と。


そこで、私が、あなたの質問に答え、

> 「あなたこそ、【A】【B】【C】の質問に答えられなければ議論は終了です」
>
と返したのです。
>
> > 【A】獲信しても現生十種の利益が自覚できないお聖教上の根拠を出してください。
> >
> >     「現在獲ている幸せが自覚できない」と力説する宮田さんの根拠です。
> >
> >
> > 【B】「獲信した人が、現生十種の利益の自覚がある」=「浄土の世界がアリアリと映像となって見える。仏が見える」
> >    となぜなるのか、お聖教の根拠をもって示してください。
> >
> >
> > 【C】「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」
> >
> >    このお言葉のどこに、「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」と書かれてありますか?
> >    このお言葉のどこに、「仏が見える」と書かれてありますか?
> >
> >     書かれてある箇所を具体的に示してください。
> >
> >    「●●」というお言葉は「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」という意味ではありませんか。。
> >    「●●」というお言葉が「仏が見える」という意味ですよ。
> >     という形で。そして、なぜそうなるのかお聖教の根拠を示してください。
> >
ところが、あなたが「質問はコメント一回につき一つ」「勝利宣言はなしにしましょう」などと弱々しく言ってきたので、 思いっきり譲歩して、【C】の質問のみしたのです。

これが前回までのやりとりでした。


ところが、今回の宮田さんの発言はこうです。(7月21日A)

(【C】の質問は)
> > ゼロさんが【自覚された上での論点ずらし】としか私は思いません。
> >だから、質問に質問で返しただけで、回答はしていないと書きました。(宮田さんの発言)


「自覚した上での論点ずらし」とはどういうことですか?

あなたが選んだ論点ですよ。

あなたが先に「これに答えられなかったら議論終了」と突きつけたのは、「信心」や「智恵」などについてではありませんでした。

「ゼロが、浄土の世界がアリアリと映像となって見える、仏が見える」と いうようなことを主張している根拠を宮田さんがあげて、それに答えられなかったら、【議論終了】と言ってきたのです。

私は、その質問について答えました。
しかも、根拠の中には、本願寺の学者の言葉や、本願寺発行の辞典まで引用しました。

それでもなお、こちらは譲歩して、一つの質問だけでとあなたの提案をのんだのです。

その上で、
>
> 「ゼロは何も答えてない」
> 「ゼロは論点をずらしている」

などとよく言えましたね。

仏法者の風上にもおけないとはこのことです。


あなたがそんなだから、宮田さんのシンパが、こんな程度のコメントをしてきても、完全放置し、増長させているのですよ。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 何度でも言ってやるよ 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
> 馬鹿を誹謗したところで功徳になりすれ、悪にはならないから
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 高森教の邪義しか聞いていないゼロさんのことですから、「二つの心が同時に起こる。」などと、
> ど~せトンデモナイ説明で済ますんでしょうけどね。
> そんな人が実際にいたら、それこそ“【精神病患者】”ですよ。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 二千年かけて、どうぞ“無間地獄”に堕ちていって下さい。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。

あわれなものです。


そして、あなた自身も、
>
> > 「弥勒大士が竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」はアリアリと映像となって
> >見えるということではないということですね。私もそう思います。
>
などとよくまあヌケヌケと言えたものですね。

すこしは、恥というものを知るべきでしょう。

文章についても(実際は山ほどありますが)一つだけ指摘しておきますと

> > > 1.お互い「答えられないなら貴殿は根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、
> > > この議論は終了です」と長文コメントをしない。
>
は、2つに分けてこう書くべきです。

1.お互い「答えられないなら貴殿は根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、
この議論は終了です」というコメントをしない。

2.長文のコメントはしない。


「長い話はしないでください」と「話をしないでください」は全く意味が異なります。
小学校の国語、中学英語の部分否定などで通常学ぶ類の問題です。

この程度で、よく他人に対して

> >「分かる日本語で書いて欲しい」

などといえますね。

こんな状態のあなたでは、『教行信証』の御心など分かる道理もありませんし、
格調高い文章の構造も理解できるはずもないでしょう。


では、最後に改めてお尋ねします。

> > 「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」
> >
> >    このお言葉のどこに、「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」と書かれてありますか?
> >    このお言葉のどこに、「仏が見える」と書かれてありますか?
> >
> >     書かれてある箇所を具体的に示してください。
> >
> >    「●●」というお言葉は「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」という意味ではありませんか。。
> >    「●●」というお言葉が「仏が見える」という意味ですよ。
> >     という形で。そして、なぜそうなるのかお聖教の根拠を示してください。
> >

これに答えない限り、先に進むつもりはありません。

理由は先に書いたとおり。

お互いが、「これに答えられなかったら議論終了」と共通して論じた部分です。

根拠がないなら、誠意ある謝罪を要求します。

2014/07/23




ヒマ

普通ツユチリの疑いなくハッキリすると言えば 少なくとも脳裏にイメージのような映像が浮かんで見えることだと思うのですが。
先輩達は「会長先生は私たちには見えないものが見えている」とよくいってましたから 会長を疑っていない普通に会員をしていたならなら会長には見えているものがあると思っているものです。
Kシリーズを読むと「ツユチリの疑いなくハッキリする」とは言えど さて何の自覚としてハッキリするのか  ハッキリ言っていない、聞いているものに勝手にイメージさせて責任を押し付けている言動ばかりですね。
火に触れるより明らかと言われれば こちらは映像のようにハッキリ見えていると思い込みますよ。
続けて「お父さんが男であり お母さんが女であるようにハッキリしている。それはお風呂に一緒に入っているから間違いのないこと」なんて言われると 会長には目で見ているがごとく地獄とか浄土がハッキリしているものだと思っていました。
たぶんゼロさんも最初はそのように思っていたんじゃないですか?
それで会長に確認したら「そんなこと言っとらん。勝手に想像するな」とか言われてあたふたしてるんじゃないのかな。 

2014/07/23




ヒマ

最初にコメントしたナビさんはどうしてるのかな?
本音は「信心決定したら全てがハッキリするんだー。極楽参り間違いなし。私一人がための本願であった。手に取るように往生ハッキリ往生すっきり 火に触れるよりハッキリ浄土往生の自覚があって、人には見えない極楽浄土が見えて 一息切れたら自分はそこへ行けるんだ。必ず絶対の幸福になるんだぞ」って言いたかったんじゃないの。
今のゼロさんがどんな立場の人か知らないけど 自分が思い描いていた 絶対の幸福のイメージを崩しながらコメントしてるんじゃないの。
いつも思うけど 親鸞会の講師をしてる人達の「信心決定 絶対の幸福」ってどんなものか いや、まず「どうしたら救われるのか」から自分達で話し合ったらどうですか 講師によって思っていることが違いますよ。
それから「信心決定 絶対の幸福」ってどんなことなのか、何がハッキリするのか確認してみては如何でしょうか。
悪い事じゃないでしょ。
曖昧なところは徹底的に会長に聞いて下さい。

2014/07/23




まさき

ゼロさんが最初、宮田さんの「お聖教にあるから信じます」という主張に対して異論を称えたから、こちらとしては、考えうるパターンとして(ゼロさんは、浄土や仏がアリアリと見えるんだ。)と思っただけ。

これに異議を唱えるなら、他に何かありますか?

例えば、
「Aさんは、男だと思います。」という宮田さんの意見にゼロさんが反対すれば、皆、(ゼロさんは、Aさんのことを女だと思っているんだ。)と普通は思うでしょう?

しかもゼロさんは、「獲信したら、智慧の名号を頂いて仏智を得られる。」などという、獲信したら仏智を得て「浄土や仏のことが、アリアリとわかるようになる。」と皆に思われても仕方がない発言もしています。

改めて宮田さんに質問するまでもなく、「浄土や仏がアリアリと見えるようになる」と思わせるような事を最初から言い続けているのは、ゼロさん、あなた自身ですよ。

もう一度、ご自分の書き込んだ文章を冷静に読み返してみて下さい。

あなたがしている事は、「Aさんは、男じゃない。」と言い続けて、「じゃあ、ゼロさんは、Aさんを女だと思うのですね?」と聞いたら、「なぜ私が、Aさんを女だと思っているのか、その根拠を示せ!」と言っているようなものです。

こんなヒドイ人と法論したのは、私も初めてですよ。

私の判断では、ゼロさんには、法論できるだけの日本語能力が無いと思われます。

ゼロさんが理不尽な事を言っているのは、誰の目から見ても明らかなので、もう、この法論は打ち切った方がいいと思います。

とにかくヒド過ぎる。

これでは話になりません。

2014/07/23




ヒマ

何人のナビさんやゼロさんがいるのでしょうか。
途中で人が変わるから 何が何やらわからなくなっているのでしょうね。
質問を繰り返して都合の悪い時は「分からないから分かるように説明しろ」と 駄々をこね 相手を罵倒して自分は質問には答えない。いつもの手口です。
高森会長のやり方ってこんなもんですよ。
親鸞会は全て会長の指示で動いているから この議論もほぼ会長の言葉と思っていいのではないでしょうか。
一人の講師ならばここまで馬鹿じゃないと思う。

全て会長の指示と思えば納得です。

2014/07/23




id:shinrankaiuso

この通りでした、

再掲

ゼロさんの対応は如何に。

ケース1 質問を無視して、自分の質問に答えろと言い続ける。

ケース2 「弥勒菩薩の成仏の時期を、親鸞聖人が体験からハッキリ知らされた」と回答。(すると親鸞聖人は仏智並みの智慧を体得されたことになる?)

ケース3 「弥勒菩薩の成仏の時期は、経典を通して知られただけ」と回答。(すると次の「念仏の衆生は…」も「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」と言えるのでは?)

ケース4 逃亡。

予想は、ケース1。
しかし、自分が最初に出した根拠に対する質問なのだから、まずはゼロさんが説明しないと示しがつかないよ。

2014/07/23



id:shinrankaiuso

4年前に、mixiでの三願転入の法論で大惨敗した時の手口と同じですね。

あの時は、途中から

「根拠は?」→「その前に明らかにすることがあるからこの質問に答えよ」
「貴方の主張はおかしい」→「そんなことは言っていない、どこで言ったか答えよ」→「じゃあ、貴方の主張をハッキリ言ってみて?」→「その前に明らかにすることがあるからこの質問に答えよ」

この繰り返しでした。
最初に親鸞会側の出した根拠が、実は退会者の主張を証明する根拠だと判明したから、必死に、言い方が悪いだの、問題のあるコメントだとか言いまくって、誤魔化し続けましたが、最後は逃亡、トピック自体の削除。

残念ですが、今回は管理人が親鸞会側ではないので、コメントの削除も、トピックの削除もできません。

2014/07/23




id:shinrankaiuso

では原点に戻りましょう。
ゼロさんの最初の方のコメントが全てです。
ここで出した根拠が、宮田さんの主張の正しさを証明する根拠だったと判明したのですよ。


(ゼロさん2014/07/02コメントより抜粋)
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)
親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、
「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」
ということでしょうか?
分かりやすく教えてもらえませんか。

(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、
「獲信すれば、浄土往生がハッキリする」
と主張しています。
根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す
  一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。
とおっしゃっています。
 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 
間違っても、
「この親鸞
 『念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?

2014/07/23




まさき

この法論が、高森会長の指示のもとになされているというのなら、支離滅裂なのもうなずけます。

私が親鸞会にいた時も、教学講義の問いに対する高森会長の答えは、支離滅裂でした。
それを察した専任講師が、慌ててフォローするという一幕もありましたっけ…。
その時は、(もしかして会長先生は、ボケてこられたのか?)とも思いましたが、今思えば、もともと教学講義を開けるような教学力なんか無いのに質問を受けることになって、どう誤魔化すかに必死だったのでしょう。

今回の法論にも、高森会長の教学力の無さと狡猾な人格が良く表れていますね。

この法論を誰でも閲覧できるようにしたのは、正解でしたね・・・(笑)。

この法論を読めば、「親鸞会独自の理論の押し付けに、ほとんどの相手が愛想を尽かした。」というのが、“親鸞会の法論の実態”だということが、本当に良く分かりますからね。

2014/07/23




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ (2014年07月23日(水)A)

今回から年月日で日付をつけました。

私の質問の仕方、議論の進め方にご気分を害された点については深くおわび致します。

そこで、私がゼロさんの気分を害するような質問をなぜしてしまったのかを、時間にそって説明させて頂きます。

ゼロさんは、7月7日Aのコメント内で以下のように仰有いました。

(ゼロさん 7月7日A より抜粋)
ですが、「往生の一大事(浄土往生)」は、他力の信心(智慧の名号)で分かり
ます。
獲信した人は、他力の信心(智慧の名号)をいただいております。
だから、仏智によって知らされるのです。

その後のコメント欄でのやり取りで、ゼロさんが上記のように仰有った真意が私には分かりかねました。もともと浄土往生の自覚が主な論点でしたから、そこはお互いの立場をハッキリさせねばと思いました。私の立場については、ブログのコメントでも過去の安心問答にも書いてきたと思っております。

そこで、私は2014年07月13日のコメントに改めてゼロさんにお訊ねしました。

(宮田 2014/07/13のコメントより抜粋)
前述しましたが、「『往生の一大事(浄土往生)』は、他力の信心(智慧の名号)で分かります。 」とゼロさんが言われているのが私にはまだ分かりません。
(略)
上記書きましたが、仏智により「死後、弥陀の浄土へ往って仏に生まれる」ことに疑い晴れた、ということ。この世で極楽世界がありありと分かり、仏様を拝見するという意味ではない。」とはどういうことでしょうか?


それに対するゼロさんのコメント

(ゼロさん 7月14日 より抜粋)
どういうこととは、どういうことでしょうか?

獲信した人が、智慧の名号をいただかないとでも言うのですか?

質問に対して質問で返されています。

(ゼロさん 7月14日 より抜粋)
名号をいただいても、私を離れた名号で、私には何も分からない、ということですか?

往生浄土の自覚はないと、私は繰り返し書いてきましたが、それもまた無視して質問に質問で返されています。また、この文章を読む限りは「この世で極楽世界がありありと分かり、仏様を拝見するという意味ではない」けれども、「何か浄土往生に関して仏智により知らされる」とゼロさんが主張されているようにしか、私には読めません。しかも、「この世で極楽世界がありありと分かり、仏様を拝見するという意味ではないなら、どういうことですか?」という私の問いには全く回答されていません。

(ゼロさん 7月14日 より抜粋)
名号と一体になっても本願に誓われたことが知らされないなら一体になっているといえないではないですか。


これも、仏智によって「本願に誓われたことが知らされる」(議論の流れでは浄土往生)と、同じことを繰り返し書かれています。私がこの直前に訊ねたのは、ゼロさんのいう「仏智により浄土往生が知らされる」というのが「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、「仏が見える」のではないなら、一体何を意図しているのかという点です。
この文章も回答は有りませんでした。

(ゼロさん 7月14日 より抜粋)
南無阿弥陀仏の主になっても、本願まことと知らされないのですか?

その「本願まこととと知らされる」を、ゼロさんは「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」と言われているので、そこについて訊ねたのですが、ここでも回答はなくまたも質問に対して質問です。

(ゼロさん 7月14日 より抜粋)
南無阿弥陀仏によって救われる(疑い晴れる)のではないですか?

はい、その「疑い晴れる」が、ゼロさんの主張では「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」と言われているので、そこについて訊ねたのですが、ここでも回答はなくまたも質問に対して質問です。

またゼロさんは、7月14日のコメントで以下のようにも書かれていました。

(ゼロさん 7月14日 より抜粋)
智慧の名号によって、本願に対する疑いが晴れます。
本願どおりに救われ、「死後、浄土往生できるだろうか」の疑いが晴れます。
私の疑いを、阿弥陀仏南無阿弥陀仏で破ってくださるのですから、私の疑いが晴れるのです。

法の上では疑い晴れているが、人の上では晴れていないなんて馬鹿なことはありません。弥陀の本願を疑っていたのは「人」なのですから、

だからといって、浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、
仏が見えるのでもありません。

繰り返しになりますが、ゼロさんの主張では「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」と言われているので、そこについて訊ねたのです。しかし、ここでも、「浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、仏が見えるのでもありません」の繰り返しで、何の回答もありません。

(ゼロさん 7月14日 より抜粋)
獲信したら、私の心が【極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし】となるのです。


繰り返しになりますが、ゼロさんの主張では「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」と言われているので、そこについて訊ねたのです。しかし、ここでも、何の回答もありません。

元を言えば

(ゼロさん 2014/07/02コメントより抜粋)
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?
分かりやすく教えてもらえませんか。

とゼロさんは書かれています。

(ゼロさん 2014/07/02コメントより抜粋)
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?

これに対して私は、そうですという意味で

(宮田 2014/07/03 コメントより抜粋)
それが三随順ということです

と書いています。

それに対して、ゼロさんは

(ゼロさん 2014/07/02コメントより抜粋)
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?

という態度を崩されていませんよね?
つまり、
・「真に知んぬ」と知らされたら、浄土往生はハッキリする。
・「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」はあり得ない。
ということです。

にもかかわらず、ゼロさんの主張される「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」については何の回答も今日まで有りませんでした。


そこで、私はこのころにコメントがお互い長くなり、直前のゼロさんのコメント(7月14日)が、4000文字を超えていました。にもかかわらず、上記の私の問いには一文も回答が有りませんでした。そこで私が、コメント欄に書いた文章(7月14・15日)は、ゼロさんのコメント文章の引用を含めて9400文字を超えていました。
コメント欄に書くにはあまりに長くなってきたので、私もゼロさんに対していい加減に「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」の真意を糾したくなりました。
また、

・「真に知んぬ」と知らされたら、浄土往生はハッキリする。
・「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」はあり得ない。

と主張する真意を糾したくなりました。

そこで、質問をしたのですが、それについては現在も回答頂けておりません。
あまりにコメントが長くなったので質問をさらに短くしたのが以下のものです。

(宮田 2014年07月19日B コメントより)
真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証・信巻末)
http://goo.gl/za4hbw
ゼロさんの文章では「真に知んぬ」以降はハッキリ知らされるということになります。
「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」もハッキリするんですよね?

つまり、ゼロさんの主張では、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」が「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」のであるが、「『獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます』はあり得ない」のですよね?

そこで、「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」ならば、「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」については、どう理解したらよろしいのでしょうか?という問いを建てた次第です。

私の説明不足で、ゼロさんに不快な思いをさせてしまったことは、改めて深くおわび致します。
上記、私が質問を出した意図をご理解頂ければ、

(ゼロさん 2014年07月22日(火)のコメントより抜粋)
「●●」というお言葉は「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」という意味ではありませんか。。
「●●」というお言葉が「仏が見える」という意味ですよ。

という意図で私が訊ねたのではないことはご理解頂けたのではないかと思います。
(ここまで2400文字超)

2014/07/24




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ(2014年07月23日(水)B)
最後になりますが、以下のお訊ねにお答え頂いておりません。

(宮田 2014年07月22日(火)コメントより抜粋)
では、お訊ねします。
「弥勒大士が竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」は経典に載っていることを、親鸞聖人が信心決定されて「真に知んぬ」と言われている文章ということでよろしいでしょうか?

私が、「お聖教にあるから信じる」と言ったことと同義となります。

ゼロさんのコメントに2400文字超の文章を書いたので、上記についてはなにかお答え頂きたいところです。ゼロさんが、私に何かお訊ねされるのは構いませんが、私の質問には少なくとも答えてください。よろしくお願い致します。

2014/07/24




やめ確定学徒

ゼロナビさんのせいで「やめやめ」から「やめ確定」学徒になりました(笑)

ゼロナビさんの主張はこうでしょ。
******************************************
間違っても、
「この親鸞
『弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。』
と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?
******************************************

親鸞聖人(信後の人)は弥勒菩薩でさえ分らないことが分る智慧を得らることができる」とハッキリ言ってよ(笑)

2014/07/24




やめ確定学徒

間違えちゃったよ、ゼロナビさんに指摘される前に訂正(笑)

正しくは以外

親鸞聖人(信後の人)は弥勒菩薩でさえ分らないことが分る智慧を得ることができる」とハッキリ言ってよ(笑)

2014/07/24




やめ確定学徒

以外じゃなくて以下ね

2014/07/24




まさき

ゼロさん、完敗ですね。

普通の読解力がある人なら誰でも分かります。

結局、本格的な法論が始まる前に終わっちゃいましたね…(笑)。

未信のゼロさんが信心を詐称して、知らされてもいない信後のことを語ったりするから、つじつまが合わなくなってくるのです。

もうこれ以上、質問に対して質問で返しても、何の意味も無いと思いますよ。

2014/07/24




とくよしみね

何人かで書いていると思う。
会長もきっとみている。
親鸞聖人の教えを明らかにし、会員の一人でも救おうという気持ちのかけらもない。
最後のゼロさんのコメントはひどすぎる。
これでは現役の会員は死ぬまでむしり取られるだけだ。
このやりとりを顕正新聞に自信もって載せられますか。

・・・そんなことはなから考えてないか。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

2014/07/24




さて

ゼロさんへ

宮田さんも、他の方も皆、貴方の言っていることが理解できないの。日本語の理解力の問題かもしれませんが、そんな我々の為に、ゼロさんの主張をハッキリと書いてくださいませ。

「弥勒大士が竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」は経典に載っていることを、親鸞聖人が信心決定されて「真に知んぬ」と言われている文章ということでよろしいでしょうか?
それとも、仏智並みの智慧を体得されて、親鸞聖人は弥勒菩薩の成仏の時期を経典を通さずに知らされたのでしょうか?

日本語の不自由な我々の為に、是非ともハッキリと教えて!

2014/07/24




まさき

ゼロさん「Aじゃない。」

「じゃあ、Bですか?」

ゼロさん「Bじゃない。」

「AでもBでもないなら、何ですか?」

ゼロさん「私がBだと思った根拠を出せ!」

もうこんな事を繰り返すのはやめましょうや。
これ以上続けたら、単なる嫌がらせになっちゃいますよ。
(まあ、最初からそれが目的だったのかもしれませんが・・・。)

親鸞聖人の御教え』を明らかにするのがゼロさんの本意なら、今度こそゼロさんの主張をズバッ!と述べちゃって下さい。

宮田さんは、ご自分の主張をハッキリと述べておられますよ。

本当に自信があるなら、ゼロさんにもできるはずです。

2014/07/24




ゼロ

■ゼロから宮田さんへ 2014年7月24日

> 私の質問の仕方、議論の進め方にご気分を害された点に
> ついては深くおわび致します。(宮田さんの発言)

まことに失礼ですが、相変わらず宮田さんは頓珍漢で、議論以前の問題なのでどうしたものかと思っています。

問題の焦点は、あなたの「質問の仕方」や「議論の仕方」ではありません。
繰り返しになりますが、まだ理解できていないようなので、よくよく読んでください。

そして、「たくさん書いたから答えて」という幼稚なやりとりはやめにしませんか?

たくさん書けばいいものではありません。
ほとんどが言い訳であり、私への非難の文章ですよ。

仮に、200字がお詫び、2200字が言い訳や非難とすれば、

 200 - 2200 = -2000

で、2000字も使って、私にマイナスのコメントをしたのです。
これが算数の足し算と引き算の基本的な考えです。

よくぞ「たくさん書いたから答えて」と言えたものですね。

あなたももう40才前後なのでしょう?
もうそろそろ……

では、気を取り直して、本題に入ります。

(ゼロ 7月14日コメント)

> > 私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、
> > 「仏が見える」とか聞いたことがありません。
>
> =======================
> >★ 【いえ】、そんなことをいうために根拠を【出しています】。次の7月15日
(火)Cで書きます。(宮田さんの発言)
> =======================

こういうのを【断定】というのです。
質問ではありません。
^^^^^^^^^
 何度もハッキリ否定しているにも関わらず、
「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」
「仏が見える」と私がいうために根拠を出していると
 宮田さんは【断定】しました。

そして、同じ7月15日に、
私が、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」
「仏が見える」と主張している【根拠がある】と示してきたのです。
それが次の言葉です。
>
> ■7月15日(火)C
>
> > ★では、【根拠】を書きます。根拠は、ゼロさん自身のコメントに有ります。
(宮田さんの発言)

これも質問ではありません。【断定】であり、いわゆる【これが証拠だ】、と言ってきたのです。

そしたあなたが示した「根拠」は2つ

1つは、ゼロは「獲信した人は現生十種の利益の自覚がある」と言っている。

もう1つは以下のやりとりです。

> =======================
> > (ゼロ 7月14日コメント)
> > ★だからといって、浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、
> > 仏が見えるのでもありません。
> =======================
> >★ なら、なぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、
> >まさに無上覚位を極むべし」と親鸞聖人は書かれたのか、納得のいく説明をお願いします。
> =======================

ここで改めて質問します。

7月14日時点で、私が「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見え
る」「仏が見える」と主張している根拠は「ある」と宮田さんは【断言】しましたが、
今現在もその根拠が「ある」のですか? 「ない」のですか?
どちらかで答えてください。

 ある( )その根拠:

 ない( )

※記入例

 ある( )その根拠:

 ない(○)

私に対して、「これに答えなければ、ゼロは根拠なき妄想を言っていたとし、議論は終了」
とまであなたが突き付けてきた部分です。
そして、私がもう答えられないだろうと思っていた、あなたにとって自信があるところです。

そして、私が反論したら、「議論は一つずつにしましょう」「いきなりの勝利宣言はやめましょう」と、自分の都合のよい展開を要求したきっかけにもなった部分です。
重箱の隅の議論ではありませんし、論点ずらしでもありません。

今度こそ、責任ある回答をしてください。

あと、たびたびお伝えしておりますが、宮田さんの日本語理解はどうにかならないでしょうか?

初めは議論を有利にすすめるためにわざと、とぼけているのかと思っていたのですが、途中から、どうやら本当に、宮田さんは日本語がよく分かっておられないのではないかと思うようになってきました。
(あえて「苦手」とはいいません。ご自身は自信があるようですので)

理由は山ほどありますが、その一部をお伝えします。

(例1)私の質問を私の主張と勘違いする。

> 7月15日B
> (ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
> 名号をいただいても、私を離れた名号で、私には何も分からない、ということですか? (ゼロの質問)
>
> 現前の仏勅が、なぜ私を離れているといえるのか分かりません。
> こういう文章を書くと、ゼロさんにとって南無阿弥陀仏は現前の仏勅ではなく、
> 離れたところにあると告白していることを自覚されたらいいです。それを疑心と
> 言うのです。自覚なかったようなので、元親鸞会会員だったよしみでお知らせ
> しておきます。(宮田さんの発言)

私は、「宮田さんは、名号をいただいても、私を離れた名号で、私には何も分か
らない、というとんでもないことを思っているのですか?」と質問しているので
す。
私は、名号と一体になる云々といっているのですから、流れとしても、私の考え
ではなく、疑問だと分かると思うのですが……

ともかく、質問=主張 とは限りませんからね。
覚えておいてください。

(例2)全文否定と部分否定の区別がつかない。
>
> 「長い話はしないでください」と「話をしないでください」は全く意味が異なります。
> 小学校の国語、中学英語の部分否定などで通常学ぶ類の問題です。

ということを7月22日のコメントでお伝えしました。
今は理解できていることを願っています。

(例3)「質問」と「断定」の区別がつかない。

これは先に書きましたね。
あなたのあの文章は「断定」です。「質問」ではありません。

(例4)たくさん書けば誠意が伝わると思っている。

これも先に書きました。足し算、引き算が現実の生活で生かされていないようで
す。

(例5)
「いつ死んでも極楽往生間違いなしとハッキリする」を
「極楽浄土がアリアリと映像となって分かり、仏が見える」と勘違いする。

一体全体、どうしてこんな早とちりをするのか理解できません。
一度たりとも、こんなことを思ったことはないのですけど、宮田さんや、そのシンパの皆さんは、どうもこの二つの文章がイコールに読めるらしい。どうして「仏が見える」と勝手に妄想し、妄想上の相手を非難するんでしょうね。

(他多数)

こんな状態で、『教行信証』のお言葉、そして、聖人の御心をくみ取るなど、宮田さんにはとても無理だと思っております。残念ですが。

そこで、最低限、次のテストに合格できましたら、あなたの質問に答えて先に進もうと思います。
とても簡単です。小学6年生でも普通解けます。

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う( )

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D( )
3:どちらも同じくらい言いたい( )

こんな簡単な問題を間違ったり、答えられなかったりするようなことがあれば、これからの議論は到底無理と思っていただかねばならないでしょう。

納得いかないようでしたら、この【1】【2】がいかに簡単か、
近所の中学生に質問してみるといいですよ。

きちんと答えられることを念じています。

なお、私は、7月21日に

> > 根拠をだせとはいいませんが、ゼロさんの主張として弥勒大士が「竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」を、
> >親鸞聖人がハッキリすると仰有ったのか、否かをお示し下さい。(宮田さんの質問)
>
> 宮田さんは独特(勝手)な言葉の理解が多いので、正しいこちらの意図が伝わるかどうか一抹の不安がありますが、
> このお言葉は、「浄土の世界ががアリアリと映像となって見える」「仏が見える」という意味で「ハッキリする」とおっしゃたのではありません。
>
と、あなたの質問に答えています。

宮田さんは、「ハッキリする」=「浄土の世界ががアリアリと映像となって見える」「仏が見える」
という理解をしているようですので、その点でいえば「否」ということです。

獲信すれば、本願に誓われていることはツユチリの疑いもなくなります。

阿弥陀仏の本願 = 必ず浄土往生させてみせる

ですから、獲信した人は「必ず浄土往生させてみせる」のお約束にツユチリの疑いもありません。
ですが、本願に誓われていない経典上のことは、「仏語に虚妄なし」「仏説まこと」と知らされます。

「信じるに過ぎない」は不適切な言葉です。

読まれて分かられるように、先のテスト【1】【2】の小学六年生でも分かる文章と
は桁違いに難しい内容になってきます。

なので、ここから先の展開は、【1】【2】のテストに合格してからにしましょう。

これで私は、あなたの質問に2回答えました。

しかも、あなたのご希望どおり、【A】~【K】の11の質問を1つに絞りました。

なのに、宮田さんは、何やら言い訳を繰り返すばかりで一向に答えてくれません。

今度こそ、私の以下の質問に答えてください。

7月14日時点で、私が「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見え
る」「仏が見える」と主張している根拠は「ある」と宮田さんは【断言】しましたが、
今現在もその根拠が「ある」のですか? 「ない」のですか?
どちらかで答えてください。

 ある( )その根拠:

 ない( )

2014/07/25




id:shinrankaiuso

ゼロさんと、宮田さんを初め他の皆さんとは、日本語の理解に大きな差があります。あえてどちらが上とはいいません。

それでお互いの日本語理解力の差を埋めるためにも、宮田さんの質問に答えてください。

それですべて解決します。

(宮田 2014年07月22日(火)コメントより抜粋)
では、お訊ねします。
「弥勒大士が竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」は経典に載っていることを、親鸞聖人が信心決定されて「真に知んぬ」と言われている文章ということでよろしいでしょうか?
私が、「お聖教にあるから信じる」と言ったことと同義となります。

2014/07/25





id:shinrankaiuso

ゼロさんは答えたと断言していますが、答えたと思っている人は、誰一人いません。
はぐらかした、としか思っていません。

ハッキリ答えてください。

(宮田 2014年07月22日(火)コメントより抜粋)
では、お訊ねします。
「弥勒大士が竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」は経典に載っていることを、親鸞聖人が信心決定されて「真に知んぬ」と言われている文章ということでよろしいでしょうか?
私が、「お聖教にあるから信じる」と言ったことと同義となります。

2014/07/25




まさき

なんだ、結局ゼロさんには、主張したいことなんてないんじゃん。

>本願に誓われてない経典上のことは、「仏語に虚妄なし」「仏説まこと」と知らされます。

あなたのこういう言い方が、誤解を招いていることがまだ分からないのですか?

『弥勒大士が竜華三会の暁、まさに無上覚位を極べし・・・』の御文 → 本願に誓われていないことは、「仏語に虚妄なし」「仏説まこと」と知らされますぅ~?! 凡夫の智慧でぇ~?!
そんなバカなぁ~~~~~~~~~~~~!!

こんな感覚で、人に日本語のテストをしている場合じゃないですよ、アハハハハ。
エラそ~に!

宮田さんの“信じるにすぎない”という言葉を不適切だと言い切るゼロさんは、ナント!生き仏様だったんですねぇ~(苦笑)。

2014/07/25




まさき

親鸞会の専任講師は、布教使の命である“説法”を取り上げられています。

理由は、高森会長の長男より秀でた人気講師が現れた為です。

高森会長の長男の後継者としての地位を安泰にする為には、専任講師から説法を取り上げるのが一番の得策だと判断したのは、もちろん他でもない高森会長です。

ですからゼロさんが、自分の言葉使いの不適切さを棚に上げて、宮田さんに日本語のテストをしたのも、説法の経験を積んでいない為だと思われます。

説法経験のないゼロさんには、自分の言い方が他人に誤解を与えているのだということにさえ、気付けないでいるのです。

ゼロさん、そんな言葉使いで人に伝わるとでも、本気で思っているのですか?

ゼロさんこそ、日本語の勉強と説法経験を積んでから、出直してきて下さい。

2014/07/25




やめ確定学徒

想定通りのゼロナビさん(笑)

宮田さんの質問に答えたら、完全終結だものね(笑)

俺に続くやめ確定学徒を増やそう(笑)

2014/07/25




まさき

ゼロさんに“説法経験を積んでから、出直してきて下さい。”などと、酷な事を言ってしまったことを反省しています。

親鸞会の専任講師は、布教使ではありませんでしたね…。

高森会長の10分程の説法原稿を丸暗記して、一字一句間違えずに吐き出すだけのテープレコーダーでした。

専任講師の主な仕事は説法ではなく、無給でビデオのボタンを押すことと、安心弁当を配ること、あ、それと、一番大事な事を忘れていました…会員さんに「助かりたかったら、もっと金を出せ!」と、ダニのようにしつこく金をせびることでしたね。

専任講師を無給で飼い殺しにし、集金係に貶めているのも、(なにがなんでも息子を時期会長にしたい。)という“会長先生の深い御心”からですから、どうか耐えて下さいね。

本願寺の布教使の卵は、徹夜で説法原稿を書かなければ間に合わない時もあるくらい、しごかれていますよ。

それに親鸞会の専任講師と違い、もっと謙虚です。

間違っても、自分の言いたい事が相手に伝わらないことを相手の日本語能力に問題があるとみなし、日本語のテストを施すなどという失礼極まりないことはしません。

それでは、布教使失格ですからね。

本願寺の布教使」と「親鸞会の専任講師」を同列にみなした私の方が間違っておりました。

説法経験を積みたくても、ゼロさんには、その機会さえ与えられてはいませんでしたね・・・。

2014/07/25




熱中症に注意

ゼロは、

「わざと対象範囲をスライドさせて反論する」典型的な詭弁論法。いつもの高森さんやね

2014/07/26




まさき

本当に暑いですね、うへ。

誤字訂正致します。

誤:「なにがなんでも息子を時期会長にしたい。」

正:「なにがなんでも息子を次期会長にしたい。」

・・・でした。 どうも失礼致しました。

親鸞会は、もう“まな板の上の鯉”なのですが、「日本語がああああああぁ~!」と叫びながらパクパクと暴れているので、誤字には気を付けなくっちゃ。

2014/07/26




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ(2014年07月25日(金)A)

多く書けばいいというものではないのは全く同意です。しかし、議論の流れからを改めて書いて私の質問意図は伝わっているだろうと思っておりました。

(宮田 2014年07月23日(水)Aより抜粋)
上記、私が質問を出した意図をご理解頂ければ、

(ゼロさん 2014年07月22日(火)のコメントより抜粋)
「●●」というお言葉は「浄土の世界がアリアリと映像となって見える」という意味ではありませんか。
「●●」というお言葉が「仏が見える」という意味ですよ。

という意図で私が訊ねたのではないことはご理解頂けたのではないかと思います。

と書きましたが、今回のゼロさんのコメントを読み私の質問の仕方が悪いとのご指摘を深く受け止めて、ゼロさんに伝わるように訂正します。

(旧)質問

(ゼロさん 7月14日コメント)

私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、仏が見える」とか聞いたことがありません。

=======================
【いえ】、そんなことをいうために根拠を【出しています】。次の7月15日
(火)Cで書きます。(宮田さんの発言)
=======================


(新)質問

(ゼロさん 7月14日コメント)

私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、仏が見える」とか聞いたことがありません。

確かに、ゼロさんの主張では「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」と書かれていますが、その一方でそれを自分で否定されるようなことを書かれています。それについて私は再三お訊ねしていますが、それについての明確な回答は有りません。

つまり、ゼロさんは「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」と書かれてと言いながら、ほとんど同じことを書かれています。

それが、以下のものです。

(ゼロさん 2014/07/02コメントより抜粋)
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず。「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」ということでしょうか?

つまりここでゼロさんは「真に知んぬと知らされたら、浄土往生はハッキリする。しかもそれはお聖教にあるから信じますといったようなものではない」と言われています。

そうなるとゼロさんは「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」が、浄土往生はハッキリすると主張されているわけです。

ご存知のことと思いますが、浄土というのは凡夫にわかる領域ではありません。

安養浄土の荘厳は
唯仏与仏の知見なり(高僧和讃 天親讃)

唯仏余仏の知見と言われる「浄土」への往生がハッキリするとは、ゼロさんの否定されている「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」
以外になにかあるとは思えません。

そして、なぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」と親鸞聖人は書かれたのか、納得のいく説明をお願いします。

これを踏まえて質問です。
この「弥勒大士が竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」は経典に載っていることを、親鸞聖人が信心決定されて「真に知んぬ」と言われている文章ということでよろしいでしょうか?
私が、「お聖教にあるから信じる」と言ったことと同義となります。

以上
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私は、こういう意図で質問をしましたが、日本語の力が不足しているのでゼロさんには伝わら
なかったようですね。ただ、これまでの議論の流れから言えば上記の意図は当然伝わっているものだとおもったのも事実ですが、私の日本語不足とゼロさんはお叱りなのでそこは聞き入れて改めて書きました。


ゼロさんの問いに対しては、質問の変更という形で回答とします。また、ここに書いた私の質問が今回のゼロさんへの質問でもあります。

よってゼロさんは回答をお願いします。私は、今回のコメントの文章は回答になっていないと思っていますが「あれで回答なんだ」と主張されるであればその旨をコメントお願い致します。

よろしくお願いします。

2014/07/26




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ(2014年07月25日(金)B)

タイトル「詭弁は見苦しい」

こちらは真宗の話を議論しているつもりでしたが、「日本語能力に欠ける相手とは話ができない」ですか。
私の日本語能力は、それほど高くは有りませんが、これが「典型的な詭弁」だということは知っています。よって貴方の日本語テストに解答するつもりは有りません。


ゼロさんは、ご自分が私の質問にまともに回答していないことも、私の問いも、なぜか「宮田の日本語能力に問題がある」ということにスライドしていますね。おまけに、それに対する釈明が随分長く、私の問いに対する回答はまたしても回答になっていません。

(ゼロさん 7月18日Bコメントより抜粋)

次回、何か反論らしいことをして、「あなたは間違い、だからあなたの負け」と一方的な
恥ずかしい勝利宣言はしないように。その次にちゃんと答えてあげますから。

お互い議論の真っ最中なのですから当然でしょう。
人間としての、最低限のマナーは守りましょうね。

と言われていたゼロさんとも思えないコメントですね。
「あなたの日本語能力は劣っている、だからあなたの負け」と一方的な恥ずかしい勝利宣言はしないようにお願いします。
ゼロさんのコメントを読んで思い出したのは、2013年の国会でクイズ大会を始めて炎上した民主党議員です。
http://matome.naver.jp/odai/2136457555971698501


すでに2014年07月25日(金)Aのコメントに質問は書いたので、ゼロさんの回答になっていない回答に対する質問はまた次回以降にします。


ゼロさんは、このような詭弁を弄してブログの読者を納得させられるとは思ってはいないでしょうね。しかし、会の内部になんとか言い訳が立つように考えての事でしょう。ただ、会の人間も全員貴方より日本語能力に劣っている訳では無いでしょう。高森会長さえ騙せればいいなんて思っているのなら、それこそ親鸞会的な意味での「善知識をおろかにおもい、師を謗るもの」になってしまうんではないですか?

ついでに、高森会長へ、もしこのコメントをパソコンの画面で見ていたら、適当な途中経過を入れている人間の言うことは信用しない方がいいですよ。貴方にそれこそまともな読解力があるなら、議論の経過はご覧の通りです。

2014/07/26



(匿名)
山も山さんの最後のコメントいいですね。
この際、高森会長も加わって救われたら 何がどのようにハッキリするのか とことん議論したら如何でしょうか。
それが 親鸞会の高森会長の目指すところでしょうからね。

会員も大喜びですよ。「法論のお布施」も募れますよ(笑)。

2014/07/26




ヒマ

親鸞会さん いっそのこと 公開討論にして会員にも見せたら如何でしょうか。
都合悪ければ 新しいブログを立ち上げて
親鸞会VS元講師&会員」
「救われたら何がどのようにハッキリするのか」

皆さんお知りになりたいでしょうね。

2014/07/26




JB→宮田さん

ちょっと真面目に書くのもバカバカしいですが、宮田さんにものもうします。

(旧)質問

(ゼロさん 7月14日コメント)
私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、仏が見える」とか聞いたことがありません。
=======================
【いえ】、そんなことをいうために根拠を【出しています】。次の7月15日
(火)Cで書きます。(宮田さんの発言)

この「断定文」のどこが「質問」ですか?

「出しています」
「書きます」
「根拠があります」

これのどこが「質問」ですか?

人をバカにするのもたいがいにしたら如何?

断定文を質問だといってはばからない人が他人様に詭弁だのなんだのいう資格がありますか。

会社でも間違いがあれば、謝罪するのみですよ。それですらお許しいただけるかどうかわからないのです。

なのに、他人様をあざけるようなコメントを同じ日に書くなど最低です。

仏法者として恥ずかしい。

まずは誠意あるお詫びでしょう。
お許しをいただいたら、先に進むことができるのです。

常識の中の常識です。

日本語問題にスライドしているのではなく、あなたが日本語レベル、もっといえば人間としてなっていないから、議論が進まないのではありませんか。

周りの人からチヤホヤされて、いい気になっているとしたら裸の王様もいいところです。

2014/07/26




まさき

JBさんへ

ものもうすなら、この法論を最初からキチンと読んでから、“ものもうして”下さい。

途中から参加して、一部分だけ抜粋したものを読んで、決めつけるのはやめましょう。

最初からキチンと読んだ上で言っているのなら、あなたの読解力大丈夫ですか?

断章主義が身に沁みついているのでしょうけど、あなたこそ人をバカにするのもたいがいにしたら如何?

2014/07/26




まさき

シンパかアンチか知らないけど、JBさんのような“勘違いさん”が登場すると、余計、議論が進まなくなります。

今の親鸞会は、トドメを刺されたくなくて、子供じみた詭弁を使って、宮田さんの質問から逃げ回っているという状況です。

傲慢にも他人に日本語のテストなどを施して、仏法者として非常に恥ずかしい事をしているのですよ。

回りの人からチヤホヤされた裸の王様は、親鸞会の高森会長の方ですから、どうか、お間違えなきよう、よろしくお願い申し上げます(苦笑)。

2014/07/26




まさき

誤字訂正致します。

【誤】回りの人からチヤホヤされた裸の王様は、親鸞会の高森会長の方です・・・

【正】周りの人からチヤホヤされた裸の王様は、親鸞会の高森会長の方です・・・

どうも失礼致しました。

2014/07/26




id:shinrankaiuso

JBさんのような勘違いコメントをする人がいますので、一応。

***************************************
(ゼロさん2014/07/02コメントより抜粋)
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)
親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、
「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」
ということでしょうか?
分かりやすく教えてもらえませんか。

(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、
「獲信すれば、浄土往生がハッキリする」
と主張しています。
根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す
  一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。
とおっしゃっています。
 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 
間違っても、
「この親鸞
 『念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?
***************************************

このようなことを大上段に構えて言いきった訳ですよ。
しかし、ここがすでに詭弁であったので、私がこのようにコメントを書きました。

***************************************
(shinrankaiuso 2014/07/04コメントより抜粋)
ついでに教えておくと、
「真に知んぬ」の後が略されているけど、何が書かれてあるか知ってますか?
「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」
親鸞聖人はハッキリと、弥勒菩薩が竜華三会の暁に無上覚位を極むべしと知らされたのですよね。
親鸞聖人は他人のことまで分られる智慧を得られたということですかね。
「真に知んぬ」ですよ。
弥勒菩薩が仏に成られる時までハッキリ知らされた、と同じレベルで、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」ですけど。

(shinrankaiuso 2014/07/04コメントより抜粋)
「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」
信心獲得すれば、会ったこともない弥勒菩薩のことを知ることができるだけではなく、弥勒菩薩の成仏の時期まで見通す超能力が備わる
こう言うことで宜しいか?
違うでしょう。
信心獲得しても弥勒菩薩のことを知る智慧が備わる訳でもなければ、弥勒菩薩の成仏の時期を見通す超能力が備わることもない。しかし、お聖教に説かれてあるから、それを信じるに過ぎない。
こういうことでしょう。
同じことで
「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
これは、
信心獲得しても未来を見通す超能力が備わる訳ではないが、お聖教に説かれてあるから、それを信じるに過ぎない。
こういうことですよ。
それと、往生即成仏は、法然上人でさえも仰っていないことで、二種深信の善導大師も仰っていないです。他の方もそうです。
七高僧方は、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」とハッキリ知らされていないので、異安心とお考えのようですね。
親鸞聖人の
「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
を正確に解説するなら、
信心獲得しても未来を見通す超能力が備わる訳ではないが、お聖教に説かれてあることを解釈すると、こうなると信じているに過ぎない。
こういうことです。

(shinrankaiuso 2014/07/04コメントより抜粋)
では整理しておきましょう。
1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)
2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことでるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。
よって結論は、
「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。
***************************************


この時点でこの法論は終了しているのです。
それをナビさんという分身が出てきたりして誤魔化そうとしましたが墓穴を掘って分身がいなくなり、ゼロさんが日本語の問題にすり替えて、話を逸らそうと必死になっているだけ。

もう一度いいましょうか、

7月4日の時点で、ゼロさんは惨敗しているのです。

2014/07/26




まさき

shinrankaiusoさんが、ここまで丁寧に解説して下されば、さすがに“勘違いちゃん”も理解できたことと思います。

つまり、ゼロさんが自信満々に出してきた最初の根拠は、宮田さんの主張が正しいということを証明する御文だったというわけなのですよ。

それに途中で気付いて、今、親鸞会側は、全力で誤魔化している最中です。

議論が全く進まない理由が、これでおわかりになりましたか? 

2014/07/26




JB→宮田さん

あらあら、そうですか。

では、

まさきさんも、
id:shinrankaiusoも、

下記の文章は、疑問文だと思っておられるのですね。

(旧)質問

(ゼロさん 7月14日コメント)
私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、仏が見える」とか聞いたことがありません。
=======================
【いえ】、そんなことをいうために根拠を【出しています】。次の7月15日
(火)Cで書きます。(宮田さんの発言)

2014/07/27




JB→宮田さん

「shinrankaiusoさんも」でした。

失礼しました。

2014/07/27





id:shinrankaiuso

はあ?

では、JBさんはゼロさんの主張の間違いについては異論無しということですね。

その上で、揚げ足取りに執着しているということですね。

2014/07/27




id:shinrankaiuso

ということで、最終のまとめ。

ゼロさん、と分身のナビさん、JBさんも反論できないということで、

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)
2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、
「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

つまり、
ゼロさん、ナビさんの主張は完全否定されました。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

で完全終了です。

2014/07/27




JB

宮田国、もしくは宮田教独自の言語があるようですね、断定文を疑問文としても活用するなんて。

宮田教は「獲信しても、浄土往生の確信(自覚)がない」と教えているようですが、本願寺とも違う、独自の宗教なのですね。
よく分かりました。

宮田教の皆さんは、日本語がどうであろうと関係ないようでから、日本語での議論はムリでは?

     ・ ・ ・

あなたの大好きな『浄土真宗辞典』(本願寺出版社)にも

慶喜】よろこびのこと
親鸞(聖人)は、すでに自身の上に実現していることがら(現生に正定聚の位に入ること)をよろこぶことの意として用いた」

とあります。よろこぶのは、心です。自身の上に実現したから、よろこぶのです。

さらに、あなたが支持している紅楳英顕氏も、こう書いていますよ。

ひとたび現生【正定聚の身】となったならば、たとえ何が起ころうとも、
自分が【往生成仏】することは、【絶対間違いない】という【確信】をもっていた
のであります。
当然のことながら大安堵(だいあんど)のこころにも住していたのであります。

本願他力のすくいにより往生一定(【往生は絶対に間違いなし】)の
安堵心に住し、仏に対する感謝のこころやすくわれたよろこびのこころにも
恵まれるのが浄土真宗 のすくいであります。

http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/gensekaranosu.htm

「往生を不定におぼしめさんひとは」とは、【自分は】浄土に生まれるかどうかが
【はっきりとは分からない人】、ということであります。いわゆる「若存若亡」
(あるときは往生できるような気がするが、ある時は往生できない
と思う)の心の人であり、【信心未決定の人】であります。

http://www.hongwanji.or.jp/daionki/pdf/2007_06.pdf

「往生は已にさだまりぬと決定歓喜して。正覚華に昇るまで。少も動乱せぬ安心」、
「これが心中におちつかぬ間は。いつまでも彌陀をたのみたるに非ず」とある処
から大瀛自身はっきりと自分自身の信心決定、【往生一定を確信】(【自覚】)し
ていたと窺うことができよう。

信そのものの覚不については自分自身の信心決定、【往生一定を確信】(【自覚】)
していたことは明らかであり、【信の不覚を否定】した、【覚の立場】であったと
いえるのである。

行者の信心決定の自覚を否定し、信心不覚説の根拠とよくされるのが、
蓮如上人御一代記聞書』末二一三に
  心得たとおもふは心得ぬなり、心得ぬ思ふはこゝえたるなり。彌陀の御たすけあるべき
ことのたふとさよ思が心得たるなり。少も心得たると思ことはあるまじきことなりと仰られ候。
(真聖全三の五八四)
とある文である。【この文を信心不覚説の根拠とすることが誤り】であることは前回述べた

「領解文には【往生一定】御助け治定と存じとある、存は亡に対して心内にあることなり、
仏智を凡心に領受したる処なり」と信心は【自覚】されるものであることを述べ、
【決定心】を否定して生涯不決定を安心とすることを否定し、それは【十劫秘事】
であると述べているのである。

【往生一定】と安堵する救済の事実(信心決定の【自覚】)を否定することは
親鸞蓮如の意】に反するものであり、また『御裁断御書』にも反し、さらに生
命を賭して惑乱を
終結せしめた大瀛の意にも反するものであることが明らかである。

http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/kyuusainorinentojijitu.htm

浄土和讃』に「真実信心うるひとは すなはち【定聚】のかずにいる 
不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」とあるように、
信心をうることにより【正定聚】の位に入り、【往生成仏の定まった身】となるの
である。浄土真宗の信心は自分が作るのではなく、如来より頂くものであり、
「本願力回向の信心」であり、「如来よりたまはりたる信心」である。
信心とは如何なるものかについて聖人は「疑蓋間雑なきがゆえに、これを
信楽と名づく」 (「信巻」)、「信心は如来の御ちかひをききてうたがう
こころのなきなり」(『一念多念文意』)といわれている。このように
信心とは如来より頂くものではあるが、【衆生の心の上にも現れる】ものである。

大事なことはこの心は「如来よりたまはりたる信心」であり、
そして【衆生の心の上にも現れる心】なのである。
【この心が生ずる】ことを信心をえる(御信心を頂く)というのである。

親鸞聖人がここでもっと大事なこととされているのは「わが身の往生一定と
おぼしめさんひとは」とあることなのである。信心をえて「【往生一定】」と
安堵し【慶ぶ身】となることである。「

http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/shinjino.htm

紅楳英顕氏によると、「往生一定(正定聚)」の自覚がない宮田さんは、
親鸞聖人、蓮如上人の意に反し、【信心未決定の人】で【十劫秘事】だそうですよ。

気をつけましょう。

そもそも、「現在、広大なる幸せを獲た! でも幸せを感じない」などという滑稽なことがあるでしょうか?
それはまだ獲ていないのです。

   ・ ・ ・

何度も完全終了しているようですね。

2014/07/27



id:shinrankaiuso

やはり、ゼロさんの分身でしたね。簡単に引っ掛かってくれて。

ところで、本願寺派などでいう確信と、親鸞会で言うところのハッキリするというのは、違うのです。
それを宮田さんが説明していたのですが、分らないまま、ごちゃごちゃ言っているだけですがね。そんなことも気が付いていないでしょうが。

それで、以下については何一つ反論できなかったことを、再度証明してくれました。


ゼロさん、と分身のナビさん、JBさんも反論できないということで、

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)
2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、
「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

つまり、
ゼロさん、ナビさんの主張は完全否定されました。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

で完全終了です。

2014/07/27




やめ確定学徒

ゼロナビJBさん(笑)

いろいろわかったよ(笑)

紅楳さんは、親鸞会認定の善知識だってことね
今後、紅楳さんから話を聞けばいいですね。

2014/07/27




やめ確定学徒

それにしても、恥知らずですね(笑)
だって、間違っていると今でも言ってる本願寺の説明が、親鸞会の正しさを証明する唯一の根拠だって(大爆笑)

2014/07/27




さて

ゼロなる人物が、何人演じても、親鸞会の大惨敗は火に触るよりも明らかなこと。

こんなことを、自信満々に言った時点で、親鸞会の大惨敗は決定していた。

(ゼロさん2014/07/02コメントより抜粋)
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)
親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、
「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」
ということでしょうか?
分かりやすく教えてもらえませんか。

(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、
「獲信すれば、浄土往生がハッキリする」
と主張しています。
根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す
  一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。
とおっしゃっています。
 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 
間違っても、
「この親鸞
 『念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?


紅楳師の言う確信と自覚は、無帰命安心の者に対する言い方なので、信前と信後の違いについて何らかの確信があり、自覚がなければならないのは、理にかなった話。
一方で親鸞会のいうハッキリしたというのは、それこそ火に触ったよりも明らかな体験などを指している。それで、親鸞会のいうような体験もないし、ハッキリした何かが分るのではないというのが、宮田さんらの意見。

紅楳師の相手と宮田さんの相手がまるっきり反対なので、言い方が変わってくるのは至極当然。

信心は有るのでもない、無いのでもない、虚空の如しである。
虚空を説明するのに、無に対しては有と言い、有に対しては無と言うのと同じである。

この程度のことも理解できずに、親鸞会本願寺と同じだから正しいと言っている愚かさ。

2014/07/27




ビバ!宮田教

宮田教って、すごくオモチロイですね!

かなり気に入りましたので、宣伝します。(=しましょうか? 疑問文)

◆宮田教の掟◆

「断定」は「疑問(質問)」である。

「まことと知らされた」とは、「信じるに過ぎない」ということである。

他人への断定文も、自分への断定文も、同等のレベルで知らされていることである。

「ハッキリした」とは、「アリアリと映像となって見える」ということである。

※宮田信者と関わりのある皆さまへ

 以下のトラブルが続出しておりますのでお気をつけください。

●宮田教信者側の言い分

(トラブル例1)

・「犯人はAさんです。根拠もあります!」と警官に【質問】したら、虚偽の報告として厳重注意されました。
 なんておかしな警官なんでしょう。プンプン!

(トラブル例2)

・「7月10日までに発注いたします」と取引先に【質問】したら、注文の品が届かないと苦情を受けました。
 こんなおかしな業者とはもう取り引きしないようにします。

(トラブル例3)

・「今度の講演は7月4日の10時からです」と【質問】したら、講演がなかったと非難された。
 なぜ非難されねばならないのかサッパリ分かりません。小学生以下の国語能力しかないのでしょうか?

●宮田教信者に対しての苦情

(トラブル例1)

・眼鏡を買い替えて「ハッキリ見えるようになりました!」と言ったら

凡夫に浄土が見えるなんて、仏様になったんですかぁ~!?カカカカカ!」

とバカ笑いされた。

 「そういう意味ではありません!」と否定すると

「じゃあ、眼鏡の説明書に書かれてあることを信じたに過ぎないんですね」

と訳のわからないことをいってきたので、

「そんなのでもありません。ただハッキリ見えるようになったんです!」

と言うと

「どっちなのかハッキリさせてもらわないと、わかんない」

と苦笑いされた。

(トラブル例2)

うちの息子を大馬鹿者だと突然言い出したので、「どうしてそんなことを言うのですか」とどれだけ問いただしても
「質問しただけですよ」と、すっとぼけられたのでいい加減キレた。


重要な法論の最中でさえトラブルがおきてますから、日常生活のトラブルは茶飯事!

宮田教に触れれば、常にエキサイティングな日々を送れることうけあい。

ビバ!宮田教!!

2014/07/27




山も山 (id:yamamoya)

JBさんへ

コメントでお叱りを頂き有り難うございました。

また、多くの方よりコメントを頂き有り難うございました。

(旧)質問
(ゼロさん 7月14日コメント)
私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、仏が見える」とか聞いたことがありません。
=======================
【いえ】、そんなことをいうために根拠を【出しています】。次の7月15日
(火)Cで書きます。(宮田さんの発言)

この「断定文」のどこが「質問」ですか?

ゼロさん相手に書いた文章なので、後半は省略していました。
正確には、以下の文章です。長いので上記の部分の上下は省略しております。

(宮田からゼロさんへのコメント 2014年07月15日Cより転載)
ゼロさんへ(7月15日C)

先のコメントで、Cに書くといった事を書きます。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
断っておきますが、もちろん、智慧の名号・信心の智慧で何もかも分かるものではありません。
7月7日Aにもハッキリ書いたとおりです。
(※今後、あなたもコメントに日付をつけてもらえませんか?
いつの発言なのか示しやすいように)
>  獲信すれば本願に疑い晴れますが、全てが分かるわけではありません。
>  たとえば、仏語の意味が全て分かるとか、お経がすらすら読めるように
>  なる訳ではありません。勿論、過去世の記憶がすべて蘇るとか、
>  死んだあとの生活が未来永遠にわたってありありと分かるものでもありません。
>  他の人が阿弥陀仏に救われたかどうかもハッキリしません。
智慧の名号によって、本願に対する疑いが晴れます。
本願どおりに救われ、「死後、浄土往生できるだろうか」の疑いが晴れます。
私の疑いを、阿弥陀仏南無阿弥陀仏で破ってくださるのですから、私の疑いが晴れるのです。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
法の上では疑い晴れているが、人の上では晴れていないなんて馬鹿なことはありません。弥陀の本願を疑っていたのは「人」なのですから、だからといって、浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、仏が見えるのでもありません。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれども かの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしまし ますといへるこころなり。
と『正信偈大意』に教えられているとおりです。
私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、「仏が見える」とか聞いたことがありません。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
あなた方の昔からのやりとりを読んでいると、そのような文章が散見されます。
一体、何を根拠に、相手がそんなことを思っていると思われているのですか?

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
こちらが思ってもいないことを、勝手に妄想し「間違ってる、間違ってる」というのはおかしくありませんか?

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
悪意さえ感じられます。
なぜ、そんなことを言うのか、理由を述べてください。
(同じような質問が繰り返されているようですが、ここでまとめて答えました)

では、根拠を書きます。根拠は、ゼロさん自身のコメントに有ります。

(ゼロさん2014/07/02コメントより抜粋)
●金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、
 【必ず】現生に十種の益を獲。 なにものをか十とする。(中略)十には入正定聚の益なり。(教行信証『信巻』・親鸞聖人)
についてですが、宮田さんは、獲信しても、現生十種の利益の自覚はない、ということでしょうか?

親鸞聖人が現生十種の利益の自覚があるといわれた根拠を教えてください。

(ゼロさん2014/07/02コメントより抜粋)
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)
親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」ということでしょうか?
分かりやすく教えてもらえませんか。

(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、「獲信すれば、浄土往生がハッキリする」と主張しています。
根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこのお言葉です。
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)
臨終一念の夕、大般涅槃を超証す一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。この親鸞、まことと知らされました。
とおっしゃっています。
 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と明言されているのです。
間違っても、
「この親鸞、『念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す』と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?

ここで二度も中略としているご文は、以下の通りです。

真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証・信巻末)
http://goo.gl/za4hbw

ゼロさんの文章では「真に知んぬ」以降はハッキリ知らされるということになります。
「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」もハッキリするんですよね?

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
だからといって、浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、仏が見えるのでもありません。

なら、なぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」と親鸞聖人は書かれたのか、納得のいく説明をお願いします。
もちろん、根拠を示してください。それがないなら、ゼロさんの主張は「高森会長の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」のお聖教に基づかない主張ということになります。

ながながとコメントを書きましたが、回答はこの7月15日Cだけでも結構です。

これが全文です。
長文コメントのやりとりで、全部読まれるのは大変だと思い。該当コメントの全文を転載しました。

この私の質問が日本語としておかしいとゼロさんからご指摘を頂きました。それについては、コメント欄で謝罪をし、改めて質問の文章を書き直したのが私の2014年07月25日(金)のコメントです。

私も間違いだらけの人間ですから、私自身の言動についてのご指摘にはその通り反省したいと思っております。
ただ、ゼロさんとしているのは民事裁判ではなく親鸞聖人の教えられたことについての議論です。その教えについての議論にゼロさんの「お許し」が必要な理由が私の頭ではよく分かりません。


ゼロさんの主張される教義に質問をするのに、相手の「お許し」が必要というならそれは議論では有りません。


私の質問が日本語としておかしいとか、態度がなっていないというご指摘はいくらでもお受けいたします。しかし、ゼロさんに代表される親鸞会の教義への疑義や詭弁については今後も看過する気はございませんのでよろしくお願い致します。

2014/07/27




id:shinrankaiuso

必死の誤魔化しも、効果が無いようで、関係ないことを書き連ねるより仕方がないみたいですね。

コメントを書けば書くほど、親鸞会の間違いが際立ってくるのにね。

ゼロさん(分身のナビさん、JBさん、ビバ!宮田教さん)は何も反論できないということで、

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)
2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、
「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

つまり、
ゼロさん、ナビさんの主張は完全否定されました。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

で完全終了です。

2014/07/27




山も山 (id:yamamoya)

コメントが増えていましたが、出先なのでまたコメントします。

2014/07/27



山も山 (id:yamamoya)

あと確認ですが直近のJBさん名義のコメントは、ゼロさんが「打ち間違えて」ハンドルネームを間違えたのでしょうか?

もしゼロさんなら、質問に答えてくださいね。
また、ゼロさんとJBさんが別人ならその旨教えてください。

2014/07/27




JB→shinrankaiusoさん

宮田教の言葉にまだなじんでないので、日本語でお話しいたしますね。

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)
2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

日本語だと、この論法は、

「私は食べ物を食べる」
「猫は食べ物を食べる」

  結論
「私は猫だ」

ぐらいのレベルですよ。
(念のため言っておきますと、そのままあなたの論法に対応しているわけではありませんからね。
 あくまで「レベル」の問題です)

1.は長くなりそうなのでおいとくとして。(宮田教としては、これだけでもう答えられないと断定かな?・笑)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

は、そうでしょうね。
でも、

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

は、全然話にならないですよ。

ゼロさんの国語のテスト解けますでしょうか?

さだめし、shinrankaiusoさんの解答はこうですね。

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ(○)自信まんまん
2:違う( )

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D( )
3:どちらも同じくらい言いたい(○)自信まんまん

まあ、あなたにつきあっても何の生産性もありませんから、これくらいにしときますね。

バイバイ

2014/07/27



JB→宮田さん

ながなが書いていらっしゃいますが、
結局、ゼロさんが、

「浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、仏が見える」

という言葉に代表されるようなことを言っていた≪根拠≫は宮田さんにはなかったということですね?

2014/07/27




JB→宮田さん

失礼、ちょっと途中でコメントしてしまいました。
・・・

ながなが書いていらっしゃいますが、
結局、ゼロさんが、

「浄土の世界がアリアリと映像となって見える、仏が見える」

という言葉に代表されるようなことを言っていた≪根拠≫は宮田さんにはなかったということですね?

2014/07/27




まさき

何? ゼロさんも撃沈?

そんで今度は、JBさん?

もう誰でもいいやん。

どうせ未信だらけの親鸞会の専任講師でしょ。

束になってかかって来ても、想像の上で信後の事を語っている人達だということに、変わりはないんだからさ。

『ゼロさんは、どう浄土往生することがハッキリとしたのですか? 宮田さんのように“誰が読んでも分かるように”明文化して下さい。』

上記の事が出来ないくせに、宮田さん側を罵倒することしか能がない人達なんですね。ホント、可哀想。

書き込めば書き込む程、人格が知れるというものですよ。

やはり、“貧すれば鈍する”ですか?

この暑いのに、ただ働きはこたえますなぁ(笑)。

2014/07/27




まさき

ゼロさんが本当に浄土往生することがハッキリと分かったのなら、“どのように分かったのか”説明できるハズなのですが、なぜあなたにはそれが出来ないのですか?

もう、嘘をつくのはやめましょうよ。

私は最初から、あなたが未信であることは分かっていました。

獲信者が必ず知らされる『念仏』のことをあなたは理解できなかったからです。

真実信心の人は、『念仏』のところで一味なのですよ。

今の法論の流れは、本当に酷いです。

曖昧な言い方をして「聞き誤った方が悪い。」と言うのは、「高森教」の特徴ですが、これではいつまで経っても何の進展もありませんよね?

宮田さんの質問から逃げまくるにしても、あまりにもみっともない逃げ方で、本当に嫌になります。

ゼロさんが、もしK田K彦講師だとしたら、あなたの理想とする人物は、坂本龍馬だったはずです。

親鸞会の専任講師が、ここまで落ちぶれていたなんて・・・本当にショックです。

2014/07/27




JB→宮田さん

宮田さんの質問を見落としていました。
私はJBで、ゼロさんではありませんので、あしからず。

2014/07/27



id:shinrankaiuso

JBさん、まだへんなコメントを平気で書けるんだね。

簡単な詭弁に騙されるとでも思っているなら、見くびられたものですね。

まず、ゼロさんのコメントを確認しておきましょう。

(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、
「獲信すれば、浄土往生がハッキリする」
と主張しています。
根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す
  一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。
とおっしゃっています。
 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 
間違っても、
「この親鸞
 『念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?


どうですか。これを「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」にそのまま置き換えると。


(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、
「獲信すれば、弥勒菩薩の成仏の時期がハッキリする」
と主張しています。
根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。
●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」(『教行信証・信巻』)
  竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし
  五十六億七千万年後に、弥勒菩薩が成仏すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。
とおっしゃっています。
 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 
間違っても、
「この親鸞
 『弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?


こうなりますよね。

もう一度書きましょうか。

(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?

再度、

(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?


この矛盾について話をしているのですが、ニホンゴワカリマスカね。

2014/07/27




id:shinrankaiuso

日本語能力が圧倒的に劣るJBさん(ゼロさん)のために重要なフレーズだけ

それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?


弥勒大士のところだけは、それでは「真に知んぬ」の意味が違うと?

おかしいですね。日本語がわかるならね。

2014/07/27




id:shinrankaiuso

ついでに「飛雲」にあったのを紹介


「これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)
「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)
「しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)
「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)
「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)
「しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)
「まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)


みんな「まことに知んぬ」ですけど、教学的な話ですよ。獲信したら、こんな難しいことがハッキリ知らされるとでも?

高森会長は、上記の御文の意味を間違えて話をしてますから、高森会長は異安心だということでOKですね。

2014/07/27




id:shinrankaiuso

ついでのついでに

「順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。」(唯信鈔)

親鸞聖人が「よきひとびと」と仰った中の1人の聖覚法印は、浄土に往生してから菩薩の行を修して仏になる、つまり、往生即成仏とは違うことを言われていて、しかも、親鸞聖人はこの唯信鈔を御自身で書写されて同行に与えられていますが、どういったことでしょうかね。

聖覚法印は異安心なの?正安心なの?どちらですか?

2014/07/27




id:shinrankaiuso

分身のナビさんが逃亡した私のコメント

真宗学のイロハのイも知らないナビさんのために、「成等覚証大涅槃」について少し講義をば。
これは阿弥陀仏の11願で、大経の異訳経である無量寿如来会にある御言葉。

「もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ」

「国のうちの有情」とは阿弥陀仏の浄土の中の有情のこと。
よって、「成等覚証大涅槃」とは、浄土に往生後、等正覚を成り、大涅槃を証するの意になり、往生後に正定聚に入ることなんですね。

次に曇鸞大師は浄土論註に11願を言い換えられて

「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る」

往生の後に正定聚に入るの意以外には解釈のしようがない。
これは他の高僧方も同じですね。
問題はなぜ親鸞聖人が、往生後に正定聚に入るとしか解釈のしようの無い11願を現生に解釈なされたのかということですが、これを正当化させるために親鸞聖人が度々なされる漢文の読み替えという方法をとられたわけですよ。

曇鸞大師
「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る」

親鸞聖人
「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る」

これで「生ぜんと願ぜんもの」が「すなはち正定聚に入る」と本来の意を変えられてしまったわけですよ。
真宗学のイロハのイも知らない、日本語に不慣れで、大嘘付きのナビさんには難し過ぎて訳が分からないでしょうが、結論は、
親鸞聖人は曇鸞大師の御言葉を読み替えなされなければならなかった理由は、

曇鸞大師と親鸞聖人の解釈が違うから】

2014/07/27




id:shinrankaiuso

曇鸞大師は往生後に正定聚に入るとしか仰っていない訳ですよ。ということは往生して、正定聚に入って、その後で成仏です。

臨終一念の夕べに、成仏するとは仰っていませんね。

その証拠が、親鸞聖人の読み替え。

なぜ親鸞聖人は浄土論註をわざわざ読み替えられたのか?

それは曇鸞大師の御文そのままでは、親鸞聖人の解釈とは意味が異なることを親鸞聖人が御存知であったから、読み替えと言う手法を使わざるを得なかった。

簡単でしょ。

2014/07/27




id:shinrankaiuso
嘘付きナビさんへ

これって、現生正定聚のことなの?

安楽集より

安楽国に往生して正定聚に入ることを得ずといふはこの事しからず。

ここに命断ゆる時は、すなはちこれ安楽国に生ずる時なり。 一たび正定聚に入れば、さらになんの憂ふるところかあらん。

一たびかの国に到ればすなはち正定聚に入りて

道綽禅師は入正定聚の益を自覚されていないから異安心というのが、ナビさんの主張ですか?でも親鸞聖人は、道綽禅師の往生を間違いないとされてますけど。

2014/07/27




JB→shinrankaiusoさん

↓shinrankaiusoさんのドヤ顔の回答

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ(○)自信まんまん
2:違う( )

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D( )
3:どちらも同じくらい言いたい(○)自信まんまん

うんうん。宮田国の国語では、この解答で100点満点だものね。
さらに強調して力説してくれてよく分かったからね。ありがとう。

2014/07/27



id:shinrankaiuso

またまた創作問答を作って、詭弁のつもりですか?

何の関係もない話。

以下再掲

JBさん、まだへんなコメントを平気で書けるんだね。

簡単な詭弁に騙されるとでも思っているなら、見くびられたものですね。

まず、ゼロさんのコメントを確認しておきましょう。

(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、
「獲信すれば、浄土往生がハッキリする」
と主張しています。
根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す
  一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。
とおっしゃっています。
 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 
間違っても、
「この親鸞
 『念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?


どうですか。これを「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」にそのまま置き換えると。


(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、
「獲信すれば、弥勒菩薩の成仏の時期がハッキリする」
と主張しています。
根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。
●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」(『教行信証・信巻』)
  竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし
  五十六億七千万年後に、弥勒菩薩が成仏すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。
とおっしゃっています。
 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 
間違っても、
「この親鸞
 『弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?


こうなりますよね。

もう一度書きましょうか。

(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?

再度、

(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?


この矛盾について話をしているのですが、ニホンゴワカリマスカね。

2014/07/27




id:shinrankaiuso

ゼロさんは、「真に知んぬ」の言葉の定義を、している訳ですね。

そのゼロさんの言葉の定義に当て嵌めるなら、弥勒菩薩の件はどうなるのか、という指摘。

それを必死にスルーして誤魔化しているけど、断言云々の話とは違う訳よ。

ニホンゴワカル?

2014/07/27




id:shinrankaiuso

詭弁が通じるとでも思っているなら、愚か。

もう一度書きましょうか。

(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?

これがゼロさんの「真に知んぬ」の定義。

この定義に弥勒菩薩の件は当てはまらないというのがJBさんの主張。

>2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

>は、そうでしょうね。

ゼロさんの「真に知んぬ」の言葉の定義を否定しているのが、JBさん。

この程度のことさえ気が付かないなんて、微笑ましい。

2014/07/27




id:shinrankaiuso

もう少し分りやすく書きましょうか。

ゼロさんは「真に知んぬ」は1つの意味しかない。

JBさんは「真に知んぬ」には2つ以上の意味がある。

大丈夫?

2014/07/27




id:shinrankaiuso


まだ分らない?

ゼロさんは、

(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?

一方JBさんは、

聖教にあるから信じますも「真に知んぬ」になる。


分った?

JBさんは、ゼロさんの間違いを指摘したという訳ですよ。

2014/07/27




id:shinrankaiuso

JBさんの主張が

聖教にあるから信じますも「真に知んぬ」になる。

ではないのなら、きちんと説明してくださいね。

>2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

>は、そうでしょうね。

2014/07/27

とくよしみね

どれだけ話をずらそうとしても親鸞会の詭弁は通用しませんよ。
通用するなら顕正新聞に掲載されたらどうですか。

2014/07/27

ミリダン王

宮田さんの元上司も出てきて必死なんだろうね。
真摯でひたむきな親鸞会学徒はこんな所は見ません。
退会者相手の諍論には必死になる癖に、真剣な求道者が真仮の水際を尋ねたら口が利けなくなるんよ。こいつら。
どなたの浄財で飯喰ってるの?お前ら。

2014/07/27

熱中症に注意

「議論」出来ない。高森さんの側に立って相手を負かすことだけを考える「下手くそなディベート」に必死ですね

2014/07/27

JB

あらあら、皆さん総出で必死ですね。

それにしても、これはよくできている。

ビバ!宮田教

宮田教って、すごくオモチロイですね!

かなり気に入りましたので、宣伝します。(=しましょうか? 疑問文)

◆宮田教の掟◆

「断定」は「疑問(質問)」である。

「まことと知らされた」とは、「信じるに過ぎない」ということである。

他人への断定文も、自分への断定文も、同等のレベルで知らされていることである。

「ハッキリした」とは、「アリアリと映像となって見える」ということである。

※宮田信者と関わりのある皆さまへ

 以下のトラブルが続出しておりますのでお気をつけください。

●宮田教信者側の言い分

(トラブル例1)

・「犯人はAさんです。根拠もあります!」と警官に【質問】したら、虚偽の報告として厳重注意されました。
 なんておかしな警官なんでしょう。プンプン!

(トラブル例2)

・「7月10日までに発注いたします」と取引先に【質問】したら、注文の品が届かないと苦情を受けました。
 こんなおかしな業者とはもう取り引きしないようにします。

(トラブル例3)

・「今度の講演は7月4日の10時からです」と【質問】したら、講演がなかったと非難された。
 なぜ非難されねばならないのかサッパリ分かりません。小学生以下の国語能力しかないのでしょうか?

●宮田教信者に対しての苦情

(トラブル例1)

・眼鏡を買い替えて「ハッキリ見えるようになりました!」と言ったら

凡夫に浄土が見えるなんて、仏様になったんですかぁ~!?カカカカカ!」

とバカ笑いされた。

 「そういう意味ではありません!」と否定すると

「じゃあ、眼鏡の説明書に書かれてあることを信じたに過ぎないんですね」

と訳のわからないことをいってきたので、

「そんなのでもありません。ただハッキリ見えるようになったんです!」

と言うと

「どっちなのかハッキリさせてもらわないと、わかんない」

と苦笑いされた。

(トラブル例2)

うちの息子を大馬鹿者だと突然言い出したので、「どうしてそんなことを言うのですか」とどれだけ問いただしても
「質問しただけですよ」と、すっとぼけられたのでいい加減キレた。


重要な法論の最中でさえトラブルがおきてますから、日常生活のトラブルは茶飯事!

宮田教に触れれば、常にエキサイティングな日々を送れることうけあい。

ビバ!宮田教!!

2014/07/27




まさき

JBさん、今日一日、親鸞会の心象を悪くする為に大活躍でしたね。 どうも御苦労様でした。

ゼロさんも、もう残された手段は、JBさんのようなロクデナシキャラを登場させるしか無いようですね。

ゼロさんに比べたらナビなんの方が、まだマシでしたよ。

少なくともナビさんは、自分の間違いに気付いた時点で、潔く消えましたからね(笑)。

2014/07/27




山も山 (id:yamamoya)

JBさんへ

ゼロさんが不在の間に、私とゼロさんとの間の議論に参加されるということで書き込みをされているのでしょうか?

もしそうならば、ゼロさんの意見と同意見という立場で発言をされるということでよろしいでしょうか?すでにゼロさんと違う意見を書かれているようですが。

2014/07/27




まさき

ゼロさん、もう正直に白状して、楽になった方がいいですよ。

「私は未信です。信後の事は実は分かりません。浄土往生することが、どうハッキリするのかと聞かれても、全く答えられません。」って、もう言ってしまったら?

それでも「私は、獲信している!」と言い張るのなら、あなたが罵倒し続けている我々にも理解できる様に説明して下さい。

それが出来なくて、いくら私達の日本語能力を問題にしたり、揚げ足取りをしても、誰もまともに取り合ってなんかくれませんよ。

私達を罵れば罵る程、あなたの品位が落ちるだけです。

親鸞聖人や宮田さんの様に、真実信心の人なら、「私の信心は、かくの如しです。」と、誰が聞いても分かる様に表明できるはずです。

ゼロさん、あなたには、なぜそれが出来ないのですか?

2014/07/27




id:shinrankaiuso

JBさん、ようやく自己の愚かな論理に気が付いたようですね。

もう一度書いておきましょう。

ゼロさんとJBさんとは「真に知んぬ」の定義が決定的に異なる。

ゼロさんは、体験を通して知らされたことのみを「真に知んぬ」という。

JBさんは、お聖教を通して知らされたことも「真に知んぬ」という。

つまり、JBさんはゼロさんの主張を否定した。

以下、再掲

ゼロさんは、

(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?

一方JBさんは、

聖教にあるから信じますも「真に知んぬ」になる。


分った?

JBさんは、ゼロさんの間違いを指摘したという訳ですよ。

2014/07/27




ヒマ

ナビさん。ゼロさん。ゼロ2号さん。JBさん。

順番にしか出てこないのですね。(笑)
「次は俺が行く」って。

皆さん 信心が違うから思っていることも感じていることも違うのですよ。
だから順番にしか出てこれない。

たぶん高森会長の言葉を自分なりに想像した「高森教想像信心」なんでしょうね。

「信心決定したらこんなことがハッキリするだろう」と思っていることはあってもハッキリの中身が自信もないし体験もしてないし何も表現できない。 
まあ何億年かかても会長のような体験はできないですけど(笑)。
あっと違うか 皆さん本心は
「会長のハッキリって何のことだろう?」では統一されてはいるかもしれないでしょうけどね。
私は皆さんの日本語能力より親鸞会トップ連中の道徳心から正すべきだと思います。

元々トップが未信で 真宗学を勉強せずに他人の味わいをパクリまくって教義としているからヘンテコ真宗もどきの教団ができるのです。
まず 高森教から離れて、信心を得て道徳心をもって真宗学を学んでこちらに来られたら如何でしょうか。 

2014/07/27




id:shinrankaiuso
JBさん公認のまとめ。

***************************************
(ゼロさん2014/07/02コメントより抜粋)
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)
親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、
「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」
ということでしょうか?
分かりやすく教えてもらえませんか。

(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、
「獲信すれば、浄土往生がハッキリする」
と主張しています。
根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す
  一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。
とおっしゃっています。
 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 
間違っても、
「この親鸞
 『念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?
***************************************

このようなことを大上段に構えて言いきった訳ですよ。
しかし、ここがすでに詭弁であったので、私がこのようにコメントを書きました。

***************************************
(shinrankaiuso 2014/07/04コメントより抜粋)
ついでに教えておくと、
「真に知んぬ」の後が略されているけど、何が書かれてあるか知ってますか?
「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」
親鸞聖人はハッキリと、弥勒菩薩が竜華三会の暁に無上覚位を極むべしと知らされたのですよね。
親鸞聖人は他人のことまで分られる智慧を得られたということですかね。
「真に知んぬ」ですよ。
弥勒菩薩が仏に成られる時までハッキリ知らされた、と同じレベルで、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」ですけど。

(shinrankaiuso 2014/07/04コメントより抜粋)
「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」
信心獲得すれば、会ったこともない弥勒菩薩のことを知ることができるだけではなく、弥勒菩薩の成仏の時期まで見通す超能力が備わる
こう言うことで宜しいか?
違うでしょう。
信心獲得しても弥勒菩薩のことを知る智慧が備わる訳でもなければ、弥勒菩薩の成仏の時期を見通す超能力が備わることもない。しかし、お聖教に説かれてあるから、それを信じるに過ぎない。
こういうことでしょう。
同じことで
「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
これは、
信心獲得しても未来を見通す超能力が備わる訳ではないが、お聖教に説かれてあるから、それを信じるに過ぎない。
こういうことですよ。
それと、往生即成仏は、法然上人でさえも仰っていないことで、二種深信の善導大師も仰っていないです。他の方もそうです。
七高僧方は、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」とハッキリ知らされていないので、異安心とお考えのようですね。
親鸞聖人の
「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
を正確に解説するなら、
信心獲得しても未来を見通す超能力が備わる訳ではないが、お聖教に説かれてあることを解釈すると、こうなると信じているに過ぎない。
こういうことです。

(shinrankaiuso 2014/07/04コメントより抜粋)
では整理しておきましょう。
1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)
2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことでるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。
よって結論は、
「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。
***************************************


この時点でこの法論は終了しているのです。
それをナビさんという分身が出てきたりして誤魔化そうとしましたが墓穴を掘って分身がいなくなり、ゼロさんが日本語の問題にすり替えて、話を逸らそうと必死になっているだけ。

もう一度いいましょうか、

7月4日の時点で、ゼロさんは惨敗しているのです。

2014/07/27




熱中症に注意

高森さんのカテゴライズに暮らす人には、議論はできません。
高森さんのカテゴライズの中に「安住」する人は、己の言葉への責任は、あらかじめ高森さんに有り、己には無い事にしているからね。

2014/07/27




まさき

昨日一日かけてJBさんが、親鸞会側の足を引っ張りまくってくれたので、私としましては「ビバ!」って言いたい気分です(笑)。

それにしても節操がない人達ですよね。

紅楳師を出してくるとは・・・

あんなに罵倒していたくせに・・・

私は、紅楳師の勉強会に参加させて頂いたことがあるのですが、紅楳先生、怒っておられましたよ。

「“破邪顕正財施を修することが獲信のための宿善となる”という文証があれば示してもらいたい。」という質問からは逃げ回っているくせに、「本願寺なぜ答えぬ!」と叫んでいるのが親鸞会なのですから、いくら温厚な紅楳先生でも、お怒りになるのはごもっともなことだと思います。

「そんなに善がしたいのなら、比叡山に登って修行してきたらいい!」と言ってみえました。

それもそうですよね、釈尊の教説通りに善が出来れば、悟りが開けるわけですから。

でも、「財施」と「破邪顕正」をさせないことには、高森会長の野望は実現できませんから、親鸞会会員に比叡山に登られては“商売あがったり”なわけです。

そこで登場したのが、『高森教の珍しき法』ですよね。

よくもこれだけ『親鸞聖人の御教え』をネジ曲げられたものです。

まあ、とにかく、紅楳師を都合良く登場させるのは、もうやめましょうね。

紅楳師は、決して親鸞会の教義に同意などしていませんから。

2014/07/27




まさき

ゼロさんは、どのように浄土往生することがハッキリと分かるのですか?

私のような一文不知の尼入道にも分かるように教えて下さい。

「おまえの日本語能力に問題があるから分からないんだ!」

「おまえの理解は、おかしい! ビバ!」といつまでも叫んでいないで、
ちゃんと説明して下さい。

あなたより日本語能力に問題があると言われている宮田さんの主張は、誰が読んでも良く分かります。

でも、ゼロさんの言っていることは、チンプンカンプンなのです。

理解できないのをすべて相手のせいばかりにしてきたから、親鸞会の講師部は衰退してしまったのですよ。

相手に分かる様に説明できない自分の方を責めましょう。

あなたからは、宮田さんのような謙虚さが微塵も感じられないのです。

やはり、ここにもトップの姿勢が反映しているのでしょうけどね・・・。

2014/07/27




マイナス

親鸞会は、ショボすぎ。
こんなに程度が低かったのか。
呆れた。

2014/07/28




JB

宮田教の信者の言語はほんとに凄いですね(笑)
念のため日本語と比較しておきましょうか。

■宮田語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ(○)
2:違う( )

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D( )
3:どちらも同じくらい言いたい(○)

【3】

「断定文」は「疑問文」である。

【4】

「まことに知んぬ」は、「信じるに過ぎない」という意味である。


■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

※義務教育をちゃんと受けた人は誰でも分かることですよね。
 宮田教の信者さんからすると驚かれるかもしれませんが!

宮田語しか分からない人には、

> 宮田さんの主張は、誰が読んでも良く分かります。
>
> でも、ゼロさんの言っていることは、チンプンカンプンなのです。

となるでしょう。お気持ちよく分かります。

ですが、『教行信証』をはじめ、親鸞聖人のご著書が、宮田語で書かれているという説は見たことがないですね。(当たり前・笑)

「真に知んぬ」が、弥勒菩薩のことと、念仏の衆生と同等だと主張するのは、

宮田教内部にしか通用しない理屈です。日本語で、他人のことと自分のことを同じレベル

で、「本当だったと知らされた」などありえませんから!(【1】参照)

なので、ゼロさんも前に書いていたとおり、弥勒菩薩は、比較の対象として

引き合いに出されただけで、メインではないのです。

これも日本語基礎講座【2】にあるとおりで、普通の日本人なら皆、分かる

ことなので、逆にいえば、宮田語しか分からない人には毛頭わからないことですね。

なので、お互い言語が違うとしかいいようがないです。

★反論があるなら、【1】~【4】について、宮田語のほうが正しいという

国語辞典なりの根拠をお示しくださいな(^^)

まったくもって、法論レベルまでいかない人たち相手に、ゼロさんも忍耐で

がんばられたことと思います!

もう、これ以上はどれだけ頑張っても、宮田教の信者さんたちには理解不能だと思いますね、ハッキリいってこれらの人は、言語が違うのですから。

> 2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
> >
> >は、そうでしょうね。

については、まだ話が早いと思いましたので、とりあえず、善意に解釈した上で、「そうでしょうね」とぼかした返事にしておきました。

厳密にいうと、「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は【仏】にならないと本当の意味で分からないことです。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の智恵をいただかれ、仏説まこと、仏語に虚妄なしと知らされたことです。

そういう意味では、

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、成仏しないと断言できないことであるので、親鸞聖人御自身がハッキリと知らされたのではない。
>
となります。

つまりゼロさんと同じ意味と理解しておりますが? いつもの調子で「ゼロさんと違う!」という妄想が多いですね、宮田教の人々は。

まとめると

「真に知んぬ」は、まことだったとハッキリ知らされること(「信じるに過ぎない」という意味は日本語にない)ですから、

その内容は、日本語の基礎、【1】【2】に基づき「念仏の衆生は~」のお言葉にかかっている。

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」も【1】【2】の日本語の大前提にもとづき、

ご自身のことではありませんから、まことだったとハッキリ知らされたわけではない。

(※もう少し詳しく解説しますと、これは日本語レベルを超えて教学が必要となりますが、「仏語に虚妄なし」と知らされたお言葉)

これが中学生レベルでもわかる文章の構造です。ごくフツーです。

自分の体験や、自分の都合に合わせてよむと、「真に知んぬ」が「信じるに過ぎない」とまでなってしまうので驚きです!

これが宮田教の教義。

じゃあ、

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり」

などはどうなるんだ!こんな教学的なことがハッキリ知らされるのか!と叫びたいのが宮田教の信者さんでしょうから、これも答えておきますね。

親鸞聖人は、弥陀に救われた体験に裏付けられた教えを明らかにされて書いておられるのです。
だから、「まことに知んぬ」なのです。

「まことに知んぬ」に、「信じるに過ぎない」という意味がない大原則は変わりようがありません。

もし「信じるに過ぎない」なら、「思う」「味わう」などの表現をなされるはずです。日本語を無視なされるはずがありません。

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、そのお言葉を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

★もし、そのようなご文がないのに「お聖教にあるから信じよう」とはなられないですから。

パッと拝読しても、私たちにはそうは読めないところを、聖人は、体験を通して知らされたのです。
そうでないと、「まことに知んぬ」の強烈な断言はできません。
(あ、日本語では、強烈な断言なんですよ、「まことに知んぬ」は。信じるに過ぎないのは、宮田語ですからね)

★根拠を示せなければ、あなたの妄想ということになりますね。
(きっと、ここを無視して、好き勝手なことをいうのでしょうけれど、根拠がなければ、どんなに強がっても、
 自信いっぱいに見せかけても【ムダ】ですからね。
 根拠なく騒げば騒ぐほど、痛いところを突かれたことが丸分かりになるということを教えてあげておきましょう)

あと、「浄土往生できることは弥勒菩薩でも分かられないのに、凡智で分かるのか!」といまだに言っている人がありますが、

凡智で分かるなどと、ゼロさんがいつそんなことを言われましたでしょうか?

凡智では分からないけれど、南無阿弥陀仏の智恵で分かるとハッキリ書かれてますでしょう。

そうすると今度は、「仏さまになったのか」と宮田教の信者さん理解しますが、あまりにも極端ですね。

南無阿弥陀仏の智恵」をいただくのであって、仏になることとは違います。

「令諸衆生」の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、「願入弥陀界」の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」とも、「不断煩悩得涅槃」とも、「入正定聚之数」とも、聖人釈しましませり。これすなわち「即得往生」の時分なり。(改邪鈔)

とあるように、仏智満入して信心決定するのです。(でも仏になったのではありません)

宮田教では、仏智満入しないのでしょうか?

もし、「仏智満入する」と言ったとしても、独自の解釈をして、【満入】の意味と正反対の理解をしてそうですけどね。

大体、想像つくというもの。
(満入しても、満ちない、入ってない、とか。かな? 日本語の正反対な理解が得意ですものね、宮田教の皆さんは)

「仏心と凡心と一つになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり」
                          (御文章 二帖目第九通)

仏心と凡心がひとつになるから、仏心のお働きで、凡夫にも「往生一定」とハッキリするのです。(でも、仏になったのではありません。正定聚の菩薩になったのです)

それは、浄土がアリアリと見えるのでもなければ、仏が見えるのでもありません。文字通り、浄土へ往生できることがハッキリ(一定)するのです。
それ以上でも以下でもありません。

これも、宮田教の人たちは、根拠のない解釈をして、
「仏心と凡心と一つになったら、心じゃなくなる」、とかいう珍釈でしょうか?

ちょっと、ここはまだ、あなた方の妄想を破るには字数が足らないかも知れませんね。
将来、分かる日がくることを念じておきますね。

紅楳英顕氏の根拠を出したこと自体に、何か凄く反応してますけど、

「紅楳英顕氏【でさえ】分かっていることが、宮田教の人々には分かってない」

という意味で出されているのは明らかではないですか。

宮田教の人々には、その流れが分かってないようですが、

日本語が分かる人には誰でもわかることです。分からないのは、宮田教信者の証です。

分かるのは、普通の日本人。

ちなみに、「信じるに過ぎない」なら、「自覚する」の言葉は出てきようがないんじゃないですか?

紅楳英顕氏があれほど「自覚」「確信」を連発していますが、それでもこの場合は、「自覚」「確信」と言っていいなんて、それこそ【詭弁!】ですね。

間接的、それっぽい反論はたくさんしてくるでしょうが、直接的な反論はきっとムリでしょうね。

本願寺とも違う、宮田教の珍しき解釈、ということがここで明らかになっているのです。
別に紅楳英顕氏を敬ってのことでないのは、日本人なら誰でも理解できるゼロさんの文章です。


まあ、これが最後かも知れないと思ってたくさん書かせてもらいました。

本当なら、もっと議論をしたかったのですが、いかんせん言語が違うとこれ以上どれだけやりとりしても、進展は望めませんからね。
残念です。

日本語が理解できるようになったら、またお話しするかもしれませんが、それまでは議論は無理ですね。

すでに、【1】~【4】をもとに説明しましたが、宮田語しか解せない方々には、とても受け入れられなかったでしょう?

言語が違うからです。

では、以下の理解ができるようになったら連絡ください。
それまでは「議論不可能」というのが私の結論です。

だって、文法も単語の意味も違うのですから。

どれだけ、煽ったり、あざけっても【ムダ】ですから、そんな時間があったら、日本語の勉強してくださいね。

以下の【1】~【4】の日本語が理解できるようになったら連絡ください。

もしくは、宮田語辞典などがネットや書店で購入できるようでしたら、教えてくださいな。
興味あるので勉強してみます。
ないのなら、議論は残念ながら不可能ということです。

★議論したいのなら、【1】~【4】の日本語が理解したむねを伝えるか、宮田語辞典の存在を教えてください!

その他、どれだけ煽ってもムダです。

■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

では、【1】~【4】の勉強、がんばってください!

2014/07/28




JB

ちょっと修正

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、【どのお言葉】を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

2014/07/28




通りすがり

これだから親鸞会の人間は不愉快。
上のJBってのを筆頭に、人を見下してしか議論できんのかねぇ。
正直どっちが正しいかは知らんけど、自分は親鸞会のこういう人間たちが嫌いでやめた。

何が宮田教だ、高森会が偉そうに。
議論の中身でなく、人間性の問題。
茶化したり見下したりしないと、親鸞会さん側は議論できないの?
というのが第三者の意見。

2014/07/28




宮田シンパの発言(

。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 何度でも言ってやるよ 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
> 馬鹿を誹謗したところで功徳になりすれ、悪にはならないから
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 高森教の邪義しか聞いていないゼロさんのことですから、「二つの心が同時に起こる。」などと、
> ど~せトンデモナイ説明で済ますんでしょうけどね。
> そんな人が実際にいたら、それこそ“【精神病患者】”ですよ。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 二千年かけて、どうぞ“無間地獄”に堕ちていって下さい。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。

人間性の問題。
茶化したり見下したりしないと、宮田さん側は議論できないの?
というのが常識人の意見。

2014/07/28




タヌキ汁食いたい

高森が偉そうだから下も偉そうになる。虎の威を借りているだけの、未信の徒にすぎないわな。
だが頼りの虎が実はただのタヌキと明らかになったらどうするつもりか?そのときは近づいているぞ、狐さんよ。化けの皮剥がされておめおめ生きていけるのかい、その薄ら寒い信心で。

2014/07/28




通りすがり

ほらほら、これ、こういうところ。
自分が常識人だと思っているところがおめでたい。
流れ見る限り、最初に茶化して見下したりしたの親鸞会側じゃん。
確かにさ、同レベルで応戦しちゃったのはどうかと思うけど、少なくともあなたが常識人を語っちゃいけないと思うな。

2014/07/28




通りすがり

ついでに。

余計なことかもしれないけど、JBさんは発言すればするほど、親鸞会の品性が疑われると思うよ。本当に品がない書き込みという印象だから。
でもこの点は確かにお互い様だよね。

素人ながら、これが法論?って思うくらい、罵りあいに特化した争いだよね。

2014/07/28



id:shinrankaiuso

ではもう1つ教えてあげましょう。

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

について
**********************************************
【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

これを往生即成仏について言い換えてみると

**********************************************
【1】

昨年、A君が臨終に往生し即成仏した。(A)
今年、私も往生が定まり、臨終に往生し即成仏する。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

こうなりますが如何ですか?

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

主語は「念仏の衆生は」

つまり、私だけでなく、A君とその他多くの人が含まれる。

もう一度答えは、

2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

でしょ。

愚かですね。

それと、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」と七高僧も聖覚法印も仰っていない。
知らされ方が違うんですよ。

2014/07/28




id:shinrankaiuso

鈍いJBさんのためにもう少し説明

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

これをインフルエンザに置き換えると、

「インフルエンザにかかった人は、とてもつらい」

わかりましたか?

他人の体験も含まれています。

2014/07/28




やめ確定学徒

shinrankaiusoさん、頭良過ぎ。
JBさん、日本語基礎講座をshinrankaiusoさんから学ぶと、少しは恥が減るかも(笑)

2014/07/28




id:shinrankaiuso

JBさんの日本語講座を受講して以下のことが真に知らされました。

「他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。」

親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験は、自覚はできない。親鸞聖人御自身の体験は自覚している。だから違う。

親鸞聖人の「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」を分りやすく言うと、

 私以外の念仏の衆生について、臨終に往生即成仏できると自覚できない。
 私の体験は自覚している。
 だからこの2つは違うが、一緒に「真に知んぬ」

このように真に知らされました。

2014/07/28




id:shinrankaiuso

一応解説しておくと、「弥勒大士は…」を出されたのは、聖道門での成仏と18願での成仏を比較されるため。

よって

真に知らされた、聖道門では弥勒菩薩でさえ成仏するのに五十六億七千万年かかるのに、18願の救いは臨終に成仏できる。

親鸞聖人の個人的な体験を仰ったのではなく、教義解釈についての話です。

往生即成仏と、経典にもなく、七高僧方も仰っていないが、論理的にそうならないとおかしいと真に知らされた

これがこの御文の意味。自覚の問題ではないから、七高僧方と違ったことを仰っていても、信心が同じかどうかには関係しない話。

2014/07/28




まさき

JBさんは、もう退散した方がよろしいですね。
見事に親鸞会側の足を最後まで引っ張って下さり、お疲れ様でした(笑)。

途中から割り込んできただけあって、彼は、全く分かっていませんでしたね・・・せっかく皆で丁寧に説明したのに。

ゼロさんが、
>まことだったとハッキリ知らされる
南無阿弥陀仏の智恵で分かる
というのは、どう分かるのですか? 宮田さんの様に誰にでも理解できるように明文化して説明して下さい。
・・・ということを繰り返し巻き返し、お願いしてきています。

ゼロさんが、そこの説明が全くできないので、議論が長引いていることを私はずっとJBさんに説明してきたのですが、JBさんには最後まで御理解頂けなかったようですね。

たとえば・・・

ゼロさん「インフルエンザにかかって、苦しい。」

「どう苦しいのですか?」

ゼロさん「インフルエンザにかかって、苦しい。」

「熱が出て、苦しいのですか?」

ゼロさん「おまえの日本語能力には、問題がある!」

「関節が痛んで、苦しいのですか?」

ゼロさん「私の関節が痛むと言い張る理由を述べろ!」

「じゃあ、インフルエンザにかかって、どう苦しいのですか? 誰にでも分かる言葉で説明して下さい。」

ゼロさん「日本語能力に問題があるおまえになんか、説明できない。」

JBさん登場「それでは皆さんに、日本語のテストをしましょう~! 本当にみんなバカばかりですね~!」

このような何の進歩もない会話が、7月の初め頃から延々と交わされております。

ただでさえ暑いのに、JBさんの様な“勘違い”さんが途中から登場して、こちらを罵倒しまくってくるというオマケまで付いてしまいました。

『ゼロさんは、浄土往生することが、どう“真に知んぬ”と知らされたのですか?』
・・・未信で信心詐称しているゼロさんが、説明できるわけなどないのです。

それでも本人は、「獲信してハッキリと知らされた!」と言い張るので、こちらもホトホト困っているというわけです。

ゼロさん、もう誤魔化すのはやめましょうよ。

あなたがダラダラと長引かせれば長引かせる程、親鸞会のイメージが悪くなっていますよ。

まあ、それがあなたの本当の狙いかもしれませんけどね・・・

2014/07/28




JB

おはようございます。

shinrankaiusoさん、遅くまで詭弁を展開していただき有難うございます。

でも、その努力は日本語習得のために使ってほしいものですね。

宮田さんもshinrankaiusoさんと同じ意見でしょうか?

この先の二つのコメントについてです。

日本語について少し触れてきましたので、今回はお答えしようと思っていますが、宮田さんの意見を聞いてからにしたいと思います。

あと、私の言葉遣い云々についてのコメントがいくつかありますね。

これについては、もう少し落ち着いてからお話ししようと思っていましたが、ちょっとだけ話しておきましょう。

言葉遣いのまずさは、自分や自分の仲間に関してはなかなか気づかないものです。特に反対意見を述べているときには。
そして議論をかわしているときには、あまりお上品にもやっておれませんので、ある程度、激しくなることはやむをえないものもあるでしょう。

ですが、度を越してはなりません。

例えば、たびたび取り上げられるこのような言葉です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 何度でも言ってやるよ 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
> 馬鹿を誹謗したところで功徳になりすれ、悪にはならないから
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 高森教の邪義しか聞いていないゼロさんのことですから、「二つの心が同時に起こる。」などと、
> ど~せトンデモナイ説明で済ますんでしょうけどね。
> そんな人が実際にいたら、それこそ“【精神病患者】”ですよ。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 二千年かけて、どうぞ“無間地獄”に堕ちていって下さい。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。

特に世間一般にみて、【精神病患者】発言は看過さるべきではものではないですね。
見てみぬふりをしては同罪になってしまいます。
管理人である宮田さんは、この発言についてどう思われますか?

このことについてはお尋ねしたく思います。

通りすがりさんは、通りすがりのわりに何度も通られるのですね(笑)
そして第三者の目で見て、【精神病患者】は問題なしだそうですが、一体どこの国の第三者の目なのでしょうね。

朝から笑いを提供してくださり有難うございました。

2014/07/28




id:shinrankaiuso

おはようございます、笑いを提供しておきます。

JBさんの日本語基礎講座受講を踏まえて整理し直しました。

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験について、親鸞聖人は自覚できない。親鸞聖人御自身の体験については自覚できる。だからこの2つは違う。

3.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

4.弥勒菩薩の成仏と親鸞聖人以外の念仏の衆生が臨終に往生即成仏できることについて、親鸞聖人が自覚できることではないが、親鸞聖人御自身の体験と併せて、「真に知んぬ」と一括りで仰っている。

よって結論は、
「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

2014/07/28




熱中症に注意

ミサイル撃たれて困り果てて、なんとか高森さんのカテゴライズに持ち込もうと必死ですね。
詭弁の限りを尽くして高森さんのカテゴライズの中に引っ張り込みたい。

2014/07/28




さて

shinrankaiusoさんにとって、JBさんは赤子扱い。shinrankaiusoさんに玩ばれてますな。

親鸞会の英知(?)を集めたところで、退会者と対等に法論ができるレベルに達しない。

JBさんの主張は
「他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。」
なので、他人の法論惨敗体験は、他人事だったけど、今の惨敗体験は自覚している。だから感じ方がまるで違っているよね。

2014/07/28




まさき

精神病患者という言葉を使ったのは、私です。

これは、精神病患者の人を侮蔑して使ったわけでは、決してありません。

しかし、私の発言で不快な思いをした方がおられましたなら、心からお詫び申し上げます。

この発言は、親鸞会会長の説く「信後の世界」は、まともな精神状態であるとは思えないような表現が多くみられる、ということを述べたかっただけです。

私に文句を付けるのなら、JBさん、分かるように説明してもらえませんか?

“浄土往生することと地獄に堕ちることが同時に分かる”とは、一体どういう心の状態なのでしょうか?

間違っても「おまえには日本語の理解力がないから分からないのだ。」などと言って、誤魔化さないで下さいね(笑)。

それと、無間地獄の言葉を使ったのも私です。

私は、“一切衆生 必堕無間”と親鸞会で散々脅され続けていたので、ゼロさんも聞き慣れていると思ったのですが、最近は言わなくなったのですかね?

私は、“一切衆生 必堕無間”とは言っていません。
信心を詐称し、『念仏を誹謗している』ゼロさんの死後の行き先を教えて差し上げただけです。

このことは、親鸞聖人もご和讃で説いておられますよ。 知らないのかな?

2014/07/28




まさき

JBさんが、自分の言葉遣いには体のいい言い訳を付けて、こちらの言葉遣いを糾弾したり、変な日本語のテストをしたりして必死なのは、核心に触れて欲しくないからです。

この法論とも呼べないような議論が、全く進まない元凶は、ゼロさんの“信心詐称”にあります。決して宮田さん側の日本語能力に問題があるのではありません。

ゼロさん「獲信したら、浄土往生することがハッキリと分かる。“お聖教に書いてあるから信じるにすぎない”という宮田さんは間違っている。」

「浄土往生することは凡夫の智慧では分からないことなのに、それが分かるということは、浄土や仏がアリアリと見えるようにゼロさんはなったのですね?」

ゼロさん「おまえの日本語能力は大丈夫か? そんなことは言っとらん。」

「じゃあ、どのように分かったのですか?」

ゼロさん「浄土往生を誓った本願に疑い晴れたから、ハッキリと分かったのだ。」

「浄土往生を誓った本願に疑い晴れて、どのように浄土往生することがハッキリと分かったのですか?」

ゼロさん「信心決定すると智慧の名号をいただいて、仏智を得られるから、それでハッキリと分かったのだ。」

「信心決定して智慧の名号をいただいて、仏智を得られたなら、どのように浄土往生することがハッキリと分かるようになるのですか? 宮田さんのように誰にでも理解できるように説明して下さい。」

ゼロさん「おまえは日本語能力が低いから、私の言っていることが理解できないのだ!(マジ切れ)」

「日本語能力が低い私にも分かるように説明して下さい。」

ゼロさん「こんなヒドイ相手と法論したのは初めてだ!!(激昂)」

「ゼロさんは、本当は未信ですよね? 知らされてもいないことを知らされていると嘘をついているから、説明できないんでしょ?」

加勢に来た“つもりの”これまた未信のJBさん「獲信したら仏智満入するから、浄土往生することがハッキリと分かるのですよ。」

「仏智満入すると、どのように浄土往生することがハッキリと分かるようになるのですか?」

JBさん「・・・・・・・・。」

ゼロさんと違いJBさんは元気一杯ですから、足を引っ張ることに終始せずに、答えられないゼロさんの代わり答えて差し上げたら?

2014/07/28




まさき

JB氏の偉大なる功績】

(1) ゼロさんの主張の一部を否定した。

(2) 高森会長と対立する本願寺の「紅楳師の信心は、素晴らしい!」と褒めそやした。

(3) 「一切衆生 必堕無間」と何十年も説き続けた高森会長を猛烈に非難した。

JBさん、どうもありがとう。 ビバ!・・・(笑)

2014/07/28




まさき

誤字訂正致します。

(誤) 答えられないゼロさんの代わり答えて差し上げたら?

(正) 答えられないゼロさんに代わり答えて差し上げたら?

どうも失礼致しました。

2014/07/28




通りすがり

JBさん、何度も通りすがって悪いね。
あなたの言う通り、精神病患者はよくないよね。
お互い様だといったようにどちらかに加担するつもりじゃないけどあなただけ名指しはフェアじゃなかったね。すみません。
あなたの皮肉は返さず受け止めておくよ。
親鸞会の人を見下した態度も嫌いだけど、退会者がまだ会員やってる人を罵るのも嫌いだけどね。

あんた、講師部か幹部でしょ?違ってたら申し訳ないけど、やめた身とはいえ、講師部の人たちは本当に尊敬してたんだ。
だからあんな品のない書き込み見てちと切なくなったんだよね……どうでもいい話だけど。

そういや会長も著作で精神病院はおもしろいって書いてなかっけ??

2014/07/28




通りすがり

JBさん、何度も通りすがって悪いね。
あなたの言う通り、精神病患者はよくないよね。
お互い様だといったようにどちらかに加担するつもりじゃないけどあなただけ名指しはフェアじゃなかったね。すみません。
あなたの皮肉は返さず受け止めておくよ。
親鸞会の人を見下した態度も嫌いだけど、退会者がまだ会員やってる人を罵るのも嫌いだけどね。

あんた、講師部か幹部でしょ?違ってたら申し訳ないけど、やめた身とはいえ、講師部の人たちは本当に尊敬してたんだ。
だからあんな品のない書き込み見てちと切なくなったんだよね……どうでもいい話だけど。

そういや会長も著作で精神病院はおもしろいって書いてなかっけ??

2014/07/28




ヒマ

「宮田教」なんて無いですよ。

高森会長は「絶対の幸福、一切衆生必堕無間、機相信相、廃立肝要 三重廃立 三願転入の教え 信仰が進む 二種深信 広島の駅長 宿善」その他(沢山あってビックリまだあるけど)
 造語 創作 勘違い 思いつきを教義として会員に押し付けている。
「救われるには高森会長の御心に沿うこと」「会長の傍(会員)から離れると救われない」「善知識」と呼ばせている だから「高森教」と言ってます。

高森教の信者さんは 会長の 見栄、趣味、嗜好 親鸞会組織の都合 建前 会長の言いなりにならないと救われないと思っているから立派な高森教、高森会、なんですよ。

宮田さんはそんなこと言わないし 会費も無いし会館も建てないし 「俺の言うこと聞け」とか「善知識」なんて思ってない。宮田教なんて存在しないですよ。

2014/07/28




ゼロ


宮田さんへ、

コメント読みました。

> > (新)質問
> >
> > (ゼロさん 7月14日コメント)
> > 私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、
> > 仏が見える」とか聞いたことがありません。
> >
> > 確かに、ゼロさんの主張では「仏智により浄土往生が知らされるが、
> > それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、
> > 仏が見えるのではない」と書かれていますが、その一方でそれを自分で
> > 否定されるようなことを書かれています。
> > それについて私は再三お訊ねしていますが、それについての明確な回答は有りません。
> >
> > つまり、ゼロさんは「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信
> > したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」と
> > 書かれてと言いながら、ほとんど同じことを書かれています。
> >
> > それが、以下のものです。
> >
> > (ゼロさん 2014/07/02コメントより抜粋)
> > 「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず。
> > 「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」
> > ということでしょうか?
> > つまりここでゼロさんは「真に知んぬと知らされたら、浄土往生はハッキリする。
> > しかもそれはお聖教にあるから信じますといったようなものではない」と言われています。
> >
> > そうなるとゼロさんは「仏智により浄土往生が知らされるが、それは獲信したら
> > 浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」が、
> > 浄土往生はハッキリすると主張されているわけです。
> >
> >
> > ご存知のことと思いますが、浄土というのは凡夫にわかる領域ではありません。
> >
> > 安養浄土の荘厳は
> > 唯仏与仏の知見なり(高僧和讃 天親讃)
> > 唯仏余仏の知見と言われる「浄土」への往生がハッキリするとは、
> > ゼロさんの否定されている「仏智により浄土往生が知らされるが、
> > それは獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見えるとか、仏が見えるのではない」
> > 以外になにかあるとは思えません。
> >

そう思うのは、あなたの妄想であると、何度も述べた通りです。

上記のご和讃も、「安養浄土の荘厳」は「唯仏与仏の知見」であるということで、「浄土往生の確信」とは別のことです。

見当違いの根拠をあげるのが、あなたのクセのようですね。


●我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
(御臨末の御言葉)

 親鸞聖人が「浄土往生の確信」を述べられた、あなたにとっては、はなはだ都合の悪いお言葉ですが、だからと言って、真宗聖典に載っている御文まで、否定してはいけませんよ。

> >
> > そして、なぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、
> > まさに無上覚位を極むべし」と親鸞聖人は書かれたのか、納得のいく説明をお願いします。
> >
> > これを踏まえて質問です。
> > この「弥勒大士が竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」は経典に
> > 載っていることを、親鸞聖人が信心決定されて「真に知んぬ」と言われている
> > 文章ということでよろしいでしょうか?
> > 私が、「お聖教にあるから信じる」と言ったことと同義となります。
> >
>
「真に知んぬ」とは、そういう意味ではないということも、何度も説明いたしました。
名号をたまわって「念仏の衆生」になられた親鸞聖人がハッキリ知らされたのは、

「横超の金剛心を極るがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」ということです。

「正定聚に入った自覚」を明言されています。


「浄土往生の確信がある」とか、「往生一定とハッキリする」という言葉を

読んで、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、「仏が見える」などと理解する人を、いまだかつて、あなた(と、あなたの信者)以外に知りません。聞いたこともありません。

結局、何度説明しても、あなたが自分自身の妄想から抜け出せないのは、日本語の理解もさることながら、あなた自身の信心によるものでしょう。

何か変わったな自己の体験をもとに、お聖教の言葉を解釈していますから、善知識方の正しい意味が汲み取れないのだと思います。

あなた自身が「獲信」と称している体験は、「浄土往生できるという自覚がない」 ものであり、「往生一定とハッキリしていない」ものであることは、もう十分すぎるくらい分かりました。

何とか、正しい信心を理解してもらいたいと、繰り返しコメントしてきましたが、一度つかんだものは、どうにも捨てられないようですね。

化城とは、恐ろしいものです。

そんなあなたが、いっぱしの知識になったつもりで、シンパの人たちを迷わせていることが恐ろしいのです。

法謗の大罪を自覚しなければなりません。


一度ゆっくり、私の示した善知識方のお言葉を、心を静めて、お読みください。

南無阿弥陀仏を賜って鮮やかに知らされたこと」か、「お聖教を読んで、信じているだけに過ぎないこと」か、いつかお分かりになるでしょう。

このことさえ、分かっていただければと思って、長々と続けてきましたが、これ以上の議論は不毛のようです。というより、あなたが自己の「体験」に拘泥して、日本語の文法や、基本的な単語の意味までねじまげてしまう現状では、議論にならず、進展もありません。

あなたが妄想から解きはなたれ、心静かに、お聖教を味読出来るようになったら議論を再開いたしましょう。


「まことに宿善まかせ」と仰せの蓮如上人の御心が染み透るばかりです。

2014/07/28




id:shinrankaiuso

ここは逃げるが最善の策でしょう。

ちなみに

>「正定聚に入った自覚」を明言されています。

これの間違いをあれだけコメントしたのに、理解すらできないとは、大した日本語の理解力です。

分身のナビさんが逃亡するきっかけとなった私の2014/07/12のコメントを再掲しておきます。



真宗学のイロハのイも知らないナビさんのために、「成等覚証大涅槃」について少し講義をば。

これは阿弥陀仏の11願で、大経の異訳経である無量寿如来会にある御言葉。

「もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ」

「国のうちの有情」とは阿弥陀仏の浄土の中の有情のこと。
よって、「成等覚証大涅槃」とは、浄土に往生後、等正覚を成り、大涅槃を証するの意になり、往生後に正定聚に入ることなんですね。

次に曇鸞大師は浄土論註に11願を言い換えられて

「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る」

往生の後に正定聚に入るの意以外には解釈のしようがない。
これは他の高僧方も同じですね。
問題はなぜ親鸞聖人が、往生後に正定聚に入るとしか解釈のしようの無い11願を現生に解釈なされたのかということですが、これを正当化させるために親鸞聖人が度々なされる漢文の読み替えという方法をとられたわけですよ。

曇鸞大師

「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る」

親鸞聖人

「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る」

これで「生ぜんと願ぜんもの」が「すなはち正定聚に入る」と本来の意を変えられてしまったわけですよ。
真宗学のイロハのイも知らない、日本語に不慣れで、大嘘付きのナビさんには難し過ぎて訳が分からないでしょうが、結論は、
親鸞聖人は曇鸞大師の御言葉を読み替えなされなければならなかった理由は、

曇鸞大師と親鸞聖人の解釈が違うから】

龍大生にでも教えてもらうといいよ、ゼロさん、じゃなかったナビさん。

2014/07/28




まさき

私は、親鸞会の専任講師の方相手の法論に加わったのは、これが初めてです。

なぜ私の様な者が加わったのか、と申しますと、ゼロさんがK田K彦講師だとしたら、昔大変お世話になった方だったからです。

この法論を通じて『真実信心』についてK田講師に分かって頂けたら、こんなにいい御縁はないと思いました。

「御一代記聞書」で蓮如上人は、『宿善がすばらしいというのはよくない。宿善とは阿弥陀仏のお育てのことであるから、浄土真宗では宿善がありがたいというのがよいのである』と仰せになりました。

「宿善」は、泥凡夫なんかに積めるものではありません。

清らかな「阿弥陀仏のお育て」のことを言うのです。

南無阿弥陀仏』に育てられ、『南無阿弥陀仏』に救われていくのが“浄土真宗”です。

この私の口から出る『南無阿弥陀仏』が、この私にずっと前から願いをかけ、喚びづくめでいて下さった阿弥陀仏の喚び声であったことに、何の疑いも無くなったのが「真実信心」です。

この『南無阿弥陀仏』が自分をお浄土に連れていってくれるのか、はたまた地獄に突き落とすのか、分かる智慧が私にはないのです。

でも、『南無阿弥陀仏』にまかせ切ってしまったので、後生に何の不安もありません。

どこへ行くことになろうとも、私にはいつも阿弥陀仏がついておられます。

そのことが有り難く、かたじけなく、涙と共に『お念仏』が口から溢れ出てきます。

死後「浄土往生するのか?」それとも「地獄に堕ちるのか?」・・・このように、あれこれと計らう心を全部阿弥陀仏に取られて、楽という言葉もいらないくらい楽なのです。

「後生を問題にする心自体を全部、本当に全部、阿弥陀仏に取り上げられた世界」が、「信後の世界」です。

生来短気な性格なもので、色々失礼なことも申しましたが、心からゼロさんの仏縁を念じております。

南無阿弥陀仏

2014/07/28




山も山 (id:yamamoya)

JBさんへ(2014年07月28日(月)コメントA)

日本語クイズに答えないと議論をしないと宣言されたので私も少々困惑しています。
つまり、JBさんはゼロさんの代理で議論をする気はなく、荒らしにきたということでしょうか?

そもそも論として、議論というのは対等の立場でするものであってJBさんに「お許し」を頂いて「させて頂く」ものでは有りません。私とゼロさんの議論はゼロさんが回答されるターンで止まっています。仮に、その議論にゼロさん側の立場で書かれるのならば、その旨を書いてください。

ただ、JBさんの例示された日本語クイズは、id:shinrankalusoさんの指摘通りで、ゼロさん説を否定する形になっています。

そこで、日本語クイズに答えないと議論をしないと言われたJBさんとお休み中のゼロさんに向けて以下の部分について書きます。

(JBさん 2014年07月27日(日)のコメントより抜粋)

「真に知んぬ」が、弥勒菩薩のことと、念仏の衆生と同等だと主張するのは、

宮田教内部にしか通用しない理屈です。

議論の対象になっている教行信証信巻末のお言葉

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。(教行信証信巻末)

は、上記文末の「ゆゑに便同といふなり。」を抜いていると意味が通りにくくなってしまいます。

そもそも上記のご文は、真仏弟子釈の結論として言われたものです。

真仏弟子釈
義釈
【84】 真の仏弟子(散善義 四五七)といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ
http://goo.gl/ugAE4W

ここで、善導大師の散善義を引かれて真の仏弟子について、これ以降論証されます。
真の仏弟子とは「金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」といわれています。

その根拠として、以下、大無量寿経無量寿如来会、観無量寿経、安楽集、観経疏を引文されています。そこで、阿弥陀仏の本願救われた人を讃嘆されています。

それに次いで王日休の便同弥勒の文を引文されています。

【99】 王日休がいはく(龍舒浄土文)、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。一念往生、便ち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。{以上}

ここで、阿弥陀仏の救いに会った人は、弥勒にほぼ等しいとかかれています。その王日休の文を証明するために、その後大無量寿経無量寿如来会、用欽『阿弥陀経疏超玄記』を引文されたあとにででくるのが、「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに・・・・」の御自釈です。
まとめますと、善導大師のご文を引かれて「真の仏弟子」は「 金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべき」ことを経釈で論証され、それはまた、弥勒菩薩とほぼ等しいのだと書かれた王日休のご文を経釈で論証された結論の文章だと言うことです。それを通して親鸞聖人が主張されたのは、弥勒信仰をする人に対しての意見です。教行信証は、もともと興福寺奏状とか栂尾の明恵上人の念仏者に対する論難に対して書かれたものです。それらの念仏者を批判する人は弥勒信仰を持っていました。それらの人に対して、念仏者は弥勒菩薩とほぼ等しいのだということを主張することで、弥勒信仰の人たちに対峙する意図と、念仏する人、阿弥陀仏に救われた人がいかに有り難い方で有るのかをあらわそうとそれた部分です。
だから、ゼロさん、JBさんがされたご文の直後に「ゆゑに便同といふなり。」と言われています。


教行信証は、正しくは「顕浄土真実教行証文類」といいます。「浄土真実」の「教行証」を「文類」によって「顕かにする」と親鸞聖人は言われています。

「仏智によって知らされた」と言わずに「経釈の文類」によって「浄土真実の教行証」を顕かにされたのが親鸞聖人です。

2014/07/28




山も山 (id:yamamoya)

JBさんへ(2014年07月28日(月)B)
タイトル「詭弁は看過しないと書いたのでその指摘」

以前ゼロさんに対して以下のように書きました。

[宮田 (2014年07月25日(金)B)より抜粋]

私の質問が日本語としておかしいとか、態度がなっていないというご指摘はいくらでもお受けいたします。しかし、ゼロさんに代表される親鸞会の教義への疑義や詭弁については今後も看過する気はございませんのでよろしくお願い致します。

○JBさん 2014年07月27日(日)のコメントより詭弁部分の抜粋
昨日のJBさんのコメント文章は3000文字超でした。

そのうち、自分の首を絞めているとしかおもえない日本語クイズの部分を除くと、約2400字でした。

そのうち、詭弁と思われる文章は約1500字です。つまり、半分以上は詭弁でした。
どれだけ詭弁が多いか、JBさんにも分かるように引用しました。


以下の文章は、ネット上で出回っている詭弁のガイドラインを引用して、今回のJBさんコメントに当てはめてみたものです。

「 」内の例文は、「犬は果たして哺乳類か?」という議論をしている場合、あなたが「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して、否定論者がいう詭弁の一例です。

○主観で決め付ける

「犬自身が哺乳類であることを望むわけがない」

(JBさん 2014年07月27日(日)のコメントより抜粋)

宮田教の信者の言語はほんとに凄いですね(笑)

(略)

※義務教育をちゃんと受けた人は誰でも分かることですよね。
 宮田教の信者さんからすると驚かれるかもしれませんが!

(略)

ですが、『教行信証』をはじめ、親鸞聖人のご著書が、宮田語で書かれているという説は見たことがないですね。(当たり前・笑)
(略)
宮田教内部にしか通用しない理屈です。

(略)

なので、お互い言語が違うとしかいいようがないです。

(略)

もう、これ以上はどれだけ頑張っても、宮田教の信者さんたちには理解不能だと思いますね

(略)

パッと拝読しても、私たちにはそうは読めないところを、聖人は、体験を通して知らされたのです。
そうでないと、「まことに知んぬ」の強烈な断言はできません。
(あ、日本語では、強烈な断言なんですよ、「まことに知んぬ」は。信じるに過ぎないのは、宮田語ですからね)

★根拠を示せなければ、あなたの妄想ということになりますね。
(きっと、ここを無視して、好き勝手なことをいうのでしょうけれど、根拠がなければ、どんなに強がっても、
 自信いっぱいに見せかけても【ムダ】ですからね。
 根拠なく騒げば騒ぐほど、痛いところを突かれたことが丸分かりになるということを教えてあげておきましょう)

(略)

そうすると今度は、「仏さまになったのか」と宮田教の信者さん理解しますが、あまりにも極端ですね。

(略)

もし、「仏智満入する」と言ったとしても、独自の解釈をして、【満入】の意味と正反対の理解をしてそうですけどね。

大体、想像つくというもの。
(満入しても、満ちない、入ってない、とか。かな? 日本語の正反対な理解が得意ですものね、宮田教の皆さんは)

(略)

これも、宮田教の人たちは、根拠のない解釈をして、
「仏心と凡心と一つになったら、心じゃなくなる」、とかいう珍釈でしょうか?

ちょっと、ここはまだ、あなた方の妄想を破るには字数が足らないかも知れませんね。
将来、分かる日がくることを念じておきますね。

○事実に対して仮定を持ち出す
「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」

(JBさん 2014年07月27日(日)のコメントより抜粋)
凡智で分かるなどと、ゼロさんがいつそんなことを言われましたでしょうか?

○資料を示さず自論が支持されていると思わせる
「世界では、犬は哺乳類ではないという見方が一般的だ」

(JBさん 2014年07月27日(日)のコメントより抜粋)
普通の日本人なら皆、分かることなので、逆にいえば、宮田語しか分からない人には毛頭わからないことですね。

(略)

その内容は、日本語の基礎、【1】【2】に基づき「念仏の衆生は~」のお言葉にかかっている。

(略)
宮田教の人々には、その流れが分かってないようですが、

日本語が分かる人には誰でもわかることです。分からないのは、宮田教信者の証です。

分かるのは、普通の日本人。

○ありえない解決策を図る
「結局、犬が卵を産めるようになれば良いって事だよね」

(JBさん 2014年07月27日(日)のコメントより抜粋)
もしくは、宮田語辞典などがネットや書店で購入できるようでしたら、教えてくださいな。
興味あるので勉強してみます。

(略)

★議論したいのなら、【1】~【4】の日本語が理解したむねを伝えるか、宮田語辞典の存在を教えてください!

○レッテル貼りをする
「犬が哺乳類だなんて過去の概念にしがみつく右翼はイタイね」

(JBさん 2014年07月27日(日)のコメントより抜粋)
まったくもって、法論レベルまでいかない人たち相手に
(略)

いつもの調子で「ゼロさんと違う!」という妄想が多いですね、宮田教の人々は。

(略)
自分の体験や、自分の都合に合わせてよむと、「真に知んぬ」が「信じるに過ぎない」とまでなってしまうので驚きです!

これが宮田教の教義。

(略)
間接的、それっぽい反論はたくさんしてくるでしょうが、直接的な反論はきっとムリでしょうね。

本願寺とも違う、宮田教の珍しき解釈、ということがここで明らかになっているのです。

(略)

宮田語しか解せない方々には、とても受け入れられなかったでしょう?

言語が違うからです。

○勝利宣言をする
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」

(JBさん 2014年07月27日(日)のコメントより抜粋)
本当なら、もっと議論をしたかったのですが、いかんせん言語が違うとこれ以上どれだけやりとりしても、進展は望めませんからね。
残念です。

日本語が理解できるようになったら、またお話しするかもしれませんが、それまでは議論は無理ですね。

(略)
では、以下の理解ができるようになったら連絡ください。
それまでは「議論不可能」というのが私の結論です。

(略)
(宮田語辞典が)ないのなら、議論は残念ながら不可能ということです。

権威主義におちいって話を聞かなくなる。
「生物学の権威じゃないおまえには犬について議論する資格が無い。生物学者に意見を聞きたい」

(JBさん 2014年07月27日(日)のコメントより抜粋)
「紅楳英顕氏【でさえ】分かっていることが、宮田教の人々には分かってない」

という意味で出されているのは明らかではないですか。

(略)
紅楳英顕氏があれほど「自覚」「確信」を連発していますが、それでもこの場合は、「自覚」「確信」と言っていいなんて、それこそ【詭弁!】ですね。

それから、JBさんはゼロさんと別人ということですが【  】や「  」の使い方がゼロさんとほとんど同じですね。ゼロさんに近い人なのかもしれませんが、詭弁の使い方がゼロさんに本当によく似ていますね。
私は議論を放棄しませんし、勝利宣言もしません。ゼロさんの帰還をお待ちしております。

ここからは独り言です。ゼロさんもJBさんも読み流してください。
ーーーーーー

ゼロさんは、今回の議論で宮田を軽くひねって会の内部で箔をつけようとしたんでしょうね。ところが思ったとおりにならないどころか、勝てない現状をごまかそうと会長を騙そうとしたのが、会長の逆鱗に触れてしまったんでしょうね。善知識をおろそかにおもうゼロのハンドルネームはしばらく自粛か凍結といったところでしょうか。昨日も随分夜遅くにコメントを書き込んだJBさんも大変でしたね。

議論放棄を詭弁で糊塗しようとしても、それか通用するようなら親鸞会もいよいよ終わりですね。

最初の予想では「救われたと謳っている宮田の誤りを糾した私こそ救われた者だ」と会の中で主張したかったのかもしれませんが、現実はなかなかうまくいかないですね。

「人生は難度海」と貴方も他人に言っているでしょう。よくよく味わってください。
ーーーーー

と、そんなことを思いました。

2014/07/28




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさん

コメントを投稿したあとに、貴方のコメントに気がつきました。
勝利宣言をしないということは、逃亡宣言もしないということなんですがね。

それが、会の中での立場をまもるための最善手なら特に私がいうことではありませんが、おもったより早かったですね。

また、コメントはまとめておきますのでよろしくお願いします。異論はいつまでもお待ちしております。

2014/07/28




さて

意外とあっけない幕切れ。

どうあがいても、どんな詭弁を使っても、退会者には全く通用しないことが親鸞会にも少しは分った?

ゼロナビJBさんがいなくなると寂しいので、高森会長が直々に参上するのがいいな。

いつものように素性を隠してもいいから。

2014/07/28




熱中症に注意

ゼロは、

自己陶酔の挙句、逃亡ですか。高森さんらしいですね。

2014/07/28




とくよしみね

ゼロさんへ

ゼロさんはまさきさんの信心の表明に対抗できないのです。
そのことは、ご自分が一番よく知っているはずです。
それを非難するつもりはありません。
早くまさきさんと同じところで出て頂きたいと心から思っています。
同じ親鸞会に入って後生の一大事の解決めざし聞法を始めた仲間なのです。
必ず解決できるのです。
これもなにかのご縁です。
貴方の言うハッキリと私たちの言うハッキリがどういうものか必ずわかります。
「こいつら何を言っているのか。」と思っている皆さんの言葉がすべて理解できます。
多少過激な言葉もありますが・・・。m(_ _)m
一日も早く後生の一大事、解決できることを願っています。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

  2014/07/28




とくよしみね

「で」 は 「へ」 の間違い。
ちょっと最近打ち込みミスが多い。
気をつけないと。失礼しました。

2014/07/28




マメ

高森さん目線の自己陶酔は、この程度の酔っ払い並か。残念。

2014/07/29




残念

それにしても酷い法論だった。
低レベルすぎ。
親鸞会相手だと議論が凍結状態になるんだ。

ゼロさんには、信心も、教学も、品性のかけらもなかった。
次期会長も上に同じ。
イヤ、次期会長の方が下劣か。
不倫を暴露されて、お父ちゃんに泣きついて庇ってもらうような人物だからね。

そんな親鸞会にしがみつくしかないんだね、ゼロさんは。
本当に惨めだね。

ないないづくしの親鸞会に、未来なんかないのにさ。

2014/07/29




まったく

ゼロの発言は、

迷った己自身の心の告白ですね

2014/07/29



とくよしみね

マメさんへ

私への批判だと思いますのでひとこと。
そんなマメさんにも自己陶酔の私と同じように阿弥陀様は願いをかけておられます。
今、落ちるそのまま、必ず救うと。
お念仏唱えてください。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

2014/07/29



マメ

とくよしみねさんへ

私のコメントはゼロさん向けに書きました。
誤解があったことお詫びいたします。

2014/07/29




残念

とくよしみねさんへ

マメさんのコメントは、とくよしみねさんの前の熱中症に注意さんのコメントである
>ゼロは、自己陶酔の挙げ句、逃亡ですか。高森さんらしいですね。
を受けてのものと思われますが・・・?

私の勘違いですかね?

2014/07/29




とくよしみね

すみません。大抵酔っぱらっていますので、(今はシラフですが)
とりあえず抑えとして出しておきました。
ご指摘ありがとうございました。

2014/07/29




とくよしみね

マメさん
こちらこそ失礼しました。

2014/07/29