親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の「常に完膚なきまでにそれらの悪魔外道を摧破しつづけてきた」法論の実態。「浄土往生の自覚」の有無をめぐっての親鸞会関係者(ゼロさんナビさん)とのやりとりまとめ

前回のエントリー台湾布教をした自称親鸞会ナンバー2が、台湾で行った念仏誹謗と信心詐称について(台湾のサイトより) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ
のコメント欄で、宗教法人浄土真宗親鸞会関係者(講師部員または親友部員)と思われる方からの質問のやり取りが有りました。その 内容は親鸞会用語でいうところの「法論」です。

親鸞会での「法論」と言えば、主に本願寺派との教義論争を指して言います。そして、親鸞会の中では、その教義論争に常に勝利してきたのが親鸞会であり、高森会長であるということになっています。その記録は、「法戦」という冊子となって会員対象に発行されています。

上記の「法戦」のはしがきには、いつもこのような文章が掲載されています。

大聖釈迦牟尼世尊は、その御入滅に際し『涅槃経』の中に、
「僧にして、法を壊つ者あるを視ながら、之を黙視し、更に、呵責駆遣せざる者は、是の僧は、これ仏法中の怨なり。若し、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり」と御遺言なされた。
 これは、仏法をネジ曲げて説いている者を見ながら、それを破邪顕正しない者は仏弟子ではない、仏の敵である、と言うことである。
 この釈尊の御遺訓に従って破邪顕正し、本当の親鸞聖人の御教えを開顕する親鸞会に、打てば響くが如く、四方八方から非難攻撃の嵐が湧き起こった。
 親鸞会はその都度、それら外道邪教、邪義異安心の輩に対して、敢然として破邪の利剣をふるい、常に完膚なきまでにそれらの悪魔外道を摧破しつづけてきた。
 親鸞会の歴史はまさに破邪の法戦で綴られている。(法戦2 親鸞会発行 より)

私も親鸞会に所属していたころは、この文章通りに「常に完膚なきまでにそれらの悪魔外道を摧破しつづけてきた」と信じていた時期がありました。しかし、時代は流れ、親鸞会が批判する相手とのやり取りがネットにそのまま残されるようになると「常に完膚なきまでにそれらの悪魔外道を摧破しつづけてきた」は、親鸞会特有の誇張表現だということがわかるようになりました。実態は、親鸞会独自の理論の押し付けに、ほとんどの相手が愛想を尽かしたというのが正確です。


それでも親鸞会が「勝った」と思った「法論」はネット上にまとめられています。
※参照 親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか
さらに、パンフレットにして講師部員に配布していました。


(画像は当時配布されたネット法論の記録。親鸞会では「絶命パンフ」と呼んでいた。ちなみに「新人太郎は高森顕徹会長のハンドルネーム)

私が親鸞会を除名になった平成21年以降も、ネット上で親鸞会が元会員相手に「法論」をしかけることが何度か有りました。しかし、結果は親鸞会側の「全敗」でした。
詳細は、以下を参照下さい。
親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より


そこで、今回この脱会ブログ上でおこなわれた、親鸞会でいう「法論」のログをエントリーとして公開します。コメント欄の記録をエントリーにする理由は、親鸞会側でこのやりとりを編集して「親鸞会はまたしても元講師部員の邪偽を粉砕した(キリッ)」という機関誌や冊子を配布することを予想し、その実態を公開するためです。


ただ、コメントの記録をほぼそのまま転載しているので、大変長文です。(9万字超)
記録のために公開していますが、関心の有る方だけ以下からご覧下さい。

上記の続きはこちら
親鸞会の「常に完膚なきまでにそれらの悪魔外道を摧破しつづけてきた」法論の実態。「浄土往生の自覚」の有無をめぐっての親鸞会関係者(ゼロさんJBさん)とのやりとりまとめ2 - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ

ゼロさんの登場。

0

本願寺内でも信心不決定が問題になってますが、これはどうなんでしょう?

[質問]
本願寺の勧学寮頭の信心を司教が批判し、教義に違背する龍谷大学元学長を勧学が黙認しているとありましたが、あれは本当のことなのですか?

[答え]
本当です。本願寺の教学学階の最高位を勧学と言います。その勧学に次ぐ学階を司教と言います。司教である紅楳英顕(こうばい・えいけん)氏は論文で勧学のトップである勧学寮頭の信心を批判し、それをインターネットで公開しています。
以下、詳細を見てみましょう。

まず勧学寮頭を、司教の紅楳氏はこのように非難しています。勧学寮とは、本願寺門主の諮問機関で、教学的問題に対して答える役割を持ち、その勧学寮の最高責任者が勧学寮頭です。
「この度、新勧学寮頭(徳永一道氏)が誕生したが、信心不決定体質は一向に変わりはない。著よりみるに、念仏の信前と信後の違いを全く認識出来ていない、信心不決定の寮頭といえる。
最近の『真宗学』第一二六号にも、『三願転入のあの転入の時は(中略)、ある時点で信心をいただいたことが分かるんだという方もおられると思いますけど、私はそうではない』(93ページ)と述べているように、二十願から十八願への転入の事実を否定し、また信心獲得の確信、をも否定しているのである。教学、安心の最高責任者がこのようなことでは宗門の将来に全く光はないと想う」


当の紅楳氏も、親鸞会との宿善論争で、7つの質問に答えられなくなり、不信心を天下にさらしました。

宿善論争とは、昭和54年12月、本願寺の紅楳英顕氏が『伝道院紀要』24号に、「現代における異義の研究」と題し、親鸞会を「親鸞聖人の教えに反する、全くの謬見であり異義である」と批難する論文を発表し、翌月、親鸞会からその論文の不明点を問う4つの質問が出されたことから始まった論争です。3年後の昭和58年1月、紅楳氏からは『派外からの異説について』、本願寺からは勧学寮頭監修の『現代の教学問題』の2冊の回答書が出されました。
しかし、「宿善」と「後生の一大事」について、さらに深まった疑問点を親鸞会は直ちに7つの質問として提出しました。以来31年、本願寺も紅楳氏も逃げの一手で、何ら回答がありません。この法論の詳細は、親鸞会発行の『本願寺なぜ答えぬ』に収録されています。

紅楳氏は“宗門(本願寺)の将来”を危うくさせた張本人なのですが、現在の勧学寮頭に対し、〝宗門(本願寺)の将来に全く光はない〟と厳しい診断を下しています。

また紅楳氏は、龍谷大学の元学長、信楽峻麿(しがらき・たかまろ)氏が自著に
「信心正因 称名報恩の教義理解が、親鸞の本意からすれば全くの誤謬であることは、きわめて明白でしょう」

と書いていることを痛烈に批判しています。

龍谷大学とは、1639年、西本願寺が設立した「学寮」を起源とする大学です。現在は総合大学ですが、真宗学科が置かれているのが特徴です。そのような真宗を学ぶ学生たちを指導する大学の学長が「信心正因 称名報恩」(「信心正因」とは、信心一つで助かるということ。「称名報恩」とは、称える念仏は弥陀に救われたお礼)という浄土真宗の教義の骨格を破壊する、とんでもない邪義を主張しているにもかかわらず、勧学は黙認し、それを「職を辞すべき」と厳しく糾弾しています。以下は、その論文からの抜粋です。
「浄土真宗において宗義の根本命題とされた『信心正因、称名報恩』について近年反対の意見がかなり出されているが(中略)信前の称名と信後の称名との区別もつかないであろう」

「2011年(平成23年)6月からの浄土真宗本願寺派宗法には、(中略)『勧学寮は、宗制に定める教義に相異する義を主張した者に対し、教諭する』(信心正因称名報恩を否定することは宗制に相異するのである)が加えられている。(中略)新宗法施行から3年目になろうとしている。しかし、そこに定められた信心正因、称名報恩批判者に対する教諭がなされた様子は全くない。総局、勧学寮は宗法の遵守義務を放棄したのであろうか。それならば無責任極まることであり、直ちに職を辞すべきではなかろうか」


こうした紅楳氏の批判に対し、勧学寮頭の徳永氏からも、元学長の信楽氏からも、何の反論もありません。本願寺の中枢が、勧学寮頭、司教、学長と三分裂している状況です。 これでは全国の末寺門徒の教化などおぼつかず、親鸞学徒の本道に立ち返ることを願わずにおれません。

http://kazoku.sub.jp/etc/140530hongwanji-naibu.htm

2014/06/30



ミリダン王

また荒らしですか。
今回のエントリーに無関係な本願寺の悪口を書いても、親鸞会の謗法が正当化されるわけではありません。
問題は「未決定」ではなく「信心詐称」と「念仏誹謗」です。

2014/06/30



SUhEf6

0さんへ

未信心者(衆生)に話を合わせて

救う手法を用いているだけかも知れませんが、

戦争被害者の人々の心情を考えて、

お寺に正論を語れないようにしている一派が

お寺の中にいるそうです。

(テクノロジー情報)

どちらにしても、

他の衆生はどうなるのでしょうか・・・

2014/06/30



SUhEf6

勧学寮頭(徳永一道氏)の為にもなっていません。

2014/06/30




id:shinrankaiuso

Oさんへ

親鸞会のデタラメ記事に騙されてはいけません。
宿善論争で、答えられず逃げまわているのが親鸞会であり、高森会長です。
以下を読んでください。

http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-19.html

2014/06/30



山も山 (id:yamamoya)

Oさんへ

>当の紅楳氏も、親鸞会との宿善論争で、7つの質問に答えられなくなり
の経緯については上記のコメントにあるリンクをご覧下さい。

2014/06/30




0(ゼロ)

宮田さんへ

問題のメインはどう考えても、勧学寮頭・徳永一道氏、ですが、そこをあえて避けられたということは、徳永氏は問題ありと思っていると理解してよろしいでしょうか?

以下、問題点に絞ってみました。ご意見お聞かせください。

  ***************

この度、新勧学寮頭が誕生したが、信心不決定体質は一向に変わりはない。
著よりみるに、 念仏の信前と信後の違いを全く認識出来ていない、
信心不決定の寮頭といえる⑦。
最近の『真宗学』第一二六号(平成二十四年三月)にも

「私は回心を直線的時間の上に置くのもいかがと思います。
 三願転入のあの転入の時は(中略)、歴史家の詮索するところであって、
 行信論においてはそういうことを問題にしないというのが、
 私はよいと思います。(中略)ある時点で信心をいただいた
 ことが分かるんだという方もおられると思いますけど、私はそうではない」(九三頁)

と述べているように、二十願(信前真門自力念仏)から十八願(信後弘願他力念仏)への
転入の事実を否定し、また信心獲得の確信(機辺の決定心)、をも否定しているのである。

教学、安心の最高責任者がこのようなことでは宗門の将来に全く光はないと想う。

http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/kinnnenn.htm

2014/06/30




id:shinrankaiuso

本願寺内部のことは、本願寺内部の人にしかわからないでしょう。
しかし、0さんはあえて宿善論争について避けられたということは、高森氏と親鸞会の教義と情報は問題ありと思っていると理解してよろしいでしょうか?

2014/06/30




山も山 (id:yamamoya)

Oさんへ

お尋ねの趣旨が今一つわかりかねるので、確認させてください。

勧学寮頭・徳永一道氏について

>徳永氏は問題ありと思っていると理解してよろしいでしょうか?

とのお尋ねですが、どのような問題があるというお尋ねなのかよくわかりませんでした。
当ブログの立ち位置は、あくまで親鸞会を脱会した人、したい人に向けて親鸞会の問題点を論じているものです。Oさんが本願寺派門徒であり、本願寺派の将来を憂う方ならばそうお書き下さい。

または、親鸞会会員または支持者で「本願寺にも問題があるではないか」「やっぱり親鸞会本願寺批判は正しかったのだ」「つまり親鸞会は正しい」という理路からのお尋ねならば、「本願寺派にある問題と親鸞会が真宗教義を曲げているのはまた別問題でありここで論じる話題ではない」とお答えしておきます。

2014/07/01


ゼロさん本題を切り出す「浄土往生の確信がないとの宮田の文章は間違い」

ゼロ

失礼ですが、宮田さんのコメントが「逃げ腰」ととられても仕方のないようなものであったのが残念です。

改めて趣旨をお伝えいたします。

勧学寮頭は

「私は回心を直線的時間の上に置くのもいかがと思います。
 三願転入のあの転入の時は(中略)、歴史家の詮索するところであって、
 行信論においてはそういうことを問題にしないというのが、
 私はよいと思います。(中略)ある時点で信心をいただいた
 ことが分かるんだという方もおられると思いますけど、私はそうではない」

と発言し、非難されていますが、

宮田さんも

阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の確信があるのかないのか、については、私は
「ない」という立場です」

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c

と自身のブログで発言しています。

信心決定しても浄土往生がハッキリしないという点で、勧学寮頭と宮田さんは一致していますが、これは親鸞聖人の【教えに反する邪義】ではありませんか。

そんな人が、こんなブログを立ち上げ、親鸞聖人の教えについて他を非難する資格があるのでしょうか、と苦言を呈しているのです。

問題点はたくさんあるのですが、焦点をしぼりませんと、収拾がつかなくなるのが常ですので、この点で宮田さんの意見を聞かせてもらいたいと思っております。

(ですから、失礼ですが、他の方からの質問などにはお答えいたしませんのでご了承ください)

2014/07/01




id:shinrankaiuso

ゼロさんは、「逃げ腰」ととられても仕方のないようなものであったのが残念です。

ご自身が出された宿善論争の件についての見解を尋ねたのに、完全無視とは如何なものでしょうか。

つまりは、都合が悪い部分を出してしまって、この件は触れたくないから誤魔化そう、としか考えられませんが、違いますか?

浄土往生がハッキリするかどうかという件に関しましても、これまで幾度となく、多くのブログで語られ、議論され尽くされた内容です。ご存知ないだけでしょうが、結論は、

浄土往生させてみせると誓われた本願に救われたことがハッキリする。
しかし、浄土が分かると言うような意味での浄土往生がハッキリするのではない。

です。

2014/07/01




またか・・・

ゼロさんも又いつもの手法ですか・・・
宮田さんに質問する前にまず宮田さんの質問に答えましょう。
人の質問を無視しておいて、他人に「逃げ腰」などと言う人を世間では「失礼なヤツ」と呼びます。仏法者としての礼節をわきまえない者に質問する資格などありません。

2014/07/01




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさん

私は紅楳先生の説については支持する立場ですが、当ブログとしては特に本願寺派の問題を取り扱うものではありません。

そこで、ゼロさんのコメントを読んで不明な点がありました。

ーーーーー
浄土往生の確信があるのかないのか、については、私は「ない」という立場です」
ーーーーー
という私のエントリーを引用されていますが、一つお尋ねします。ちなみに私は無疑≠確信という立場で書いています。

ーーーーーー
信心決定しても浄土往生がハッキリしないという点(ゼロさん)
ーーーーーー
のいわれる「浄土往生がハッキリする」というのは具体的にどういうことを指していわれているのでしょうか?
私が考えるにゼロさんがそのように主張される理屈は以下の二つだと考えます。

1.ご自身が「浄土往生がハッキリした」ということならば、ご自身の言葉でお願いします。
2.また、浄土往生がハッキリしていないけれどお聖教に根拠があるというなら、その根拠をお示し下さい。

加えてお尋ねしますが、ゼロさんは無疑=確信という立場でしょうか?ここについては根拠はいりませんので、イエスかノーでお答え下さい。

2014/07/01




とくよしみね

ゼロさんはKKさんかもしれない。
そんな気がする。

2014/07/01





ゼロ

宮田さんへ

あたなは、先のコメントで

>私は無疑≠確信という立場で書いています。

と書いていますが、よくそんなことが言えたものと正直、驚きあきれています。

今、宮田さんが

阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の確信があるのかないのか、
>については、私は「ない」という立場です」

と言ったことを問題として取り上げ、その発言がなされたURLもつけておいたの
ですが、

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c

このページでのやりとりをどう思っているのでしょうか?

このページで、「サイクロン」という人が「確信=無疑」の意味で
論じております。

それを踏まえて宮田さんは、

阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の確信があるのかないのか、
>については、私は「ない」という立場です」

と明言したのです。

該当する箇所の一部をまとめてみましたので、ご確認ください。
(言うまでもなく、yamamoyaとは宮田さんのことです)

。。。。。。。サイクロンさんの発言・ここから。。。。。。。。。。。。

サイクロン 2012/05/12 18:47
yamamoya 様

わざわざ新規エントリーの方で取り上げてくださいまして、ありがとうございます。

>そこで、あらためてサイクロンさんにお尋ねします。
春の嵐さんのコメントにある通りですが「サイクロンさんの側から
>浄土に往くと、ハッキリしているのですか?」
>私見ですが、どうもそれをもって、サイクロンさんは「信心を頂いている者です」
>といわれているように思います。(違っていたらすみません)

いえ、違いませんよ。

私には、浄土往生の確信があります。

ただここで誤解しないでいただきたいのが、
あくまでそれは、阿弥陀仏によって知らされるもの、ということです。

(中略)

救われた者は、死後、浄土で仏のさとりを得る、ということが「知らされた」と
仰有られていますから、信じているという疑いを含むものではないと理解できま
すが、いかがでしょう。

。。。。。。。サイクロンさんの発言・ここまで。。。。。。。。。。。。


サイクロンさんの言葉遣いは明らかにこうです。

「確信」=「知らされた」=「信じているという疑いを含むものではない」=「無疑」

この発言の後で、宮田さんは、こう書いているのです。

>「阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の確信があるのかないのか、については、
>私は「ない」という立場です」

>サイクロンさんは、「浄土往生の確信があります」
>私は「浄土往生の確信はない」
>という立場で議論をしている。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c

ですから宮田さんは、

阿弥陀仏に救われたら、浄土往生が【知らされるのか】、については、私は
【知らされない】という立場です」

阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の【疑いが晴れるのですか】、については、私
は【疑いは晴れない】という立場です」

という発言をしたことと同じです。

さらにサイクロンさんはこうも発言していることも付け加えておきましょう。

「浄土往生の確信は、阿弥陀仏に、ツユチリほどの疑いなく
 うちまかせるからこそ知らされるのです」
「私が浄土往生させていただくことに至っては、全て阿弥陀仏の一人ばたらきです」(サイクロンさんの発言)

このサイクロンさんの主張に反論している宮田さんは、

阿弥陀仏に救われたら、浄土往生に【ツユチリほどの疑いがなくなるのか】、
については、私は【疑いはなくならない】という立場です」

と主張していることになります。

これは、

「あなた」が、「あなたのブログ」に発言したことですよ。

いわばあなたのホームグラウンドでなされたもの。
「ちょっと言い間違えた」では済まされません。

今さら都合が悪いからといって、

>私は無疑≠確信という立場で書いています。

などといえる立場ではないことを自覚していただきたい。

あと、まことに失礼ですが、質問の仕方もおかしいので、
あなたの質問どおりではありませんが、趣旨にかなった答え方をしておきます。

>1.ご自身が「浄土往生がハッキリした」ということならば、ご自身の言葉でお願いします。
>2.また、浄土往生がハッキリしていないけれどお聖教に根拠があるというなら、その根拠をお示し下さい。

今、論じているのは、「親鸞聖人の教え」であって、私が救われたとか、
あなたが救われたとかいう点ではないのです。
そこがあなたの「逃げ道」の一つなのでしょうが、そのことも予想して
親鸞聖人の【教えに反する邪義】ではありませんか」
と強調していたのです。

最初から逃げ腰で残念と思いましたが、ますます逃げ道作りに励まれず、
教義にしぼって、ちゃんとした質問や返答をしてください。

私は、救われていても救われていなくても、生涯、親鸞聖人のみ教え、お言葉を
根拠に示します。

 金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、
 【必ず】現生に十種の益を獲。
 なにものをか十とする。(中略)十には入正定聚の益なり。
     (教行信証『信巻』・親鸞聖人)

信心獲得すれば、【必ず】入正定聚の益を獲るのですから、

獲信すれば「浄土往生の確信がある=浄土往生に無疑」であることは
明らかです。

>ゼロさんは無疑=確信という立場でしょうか?ここについては根拠はいりませんので、イエスかノーでお答え下さい。

この質問の仕方も、「言葉」というものを理解できないところから出てくるので
はないでしょうか?

先にお話ししましたように、今、問題になっているのは、
このページ
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c

の中で論じられている「浄土往生の【確信】」です。

国語のお勉強の「確信」の意味を論じているのではありません。

ですから、このページ
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c

の中で論じられている「浄土往生の【確信】」は、「無疑」という立場です。

日常で使う「勝利を確信する」などの「確信」には、「無疑」の意味はありませ
ん。

それでは、宮田さん、あなたがこのページで使用している

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c

「確信=無疑」は間違っていたのか、

「確信=無疑」が正しくて、いまさらそれを否定した発言が間違っていたのか、

それとも、別の弁明をなさるか、誠意ある返答をお待ちしております。

(都合が悪いからといって、サイクロンさんの時みたいに勝手にコメントを削除
したり、議論を打ち切らないでくださいね。
 こちらはフリを承知でアウェーで論じているのですから)

2014/07/01




id:shinrankaiuso

いつもの断章取義ですね。
このいきさつについて「安心問答」のエントリーで、それまでのコメントを引用しています。
しっかり読んでから、コメントしましょう。

サイクロン 2012/05/08 12:15
浄土往生が確信されていないことを、「行き先が分からない飛行機のようになぜ生きるかがわかからないこと」と例えているのであれば、話の筋は通っているように思いますが。
浄土往生が確信されていないということは、最悪、地獄に堕ちる可能性があるという意味では、後生は間違いなく一大事ではありませんか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336446951

サイクロン 2012/05/09 17:33
(略)
私は信心をいただいている者です。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336552439

ハリケーン 2012/05/11 02:46
(略)
>浄土往生が確信されていないということは、最悪、地獄に堕ちる可能性があるという意味
浄土往生が確信されている、確信されていない、で信心を定義していますよね。
「浄土往生が確信された(=救われた)ならば、地獄に堕ちる可能性がない」という意味ですよね。
そうでなければ、あのコメントは無意味でした、と認めたことになります。行き先がわかるということをしきりに主張していたのですからね。
そうでなければ、あのコメントは無意味でした、と認めたことになります。行き先がわかるということをしきりに主張していたのですからね。
16.獲信したら三世がはっきりするのか
親鸞聖人 浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

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サイクロン氏 地獄一定と極楽一定の自己がはっきり知らされる
親鸞会に入ると、嘘をつくことに罪の意識は全くなくなることの実例です。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336672001

ハリケーン 2012/05/11 03:18
救われています。
執持鈔を否定する貴方には分からないでしょうが、

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。

こういうことです。信前には阿弥陀仏に死後の行き先をまかせていません。信後は阿弥陀仏に死後の行き先をまかせています。
(略)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336673891

ハリケーン 2012/05/11 03:38
(略)
執持鈔からいえることは、
他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず
であり、
源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし
なのです。
簡単に言えば、
死後行くところもすべて阿弥陀仏にお任せしている
であり、我々と親鸞聖人との関係でいえば、
親鸞聖人の行かれる所へ一緒に行くだけ
ということです。これが分からない人は信心が親鸞聖人と異なるということですね。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336675119

サイクロン 2012/05/12 01:11
(略)
ハリケーンさん
>死後の世界については何もわからない、曖昧なのですよ。
親鸞聖人の御言葉
●真実信心うるひとは
 すなわち定聚のかずにいる
 不退の位にいりぬれば
 かならず滅度にいたらしむ
浄土和讃
信心決定したなら、死後かならず浄土に生まれると仰有られています。
>死後行くところもすべて阿弥陀仏にお任せしているであり、我々と親鸞聖人との関係でいえば、 親鸞聖人の行かれる所へ一緒に行くだけと
親鸞聖人の御言葉
●我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
(御臨末の御言葉)
その親鸞聖人は、浄土にいかれると仰有られていますが、貴方自身にはそれが知らされないのでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336752672

ハリケーン 2012/05/12 04:40
(略)
では根拠に基づいて説明しましょう。
高僧和讃曇鸞讃に
六十有七ときいたり
 浄土の往生とげたまふ
 そのとき霊瑞不思議にて
 一切道俗帰敬しき
また法然讃に
本師源空命終時
  建暦第二壬申歳
 初春下旬第五日
 浄土に還帰せしめけり
とありますね。
曇鸞大師には遇われたこともないのに、法然上人の臨終に立ちあわれたのでもないのに、なぜ浄土往生されたと断言されたのでしょうか。
それは、信心を獲ておられることを信じておられ、経典そして高僧方の教えを信じておられたから、理屈でそのように断言されたのですね。
これは御自身のことでも同じです。貴方は徹底的に執持鈔を排除されますが、地獄も浄土も、凡夫に分かる訳がないのです。分からないが、経典と高僧方の仰せ信じているから、自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに違いない、と信じるに過ぎないのです。
まとめましょう。
自力・・・自分で浄土に往ける地獄に堕ちると決めつける
他力・・・阿弥陀仏にすべてお任せ(経典・お聖教の通りに師と共に往生できると信じている)
異安心・・・浄土が分かってその浄土に往けるチケット(信心)を持っている
こういうことですよ。
ちなみに、仏法に遇えなかったらどうなるかについて、執持鈔での親鸞聖人のお言葉は、地獄、悪道、六道とぶれているのです。死後のことは、何もわからないから、経典に当てはめて地獄だろうな、三悪道だろうな、一般論として六道だな、という程度です。
地獄一定などとはっきりする訳ないです。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254

2014/07/01




山も山 (id:yamamoya)


ゼロさんへ

>私は無疑≠確信という立場で書いています。

と書いていますが、よくそんなことが言えたものと正直、驚きあきれています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c
こちらで私が以前書いたことを読んで、ゼロさんがそう理解されていないということがわかりました。

このページで、「サイクロン」という人が「確信=無疑」の意味で

論じております。

このやりとりは、「確信=無疑」は間違いであるということが主題となっています。

ですから

それを踏まえて宮田さんは、
阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の確信があるのかないのか、
>については、私は「ない」という立場です」
と明言したのです。

確信≠無疑ですから、阿弥陀仏に救われた(無疑心)ら、浄土往生の確信はあるか?という話について、私は「ない」と書いたものです。他力信心、無疑心に対して、それはイコール確信だといのがそもそもの間違いだと、私以外の複数の方のコメントもその点では一致しています。

サイクロンさんの言葉遣いは明らかにこうです。
「確信」=「知らされた」=「信じているという疑いを含むものではない」=「無疑」

はい、サイクロンさんはそう書いています。しかし、その等式は成り立たないという趣旨で、以下の

>「阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の確信があるのかないのか、については、

>私は「ない」という立場です」

>サイクロンさんは、「浄土往生の確信があります」
>私は「浄土往生の確信はない」
>という立場で議論をしている。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c

と書きました。

その前提で書いていますから、確信≠無疑(=知らされるーー場合によってはOK)なのであって、ゼロさんが、私が確信と書いた文章を[知らされる][疑いが晴れる]と置き換えて作文しているところは、私の主張することとは異なります。

ですから宮田さんは、
阿弥陀仏に救われたら、浄土往生が【知らされるのか】、については、私は
【知らされない】という立場です」
阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の【疑いが晴れるのですか】、については、私
は【疑いは晴れない】という立場です」
という発言をしたことと同じです。

とはなりません。


このサイクロンさんの主張に反論している宮田さんは、
阿弥陀仏に救われたら、浄土往生に【ツユチリほどの疑いがなくなるのか】、
については、私は【疑いはなくならない】という立場です」
と主張していることになります。

とはなりません。

>1.ご自身が「浄土往生がハッキリした」ということならば、ご自身の言葉でお願いします。
>2.また、浄土往生がハッキリしていないけれどお聖教に根拠があるというなら、その根拠をお示し下さい。
今、論じているのは、「親鸞聖人の教え」であって、私が救われたとか、
あなたが救われたとかいう点ではないのです。

ゼロさんの書いていることが、サイクロンさんと全く同じだったので、サイクロンさんに訪ねたことを重ねてたずねただけです。

 金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、
 【必ず】現生に十種の益を獲。
 なにものをか十とする。(中略)十には入正定聚の益なり。
     (教行信証『信巻』・親鸞聖人)

信心獲得すれば、【必ず】入正定聚の益を獲るのですから、
獲信すれば「浄土往生の確信がある=浄土往生に無疑」であることは
明らかです。

こうはならないのです。信心を獲たら、必ず現生に利益を獲るとおっしゃった文章です。信心とその利益の関係を書かれたもので、そこに確信という言葉は入る余地はありません。

親鸞聖人が、我が身の機の上から確信があるとおっしゃったご文をお示し下さいといっているのです。

国語のお勉強の「確信」の意味を論じているのではありません。
ですから、このページ
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c
の中で論じられている「浄土往生の【確信】」は、「無疑」という立場です。
日常で使う「勝利を確信する」などの「確信」には、「無疑」の意味はありませ
ん。

はい、そうです。お聖教に確信という言葉があり、それを無疑とイコールとして親鸞聖人が書かれた箇所がないのでしたら、無疑=確信と勝手にいってはなりません。お聖教にない「確信」という言葉を持ち出した時点で、その「確信」の言葉の意味は日常で使う言葉の意味として使うのが普通です。にもかかわらず、サイクロンさんとゼロさんは「無疑=確信」という立場をとられています。その根拠をお示しくださいとお願いしたのです。

私は、そのような根拠は知りません。知らない以上、親鸞聖人のお言葉にはないけれども「サイクロンさんの中では」無疑=確信となるなにかの体験があって主張されているのではないかと推論したまでのことです。ちなみに、高森顕徹会長の著作は根拠にならないことは、改めて申しておきます。

それでは、宮田さん、あなたがこのページで使用している
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c
「確信=無疑」は間違っていたのか、
「確信=無疑」が正しくて、いまさらそれを否定した発言が間違っていたのか、
それとも、別の弁明をなさるか、誠意ある返答をお待ちしております。

確信=無疑という前提で問いをたてておられますが、その前提が成立しない以上あなたの批判は、意味を持たない問いです。

最後に繰り返しますが、確信=無疑となる親鸞聖人のお言葉をお示しください。サイクロンさんに対してもそれを問いかけましたが、回答は頂けませんでした。それがなければ、サイクロンさん独自の説となり、それを根拠として私に非難をすること自体がただの難癖となってしまいます。

2014/07/02




ゼロ

宮田さんへ

国語レベルの話になり、まことに残念でなりません。

全力で逃げるおつもりか知りませんが、
もっと心を落ち着けて、あなた自身が時間を
かけてやってこられたやりとりを、第三者の目として
もう一度ご覧になって常識ある判断をしてみてくださいね。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c

このページの最後、最終段階においてあなた自身が

>「確信」の語義が問題になっているのではない

とハッキリ書いていますよ。

そして、

>ここで、「浄土往生の確信の有無」が問題になります。
>別の言い方をすると、阿弥陀仏に救われたら浄土往生の確信が
>あるのか、ないのかということです。

と最初の定義としてハッキリ書いています。

「確信=無疑」かどうかが問題にはなってないではないですか。

「確信」という言葉の意味(語義)が無疑かどうかということが
問題ではなく、阿弥陀仏に救われたら浄土往生がハッキリするのか、しないのか

当時あなたが相手をしていたモンスーンさんは、

「確信」=「知らされた」=「信じているという疑いを含むものではない」=「無疑」

と明確に書いています。
そして、そのことは宮田さんも了解していると先のコメントにありました。

もし、これが最大の問題なら、なぜそれを明確にして、論じなかったのですか?
いや、論じないどころか、「それ(語義)は問題にしない」と一番最後に
あなた自身が言っているのですよ。

さらに言いますと、

あなたや、あなたが同意見といっているハリケーンさんがあげた根拠も、

「信心決定したら、浄土往生に疑い晴れるが、確信は持てない」

というようなものではないではありませんか。

あなた方の主張は、

>他力…阿弥陀仏にすべてお任せ(経典・お聖教の通りに
>   師と共に往生できると【信じている】)

というものでした。
つまり、信心決定しても、後生、極楽に往生出来るかどうかは【曖昧】で、
そう【信ずる】のが【他力(の信心)】とハッキリ書いていますよ。

こんな発言も出ていますね。

「自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに違いない、
 と信じるに過ぎないのです」

とても、「無疑」どころの話ではありませんね。

また、

「確信」は、お聖教にない言葉とおっしゃるが、英訳すれば、
一つもお聖教の文字通りの言葉はないですよね。
(すべてアルファベットになりますから)

その場合、「この単語は、日常で使うものと違いこういう意味です」
と説明するのではありませんか?
そういう説明をしても、お聖教にない言葉はどんなに丁寧に説明しても、
日常で使われる言葉としてしか理解してはならないというのでしょうか?
一切、翻訳は不可ですか。

まったくナンセンスですね。
形にとらわれず、心を大事にすべきではないでしょうか。

古語を現代語に訳し、デリケートな部分は、説明を加えればよいでは
ありませんか。


ちなみに私が二回目にあげたコメントに

「二十願(信前真門自力念仏)から十八願(信後弘願他力念仏)への
転入の事実を否定し、また信心獲得の【確信】(機辺の決定心)、をも否定してい
るのである。
教学、安心の最高責任者がこのようなことでは宗門の将来に全く光はないと想う」

と、紅楳氏も【確信】という言葉も使っていますが、これもアウトで、
紅楳氏を「異安心」とするのがあなたの立場と理解すればいいでしょうか?

駄々っ子のような低レベルのところでとどまらず、もっと意義のある
議論をしませんか?

●金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、
 【必ず】現生に十種の益を獲。
 なにものをか十とする。(中略)十には入正定聚の益なり。
     (教行信証『信巻』・親鸞聖人)

についてですが、宮田さんは、獲信しても、現生十種の利益の
自覚はない、ということでしょうか?

●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?
分かりやすく教えてもらえませんか。

2014/07/02






id:shinrankaiuso

宿善論争については、高森会長の負けであったことを完全に認めた訳ですね。

そして、宮田さんへのいちゃもんは、まさに国語レベルの話。
ちなみにモンスーンさんのコメントは以下の通り。

モンスーン 2012/05/14 07:23
サイクロンさんの荒らしについての非難はないのですか?
毎度毎度、同じ終わり方をしてるのにですよ。

「確信」ということにこだわられていますが、執持鈔を読めれば、それの定義が素直に理解できます。
執持鈔を避けるということは、執持鈔の「確信」の定義とは違う「確信」、
それは高森会長が説明してところの「確信」の意味になります。
歎異抄や他の御文を出してきても、執持鈔の「確信」の定義になります。
サイクロンさんは、執持鈔のが都合が悪いのです。
なぜなら高森会長の説を否定することになるからです。
執持鈔に乗っかって話を進めるならば、何もすれ違いはおきません。
しかし、サイクロンさんも含めて、議論の参加者は、高森会長の言う「確信」の意味で
あることが暗黙の了解でわかっていましたから、あの展開になっているのです。

モンスーンさんは、宮田さんの相手ではなく同意見の人。

同じく同意見のハリケーンさんのコメントを前回上げました。再度。

ハリケーン 2012/05/11 03:18
救われています。
執持鈔を否定する貴方には分からないでしょうが、

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。

こういうことです。信前には阿弥陀仏に死後の行き先をまかせていません。信後は阿弥陀仏に死後の行き先をまかせています。
(略)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336673891

ハリケーン 2012/05/11 03:38
(略)
執持鈔からいえることは、
他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず
であり、
源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし
なのです。
簡単に言えば、
死後行くところもすべて阿弥陀仏にお任せしている
であり、我々と親鸞聖人との関係でいえば、
親鸞聖人の行かれる所へ一緒に行くだけ
ということです。これが分からない人は信心が親鸞聖人と異なるということですね。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336675119

あなたの言う

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

は国語の理解が間違っています。
同じことを何回も言わせないで下さい。

先に書いたコメント

浄土往生させてみせると誓われた本願に救われたことがハッキリする。
しかし、浄土が分かると言うような意味での浄土往生がハッキリするのではない。

2014/07/02





ゼロ

訂正します。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

当時あなたが相手をしていたモンスーンさんは、

「確信」=「知らされた」=「信じているという疑いを含むものではない」=「無疑」

と明確に書いています。
そして、そのことは宮田さんも了解していると先のコメントにありました。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

のモンスーンさんは、サイクロンさんの間違いでした。
失礼いたしました。

2014/07/02





id:shinrankaiuso

ついでにこれも訂正したら如何ですか?

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

2014/07/02

(ハンドルネーム無し)
ゼロさんの最初のコメントでは
信心不決定のままで組織の長として法を説くことは問題だと言われているのでしょうか?
勧学寮頭が信心不決定で門徒の教化はできない。

次のコメントでは本願寺に対して

教学 安心の最高責任者は信心不決定であってはならないと言われているようにも思います。

しかし途中で信心の有無が問題ではなく
教義が問題 だと主張がずれてきています。

もう一度話を戻して 組織の長の信心不決定を問題にしませんか?

ゼロさんのコメントを読んで 高森会長が亡くなったら親鸞会はどのように法を説くのか どのように会員さんの質問に答えるのか興味がわいてきました。

2014/07/02





ヒマ

上記のコメント者です。
ゼロさんの お立場は 

◎最高責任者が信心不決定であってはならない。

◎教義さえ間違っていなければ最高責任者が信心不決定でも良い。

親鸞会では 知識は体験と教学が大事常々言われてきましたが…。

2014/07/02





上の方へ
上のコメントのななしさん

本願寺については論じないって宮田さんが言ったから、展開が変わったのでしょ。
それに問題は、不決定だからダメとゼロさんが宮田さんにふっかけるはずがないじゃない。
不決定なら法を説くなは宮田さん側の主張でだよ。
論点は、最初から、救われてもハッキリしないようなことをいってる勧学寮頭で、宮田さんも勧学寮頭と似たような発言をしていたから、どうなんだって尋ねたんでしょ。
この流れは、ふつう、そう読めますよ。
少なくとも私は、そう読みました。

まさかあなた自身が宮田で行き詰ったから議論を変えたいなーんてことは、さすがにないですよね、そこまで落ちたとは思いたくない。

ともかく宮田さん、ゼロさんの質問にしっかり答えてもらいたいものです。

2014/07/02





「上の方へ」さんへ
流れがわかっているのかいないのか。
ゼロさんは、宮田さんの主張を理解していない。
「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」がその最たるもの。
浄土往生がハッキリするとは、阿弥陀仏の本願に救われたことを指すならその通りです。
しかし、浄土がどようなところか認知できて、往生とはどういうことをいうのか分かることを指すなら、間違いです。

何度も何度も繰り返し繰り返し出てきた『執持鈔』にすべてがおさまっていて、それをサイクロンさんも、ゼロさんも、徹底的に無視する戦法。

宮田さんに何を答えて欲しい訳?

2014/07/02




「上の方へ」さんへ
ハリケーンさんのコメントより

執持鈔からいえることは、
他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず
であり、
源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

こういうことでしょ。
凡夫に何が分かるの?
分かることは、「ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」これだけ。
違う?

2014/07/02




まさき

この問題に関しては、宮田さんがどんなにしっかりと答えても受け取る側のゼロさんが未信ですから、正確に理解するのは無理だと思います。どうしてもその身になってみなければわからないことがあるからです。
ゼロさんが獲信すれば、宮田さんの言わんとすることが容易に理解できるようになるのですが・・・。

2014/07/03





山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ

コメントの引用は、安心問答の方はコメント単位でURLがついているので、そちらで指定していただければ分かりやいです。コメントした人の日付をクリックすると表示されます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c


このページの最後、最終段階においてあなた自身が

>「確信」の語義が問題になっているのではない

とハッキリ書いていますよ。

そんなことは書いていないので、断章はしないでください。
ちなみに、上記のコメントの一文は以下のものです。

また「確信」の語義が問題になっているのではなくて、もともとは「確信があるはずだという前提の認識」が問題と私は考えています。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c1336968947

まえのコメントでも書いた「無疑=確信」が間違いだ、問題だと書いています。

>ここで、「浄土往生の確信の有無」が問題になります。
>別の言い方をすると、阿弥陀仏に救われたら浄土往生の確信が
>あるのか、ないのかということです。

と最初の定義としてハッキリ書いています。

「確信=無疑」かどうかが問題にはなってないではないですか。

ここはそう読むのです。
阿弥陀仏に救われた=信心獲得=無疑心
そうなったら、浄土往生の確信があるのかないのか?
ですから.無疑=確信 か 無疑≠確信 かという問題です。

当時あなたが相手をしていたサイクロンさんは、

「確信」=「知らされた」=「信じているという疑いを含むものではない」=「無疑」

と明確に書いています。
そして、そのことは宮田さんも了解していると先のコメントにありました。

ですから了承していません。

もし、これが最大の問題なら、なぜそれを明確にして、論じなかったのですか?
いや、論じないどころか、「それ(語義)は問題にしない」と一番最後に
あなた自身が言っているのですよ。

上記の通り、そう言っていません。

「自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに違いない、
 と信じるに過ぎないのです」

とても、「無疑」どころの話ではありませんね。

それを無疑と言っているのです。そうでない、つまり無疑=確信の根拠があればお示し下さい。

「確信」は、お聖教にない言葉とおっしゃるが、英訳すれば、
一つもお聖教の文字通りの言葉はないですよね。
(すべてアルファベットになりますから)

あなたは、英語圏内の方でしょうか?もしそうでしたら失礼しました。私は日本人なので、親鸞聖人が直に筆を執られた文章をそのまま拝読しています。もし、英訳ではこうだと、言われても、翻訳は訳者の考えも入るのでそれは根拠になりません。

その場合、「この単語は、日常で使うものと違いこういう意味です」
と説明するのではありませんか?
そういう説明をしても、お聖教にない言葉はどんなに丁寧に説明しても、
日常で使われる言葉としてしか理解してはならないというのでしょうか?
一切、翻訳は不可ですか。

親鸞会の高森会長もなぜ生きるの英訳を「不可能への挑戦」と言っていましたが、それだけ他言語への翻訳は誤訳のリスクを伴います。ただ、少なくとも、無疑=確信ではないと説明すべきであると、私は書いています。

古語を現代語に訳し、デリケートな部分は、説明を加えればよいでは
ありませんか。

その説明が間違っていたら話になりません。

ちなみに私が二回目にあげたコメントに

「二十願(信前真門自力念仏)から十八願(信後弘願他力念仏)への
転入の事実を否定し、また信心獲得の【確信】(機辺の決定心)、をも否定してい
るのである。
教学、安心の最高責任者がこのようなことでは宗門の将来に全く光はないと想う」

と、紅楳氏も【確信】という言葉も使っていますが、これもアウトで、
紅楳氏を「異安心」とするのがあなたの立場と理解すればいいでしょうか?

あなたや、サイクロンさんのいう「往生浄土の確信」の文字が私のディスプレーには表示されません。機辺の決定心≠往生浄土の確信くらいは理解して下さい。

駄々っ子のような低レベルのところでとどまらず、もっと意義のある
議論をしませんか?

私に難癖をつける以外の、意義のある議論をしたいと思われる議論とは何でしょうか?

●金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、
 【必ず】現生に十種の益を獲。
 なにものをか十とする。(中略)十には入正定聚の益なり。
     (教行信証『信巻』・親鸞聖人)

についてですが、宮田さんは、獲信しても、現生十種の利益の
自覚はない、ということでしょうか?

それと、往生浄土が目の当たりにみえるかのようなサイクロンさんの説には同意できません。ここは、信心と利益の関係について言われたものです。

●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?

それが、三随順ということです。

三随順とは、
一には、「是を仏教に随順すと名づく」と
二には、「仏意に随順す」と。
三には、「是を仏願に随順すと名づく」となり
愚禿鈔
http://goo.gl/HN4U8K

三随順
釈尊の教え(仏教)・諸仏の意(仏意)・阿弥陀仏の願(仏願)にしたがうこと。
http://goo.gl/TBxWJ9

私の方で確信できるかどうかの問題ではありません。阿弥陀仏の必ず浄土に生まれさせると誓われた本願に従えるかどうかです。言葉を変えれば、本願に疑い無いかあるかの問題です。同様に、その阿弥陀仏の本願を証誠された諸仏の心に随順できるかどうか、釈尊の教えに随順できるかどうかの話です。

三随順となれば、私が確信できたかどうかは問題ではなく、本願が浄土往生させるとおっしゃるので往生させていただけるということです。それでも、三随順した上でさらに自己の確信が必要でしょうか?必要だというのは、疑っているので無疑ではありません。

2014/07/03





まさきさんへ

「どんなにしっかりと答えても」と言われていますが、少なくとも今回に関しては、しっかりどころか、正直、しっちゃかめっちゃかではないですか?

「確信」の語義が問題ないといいながら、「確信」の言葉遣いが一番の問題という、あまりに矛盾をはらんだ、その場かぎりの発言に、読んでいるこっちがはずかしくなりますよ。

スポーツでもなんでもそうですが、ファンが叱りつける時も必要なんです。
おかしい時は、おかしいですよって言ってあげるべきですし、宮田さんも間違いっていたのなら、正直に言ってお詫びするのがいいのではありませんか?

サッカーでも、敗北し「すべて私の責任です」と発言した監督は、偉いなって思いましたよ。

その場しのぎのごまかし言い訳をする人は、生涯、そんな人間になってしまいますよね。
自戒したいと思います。

2014/07/03





id:shinrankaiuso

>サッカーでも、敗北し「すべて私の責任です」と発言した監督は、偉いなって思いましたよ。

>その場しのぎのごまかし言い訳をする人は、生涯、そんな人間になってしまいますよね。
>自戒したいと思います。

仰る通り。高森会長とゼロさんにも伝えてくださいね。

2014/07/03





まさき

未信の人に「無疑=真実信心」はわかりません。
実際ゼロさんは、“とても、「無疑」どころの話ではありませんね。”と宮田さんのコメントを読み誤っておられます。いや、読み誤っておられるというよりも信心が無いから正しく読めないのです。
今回のテーマで獲信者の宮田さんと法論するのは、ゼロさんには無理です。

2014/07/03




ゼロ

宮田さんへ

どうも頭の整理が出来ておられないようですので、少し整理しましょう。

今、大きく二つのことが問題になっています。

①獲信したら、浄土往生がハッキリするのかしないのか

②宮田さんの議論の進め方について
 (特に「確信」という言葉にまつわる部分)

ともに議論の最中ですが、①の話をするとき、②の「確信」云々を持ち出すと
話が進みませんので、①の議論では、とりあえず確信の言葉づかい抜きでやりませんか?
その方が、問題点がブレない議論になると思います。

ということで、まず①について。

>私に難癖をつける以外の、意義のある議論をしたいと思われる議論とは何でしょ
うか?

「信心獲得すれば、浄土往生がハッキリするのか
 信心獲得しても、浄土往生はハッキリしないのか」

 という議論です。

 宮田さんは、
「信心獲得しても、浄土往生はハッキリしない」
 と主張しているようですが、それは親鸞聖人のみ教えに
 反する邪義だと苦言を呈しています。

 仏教究極の目的は「浄土往生」です。
 その「浄土往生」がハッキリするのかしないのか、極めて大事な問題です。

 それを「難癖をつける」とは、それこそ難癖ではありませんか?
 

ーーーー
●金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、
 【必ず】現生に十種の益を獲。
 なにものをか十とする。(中略)十には入正定聚の益なり。
     (教行信証『信巻』・親鸞聖人)

についてですが、宮田さんは、獲信しても、現生十種の利益の
自覚はない、ということでしょうか?
ーーーーー
>それと、往生浄土が目の当たりにみえるかのようなサイクロンさんの説には
>同意できません。ここは、信心と利益の関係について言われたものです。

残念ながら、前回同様、全く答えになっていません。

「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」

イエスですか、ノーですか?

これは、イエス、ノーで答えられるでしょう。
(もちろん、一字一句そう書かれた文言があるかどうかを聞いているのでは
 ありません。内容を問題にしています)

ーーー
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?
ーーー
>それが、三随順ということです。

宮田さんは、

「『獲信しても浄土往生はハッキリしない。だが、お聖教にあるから信じる』

こう親鸞聖人が教えられた」

と主張していることがよく分かりました。

※先に話ましたように、①の議論は、「確信」という言葉なしでいきましょう。
「ハッキリ」という言葉ならよいのでしょう?

 私はこのやり取りで一度も
 「かたく信じて疑わないこと。また,その信念」
 の意味で「確信」という言葉を使っていません。
 それどころかハッキリ否定しています。
 
 二度と、「無疑なのに、確信する(かたく信じ込む)必要があるのですか」

 という、すっとぼけた非難はやめてもらいたいですね。
 私は、一度もそんなことは言っていないのですから。
 勝手に思い込み、
『自分で作りあげた邪義を自分で破って他人を間違いと非難する』
 という滑稽なことはやめてくださいね。
 これが繰り返されるようでしたら、

 「ああ、宮田さんは、国語力がないから、法論なんてとても無理だな。
  こんなブログを運営するなど、まったく分不相応で、
  ただちに閉じたほうがいいな。
  ここまで思い込みが激しい人なら、獲信したと言っているのも
  思い込みかも」

 と多くの人に思われるでしょう。

 何が議論されているか頭を整理してください。

 
私は、

「獲信すれば、浄土往生がハッキリする」

と主張しています。

根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。

●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す

  一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。

とおっしゃっています。

 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 

間違っても、

「この親鸞
 『念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」

という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?

一体、宮田さんは、この「真に知んぬ」は、「どなた」が「何」を知らされた
(ハッキリした)と解釈しているのですか?
簡潔にお答えください。

もう一度、言っておきますが、私は、世間の言葉でいう「確信」という言葉をこ
こでは一切使っていませんから、「救われたのに、何を確信するのですか」
などと頓珍漢なことは言わないでくださいね。

念のためお伝えしておきますと、

>「三随順した上でさらに自己の確信が必要でしょうか?必要だという
> のは、疑っているので無疑ではありません」

との宮田さんのご意見は、まことにその通りです。
三随順した上でさらに自己の確信(かたく信じて疑わないこと。また,その信念)
は全く必要ありせん、というより、そんな考えは出ようがありません。

阿弥陀仏に救われたのに、浄土往生をかたく信ずる必要があるかないか」
が問題ではありません。
ハッキリ申し上げておきます。

問題は、

宮田さん「信心獲得しても、浄土往生はハッキリしない、信じるに過ぎない」
私   「信心獲得すれば、浄土往生はハッキリする」

この点にあります。
頭の整理は出来ましたでしょうか?

②の問題にいきます。

>また「確信」の語義が問題になっているのではなくて、もともとは
>「確信があるはずだという前提の認識」が問題と私は考えています。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c1336968947

の前半だけだと意味が変わるのでしょうか?

では、

>「確信」の語義が問題になっているのではなく

とはどういう意味ですか?

普通に読めば、『「確信」という言葉の意味(語義)は問題でない』ということ
だと思いますが。
後の文章がついてもつかなくても、これは変わらないように思います。

ちなみに、その直前の月光仮面さんの発言
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c1336957016
の中にも、

>確信の定義がどうあれ関係ありません。

と書かれてあり、宮田さんも
月光仮面さんコメントを有り難うございました」
月光仮面さんの発言を肯定していますよ。

「確信の定義」(確信という言葉を、どういう意味で使うか)

だと普通は読めるのですが、いかがでしょう。

>まえのコメントでも書いた「無疑=確信」が間違いだ、問題だと書いています。

『「無疑=確信」が間違い』と、このページ
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c
のどこに直接的に書いているのですか?
一番大事な問題なら、間接的な言い回しはしないはずですが?

(※「翻訳」云々のことも色々言いたいことがありますが、上記の問題が
  優先順位が高いですし、この問題が解決すれば、自ずと問題にならなく
  なると思いますので、今回は省略しておきます。
  あなたが、「ものすごく重要です」というのなら、お話ししてもいいですが)

「確信」という言葉の定義をハッキリと問題提起しないまま、つまり、
サイクロンさんには「無疑」という意味で「確信」という言葉を使わせ
続けながら、あなたが【心の中だけ】で、

 「サイクロンさんは『確信』という言葉を『無疑』の意味で使っている
  のは分かっているが、あなたが『無疑』のつもりで発言した『確信』
  という言葉は、私の心で全て『かたく信じて疑わないこと』という意味に
  (勝手に)変更されている。
  だからサイクロンさんの発言は間違いです」

と、思って議論を進めていたならバカにするのもほどがあると言いたいのです。

大事なことはキチンと言葉にして議論すべきではないですか?
今回の議論でもそんなことはないでしょうね。
大事なことは、明記してください。

 
>>ここで、「浄土往生の確信の有無」が問題になります。
>>別の言い方をすると、阿弥陀仏に救われたら浄土往生の確信が
>>あるのか、ないのかということです。

>と最初の定義としてハッキリ書いています。

>「確信=無疑」かどうかが問題にはなってないではないですか。
>ーーーーーーー
>ここはそう読むのです。
阿弥陀仏に救われた=信心獲得=無疑心
>そうなったら、浄土往生の確信があるのかないのか?
>ですから.無疑=確信 か 無疑≠確信 かという問題です。

飛躍しすぎでしょう。

サイクロンさんは、「無疑=確信」という定義で最初から最後まで
議論しているのです。

ですが、
>「そうなったら、浄土往生の【確信】があるのかないのか?」
というあなたの文章の中に出てくる「確信」という言葉を宮田さんは、
「確信=かたく信じて疑わないこと」(無疑≠確信)、
という意味で使っているのですよね。

これで議論がかみ合いますか?

「無疑=確信 か 無疑≠確信 か」が問題なら、

「確信」という言葉の「定義」「語義」をこそ、まず問題にすべきでしょう。
当然すぎることではありませんか?

しかも、話はもっとややこしいのです。

そもそも、宮田さんの主張を細かく書くと、

「弥陀に救われても、本願には疑い晴れる。
 だが、浄土往生は信じるに過ぎない。
 しかもそれは確信とも違う」

というものではありませんか?

そうなると、宮田さんは、尋ねたかったことはこうですか?

「ここで、『浄土往生の確信の有無』が問題になります。
 別の言い方をすると、
 『阿弥陀仏の本願に疑い晴れても、浄土往生はハッキリしないが、お聖教にあ
るから信じる』
 のか、
 『阿弥陀仏の本願に疑い晴れたら、浄土往生を(世間的な意味で)確信する』
のか、ということです」

そうとうややこしいですよね。
訳が分からないと思われる人も相当おられるでしょう。

これでは、「無疑=確信 か 無疑≠確信」という問題は
全く鮮明になっていません。

こんな表現で相手や読んでいる人が理解できると思っていたら大間違いですよ。

長くなりましたが、ここまでの②の問題をまとめますと

 「確信という言葉自体が問題なら、そのことをハッキリいうべき」

という極めて当たり前のことなのです。

ここはあなたが頑張るところではないでしょうから、

「言葉足らずでした」とか「議論がかみ合っておあらず申し訳ありませんでした」

など、普通にお詫びすれば済むことではありませんか?

誠意あるお詫びがあれば、この部分に関して私もそれ以上とやかくいうつもりは
ありません。
大人の対応を期待します。

次の部分は、もうちょっと大事な部分になりますね。

>「自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに違いない、
> と信じるに過ぎないのです」

>とても、「無疑」どころの話ではありませんね。
>>ーーーー

と私が言ったのに対し、宮田さんは、一言

>それを無疑と言っているのです。

と答えています。

今、私が問題にしているのは、

「浄土に往くに違いない、と信じるに過ぎないのです」

の部分です。ここは「無疑」ではないでしょう。
少なくとも、ふつうは「無疑」とはとれません。

「『確信』をいついかなる場合でも、説明つけてでも『無疑』という意味で使って
はならない」

と主張しているあなたが、

「『違いない、と信じるに過ぎない』は、『無疑』という意味です」

などと当然のごとく言うのは一体どうしたことでしょう?


もし、この文章が「無疑」なら分かるように説明してください。

なぜ「信じるに過ぎない」という言葉が入っているのに「無疑」なのか。

「獲信せねば分からない」と逃げないでくださいね。


ーーー
>ちなみに私が二回目にあげたコメントに

>「二十願(信前真門自力念仏)から十八願(信後弘願他力念仏)への
>転入の事実を否定し、また信心獲得の【確信】(機辺の決定心)、をも否定してい
>るのである。
>教学、安心の最高責任者がこのようなことでは宗門の将来に全く光はないと想う」

>と、紅楳氏も【確信】という言葉も使っていますが、これもアウトで、
>紅楳氏を「異安心」とするのがあなたの立場と理解すればいいでしょうか?
>ーーー
>あなたや、サイクロンさんのいう「往生浄土の確信」の文字が私のディスプレーには
>表示されません。機辺の決定心≠往生浄土の確信くらいは理解して下さい。

「確信」という言葉は「往生浄土」につくときのみ問題なのでしょうか?

信心獲得には、「確信」という言葉を使ってもいいのなら、その理由を説明して
ください。

あなたの主張は、常に「確信 = 疑わずにかたく信ずること」なのですから、
主張を一貫させてください。

※ちなみに私の意見はこうです。

 「無疑」という意味で「確信」という言葉を使うのなら、
 「信心獲得の確信」という言葉は使っても難はない。
 (阿弥陀仏にハッキリ救われました、という意味)

 「疑わずにかたく信ずること」という意味で「確信」という言葉を使うのなら
 「信心獲得の確信」という言葉は間違っている。
 (阿弥陀仏に救われたと信じています、という意味になってしまう)


では、お返事お待ちしております。

2014/07/03




ゼロ

失礼しました、一か所訂正します。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

そもそも、宮田さんの主張を細かく書くと、

「弥陀に救われても、本願には疑い晴れる。
 だが、浄土往生は信じるに過ぎない。
 しかもそれは確信とも違う」

というものではありませんか?
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

のところは、

「弥陀に救われれば、本願には疑い晴れる。
 だが、浄土往生は信じるに過ぎない。
 しかもそれは確信とも違う」

に修正します。

2014/07/03





id:shinrankaiuso

相変わらずの断章取義。

サイクロンさんとハリケーンさんのやり取りを紹介してでしょ。それを踏まえての宮田さんのコメントですよ。

もう一度書きましょうか。

--------------------
サイクロン 2012/05/12 01:11
(略)

ハリケーンさん

>死後の世界については何もわからない、曖昧なのですよ。

親鸞聖人の御言葉

●真実信心うるひとは
 すなわち定聚のかずにいる
 不退の位にいりぬれば
 かならず滅度にいたらしむ
浄土和讃

信心決定したなら、死後かならず浄土に生まれると仰有られています。

>死後行くところもすべて阿弥陀仏にお任せしているであり、我々と親鸞聖人との関係でいえば、 親鸞聖人の行かれる所へ一緒に行くだけと

親鸞聖人の御言葉

●我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
(御臨末の御言葉)

その親鸞聖人は、浄土にいかれると仰有られていますが、貴方自身にはそれが知らされないのでしょうか。

ハリケーン 2012/05/12 04:40

形勢不利になると根拠に逃げる、と言っていたのにね。
しかし、その姿勢が大事ですよ。
では根拠に基づいて説明しましょう。

高僧和讃曇鸞讃に

六十有七ときいたり
 浄土の往生とげたまふ
 そのとき霊瑞不思議にて
 一切道俗帰敬しき

また法然讃に

本師源空命終時
  建暦第二壬申歳
 初春下旬第五日
 浄土に還帰せしめけり

とありますね。
曇鸞大師には遇われたこともないのに、法然上人の臨終に立ちあわれたのでもないのに、
なぜ浄土往生されたと断言されたのでしょうか。
それは、信心を獲ておられることを信じておられ、経典そして高僧方の教えを信じておられたから、
理屈でそのように断言されたのですね。
これは御自身のことでも同じです。貴方は徹底的に執持鈔を排除されますが、地獄も浄土も、
凡夫に分かる訳がないのです。分からないが、経典と高僧方の仰せ信じているから、自分も
阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに違いない、と信じるに過ぎないのです。

まとめましょう。

自力・・・自分で浄土に往ける地獄に堕ちると決めつける
他力・・・阿弥陀仏にすべてお任せ(経典・お聖教の通りに師と共に往生できると信じている)
異安心・・・浄土が分かってその浄土に往けるチケット(信心)を持っている

こういうことですよ。
ちなみに、仏法に遇えなかったらどうなるかについて、執持鈔での親鸞聖人のお言葉は、
地獄、悪道、六道とぶれているのです。死後のことは、何もわからないから、経典に当てはめて
地獄だろうな、三悪道だろうな、一般論として六道だな、という程度です。
地獄一定などとはっきりする訳ないです。

2014/07/03



さて

親鸞会は、七高僧がどう仰っているか知らないから恥をさらず。

>●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
> 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

>  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す

>  一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。
>  この親鸞、まことと知らされました。

>とおっしゃっています。

「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と仰った七高僧はいない。
七高僧は、浄土に往生してから菩薩となりそこで修行して大般涅槃を超証すと仰っている。
ということは、親鸞聖人と七高僧とは知らされた内容が違うと言うこと。

どういうことでしょうかね。七高僧は、「大般涅槃を超証す」とは知らされていない。
正定聚も浄土に往生してからと、七高僧は仰っている。
七高僧は、親鸞聖人と信心が違うのか?

少し考えれば分かりそうなもの。

2014/07/04

ナビさん登場

ナビ

これ、まったくゼロさんの言う通りですね。

 ↓↓↓↓↓↓↓

 「サイクロンさんは『確信』という言葉を『無疑』の意味で使っている
  のは分かっているが、あなたが『無疑』のつもりで発言した『確信』
  という言葉は、私の心で全て『かたく信じて疑わないこと』という意味に
  (勝手に)変更されている。
  だからサイクロンさんの発言は間違いです」

と、思って議論を進めていたならバカにするのもほどがあると言いたいのです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。

これは、どう頑張っても、宮田さんに問題ありですよ。

そもそも
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c
には、一カ所も「無疑」の二文字はないんじゃないですか?
(せいぜい「疑い」云々。
 それもサイクロンさんの方がより多く
 疑いがなくなると言っている)

宮田さん、ここで頑張れば頑張るほどみっともないですから、さっさとお詫びして、浄土往生がハッキリするかどうかの議論に早く移ってください。

お詫びするのは恥ずかしいことじゃないですよ。
みっともない言い訳・ごまかしをつづけるのは、とっても恥ずかしいけど。

大人と子供の違いの一つ、
しっかりとお詫びできるかどうか、です。

自信があるなら、すでにあがっている『教行信証信巻』のお言葉の正しい意味を明らかにすることに力を注ぐべきですね。

コメントしてる他の人も、下手に宮田さんに同調してたら同レベルと思われてしまいますよ!

さすがにそれはマズイとなれば、はっきりマズイといいましょう。

2014/07/04




id:shinrankaiuso

さてさん、こんなに早く教えてあげては面白くないでしょう。

ついでに教えておくと、

「真に知んぬ」の後が略されているけど、何が書かれてあるか知ってますか?

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」

親鸞聖人はハッキリと、弥勒菩薩が竜華三会の暁に無上覚位を極むべしと知らされたのですよね。
親鸞聖人は他人のことまで分られる智慧を得られたということですかね。
「真に知んぬ」ですよ。
弥勒菩薩が仏に成られる時までハッキリ知らされた、と同じレベルで、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」ですけど。

親鸞会擁護者は、攻めが甘過ぎるのですよ。

2014/07/04




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ

ーーーー
①獲信したら、浄土往生がハッキリするのかしないのか

②宮田さんの議論の進め方について
 (特に「確信」という言葉にまつわる部分)
ともに議論の最中ですが、①の話をするとき、②の「確信」云々を持ち出すと
話が進みませんので、①の議論では、とりあえず確信の言葉づかい抜きでやりませんか?
その方が、問題点がブレない議論になると思います。
(略)

「信心獲得すれば、浄土往生がハッキリするのか
 信心獲得しても、浄土往生はハッキリしないのか」
 という議論です。
ーーーー
ここ以下の文章は、確信がハッキリかわっただけのように思いますが?

私の理解では、サイクロンさん、ゼロさんのいう確信とは自分のなかで「間違いないという判断基準を所有しその上でいうもの」です。これはハッキリとは違うのでしょうか?
結局のところ、そのあたりをハッキリさせて頂かないと議論ができません。その後にいろいろと書いておられますが、最初で引っかかったのでそのあたりを確認させてください。

その上で、いろいろ書かれた部分については、書きたいと思います。せっかくゼロさんが議論を整理して下さったのですから、そのように整理して議論を進めたいと思います。よろしくお願いいたします。

諸事情により、このコメントの投稿時間の前後以外はなかなかコメントはできませんので、よろしくお願いいたします。

2014/07/04




ゼロ

宮田さんへ

>私の理解では、サイクロンさん、ゼロさんのいう確信とは自分のなかで
>「間違いないという判断基準を所有しその上でいうもの」です。
>これはハッキリとは違うのでしょうか?

正直、この言葉に非常にガッカリしました。
どうして、このような理解になるのでしょう?

あなた自身が一番最初に、確信の意味を私に尋ね、私はハッキリ、この場合の確信は「無疑」という意味で使っていますとお答えしたはずですが?

(サイクロンさんも無疑の意味だとずっと明言しています)

無疑のどこに「間違いないという判断基準を所有しその上でいうもの」という意味合いが入るでしょうか?

ですから「ハッキリ」も、疑い晴れてハッキリした、という意味です。

失礼ですが、あなたの思い込みがいかに強く根深いかということはよくよく分からせてもらいました。

では、「ハッキリ」という言葉もご不満のようですので、あなたがよく使われる「無疑」という言葉で論ずるのはどうでしょう。

「信心獲得すれば、浄土往生疑いなしとなる」
「信心獲得しても、浄土往生に疑いはあるけれども、お聖教にあるから信じる」

どちらが親鸞聖人の本当のみ教えですか、という議論です。

これでもご不満がある場合は、宮田さん自身のご意見を聞かせてください。

提案どおり整理して議論を進めたいとのこと、了解いたしました。

では、返事をお待ちしております。

2014/07/04





ヒマ

「信心獲得すれば必堕無間疑いなし」も
「信心獲得すれば因果道理疑いなし」も
高森会長は教えてます。

ゼロさん「信心獲得すれば浄土往生疑いなしとなる」だけでは 片手落ちです。
親鸞会高森会長の教えは「必堕無間疑いなし」「因果の道理疑いなし」も声高らかに叫ばなければなりませんよ。

2014/07/04





id:shinrankaiuso

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」

信心獲得すれば、会ったこともない弥勒菩薩のことを知ることができるだけではなく、弥勒菩薩の成仏の時期まで見通す超能力が備わる

こう言うことで宜しいか?

違うでしょう。

信心獲得しても弥勒菩薩のことを知る智慧が備わる訳でもなければ、弥勒菩薩の成仏の時期を見通す超能力が備わることもない。しかし、お聖教に説かれてあるから、それを信じるに過ぎない。

こういうことでしょう。
同じことで

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」

これは、

信心獲得しても未来を見通す超能力が備わる訳ではないが、お聖教に説かれてあるから、それを信じるに過ぎない。

こういうことですよ。
それと、往生即成仏は、法然上人でさえも仰っていないことで、二種深信の善導大師も仰っていないです。他の方もそうです。

七高僧方は、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」とハッキリ知らされていないので、異安心とお考えのようですね。

親鸞聖人の
「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
を正確に解説するなら、

信心獲得しても未来を見通す超能力が備わる訳ではないが、お聖教に説かれてあることを解釈すると、こうなると信じているに過ぎない。

こういうことです。

2014/07/04





まさき

「無疑」は、ゼロさんが考えているような単純なものではないです。
そんな単純なものを「不可称・不可説・不可思議」とは言わないですよ。

親鸞聖人は、『地獄は一定すみかぞかし』とも言っておられますが、これについてはどう説明するおつもりですか?

親鸞聖人は「二種深信」が立っているので、“法”の方から説いたり“機”の方から説いたりしておられるのです。
ゼロさんは、親鸞聖人が“法”の方から説いた御文だけを取り上げていますが、これでは片手落ちだと私も思います。
と言っても、二種深信が立っていないゼロさんには、何の事だかサッパリわからないかもしれませんが・・・

まあ、せっかくの御縁ですから「無疑=真実信心=二種深信」について、宮田さんからよくよく聞かせてもらって下さい。

2014/07/04





ナビ

宮田さんやゼロさん以外に色んなコメントついていますが、「本気ですか?」
と言いたくなるのが多すぎますね!。

宮田さんって、「無疑」という言葉をいまだに

「間違いないという判断基準を所有しその上でいうもの」

と思っている人ですよ。
そんなレベルの人に、法の深信だけでなく、機の深信や他の話をしてどうするっていうんでしょう。
日本語レベル、というか思考がしっちゃかめっちゃかじゃないですか。

反論あるなら、頭の中で勝手に相手の言葉の意味を変え、それを相手に告げない
まま
「お前は(私の頭の中の定義した言葉の意味で)間違っている」
と言い続ける思考の正しさを私に説明してください。

ゼロさんは、宮田さんが逃げないように、そして混乱してまったく議論が進まな
いということがないように、「往生浄土」にしぼって話をしているのでしょう。
(それでさえ、進まないですね、なかなか。なのに題材増やしてどうするんです
かってことですよ。
 ははあ、もっとカオス状態にして、ごまかす道のご提案ですか?)

ゼロさんは最初の方に

「問題点はたくさんあるのですが、焦点をしぼりませんと、収拾がつかなくなる
のが常ですので、この点で宮田さんの意見を聞かせてもらいたいと思っておりま
す。
(ですから、失礼ですが、他の方からの質問などにはお答えいたしませんのでご了承ください)」

とハッキリ書いてますよ。

id:shinrankaiusoさんの教行信証の解説については、今後、宮田さんとゼロさ
んのやりとりでなされるかも知れませんので、私はしゃしゃり出ないでおきましょ
う。
少なくとも今のうちは。

shinrankaiusoさんの教えの理解の程度が、よく分かるように書いてくれました。

2014/07/04





id:shinrankaiuso

簡単な話ですけど、難しくするために、ごちゃごちゃ言っていることがよく分かりますね。
では整理しておきましょう。

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことでるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

2014/07/04





id:shinrankaiuso

それと親鸞会擁護者が絶対に認めない執持鈔の御文からいえることは、

他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

よって結論は、

阿弥陀仏に救われたということは、往生の一大事が分かるのではなく、阿弥陀仏に死後のことをおまかせしたことをいう。
浄土に往けるとか地獄に堕ちるとか決めつけてはいけない。
阿弥陀仏が連れて往って下されるところへ往く。善知識と同じところへ往く。

これだけ。

2014/07/04





まさき

どうして『二種深信』の話を出すと、カオス状態にしたがっていると疑われることになるのですか?
本当の親鸞聖人の御教えを明らかにするのが目的ではないのですか?
それともこれは、勝他の為の諍論なのでしょうか?

2014/07/04





ナビ

まさきさんへ

「類は友を呼ぶ」を地で言ってますね。
やれやれです。

こちらをお読みいただき、よく理解してから発言してくださいね。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 
反論あるなら、頭の中で勝手に相手の言葉の意味を変え、それを相手に告げない
まま
「お前は(私の頭の中の定義した言葉の意味で)間違っている」
と言い続ける思考の正しさを私に説明してください。

2014/07/04





やめやめ学徒

親鸞会に不信をもっていたところ、ある人にここでのやりとりを見て、退会者の誤りを知れと言われました。
なんだ、やっぱり親鸞会が間違ってるじゃないですか。
私はハッキリ知らされましたよ、高森先生が異安心だと。

2014/07/04





ナビ

やめやめ学徒さんへ

ものすごく嘘くさい、三流以下の演技、おつかれさまでした!

やっぱり、「類は友を呼ぶ」のですね。

2014/07/04





やめやめ学徒

こんなに早くコメントもらえて、光栄です(笑)

でもさ、どこ見て親鸞会が正しいって言えるのですか?
担当講師に尋ねても、高森先生が正しい、高森先生以外に正しく教えている人はいない!しか言わないよ。

ハッキリ言って、アホでしょ。

2014/07/04





やめやめ学徒

Fw:
ナビさん、今回はコメントすぐにくれないのですね。

id:shinrankaiusoさんの教行信証の解説については、今後、宮田さんとゼロさ
>んのやりとりでなされるかも知れませんので、私はしゃしゃり出ないでおきましょ
>う。
>少なくとも今のうちは

こんなこと言わないで、どこがおかしいか、納得できるように簡潔におしえてくださいな(笑)
それともやっぱり、高森先生が正しい、としか言えないの(笑)

2014/07/04





ナビ

やめやめ学徒さんへ

おつかれさま!
あと一回だけつきあってあげましょう。

ゼロさんと宮田さんの教義に関するやりとりって、ほとんど始まってないのに、

「私はハッキリ知らされましたよ、高森先生が異安心だと」

という発言、スゴイですね!
おっちょこちょいとか、早とちりが過ぎるとか、日常いわれてないか、心配してしまいますよ。

しかも、この流れで「ハッキリ知らされました」という言葉づかいw

そして

「ハッキリ言って、アホでしょ」という幼稚な言葉づかいw

宮田さんとサイクロンさんのやりとりをもう一度読み直したけれど、低俗なコメントが多くてひどいですね、正直。

例えばコレ

。。。。。。。。。。。。。。。。。。

何度でも言ってやるよ 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
馬鹿を誹謗したところで功徳になりすれ、悪にはならないから

。。。。。。。。。。。。。。。。。。

こんなコメントは削除せず、他のコメントを削除するのは一体どうしてでしょうね、宮田さん?

やっぱり「類は…」

2014/07/04





やめやめ学徒

今回は早かったですね、感謝です(笑)
id:shinrankaiusoさんの教行信証の解説を読んだら、誰だってわかるでしょ、現にナビさん反論してないじゃない(笑)
でもこれでナビさんの嘘が証明できましたね。

>私はしゃしゃり出ないでおきましょ
>う。
>少なくとも今のうちは

しゃしゃり出ないじゃなく、でれない、永久にでしょ(笑)

2014/07/04





id:shinrankaiuso

ナビさんへ

私からもお願いします、もったいぶらずに反論をしてください。

やめやめ学徒さんへ

納得して頂き、私も嬉しいです。
ナビさんは口先だけですが、ゼロさんには反論してもらいたいですね。高森会長が直々に反論してくれるのがベストですけど。

高森会長以下、皆、口先だけですから期待はしていませんが、やるならいつでも相手になりますよ。

2014/07/04




まさき

親鸞聖人の御教えは、ある一面だけを切り取って語ると誤解されてしまうと思います。
その為、『二種深信』のところで議論するのが一番いいと思います。
もっとも『二種深信』の話は、未信のゼロさんにはついていけないと思いますし、未信のナビさんとしても避けたいところなのでしょうが・・・
でも、分からない事は分からないなりに頭を下げて聞かせてもらえばいいのです。こういう姿勢は、信・未信共に大切にしていかなければなりません。

ゼロさんは、「信心獲得すれば、浄土往生疑いなしとなる」などと言っておられますので、やはり、「無疑=真実信心=二種深信とは?」というところから、一つ一つ教えてもらうのが一番いいと思います。

2014/07/05




山も山 (id:yamamoya)


ゼロさんへ

>私の理解では、サイクロンさん、ゼロさんのいう確信とは自分のなかで

>「間違いないという判断基準を所有しその上でいうもの」です。
>これはハッキリとは違うのでしょうか?
正直、この言葉に非常にガッカリしました。
どうして、このような理解になるのでしょう?
あなた自身が一番最初に、確信の意味を私に尋ね、私はハッキリ、この場合の確信は「無疑」という意味で使っていますとお答えしたはずですが?

それは、理解しました。しかし、私が聞きたかったことは、言い換えると「サイクロンさん、ゼロさんのいう無疑とはどういうことですか?」と言うことです。ですから、ゼロさんは無疑を「間違いないという判断基準を所有しその上でいうもの」と理解しておられるだと思っていたと言うことです。

ですから「ハッキリ」も、疑い晴れてハッキリした、という意味です。

その何がハッキリしたのですか?と聞いています。

では、「ハッキリ」という言葉もご不満のようですので、あなたがよく使われる「無疑」という言葉で論ずるのはどうでしょう。

上記書きましたが、私とゼロさんではどうも無疑の定義がことなるようです。
前のコメントでも書きましたが、私は「無疑=確信は間違い」と主張しております。ゼロさん、サイクロンさんは「無疑=確信でよい」と言われています。

そうなると、私とゼロさん、サイクロンさんの主張の違いは「無疑の理解、定義が異なる」と言うことです。

ですから

「信心獲得すれば、浄土往生疑いなしとなる」
「信心獲得しても、浄土往生に疑いはあるけれども、お聖教にあるから信じる」

どちらが親鸞聖人の本当のみ教えですか、という議論です。

という議論にはなりません。

ゼロさんの言われる「疑い無い」とは、何に疑いないのでしょうか?疑いなくなったらどうなることなのでしょうか?そのあたりを書いていただければ、ゼロさんが浄土往生の確信という言葉を使われる理由もわかると思いますので、よろしくお願いします。

2014/07/05




ナビ

ほらみたことですか。

宮田さんは、「語義」「定義」は問題にしないといいながら、今はどうすか、

「語義」「定義」のみが問題になってますね。

しかも

頭の中で勝手に相手の言葉の意味を変え、それを相手に告げないまま
「お前は(私の頭の中の定義した言葉の意味で)間違っている」
と言い続けてきた。

こんな宮田さんに、他の議論を持ち出すことなど無駄でしょう。
ゼロさんからの質問には一つも答えないし、お詫びの言葉もないですし。。。

二種深信は、同時に立ちますが、機と法と同時に説明は出来ませんからね。
というか、まだまともな議論にすら入っていません。

「無疑」の定義の違いを知りたいなら、宮田さんが、ゼロさんの質問に答えればいいじゃないですか。
そうすれば、少しずつでもお互いの「無疑」の意味が分かってきますよ。

せめて

「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」

イエスですか、ノーですか?

これは、イエス、ノーで答えられるでしょう。
(もちろん、一字一句そう書かれた文言があるかどうかを聞いているのでは
 ありません。内容を問題にしています)

の一番簡単な質問に答えてもらいたいですね。
一言なんですから、これは24時間待たなくてもできるでしょ。
それがマナーってものですよ。

ちなみに、サイクロンさんとのやりとりを見直してみると、宮田さんの発言って驚くほど少ないんですよね。
他の人のコメントが圧倒的に多い。

なんだか、ものすごーく宮田さんが自信なさげに感じられたし、宮田さんとサイクロンさんの純粋なやりとりが、間が飛びすぎていて読みにくかったんですよね。

なので、今回は、あまり発言しないようにと思っていたのですが、変な発言をする人が多く、ついコメントしてしまいました。

変な挑発にのってしまうと、まんまと宮田さんがごまかして逃げてしまいそうなので、コメントの数は減らしたいと思います。
(他の人は煙幕張りたいいっぱいでしょうけど。宮田さんが負けそうだから煙幕はりたいと思うならば、発言どうぞ!)

shinrankaiusoさんのおかしな点、本当に他のコメントしている人は分からないのでしょうか?
まあ時期がくれば「詰めの甘さ」が暴露されるでしょう!

2014/07/05




やめやめ学徒

負け犬の遠吠え〜(爆笑)

2014/07/05




id:shinrankaiuso

もったいぶらずに、どこがおかしいのか、一言でもいいから言ってください、お願いします。

A.ゼロさんが自信満々で出した根拠

●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

について

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

B.執持鈔にある親鸞聖人の御言葉からいえることは、

他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

よって結論は、

阿弥陀仏に救われたということは、往生の一大事が分かるのではなく、阿弥陀仏に死後のことをおまかせしたことをいう。
浄土に往けるとか地獄に堕ちるとか決めつけてはいけない。
阿弥陀仏が連れて往って下されるところへ往く。善知識と同じところへ往く。

2014/07/05




さて

「念仏の衆生は~」の御文を諦めて、現生十種の益に切り替えてきた。
しかし、そこが浅はかなところ。

>「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」

>イエスですか、ノーですか?

これは答えるのが難しい。質問を変えてみよう。

「『獲信したら、現生十種の利益の自覚がができる』、こう親鸞聖人は教えられた」

これはノー。実際にそんなことはどこにも仰っていないのだから。
現生十種の益を獲るとは仰っても、それが自覚できるかできないかは仰っていないから。

しかしながら、1つ1つ見ていけばわかるが、自覚できるようなものでないことは、普通に考えればわかりそうなもの。冥衆や仏のことを認知できる智慧が得られることは考えられない市、最後の入正定聚の益は、七高僧は死後に往生してから得られるものと教えられてきたのだから。

詰めが甘いのではなく、攻め自体が甘いから、詰めのところまで至っていないんだよ。

2014/07/05




ムギなし呆一

無疑とは、阿弥陀仏の本願について疑う心のなくなったことをいい、これが真実信そのものでしょ。浄土往生にはこれ以外に何もいらない。

二種深信はこの身になった心の状態を経釈に則って表されたものだから、「さすがは善導大師だなあ」と聞いておけばよい。確信の有無が信心の真偽を決めるなんぞは、無疑を知らぬ者のたわごとですね。

そんな確信求めてると、今生虚しく過ぎますぞ、各々がた。

2014/07/05





まさき

『獲信すると死後がどのようにわかるようになるのか?』・・・これは、真実信心(=無疑)を獲た人でないと分かりません。だから、「無疑=真実信心」を明らかにしないことには、この法論の結論は出しようがないのです。
まともな議論を始める為には、まず「無疑」がわかっているかどうかを確認しないことには、親鸞聖人の御教えを明らかにすることは不可能です。
ゼロさんのコメントを読む限り「無疑」がわかっておられるようにはとても思えませんので、宮田さんがそこを確認するところから始められたのは、至極当然のことと思われます。
ナビさんは、ゼロさんの質問に答えることを要求しておられますが、「無疑」がわかっていない人に答えたところで、理解することは不可能です。
なにはともあれ、宮田さんの質問に答えて頂かないことには先に進みたくても進めませんので、私からもよろしくお願い致します。

尚、宮田さんは、お仕事の都合で限られた時間にしかコメントできませんので、私達は自分の空いた時間に「親鸞聖人の御教え」を正しく知って頂きたいと思って書き込んでおります。煙幕を張る気などサラサラありませんので、ナビさんには被害妄想に陥らないようお願い申し上げます。

ナビさんは、今後コメントの数を減らしたいとのことですが、この法論における「無疑=真実信心」の重要性も分かっておられないようですし、「二種深信」についても訳の分からない事を書いておられるので、ゼロさんの足を引っ張らない為にも、その方が賢明かと思われます。

それではゼロさん、お答えをお待ちしております。

2014/07/05


ここからナビさんとゼロさんが混同

ナビ

■宮田さんへ(7月5日:A)

ふざけるのもいい加減にしてもらえませんか?
あまりにひどいので、今回はコメントを2つに分けます。

「確信」の語義・定義は問題ないとしか読めない文章を
書いておりながら、今、論じているのは、語義・定義ばかりではありませんか。
 (心の中でまた、なにか、言葉の意味を変えているのですか?)

先のコメントに、私が繰り返し書いた以下の文章を読まれましたか?

==============================
(再掲)

「確信」という言葉の定義をハッキリと問題提起しないまま、つまり、
サイクロンさんには「無疑」という意味で「確信」という言葉を使わせ
続けながら、あなたが【心の中だけ】で、

 「サイクロンさんは『確信』という言葉を『無疑』の意味で使っている
  のは分かっているが、あなたが『無疑』のつもりで発言した『確信』
  という言葉は、私の心で全て『かたく信じて疑わないこと』という意味に
  (勝手に)変更されている。
  だからサイクロンさんの発言は間違いです」

と、思って議論を進めていたならバカにするのもほどがあると言いたいのです。

==============================

(再掲)

 私はこのやり取りで一度も
 「かたく信じて疑わないこと。また,その信念」
 の意味で「確信」という言葉を使っていません。
 それどころかハッキリ否定しています。
 
 二度と、「無疑なのに、確信する(かたく信じ込む)必要があるのですか」

 という、すっとぼけた非難はやめてもらいたいですね。
 私は、一度もそんなことは言っていないのですから。
 勝手に思い込み、
『自分で作りあげた邪義を自分で破って他人を間違いと非難する』
 という滑稽なことはやめてくださいね。
 これが繰り返されるようでしたら、

 「ああ、宮田さんは、国語力がないから、法論なんてとても無理だな。
  こんなブログを運営するなど、まったく分不相応で、
  ただちに閉じたほうがいいな。
  ここまで思い込みが激しい人なら、獲信したと言っているのも
  思い込みかも」

 と多くの人に思われるでしょう。

 何が議論されているか頭を整理してください。

(再掲ここまで)
==============================

以下、お尋ねします。
答えやすくしておきましたので、今度こそ逃げずに真正面から
答えてくださいね。

・私(宮田)は、「無疑=確信」と明言しているサイクロンさんには明言せず、
 「無疑≠確信」という意味で、確信という言葉を使っていました。

 イエス( ) ノー( )

 どちらともいえない( )
  (理由:       )

※記入例

 イエス(○) ノー( )

 どちらともいえない( )
  (理由:       )

無返答の場合、「間違いに気づきましたが、今さら、お詫びも出来ません」
という意味と理解いたしますね。
もう何度もやりとりしましたから期限としては十分でしょう。

2014/07/06




ナビ

■宮田さんへ(7月5日:B)

完全に追い詰められているので、何とか逃げたいいっぱいの
気持ちはよく分かりますが、あなたも仏法者なら仏法者らしく真正面から質問に
答えてください。

あなたは相手に告げず勝手に言葉の定義を変えたり、とぼけた解釈
をするので、まず、あなたがいう「無疑」の意味を鮮明にしてください。

もし、このやりとりで自分が間違っていたことに気づいたなら
誠意をもってお詫びしてください。
そうすれば、私からそれ以上、特に追究することは致しません。

ただし、次回のコメントがリミットです。
大人の対応を期待しています。

以下、すべてとはいいません。
答えやすいものを選んで3つ以上は答えてくださいね。

(もちろん、全てに答えていただくのがベストです)

==============================

【1】①に関する質問

宮田さんは、

>「自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに違いない、
> と信じるに過ぎないのです」

>それを無疑と言っているのです。

と明言しました。

今、私が問題にしているのは、

「浄土に往くに違いない、と信じるに過ぎないのです」

の部分です。ここは「無疑」ではないでしょう。
少なくとも、ふつうは「無疑」とはとれません。

もし、この文章が「無疑」なら分かるように説明してください。

なぜ「信じるに過ぎない」という言葉が入っているのに「無疑」なのか。

「獲信せねば分からない」と逃げないでくださいね。

【2】①に関する質問

「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」

答え:イエス( ) ノー( )
   
   どちらとも言えない( )
    (理由:        )

【3】①に関する質問

真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

のお言葉について。

宮田さんは、この「真に知んぬ」は、「どなた」が「何」を知らされた
と解釈しているのですか? 簡潔にお答えください。

もう一度、言っておきますが、私は、世間の言葉でいう「確信」という言葉を
ここでは一切使っていませんから、「救われたのに、何を確信するのですか」
などと頓珍漢なことは言わないでくださいね。

==============================

【4】②に関する質問

ーーー

>「二十願(信前真門自力念仏)から十八願(信後弘願他力念仏)への
>転入の事実を否定し、また信心獲得の【確信】(機辺の決定心)、をも否定してい
>るのである。
>教学、安心の最高責任者がこのようなことでは宗門の将来に全く光はないと想う」

>と、紅楳氏も【確信】という言葉も使っていますが、これもアウトで、
>紅楳氏を「異安心」とするのがあなたの立場と理解すればいいでしょうか?
>ーーー
>あなたや、サイクロンさんのいう「往生浄土の確信」の文字が私のディスプレーには
>表示されません。機辺の決定心≠往生浄土の確信くらいは理解して下さい。

「確信」という言葉は「往生浄土」につくときのみ問題なのでしょうか?

信心獲得には、「確信」という言葉を使ってもいいのなら、その理由を説明して
ください。


■以下は、あなたが答えやすいように用意したものです。
 あなたのシンパと思しき人たちが自信いっぱい書いたものを
 もとにしたものですから、宮田さんも答えやすいでしょう。
 ブログまで運営しておられる宮田さんですから、自信いっぱい答えてください!

 では、お願いします。

【5】

二種深信はを経釈に則って表されたものだから、
「さすがは善導大師だなあ」と聞いておけばよい。
実際に機も法も疑いなく知らされるものではない。

 イエス( ) ノー( )理由:

 どちらとも言えない( )理由:

【6】

獲信した人は、極楽に往生することはお聖教に説かれているから
(厳密にいうと疑いはあるけれど)信じている

 イエス( ) ノー( )理由:

 どちらとも言えない( )理由:

質問は以上です。

■(覚書)宮田さんが明言していること。

   ※もし、異論があるなら次回のコメントでお願いします。
    返事がない場合は、了承したことにいたします。

【Ⅰ】

他力・・・阿弥陀仏にすべてお任せ
     (経典・お聖教の通りに師と共に往生できると【信じている】)
異安心・・・浄土に往けるチケット(信心)を持っている
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460
(※「分かる」が曖昧だといわれるとややこしくなるので、
  よりシンプルに「浄土が分かってその」は省略しました。
  意味が変わるというのなら異議を立ててもらって結構です。
  ですが、その場合、分かりやすい説明も加えてください)

【Ⅱ】

 地獄も浄土も、凡夫に分かる訳がないのです。
 分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
 自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
 と【信じるに過ぎない】。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【Ⅲ】

真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?(ここまでが私の質問)
ーーー
>それが、三随順ということです。(宮田さんの答え)

(つまり「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じる」
 は、イエス)

【Ⅳ】

獲信しても死後の世界については何もわからない、曖昧。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336675469



なお、宮田さんは、私の下記の申し出を前回のコメントで承諾されました。
一度承諾したなら、仏法者として約束は守ってください。

==============================

(再掲)

①獲信したら、浄土往生に疑い晴れるのか否か
 (※ハッキリの部分だけはあなたの意見を取り入れ変更しました)

②宮田さんの議論の進め方について
 (特に「確信」という言葉にまつわる部分)

ともに議論の最中ですが、①の話をするとき、②の「確信」云々を持ち出すと
話が進みませんので、①の議論では、とりあえず確信の言葉づかい抜きでやりませんか?
その方が、問題点がブレない議論になると思います。

==============================


聖教の根拠は、法蔵館の『真宗聖典』『帖外御文』『正信偈大意』
からということでどうでしょう。伝説やら、寺に代々伝わる古文書などは含まないということです。
(傍証として『教行信証講義』はいれておきましょうか)

異論がある場合は、理由を添えて、次回のコメントまでにお願いします。

返事がない場合は、了承したものと判断しますね。


では、お返事お待ちしております。

2014/07/06





id:shinrankaiuso

ゼロさんの方がナビさんよりも余程賢かったようですね。
なぜなら、ゼロさんは自説の誤りに気が付いたからコメントしてこないのだと想像しています。違ったら、「類は友を呼ぶ」でナビさんと同類。

ところでナビさんは、以前にもコメントしてましたよね、見当外れの。他人のコメントや議論の内容を全く理解できずにいて大恥をかいて逃亡してますよね。

今回も同様です。

ゼロさんが私の邪義をやぶってくれないのですから、ナビさん、責任もって反論してくださいな。
簡単でしょ。

もったいぶらずに、どこがおかしいのか、一言でもいいから言ってください、お願いします。

A.ゼロさんが自信満々で出した根拠

●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

について

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

B.執持鈔にある親鸞聖人の御言葉からいえることは、

他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

よって結論は、

阿弥陀仏に救われたということは、往生の一大事が分かるのではなく、阿弥陀仏に死後のことをおまかせしたことをいう。
浄土に往けるとか地獄に堕ちるとか決めつけてはいけない。
阿弥陀仏が連れて往って下されるところへ往く。善知識と同じところへ往く。

2014/07/06





ナビ

正直、ここまで日本語が通じないところって珍しいんじゃないでしょうか。

反論あるなら、頭の中で勝手に相手の言葉の意味を変え、それを相手に告げないまま
「お前は(私の頭の中の定義した言葉の意味で)間違っている」
と言い続ける思考の正しさを私に説明してください。

と言って相当時間立ちますが、このことにはまったくふれずに言いたいことだけ言ってますね。

きっと
「お前は(私の頭の中の定義した言葉の意味で)間違っている」なんていう宮田さんはおかしいに決まってるじゃない、と思ってるのでしょうね。

そして、
「煙幕を張る気などサラサラありません」
と言われるのなら、少しは宮田さんに答えるように勧めてくださいよ。
特に今回は、答えやすくなったのですから。

自信があるなら、「答えはこうだ!」とハッキリいえばいいじゃないですか。

shinrankaiusoとか、他の人も、私は、ちゃんとゼロさんと宮田さんの議論の流れが出来たら参戦すると言っているんですから、お願いするなら、宮田さんに「ちゃんと答えてください」ってお願いしてください。

そうでなかったら、私へのお願いなんて、口先だけと判断しますから。

でも、宮田さんよりshinrankaiusoさんの方が、ハッキリ主張していますから、その点では認めますよ。
ただ、ここは宮田さんのブログですからね。
やりとりのメインは、宮田さんとゼロさんであって欲しいのですよ。

では、宮田さんが今度こそ、仏法者らしく、しっかりと答えてくれることを願っています!

というか、今度、肩透かしくらうようなことがあったらいい加減、怒りますよ(笑)

2014/07/06





id:shinrankaiuso

再掲

ゼロさんの方がナビさんよりも余程賢かったようですね。
なぜなら、ゼロさんは自説の誤りに気が付いたからコメントしてこないのだと想像しています。違ったら、「類は友を呼ぶ」でナビさんと同類。

ところでナビさんは、以前にもコメントしてましたよね、見当外れの。他人のコメントや議論の内容を全く理解できずにいて大恥をかいて逃亡してますよね。

今回も同様です。

ゼロさんが私の邪義をやぶってくれないのですから、ナビさん、責任もって反論してくださいな。
簡単でしょ。

もったいぶらずに、どこがおかしいのか、一言でもいいから言ってください、お願いします。

A.ゼロさんが自信満々で出した根拠

●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

について

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

B.執持鈔にある親鸞聖人の御言葉からいえることは、

他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

よって結論は、

阿弥陀仏に救われたということは、往生の一大事が分かるのではなく、阿弥陀仏に死後のことをおまかせしたことをいう。
浄土に往けるとか地獄に堕ちるとか決めつけてはいけない。
阿弥陀仏が連れて往って下されるところへ往く。善知識と同じところへ往く。

2014/07/06





id:shinrankaiuso

すでに議論は終わっているのですよ、ゼロさんの完敗で。

ゼロさんの出してきた根拠は、すべて見当外れ。しかも、サイクロンさんとのやりとりで中心的根拠だった執持鈔を完全無視しなければならないのでしょ。

すでに完敗していることにゼロさんは気が付いた(?)が、ナビさんはいつも通り理解できていない。

ただそれだけのこと。

私の間違いを、早く指摘してよ、口先だけのナビさん。

2014/07/06





ナビ

なるほどよく分かりました!
こういうことですね。

shinrankaiusoさん曰く
「お前は(私の頭の中の定義した言葉の意味で)間違っている」なんていう宮田さんはおかしいに決まってるじゃない。

shinrankaiusoさん曰く
「あんたにお願いする気などさらさらないのは、あんたがついさっきコメントしたことを露骨に実行したことで分かっただろう!
 オレは煙幕はっとかないと不安だから、わざわざさっきあげたばかりの長々とした文章を再掲したんだ」

※私がついさっきコメントしたこと
 ↓↓
shinrankaiusoとか、他の人も、私は、ちゃんとゼロさんと宮田さんの議論の流れが出来たら参戦すると言っているんですから、お願いするなら、宮田さんに「ちゃんと答えてください」ってお願いしてください。
そうでなかったら、私へのお願いなんて、口先だけと判断しますから。

ものすごくよく分かりました。
有難うございました!

2014/07/06


ナビさん=ゼロさんなのか?を質問

山も山 (id:yamamoya)

ナビさんへ
(7月5日:A)へのコメントです。

ふざけるのもいい加減にしてもらえませんか?

コメントを書くのが遅いというお叱りかと思いますが、諸事情によりコメントはこの時間になってしまいました。申し訳ございませんでした。少なくとも、平日は17時前後にしか書き込みができません。その点はご了承頂きたいと思います。

先のコメントに、私が繰り返し書いた以下の文章を読まれましたか?

==============================
(再掲)
「確信」という言葉の定義をハッキリと問題提起しないまま、つまり、
サイクロンさんには「無疑」という意味で「確信」という言葉を使わせ
続けながら、あなたが【心の中だけ】で、
 「サイクロンさんは『確信』という言葉を『無疑』の意味で使っている
  のは分かっているが、あなたが『無疑』のつもりで発言した『確信』
  という言葉は、私の心で全て『かたく信じて疑わないこと』という意味に
  (勝手に)変更されている。
  だからサイクロンさんの発言は間違いです」
と、思って議論を進めていたならバカにするのもほどがあると言いたいのです。
(以下略)

私は、ゼロさんと議論をしているつもりでしたので、質問もないナビさんのコメントに何か書かねばならないという認識はありませんでした。

・私(宮田)は、「無疑=確信」と明言しているサイクロンさんには明言せず、「無疑≠確信」という意味で、確信という言葉を使っていました。
 イエス( ) ノー( )
 どちらともいえない( )
  (理由:       )

すみません、問いの文章がよくわかりません。
>・私(宮田)は、「無疑=確信」と明言している

ここまではわかります。

>サイクロンさんには明言せず、

サイクロンさんには明らかに言わずに? 

>「無疑≠確信」という意味で、確信という言葉を使っていました。

ゼロさんへのコメントにも書きましたが、サイクロンさんが「無疑=確信」と主張していることに対して、「それは違います」と私が主張したのが議論の本題です。

もう何度もやりとりしましたから期限としては十分でしょう。

すみませんが、ナビさんのコメントに直接私が書き込むのは今回が初めてです。
以前別のハンドルネームで書き込まれたのでしょうか?
ブログのコメント欄でのやりとりというのは

ナビ 
 宮田さんへ
  ○○○ではないですか?

id:yamamoya
 ナビさんへ
  それについては○○です。

のようなものだと思います。LINEのメッセージや携帯メールのやりとりとは違い、複数の人が書き込みをすることができるブログのコメント欄では、相手を指名して問いを発していないと、私も書かねばならないという気持ちにはなりません。

次のBへのコメントも今書いています。
よろしくお願いいたします。

2014/07/06





山も山 (id:yamamoya)

ナビさんへ

(7月5日:B)へのコメントです。

==============================

【1】①に関する質問

いきなり①とありますが、どこのことでしょうか?
ゼロさんのコメントにありましたが、ナビさん=ゼロさんでしょうか?
もしそうなら、今後はややこしいのでゼロさんで統一をお願い致します。

今、私が問題にしているのは、
「浄土に往くに違いない、と信じるに過ぎないのです」
の部分です。ここは「無疑」ではないでしょう。
少なくとも、ふつうは「無疑」とはとれません。
もし、この文章が「無疑」なら分かるように説明してください。
なぜ「信じるに過ぎない」という言葉が入っているのに「無疑」なのか。
「獲信せねば分からない」と逃げないでくださいね。

ゼロさんのコメントに三随順を書きました。

(再掲)
三随順とは、

一には、「是を仏教に随順すと名づく」と
二には、「仏意に随順す」と。
三には、「是を仏願に随順すと名づく」となり
愚禿鈔
http://goo.gl/HN4U8K
三随順
釈尊の教え(仏教)・諸仏の意(仏意)・阿弥陀仏の願(仏願)にしたがうこと。
http://goo.gl/TBxWJ9

では、阿弥陀仏の本願といっても「言葉」としては南無阿弥陀仏しか私が聞くことができる言葉はありません。その阿弥陀仏の本願を、「言葉」として教えて下さったのは釈尊です。その釈尊の「教」が書かれているのが「経」です。
親鸞聖人は

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。(教行信証教巻)
http://goo.gl/s7GKeB

といわれ、真実の「教」は大無量寿経であると言われています。

その真実の「教」を疑いなく聞き入れたのを「信」といいます。(詳しく言えば、行を聞き入れたこと)また、親鸞聖人ご自身も、大無量寿経に説かれる内容を伝えてくださった法然上人の教えを信じる以外には別にないと言われていたと、歎異抄第2条にあります。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第2条)
http://goo.gl/C9eBnc

「よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」と言われているのが無疑と言うことです。私が「信ずるに過ぎない」と書いたのはそのことです。自らに釈尊法然聖人のようの智慧はないから、その方の仰せを疑い無く受け入れているだけであるということです。そこには、ご自身を煩悩具足の凡夫と仰った親鸞聖人の御心が窺えます。

【2】①に関する質問
「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」
答え:イエス( ) ノー( )   
   どちらとも言えない( )
    (理由:        )

ノーです。
信心の利益について仰ったご文であり、ご自身が「自覚あり」と仰ったご文がない以上はノーとなります。ナビさん(ゼロさん?)がこれについて異論かある場合は、親鸞聖人が「獲信したら、現生十種の自覚がある」と言われた根拠をだして下さい。

【3】①に関する質問
真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)
のお言葉について。
宮田さんは、この「真に知んぬ」は、「どなた」が「何」を知らされた
と解釈しているのですか? 簡潔にお答えください。

すみませんが、なぜ(中略)なんですか?お聖教まで断章するのはよくないことです。

元のご文は

真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証・信巻末)
http://goo.gl/za4hbw

です。
これは、親鸞聖人が「真実の教」でいわれる釈尊の大無量寿経の内容を知らされたということです。

もう一度、言っておきますが、私は、世間の言葉でいう「確信」という言葉を

ここでは一切使っていませんから、「救われたのに、何を確信するのですか」
などと頓珍漢なことは言わないでくださいね。

確信という言葉さえ使わなければOKとはなりません。
とりあえず3つまで書きました。
思ったより時間がかかったので、それ以降は明日書きます。すみませんがよろしくお願い致します。

最後に確認ですが

なお、宮田さんは、私の下記の申し出を前回のコメントで承諾されました。
一度承諾したなら、仏法者として約束は守ってください

==============================
(再掲)
①獲信したら、浄土往生に疑い晴れるのか否か
 (※ハッキリの部分だけはあなたの意見を取り入れ変更しました)
②宮田さんの議論の進め方について
 (特に「確信」という言葉にまつわる部分)
ともに議論の最中ですが、①の話をするとき、②の「確信」云々を持ち出すと
話が進みませんので、①の議論では、とりあえず確信の言葉づかい抜きでやりませんか?
その方が、問題点がブレない議論になると思います。
==============================
(ナビさんのコメント)

とあります。このコメントは、ゼロさんのコメントにあった文章です。

なお、宮田さんは、私の下記の申し出を前回のコメントで承諾されました。

とありますが、ナビさん=ゼロさんなのでしょうか?
以前のかぼちゃさんの荒らし行為の時にも書きましたが、荒らし目的で同一人物が複数のハンドルネームを使う場合はコメントそのものを削除します。

ナビさんは、ゼロさんですか?イエスかノーでお答え下さい。
もし、イエスの場合は、なぜハンドルネームを変えたのか教えて下さい。よろしくお願い致します。

2014/07/06


ゼロさんは、書き間違えたと釈明

ゼロ

宮田さんへ

失礼いたしました。
単純な私のミスです。コメントする直前に「ナビ」さんのコメントを読んでいて、
間違って「ゼロ」と書くべきところ、「ナビ」と書いてしまいました。

なので、答えは「ノー」です。

混乱させてしまい、大変失礼いたしました。
今後、気をつけたいと思います。


今回は、宮田さんには、色々答えていただいたので、あなたの考えが分ってきました。

ただ一つだけ、確認させてください。

>「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」


>ノーです。
>信心の利益について仰ったご文であり、ご自身が「自覚あり」と仰ったご文がない以上はノーとなります。
>ナビさん(ゼロさん?)がこれについて異論かある場合は、親鸞聖人が「獲信したら、現生十種の自覚がある」と言われた根拠をだして下さい。

→ここは書き間違いではありませんか?

「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」

 の「ノー」なら、親鸞聖人は『獲信しても、現生十種の利益の自覚【ある】』と言われたことになりますが、
 それでよろしいでしょうか?
 もしそうなら、ちょっと私が提示すべき根拠が逆になるように思えます。
 ここはもう一度、お尋ねします。


以下、今までの議論で分ったことをまとめておきます。

■(覚書)宮田さんが明言していること。

【Ⅰ】

他力・・・阿弥陀仏にすべてお任せ
     (経典・お聖教の通りに師と共に往生できると【信じている】)
異安心・・・浄土に往けるチケット(信心)を持っている
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【Ⅱ】

 地獄も浄土も、凡夫に分かる訳がないのです。
 分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
 自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
 と【信じるに過ぎない】。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【Ⅲ】

真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?(ここまでが私の質問)
ーーー
>それが、三随順ということです。(宮田さんの答え)

【Ⅳ】

獲信しても死後の世界については何もわからない、曖昧。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336675469

【Ⅵ】

「よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
と言われているのが無疑と言うことです。
私が「信ずるに過ぎない」と書いたのはそのことです。
自らに釈尊法然聖人のようの智慧はないから、その方の仰せを疑い無く
受け入れているだけであるということです。
そこには、ご自身を煩悩具足の凡夫と仰った親鸞聖人の御心が窺えます。

【Ⅶ】

真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、
まさに無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証・信巻末)
http://goo.gl/za4hbw

これは、親鸞聖人が「真実の教」でいわれる釈尊の大無量寿経の内容を知らされたということです。

(ここまで)


●では、お尋ねの、浄土往生の「無疑」についてです。

『末灯鈔』12

この身は、いまは、としきはまりて候へば、【さだめてさきだちて往生】し
候はんずれば、【浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふ】べし。
 

『末灯鈔』13 

まことの信心の定まることは、釈迦・弥陀の御はからひとみえて候ふ。
【往生の心に疑なくなり候ふ】は、摂取せられまゐらするゆゑとみえて候ふ。

信心の定まると申すは摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位
にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべし

『御臨末の御書』

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す

『執持鈔』

われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶ


『御文章』五帖目二通

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、【後世をしるを智者】とすといへり。

このゆゑにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行をすてて、
一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、
十人も百人もみなともに【弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目四通

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、【みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし】。

『御文章』五帖目六通

ただ一念に弥陀をたのむ衆生は【みなことごとく報土に往生すべきこと、
ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目二十二通

われらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、【極楽にやすく
往生すべきことの、さらになにの疑もなし】。


他にもあげればキリがないのですが、今日はこれくらいにしておきましょう。

「お聖教にあるから信じる」という意味で無疑を使っていません。

獲信された方が、いつ死んでも極楽往生間違いなしと疑い晴れた「無疑」です。

ここが、宮田さんと私の「無疑」の意味の違いのようですね。

なお、宮田さんからの
「ハッキリするとは何がハッキリするのか」
という問いですが、今、論じていることに限りますと、先にあげたのと同じで
「いつ死んでも極楽往生間違いなし」とハッキリします。

「往生一定」の「一定」に当たり、

「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし」

の「さらに疑いなし」に当たります。



では、残りの三つの質問の返答、お願いします。
これにお答えいただければ、お互いの主張がかなりハッキリすると思います。

その上で議論を再開いたしましょう。

【4】②に関する質問

ーーー

>「二十願(信前真門自力念仏)から十八願(信後弘願他力念仏)への
>転入の事実を否定し、また信心獲得の【確信】(機辺の決定心)、をも否定してい
>るのである。
>教学、安心の最高責任者がこのようなことでは宗門の将来に全く光はないと想う」

>と、紅楳氏も【確信】という言葉も使っていますが、これもアウトで、
>紅楳氏を「異安心」とするのがあなたの立場と理解すればいいでしょうか?
>ーーー
>あなたや、サイクロンさんのいう「往生浄土の確信」の文字が私のディスプレーには
>表示されません。機辺の決定心≠往生浄土の確信くらいは理解して下さい。

「確信」という言葉は「往生浄土」につくときのみ問題なのでしょうか?

信心獲得には、「確信」という言葉を使ってもいいのなら、その理由を説明して
ください。

【5】

二種深信はを経釈に則って表されたものだから、
「さすがは善導大師だなあ」と聞いておけばよい。
実際に機も法も疑いなく知らされるものではない。

 イエス( ) ノー( )理由:

 どちらとも言えない( )理由:

【6】

獲信した人は、極楽に往生することはお聖教に説かれているから
(厳密にいうと疑いはあるけれど)信じている

 イエス( ) ノー( )理由:

 どちらとも言えない( )理由:


最後に、

「確信」についてですが、
 宮田さんがサイクロンさんに対して

「私は確信を無疑という意味で使っていませんし、
 あなたが使っている確信を無疑と認めてませんよ」

と明言した箇所を教えてもらえますでしょうか?


では、返信お待ちしています。

2014/07/07





笑わせる

どうしたらゼロとナビを書き間違えるのか?
教義についても平気でうそを言える人間だから、この程度のうそは、朝飯前。

2014/07/07




id:shinrankaiuso

ゼロさんもナビさんも嘘が下手ですね。

自信満々の根拠は、簡単に引っ込めたわけですね。
お粗末です。

では、親鸞聖人は他人のことを以下のように仰っています。

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。(信巻)

律宗の元照師のいはく、「ああ教観にあきらかなること、たれか智者(智顗)にしかんや。終りに臨んで『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きき。法界に達せること、たれか杜順にしかんや。四衆を勧め仏陀を念じて、勝相を感じて西に邁きき。禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。業儒、才ある、たれか劉・雷・柳子厚・白楽天にしかんや。しかるにみな筆を秉りて、誠を書して、かの土に生ぜんと願じき」と。(信巻)

六十有七ときいたり
 浄土の往生とげたまふ
 そのとき霊瑞不思議にて
 一切道俗帰敬しき(曇鸞讃)

本師源空命終時
  建暦第二壬申歳
 初春下旬第五日
 浄土に還帰せしめけり(法然讃)

明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。(御消息)

またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。(御消息)

明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。(御消息)

なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ。(御消息)

さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、(御消息)

明法房などの往生しておはしますも、もとは不可思議のひがことをおもひなんどしたるこころをもひるがへしなんどしてこそ候ひしか。(御消息)

明法御房の往生のことをききながら、あとをおろかにせんひとびとは、その同朋にあらず候ふべし。(御消息)

など、弥勒菩薩の成仏の時期、曇鸞大師・法然上人・聖覚法印・隆寛律師・明法御房・またひらつかの入道などの往生を断言されています。

仏智並みの智慧を体得せられて、他人の成仏や往生までハッキリと認識されたのでしょうか?

普通に考えれば、そうではないと判断すると思います。
あくまで普通の思考と普通の真宗学を身につけていればですけど。

【他人の成仏・往生と同じレベルで、親鸞聖人御自身の往生のことを知られた。】

わかりやすい話ですよ。

2014/07/07




山も山 (id:yamamoya)

ゼロさん

>「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」


>ノーです。
>信心の利益について仰ったご文であり、ご自身が「自覚あり」と仰ったご文がない以上はノーとなります。
>ナビさん(ゼロさん?)がこれについて異論かある場合は、親鸞聖人が「獲信したら、現生十種の自覚がある」と言われた根拠をだして下さい。
→ここは書き間違いではありませんか?
「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」
 の「ノー」なら、親鸞聖人は『獲信しても、現生十種の利益の自覚【ある】』と言われたことになりますが、
それでよろしいでしょうか?

書き間違いです。イエスです。失礼しました。

●では、お尋ねの、浄土往生の「無疑」についてです。
(略)
他にもあげればキリがないのですが、今日はこれくらいにしておきましょう。

「お聖教にあるから信じる」という意味で無疑を使っていません。
獲信された方が、いつ死んでも極楽往生間違いなしと疑い晴れた「無疑」です。
ここが、宮田さんと私の「無疑」の意味の違いのようですね。


いろいろ根拠をあげておられますが、それらの根拠を「いつ死んでも極楽往生間違いなしと疑い晴れた「無疑」」とは私は読んでいません。

ゼロさんがあげられた根拠は多いので一つ一つについて書くと長くなるので、最初にあげられた末灯鈔12について書きます。

『末灯鈔』12

この身は、いまは、としきはまりて候へば、【さだめてさきだちて往生】し
候はんずれば、【浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふ】べし。

同じ末灯鈔12の前半部分をご覧下さい。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

これと同じ意味で、ゼロさんの上げられた部分は書かれています。
阿弥陀仏の本願は、念仏するものを極楽に迎えとると誓われたものだと、深く信じて称えることがめでたいことなのだ。
だから、念仏往生の本願を深く信じ、その上で念仏するものは疑い無い報土往生をするのだと言われています。

無疑とは、上記の御消息でいうと「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」ことに疑い無いことです。本願の上で、浄土往生は決まっているのであって、自分の手元で「いつ死んでも極楽往生間違いなし」と言うものではありません。

そのことは、id:shinrankaiusoさんが書かれている執持鈔のご文にある通りです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。(執持鈔)

このご文を踏まえた上で、ゼロさんが出された根拠を読めばゼロさんが主張される意味にはならないです。

ゼロさんはこの執持鈔のご文をどう思われますか?それともご自身が出された根拠と矛盾した根拠だと思いますか?

「ハッキリするとは何がハッキリするのか」

という問いですが、今、論じていることに限りますと、先にあげたのと同じで
「いつ死んでも極楽往生間違いなし」とハッキリします。

では、なぜハッキリするのですか?

[4]
>「二十願(信前真門自力念仏)から十八願(信後弘願他力念仏)への

>転入の事実を否定し、また信心獲得の【確信】(機辺の決定心)、をも否定してい
>るのである。
>教学、安心の最高責任者がこのようなことでは宗門の将来に全く光はないと想う」
(略)

「確信」という言葉は「往生浄土」につくときのみ問題なのでしょうか?

信心獲得には、「確信」という言葉を使ってもいいのなら、その理由を説明して
ください。

「往生浄土の確信」が問題なのは、先に上げた執持鈔にある通りです。
また、「信心獲得の確信(機辺の決定心)をも否定」というのは、本願に疑い晴れた信心獲得をしたということがあるという自覚(自覚というのもいろいろ問題ある言い方ですが)の意味で「信心獲得の確信(機辺の決定心)」と言われています。信心は機の上でいう言葉ですから、確信という言葉を使うことが悪いとは言いません。ただ、言い方によってはまた誤解を生むかもしれません。
本願に疑いないというのは、信心獲得の上ではいつでも疑い無いのですが、往生浄土については「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」ということです。

【5】
二種深信はを経釈に則って表されたものだから、
「さすがは善導大師だなあ」と聞いておけばよい。
実際に機も法も疑いなく知らされるものではない。
 イエス( ) ノー( )理由:
 どちらとも言えない( )理由:


最初の一文に関してはイエスですが
次の一文については、どちらとも言えないです。
理由は、二種深信の説明としては不十分だからです。
「二種深信=真実信心=無疑心」ですから、「機も法も」と二つに分解して言うものでは無いからです。問いの文章では「機も法も疑いなく」とあるので、分解できるかのように読めます。本願を聞いて疑い無い(無疑心)の信相を書かれたのが二種深信です。機と法と書いてありますが、分けることはできません。ただ、文章としては機法ともに無疑というのが二種深信となります。

【6】
獲信した人は、極楽に往生することはお聖教に説かれているから
(厳密にいうと疑いはあるけれど)信じている
 イエス( ) ノー( )理由:
 どちらとも言えない( )理由:

どちらとも言えません。
理由は(厳密にいうと疑いはあるけれど)の一文が気になります。この疑いとは本願に疑いあるということでしょうか?そうならば、獲信した人の中には本願に疑いがあるということになるので問いとしては不完全となります。
ただ、御消息を最初の方で引用しましたが「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」を聞いて疑いないのですから、根拠は本願でありそれを説かれたお聖教です。

最後に、
「確信」についてですが、
 宮田さんがサイクロンさんに対して
「私は確信を無疑という意味で使っていませんし、
 あなたが使っている確信を無疑と認めてませんよ」
と明言した箇所を教えてもらえますでしょうか?

ゼロさんが最初から問題にされている文章がそれに当たります。

サイクロン 2012/05/08 12:15の発言は、標題からいうと、「阿弥陀仏に救われた=浄土往生が確信されている=信心」という意味になります。
(略)
阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の確信があるのかないのか、については、私は「ない」という立場です。根拠は、上記に引用したハリケーンさんのコメントと同じです。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

これは、ゼロさんのコメントの文章で言うと

「私は確信を無疑という意味で使っていませんし、
 あなたが使っている確信を無疑と認めてませんよ」
と同じことです。
サイクロンさんは「「阿弥陀仏に救われた=浄土往生が確信されている=信心」という意味になります。」と言われているけれども、「そのような確信はないという立場です」と書きました。
サイクロンさん:信心(無疑心)=浄土往生の確信あり→無疑=確信
id:yamamoya:信心(無疑心)=浄土往生の確信なし→無疑≠確信
と言うことです。

2014/07/07





まさき

まだ、お分かりにならないようですね。

ナビさん、いやゼロさんが、「煙幕を張る気かああああ?!」と過剰反応されますので、静観するつもりでおりましたが、あまりにもヒドイので一言述べさせて頂きます。

宮田さんの主張
「無疑」 → 「阿弥陀仏の本願に疑いが無くなること」
これは、全く問題ありません。

ゼロさんの主張
「無疑」 → 「死後、浄土往生することに疑いがなくなること」
これは、間違っています。

真実信心(無疑心)を獲た人は、「阿弥陀仏の本願=仏願の生起本末」に疑いが無くなるのであって、自分の死後がハッキリするわけではありません。

阿弥陀仏の本願=仏願の生起本末=南無阿弥陀仏(名号・念仏)」に疑いが無くなるということは、もっと言ってしまえば、『念仏に疑いが無くなる』ということです。
ここのところは浄土真宗の要ですから、私としてはもっと切り込んで話をしたいところなのですが、相手がゼロさんではそれもかないません。

それにしても親鸞会の人達は、信心も教学も無いのに諍論だけは好きときていますから、本当に始末に困りますね。

ゼロさんの場合は、宮田さんに法論を吹っ掛ける前にまず、shinrankaiusoさんから「浄土真宗のイロハ」についてレクチャーして頂いた方が、よろしいのではないのでしょうか?

2014/07/07






id:shinrankaiuso

では、リクエストにお応えして、イロハを少し。

親鸞会で大好きな二河白道のたとえを思いだしてみましょう。

親鸞会で間違って教えているところは多々ありますが、今回信前・信後の浄土往生についての認識についてのみ取り上げてみます。

信前は「この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩」ですが、信後に西の岸の見え方が変わったとどこかにあるでしょうか?

ありません。

「この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして」

という白道を進むのに疑い、恐れ、しりごみする心が生じない、だけですね。

2014/07/07





台風

未信でも高森さんの言葉が出たら合格、という話しだな

2014/07/07


ナビさんはナビさんとしてコメントを書く

ナビ

shinrankaiusoさん

話が少し進展したようですので、リクエストにお答えして、一言だけお話ししましょう。

「ハッキリしない他人のことを断言している」
 だから
「自分への断言も、同じレベルでハッキリしていない」

 とはならない、ということです。
 ちょっと考えれば分かります。
 そんな例はいくらでもありますからね。

 まあ、あなたには分からないかな?

 あまり一度に話しても理解できると思っておりませんので、今回はこれだけ。



まさきさんへ

>「煙幕を張る気などサラサラありません」
>と言われるのなら、少しは宮田さんに答える
>ように勧めてくださいよ。

という私の言葉を

「煙幕を張る気かああああ?!」

と勝手に変えるなんて、すごい過剰反応ですね(笑)

落ち着いてくださいませ。
(でも、結局、私への質問には答えてくれませんし、宮田さんにも勧めないのですね)

では、ご指摘の件ですが、

阿弥陀仏の本願に「死後、必ず浄土へ往生させてみせる」と誓われていませんか?

その本願に疑い晴れてなお浄土往生の疑いがあるのですか?
(もちろん、本願に疑い晴れて、それから浄土往生に疑い晴れるのではありませんよ。
 本願に疑い晴れたということは、浄土往生に疑い晴れたということです。
 勿論、機の深信も同時に立っています)

また変なところでつっかかってきそうですが、スグに分かるとは思ってませんので。

2014/07/07





id:shinrankaiuso

素晴らしい誤魔化しですな。

親鸞聖人が御自身の往生について断言された。
親鸞聖人が他人の往生について断言された。

これが明らかに違うと親鸞聖人が仰った根拠を出しましょう。
そうでなければ、妄言妄想の域を脱しませんね、普通の思考ができるなら。

それと必死に、執持鈔について避けるコメントが哀れですな。

2014/07/07





id:shinrankaiuso

もう1つ教えて上げたのに、お礼の一つもないとはね。

二河白道のたとえで阿弥陀仏の喚び声を聞く前と後で、西の岸がある人からみて変化したと善導大師が仰っていますか?

善導大師が仰っていることは、白道を進むのに躊躇する心が、阿弥陀仏釈尊の二尊のお導きによって無くなった状態だとしか仰っていませんね。

どこに、西の岸がよく見えるようになった、近く見えるようになった、などの表現があるか教えてもらえますか?

無いですが、知らないのですか?

2014/07/07





id:shinrankaiuso

再掲

もったいぶらずに、どこがおかしいのか、一言でもいいから言ってください、お願いします。

A.ゼロさんが自信満々で出した根拠

●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

について

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

B.執持鈔にある親鸞聖人の御言葉からいえることは、

他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

よって結論は、

阿弥陀仏に救われたということは、往生の一大事が分かるのではなく、阿弥陀仏に死後のことをおまかせしたことをいう。
浄土に往けるとか地獄に堕ちるとか決めつけてはいけない。
阿弥陀仏が連れて往って下されるところへ往く。善知識と同じところへ往く。


2014/07/07




やめやめ学徒

ナビさん、いやゼロさんと呼んだ方がいいですか(笑)

誤魔化しに命がかかってますよ(笑)

執持抄のお言葉は、衝撃です。

2014/07/07





ゼロ

■ゼロから宮田さんへ、(7月7日A)

コメント有難うございました。

> 「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」
>  の「ノー」なら、親鸞聖人は『獲信しても、現生十種の利益の自覚【ある】』と言われたことになりますが、
>  それでよろしいでしょうか?
> 書き間違いです。イエスです。失礼しました。

了解しました。
お互いうっかりミスはその都度、訂正するようにいたしましょう

さて、それぞれの主張が大分整理されてきたと思いますので、
次の段階に進みたいと思います。

論点のポイントを、こう分析しました。
※浄土往生の「無疑」の意味が大きく異なっています。

【宮田さん】

・浄土往生は、凡夫に分かる訳がない。
 分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
 自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
 と【信じるに過ぎない】。これを【無疑】という。

【ゼロ】

・浄土往生は、凡智では分からないが、阿弥陀仏から賜った他力の信心
 (智慧の名号)で【浄土に往生すべきこと、さらに疑なし】
 と知らされる。これを【無疑】という。

先に結論を申しました。その方が、議論が分かりやすくなると思ったからです。

説明や、根拠の提示はこれから随時行っていきます。

では、宮田さんの質問にお答えしましょう。

■1■

(宮田さんの質問)

★往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来
 まかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめと
 して仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。
 かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に
 帰したる信心発得の行者といふなり。(執持鈔)

このご文を踏まえた上で、ゼロさんが出された根拠を読めばゼロさんが
主張される意味にはならないです。
ゼロさんはこの執持鈔のご文をどう思われますか?
それともご自身が出された根拠と矛盾した根拠だと思いますか?

(ゼロの答え)

これは、「往生ほどの一大事」は、凡智(人間の計らい)では分からないという
意味です。(これは信前、信後かわりません)

ですが、「往生の一大事(浄土往生)」は、他力の信心(智慧の名号)で分かり
ます。
獲信した人は、他力の信心(智慧の名号)をいただいております。
だから、仏智によって知らされるのです。

そもそも宮田さんも認めているように、獲信した人は、本願に疑い晴れています。
本願に「必ず浄土往生させてみせる」と誓われているのですから、
本願どおり救われた人は、浄土往生間違いなしとハッキリします。

『執持鈔』では、【凡智(人間の力)では】、分かるものではありませんよと、
教えられていまるのです。

ですから、この『執持鈔』のお言葉のスグあとに

「されば【われとして】浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべ
からず」

とあります、あくまで【われとして】(=凡夫の智慧、人間のはからい)では分
からない、という限定された書かれ方をしています。
ですが、他力の信心(智慧の名号)によっても分からない、という意味ではあり
ません。

獲信すれば、二種深信が立ち、「定んで往生を得、と深信」するのです。

一体、獲信した人以外に、誰が深信するのでしょう?


●このことを踏まえて以下、もう一つの質問にも答えておきましょう。

ゼロ:「獲信すれば、いつ死んでも極楽往生間違いなし」とハッキリします。

宮田さん:なぜハッキリするのですか?

ゼロ:他力の信心(智慧の名号)を獲得したからハッキリします。
   別の言葉でいえば、二種深信が立ったからハッキリします。

二つの質問にお答えしました。
(ただ一回では宮田さんには分からないかもしれませんね。
 不明な点はお尋ねください)


さらに追加して説明いたします。

・獲信すれば本願に疑い晴れますが、全てが分かるわけではありません。
 たとえば、仏語の意味が全て分かるとか、お経がすらすら読めるように
 なる訳ではありません。勿論、過去世の記憶がすべて蘇るとか、
 死んだあとの生活が未来永遠にわたってありありと分かるものでもありません。
 他の人が阿弥陀仏に救われたかどうかもハッキリしません。

 これはお互いの共通認識と思います。

 それを踏まえてお話しいたします。

・他人のことはハッキリしませんが断定することがあります。

 例えば

 「Aさんが、お母さんを亡くした時、大変悲しんだ。
  私も、母を亡くしたとき、悲嘆にくれた」

 という場合、Aさんは他人のことですが断定口調で表現しています。
 ですが、本当にハッキリしている訳ではありません。

 自分のことも断定しています。こちらはハッキリ分かっています。
 自分の事ですから。

 断定できるはずがない他人のことを断定しているから、
 自分に対しての断定も、そのレベルだ、などとどうしていえるでしょう。

 これは教義レベルよりも、常識的見解レベルの話です。

 もう一つ

 「僕は、今、アメリカにいる。
  Bさんが、来月、ここへ来る」
  
 Bさんが「ここへ来る」と宣言したのを聞いて
 信用して断言したのでしょう。
 でも、ハッキリしてはいません。

 だからといって、自分がアメリカにいることもハッキリしない
 のではありません。
 
 他人に対しても自分に対しても「断定」はしていますが、
 当然、その意味合いは異なるのです。

 (分かるはずがない)他人のことを断定している

   ゆえに

 自分のことを断定していても、それは分かってのことではない

 の「ゆえに」は成り立たないことは理解できますでしょうか?
 このことを踏まえて、次回、具体的なお聖教のお言葉を通して
 お話ししたいと思います。




最後に、「確信」についてですが、

> 宮田さんがサイクロンさんに対して
>「私は確信を無疑という意味で使っていませんし、
> あなたが使っている確信を無疑と認めてませんよ」
>と明言した箇所を教えてもらえますでしょうか?

の質問に対し、宮田さんの答えは、以下のものでした。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
(ここから)

ゼロさんが最初から問題にされている文章がそれに当たります。
サイクロン 2012/05/08 12:15の発言は、標題からいうと、「阿弥陀仏に救われた=浄土往生が確信されている=信心」という意味になります。
(略)
阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の確信があるのかないのか、については、私は「ない」という立場です。根拠は、上記に引用したハリケーンさんのコメントと同じです。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

これは、ゼロさんのコメントの文章で言うと
「私は確信を無疑という意味で使っていませんし、
 あなたが使っている確信を無疑と認めてませんよ」
と同じことです。

サイクロンさんは「「阿弥陀仏に救われた=浄土往生が確信されている=信心」
という意味になります。」と言われているけれども、「そのような確信はないと
いう立場です」と書きました。
サイクロンさん:信心(無疑心)=浄土往生の確信あり→無疑=確信
id:yamamoya:信心(無疑心)=浄土往生の確信なし→無疑≠確信
と言うことです。

(ここまで)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

正直に申しまして、これでは相手に伝わりません。

ここであなたが論点とすべきは、

阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の確信があるのかないのか

ではなく、

「確信=無疑」と言って良いか悪いか

という問題です。

ですが、これは教義の問題ではなく、言葉の問題ですので、
今のところこれ以上、追究するのはやめておきますね。

私との議論では、もっとストレートに表現されることを願っています。

では、お返事お待ちしております。

2014/07/07





ゼロ

■ゼロから宮田さんへ、(7月7日B)

以下、今までの議論で分ったことをまとめておきます。

※このコメントに質問は含まれていません。
 あくまで「覚書」です。

■(覚書)宮田さんが明言していること。

【1】

他力・・・阿弥陀仏にすべてお任せ
     (経典・お聖教の通りに師と共に往生できると【信じている】)
異安心・・・浄土に往けるチケット(信心)を持っている
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【2】

 地獄も浄土も、凡夫に分かる訳がないのです。
 分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
 自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
 と【信じるに過ぎない】。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【3】

真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?(ここまでが私の質問)
ーーー
>それが、三随順ということです。(宮田さんの答え)

【4】

獲信しても死後の世界については何もわからない、曖昧。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336675469

【5】

「よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
と言われているのが無疑と言うことです。
私が「信ずるに過ぎない」と書いたのはそのことです。
自らに釈尊法然聖人のようの智慧はないから、その方の仰せを疑い無く
受け入れているだけであるということです。
そこには、ご自身を煩悩具足の凡夫と仰った親鸞聖人の御心が窺えます。

【6】

真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、
まさに無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証・信巻末)
http://goo.gl/za4hbw

これは、親鸞聖人が「真実の教」でいわれる釈尊の大無量寿経の内容を知らされたということです。

【7】

「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」

【8】

無疑とは、御消息でいうと「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば
極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」ことに疑い無いこと。
本願の上で、浄土往生は決まっているのであって、自分の手元で「いつ死んでも
極楽往生間違いなし」と言うものではない。

【9】

「信心獲得の確信(機辺の決定心)をも否定」というのは、本願に疑い晴れた
信心獲得をしたということがあるという自覚(自覚というのもいろいろ問題ある
言い方ですが)の意味で「信心獲得の確信(機辺の決定心)」と言われている。
信心は機の上でいう言葉だから、確信という言葉を使うことが悪いとは言わない
。(言い方によってはまた誤解を生むかもしれない)。
本願に疑いないというのは、信心獲得の上ではいつでも疑い無いが、
往生浄土については「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひ
とすぢに如来にまかせたてまつるべし」ということ。

【10】

二種深信はを経釈に則って表されたものだから、
「さすがは善導大師だなあ」と聞いておけばよい。

【11】

「実際に機も法も疑いなく知らされるものではない」
の一文は、二種深信の説明としては不十分。
「二種深信=真実信心=無疑心」だから、「機も法も」と二つに分解して言うも
のでは無い。
本願を聞いて疑い無い(無疑心)の信相を書かれたのが二種深信。
機と法と、分けることができない。
文章としては機法ともに無疑というのが二種深信となる。



■ゼロの主張する「無疑」

『末灯鈔』12

この身は、いまは、としきはまりて候へば、【さだめてさきだちて往生】し
候はんずれば、【浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふ】べし。
 

『末灯鈔』13 

まことの信心の定まることは、釈迦・弥陀の御はからひとみえて候ふ。
【往生の心に疑なくなり候ふ】は、摂取せられまゐらするゆゑとみえて候ふ。

信心の定まると申すは摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位
にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべし

『御臨末の御書』

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す

『執持鈔』

われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶ

『御文章』五帖目二通

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、【後世をしるを智者】とすといへり。

このゆゑにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行をすてて、
一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、
十人も百人もみなともに【弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目四通

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、【みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし】。

『御文章』五帖目六通

ただ一念に弥陀をたのむ衆生は【みなことごとく報土に往生すべきこと、
ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目二十二通

われらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、【極楽にやすく
往生すべきことの、さらになにの疑もなし】。

※「お聖教にあるから信じる」という意味で無疑を使っていません。
 獲信された方が、いつ死んでも極楽往生間違いなしと疑い晴れた「無疑」です。
 ハッキリも、そういう意味です。

2014/07/07




まさき

ゼロさんこそ、またハンドルネームを書き間違えていますよ。
落ち着いて下さいませ(笑)。

口調が同じなので、バレバレなのです。
紛らわしいので、これからはどちらかに統一した方がいいですよ。

2014/07/07





id:shinrankaiuso

>他人に対しても自分に対しても「断定」はしていますが、
> 当然、その意味合いは異なるのです。

これが異なるという根拠が世間の例ということですね。

お粗末。

今回の問題は往生についてどう知らされた、という点。

他人が往生できるかどうか、なぜ断言できるのでしょうか?
それは、阿弥陀仏におまかせをした人は、「往生させてみせる」という誓いに間違いが無いから、往生できると信じるのです。そこに自分と他人の区別はありません。なんせ、十方衆生が相手の誓いなのですから。
親鸞聖人は、御自身が本願を信じられた、他の人も本願を信じられた、だったら平等に往生できる、ということが知らされる訳ですね。
世間のことで、完全平等ということはありませんから、世間の例を出したところで、なんの意味もない訳ですよ。

>獲信すれば、二種深信が立ち、「定んで往生を得、と深信」するのです。

まさに、本願を信じたら、往生が定まると深信するのです。

>ですから、この『執持鈔』のお言葉のスグあとに

>「されば【われとして】浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべ
からず」

>とあります、あくまで【われとして】(=凡夫の智慧、人間のはからい)では分
>からない、という限定された書かれ方をしています。
>ですが、他力の信心(智慧の名号)によっても分からない、という意味ではあり
>ません。

残念ですが、他力の信心(智慧の名号)によっても分からない、という意味です。

その証拠に

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

ですが、分かりますか?
法然上人と同じところに往く、法然上人が地獄なら自分も地獄だ、善知識に騙されたなら善知識と同じところに堕ちる

これが、他力の信心(智慧の名号)によっても分からない、という意味です。

2014/07/08





台風

ゼロさんへ

>本願どおり救われた人は、浄土往生間違いなしとハッキリします。

高森さんが言うから?

2014/07/08





山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ

【宮田さん】


・浄土往生は、凡夫に分かる訳がない。
 分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
 自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
 と【信じるに過ぎない】。これを【無疑】という。

ゼロさんの無疑の理解を加えての作文なので、これを今後定型文とてし使われるようなら以下のものに差し替えておいてください。

【宮田】
・浄土往生は、凡夫が分かる性質のものではない。なぜなら本願の領域のことであるからである。
 しかし、阿弥陀仏の本願は本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせると仰せであるから、それを聞いて疑い無ければ本願の通りになる。
 阿弥陀仏の本願とそれを説かれた、釈尊はじめ高僧方の仰せを信じるほかになにもない。
 これを無疑と言う。

■1■
ゼロさんはこの執持鈔のご文をどう思われますか?

それともご自身が出された根拠と矛盾した根拠だと思いますか?
(ゼロの答え)
これは、「往生ほどの一大事」は、凡智(人間の計らい)では分からないという
意味です。(これは信前、信後かわりません)
ですが、「往生の一大事(浄土往生)」は、他力の信心(智慧の名号)で分かり
ます。
獲信した人は、他力の信心(智慧の名号)をいただいております。
だから、仏智によって知らされるのです。

早速ですが、この辺りがよく分かりませんでした。

まとめると、往生ほどの一大事は凡智では分からないが、仏智によって知らされるとあります。
そうなると、信心獲得した人は、凡智+仏智となったということでよろしいでしょうか?
仏智とは、文字通り仏の智慧ですが、ゼロさんの文章によれば、仏と同じ智慧を身に付けた人が獲信した人となってしまいますが、それでいいのでしょうか?異論がないなら結構です。

また「他力の信心(智慧の名号)で分かります」も、確認したいと思います。
他力の信心=智慧の名号でよろしいでしょうか?名号を信受したのが信心ですから、イコールとはならないと思います。

それ以上に、「他力の信心で分かります」というのが、よく分かります。他力の信心とは、何かの能力なのでしょうか?そのような文章に読めます。他力の信心は、本願を聞いて疑心あることないそれだけのことであって、自分になにか智慧が身に付くものではありません。

ゼロさんの文章は、他力の信心を獲ると、何か智慧がそなわり、悟りを開いたかのように感じますが、それは私の勘違いでしょうか?

本願に「必ず浄土往生させてみせる」と誓われているのですから、

本願どおり救われた人は、浄土往生間違いなしとハッキリします。

ここは、「本願どおり救われた人は、浄土往生間違いなしとハッキリします」とあるので、やはり救われた人は、自分の機の上で浄土往生が分かるという文章となります。そうなると、執持鈔の後半部分と食い違ってきますが、そのあたりはどうお考えでしょうか?

言い換えると「本願に必ず浄土往生させてみせると誓われている→救われたら浄土往生間違いなしとハッキリする」となります。この「→」は成立しないというのが私の主張していることです。

ですが、他力の信心(智慧の名号)によっても分からない、という意味ではあり
ません。
獲信すれば、二種深信が立ち、「定んで往生を得、と深信」するのです。
一体、獲信した人以外に、誰が深信するのでしょう?

id:shinrankaiusoさんも言及されていますが

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。(執持鈔)

ゼロさん説の通りなら、「たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり」となぜ親鸞聖人が仰った事として書かれているのでしょうか?ゼロさん説によるなら法然聖人がどこへ行こうとも「この私(親鸞聖人)は浄土に行きます」とハッキリ言われると思いますが、その辺りはいかがでしょうか?

ゼロ:他力の信心(智慧の名号)を獲得したからハッキリします。


   別の言葉でいえば、二種深信が立ったからハッキリします。

他力の信心は何かの道具ですか?
先ほども書きましたが、二種深信=他力の信心=本願を聞いて疑心あることなし です。
ただ、仏願の生起本末を聞いて疑心あることないだけであって、私の中になにかが「立つ」ようなイメージは間違いです。もちろんゼロさんが、そう思うのはお聖教ではなく高森会長がそう言っていたからという理由だと思いますが。

(ただ一回では宮田さんには分からないかもしれませんね。

 不明な点はお尋ねください)

不明な点は上記お尋ねしました。よろしくお願い致します。

 それを踏まえてお話しいたします。
・他人のことはハッキリしませんが断定することがあります。
(略)

聖教の根拠がないことは、例え話で説明するのは「なぜ生きる2」と同じですね。根拠を上げた上で、補足説明としてたとえ話をするのは理解出来ます。しかし、根拠なしでいきなり例え話を出すのは、自ら根拠はありませんとの表明だと私もこのコメント欄を見ている会員、元会員は思います。
ただ、ゼロさんの中ではそういう理路で理解をされていることはよく分かりました。今後も根拠がないところは、積極的に例え話を駆使して説明をお願いします。
2014/07/08





ナビ

宮田さんへ

>それ以上に、「他力の信心で分かります」というのが、よく分かります。

これでいいの?
「よく分かりません」では?

>獲信すれば、二種深信が立ち、「定んで往生を得、と深信」するのです。
>一体、獲信した人以外に、誰が深信するのでしょう?

に答えてませんね。
困った質問なのでしょうか?
違うと思われる例を出してますが、その例こそ、一見この二種深信と違うことを言われているように読めるのですから、まず、あなたがゼロさんの質問に答えるべきでは?

shinrankaiusoさんへ

あなたも宮田さんと同じ意見?
 ↓
・浄土往生は、凡夫が分かる性質のものではない。なぜなら本願の領域のことであるからである。
 しかし、阿弥陀仏の本願は本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせると仰せであるから、それを聞いて疑い無ければ本願の通りになる。
 阿弥陀仏の本願とそれを説かれた、釈尊はじめ高僧方の仰せを信じるほかになにもない。
 これを無疑と言う。

>「まさに、本願を信じたら、往生が定まると深信するのです」

だから獲信した人が、浄土往生を深信(無疑心)するんでしょ。
獲信した人以外に、誰が深信するの?

親鸞聖人は、御自身が本願を信じられた、他の人も本願を信じられた、だったら平等に往生できる、ということが知らされる」

とあるけれど

まず、「親鸞聖人は、御自身が本願を信じられた」

と「他の人も本願を信じられた」の

「信じられた」がどうして同レベルになる?

我が身が獲信したことはハッキリしますよね。

けど、他の人が獲信したかどうかも同レベルでハッキリするの?

そもそも、shinrankaiusoさんは、

「獲信は、ツユチリの疑いなくハッキリした体験」という主張でいいの?
それさえ疑問に思えてくる論調ですね。

もうちょっと、分かりやすく書いてもらえませんか?
よく分かっているなら、分かりやすくかけるはずだよ。

それにしても、日本語のレベルが問題あるので、まったく困ったことです。
日本語の文法のことまでお聖教には書かれてませんからね。
どうしたものでしょう。
もう少し、言葉が通じると思っていたけどガッカリだね。


いよいよ『執持鈔』になりましたね。
でも、ここは、日本語のセンスがない人に、分かるかなあ?
日本語のセンスについてもお聖教には書かれてませんから。
常識的に読めることが大前提じゃないですか。

まあ、もう少し、ゼロさんと宮田さんのやりとりを見てみたいと思いますが。

まさきさんへ

宮田さんにも、「大事な教義の質問の答えを『イエス』『ノー』正反対に答えちゃ
だめですよ、落ち着いて」って優しく教えてあげてくださいね!

教義上の答えのミスは致命的で、本当はゼロさんから、集中攻撃されても文句いえないとこですよ。
そのことを踏まえて、コメントしてね!

2014/07/08





id:shinrankaiuso

嘘付きナビさんには、難しい話だったようですね。

簡単な説明をしましょう。

阿弥陀仏の願船に乗ったことはわかる。
船の行き先は浄土と聞いてはいるが、では浄土がわかるのかと言えばそれは違う。

こういうこと。
今のように情報の発達していなかった時代に、アメリカがどんな所か説明を聞いてはいるが、どんなところかは全く知らない。しかし、船長を信頼しきっているので、船長が連れて行ってくれるところが噂のアメリカだと信じている。

これが、執持鈔の御言葉の意味。

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

船長を教えてくれた恩人に騙されて太平洋の孤島に連れて行かれても、その恩人と共に孤島にいくだけ。

アメリカに着いて初めてアメリカがどんなところかわかるのですね。

簡単でしょ。

日本語のセンスで誤魔化せると思う浅はかさ。

2014/07/08




id:shinrankaiuso

ところで、浄土がどんなところか、高森会長から聞いたことがありますか?

ないですよね。阿弥陀経の説明は聞いたことがあっても、高森会長自身がどのように知らされたのか、全く語ったことがないでしょう。
なぜだと思いますか?

高森会長が浄土のことなど何も知らされていないからですよ。

では親鸞聖人が、御自身の御言葉で浄土の様子をハッキリ知らされた内容として仰った根拠を知っていますか?
これもないのですよ。

ちなみに、浄土がどんなところか分かったなら、定善の行など、楽々できることになりますよね。だけど獲信してもそれができないのですよ。

2014/07/08





id:shinrankaiuso

何回も書いたけど、忘れたようですから、何度でも同じことを書いておきますよ。

「浄土往生させる」と誓われた本願に疑いが無くなる。
しかし、それは浄土が分るのではない、つまり浄土往生ということがハッキリすることでもない。

これも再掲

もったいぶらずに、どこがおかしいのか、一言でもいいから言ってください、お願いします。

A.ゼロさんが自信満々で出した根拠

●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

について

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

B.執持鈔にある親鸞聖人の御言葉からいえることは、

他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

よって結論は、

阿弥陀仏に救われたということは、往生の一大事が分かるのではなく、阿弥陀仏に死後のことをおまかせしたことをいう。
浄土に往けるとか地獄に堕ちるとか決めつけてはいけない。
阿弥陀仏が連れて往って下されるところへ往く。善知識と同じところへ往く。

2014/07/08




ひま

まさきさんがコメントされているように
『念仏に疑いがなくなる』ということで
『念仏のみぞまことにおはす』という御言葉を思いました。

 仏様に救われたのだから、地獄行き、極楽行の私だとハッキリした何かが掴めると 間違った思い込みをさせている会長が真実信心の人とは思えない。

親鸞会の、講師を含む会員さんには高森会長が間違った教えを説いていることに早く気が付いてほしいですね。まさきさん。 

2014/07/08





まさき

本当にその通りですね。

ゼロさんの「本願に疑い晴れたということは、浄土往生に疑い晴れたということです。」という主張は、間違っています。

どうやらゼロさんの脳内では、獲信=成仏になってしまっているようですね。
しかし凡夫は、あくまでも凡夫の智慧の及ぶ範囲でしか物事を知ることができません。
それは、信後になっても同じことなのです。

阿弥陀仏が知っておられること」と「凡夫の側で知らされること」は、違います。

本願に疑い晴れて知らされることは、『ただ念仏のみぞまこと』ということだけです。

2014/07/08





まさき

>「往生の一大事(浄土往生)」は、他力の信心(智慧の名号)で分かります。
>獲信した人は、他力の信心(智慧の名号)をいただいております。
>だから、仏智によって知らされるのです。

とうとうゼロさんは、「獲信したら智慧の名号をいただいて、仏智を得られる。」などというトンデモないことを言い始めました!!

やはりこれは、親鸞会会長高森顕徹氏の“珍しき法”を聞き過ぎたせいだと思われます。

2014/07/08





台風

「この高森さんという人は、自分がハッキリ、シッカリなって助かる」と主張している人なのかな?

2014/07/08




台風

twitter検索より
@18vow: 阿弥陀仏の仰せを聞くというのは、「私という主体」が聞くということではなく、「私を場として本願力が働いて下される」ということです。 宮田秀成

2014/07/08




ナビ

shinrankaiusoさんへ

なるほど、例え話よく分かりました!
有難うございます。

となりますと、

阿弥陀仏の願船に乗ったことがわかる」

のは、自分も他人も同じレベルで「わかる」のでしょうか?

それから、乗ったら、現生十種の利益も、実際にその利益が身の上におきているとわかるのでしょうか?
さすがにこれは、自分だけ?
それとも、自分すら分からないのですか?

2014/07/08





id:shinrankaiuso

自分も他人もほぼ同じレベルでわかります。同じ境地ですから。ですから、親鸞聖人も他人の往生を断言されています。

何かおかしいところがありますか?

現生十種の利益は、獲られるのと自覚するのは違うと言ったのに、理解できないのですか?

わかりやすいのが、入正定聚の益。
現生で正定聚に入ると教えられた七高僧はいませんよ。前にも言ったでしょ。

2014/07/08





id:shinrankaiuso

再掲

もったいぶらずに、どこがおかしいのか、一言でもいいから言ってください、お願いします。

A.ゼロさんが自信満々で出した根拠

●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

について

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

B.執持鈔にある親鸞聖人の御言葉からいえることは、

他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

よって結論は、

阿弥陀仏に救われたということは、往生の一大事が分かるのではなく、阿弥陀仏に死後のことをおまかせしたことをいう。
浄土に往けるとか地獄に堕ちるとか決めつけてはいけない。
阿弥陀仏が連れて往って下されるところへ往く。善知識と同じところへ往く。

2014/07/08




id:shinrankaiuso

ナビさん、私は何度もあなたのつまらない質問に答えてきました。しかし、あなたは一度も私の質問に答えていません。

次のコメントで質問に答えないのであれば、上記をすべて認めたと判断し、あなたの主張は嘘ばかりであった、で終わりです。

最終警告ですので、宜しく。

2014/07/08




まさき

聞き流しておけばいいような事に対してでも、いちいちムキになって反論してくるナビさんのことです。
shinrankaiusoさんの質問に答えられるものならば、もうとっくに答えていることでしょう。
答えられないから、ひたすら無視するしかないのですよ。

自信満々に出してきた最初の根拠をアッサリと引っ込めたのも、shinrankaiusoさんに間違いを教えてもらえたからです。
その後も教えて頂くばかりなのに、お礼の一つもありませんよね。
これが「廃悪修善」とは口先ばかりの“親鸞会”の実態です。

皆さん、よ~く見ておきましょう。

2014/07/08





ゼロ

■ゼロから宮田さんへ(7月8日A)

コメント読ませてもらいました。
前回は、先へと進みましたが、その反動でか、分からないことがあまりに多く出てきましたので、今回は確認をメインにさせてもらいたいと思います。

かなり大前提の部分でのズレがあるなというのが正直な感想です。

>浄土往生は、凡夫に分かる訳がない。
>分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
>自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
>と【信じるに過ぎない】。これを【無疑】という。
  
>ゼロさんの無疑の理解を加えての作文なので、これを今後定型文とてし
>使われるようなら以下のものに差し替えておいてください。

⇒分かりました。
 どのあたりが問題ありなのか教えてもらえると今後の議論がよりスムーズになると思いますのでよろしくお願いします。

>【宮田】
>浄土往生は、凡夫が分かる性質のものではない。なぜなら本願の領域の
>ことであるからである。
>しかし、阿弥陀仏の本願は本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせる
と仰せであるから、

⇒この「本願を信じ」とは、阿弥陀仏のお力によって疑情全尽し、ツユチリの疑いもなくなった「無疑」でしょうか?

>それを聞いて疑い無ければ本願の通りになる。

⇒この「疑い無い」とは、阿弥陀仏のお力によって疑情全尽し、ツユチリの疑いもなくなった「無疑」でしょうか?

阿弥陀仏の本願とそれを説かれた、釈尊はじめ高僧方の仰せを信じるほかになにもない。

⇒この「信じる」とは、阿弥陀仏のお力によって疑情全尽し、ツユチリの疑いもなくなった「無疑」でしょうか?

>これを無疑と言う。

⇒この「無疑」とは、阿弥陀仏のお力によって疑情全尽し、ツユチリの疑いもなくなった「無疑」でしょうか?


>獲信すれば、二種深信が立ち、「定んで往生を得、と深信」するのです。
>一体、獲信した人以外に、誰が深信するのでしょう?

この問いに、答えていただいておりません。
ここは極めて大切な問いですので、答えてください。

そもそも「二種深信」自体を、宮田さんは否定しているようにも思えまてしまいます。

なぜかと言いますと

>獲信すれば、二種深信が立ち、「定んで往生を得、と深信」するのです。
>一体、獲信した人以外に、誰が深信するのでしょう?

の後に、もしこの説が正しいなら、『執持鈔』のお言葉に矛盾する、という内容を書いていたからです。

『執持鈔』のあなたの解釈、

「獲信しても死後どうなるかは分からず、お師匠さまと同じところにいくにすぎ
ない。つまり、死後は、地獄やら極楽やら餓鬼道やらハッキリしない。
だから、〝定んで往生を得〟と深信するわけではない」

が正しくて、「定んで往生を得、と深信するのは間違い」ということでしょうか?

当然ながら、二種深信は、私の説ではなく、親鸞聖人が『教行信証』『愚禿鈔』に書いておられることです。
なので、そもそも質問の出発点がよく分からない状態です。

分かるように教えてください。

もう一つ、二種深信について。

宮田さんの発言

>「本願に必ず浄土往生させてみせると誓われている→救われたら浄土往生間違いなしとハッキリする」となります。
>この「→」は成立しないというのが私の主張していることです。

は、まるで、

 「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無し」
  と、深信す(この深信は、凡智でなのか、仏智でなのか、それともそれ以外の何かでなのか、宮田さんの理解が分かりません。教えてください)。

 「彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と(凡智で)信ず(法の深信)

と主張しているように思えてしまうのですが、ひょっとしてそうなのですか?

私は、

「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す(法の深信)

ですから、「必ず浄土往生させてみせると誓われている弥陀の本願に疑い晴れ、
 弥陀の本願(彼の願力)に救われた(乗じた)ならば、定んで往生を得」と深信す(ハッキリする)」

と、お言葉どおりのことを現代語でお伝えしているだけなのですが、どこがどう成立しないのか、教えていただけませんか?

『執持鈔』のお言葉の趣旨は、このことが理解できてから説明することに致します。

(断っておきますが、変に焦って、逃げたのかとかつまらないことをいちいちい
うのは大人気ないのでやめておきましょうね。
 もっと余裕をもって、しっかり議論をしたいと思います。
 ただこう言っては大変失礼なのですが、心配なのは宮田さんの日本語の理解の
方なので……)

>私の中になにかが「立つ」ようなイメージは間違いです

イメージという言葉がここに出てくる意図がよくわかりませんが、ともかく宮田さんは、獲信しても本願に疑い晴れるだけで、あとは何も分からない、私の身の上に実感されるものは何もない、と主張されているように思いますが、それでよいですか?

獲信しても三忍は自覚されませんか?

>  断定できるはずがない他人のことを断定しているから、
>  自分に対しての断定も、そのレベルだ、などとどうしていえるでしょう。
>
>  これは教義レベルよりも、常識的見解レベルの話です。
> >  (分かるはずがない)他人のことを断定している
>
>  (分かるはずがない)他人のことを断定している
>
>    ゆえに
>
>  自分のことを断定していても、それは分かってのことではない
>
>    ゆえに
>
>  自分のことを断定していても、それは分かってのことではない
>
>
>  の「ゆえに」は成り立たないことは理解できますでしょうか?
>  このことを踏まえて、次回、具体的なお聖教のお言葉を通して
>  お話ししたいと思います。
>
>
このことに直接の返答はなかったようでしたが、これは理解できましたでしょう
か?
「例え」から先にお話してから具体的なお聖教を通してお話しするという展開が気に入らなかったようですね。

ですが、まことに失礼で申し上げずらいのですが、宮田さんの言葉遣い、言葉の理解にかなり不安を覚えおり、まず言葉レベルの質問をせざるをえませんでした。。

「確信」云々のやりとりを通して、宮田さんという人は、あんな議論の進め方で他の人に分かると本気で思っておられると分かったからです。

これは、言語レベル(常識レベル)の問題か、教義そのものの問題か、文章を読んでパッと分かるようになっていただきたいなと思っている次第です。

>  自分のことを断定していても、それは分かってのことではない
>
>    ゆえに
>
>  自分のことを断定していても、それは分かってのことではない
>
>
>  の「ゆえに」は成り立たない。

ものすごく当たり前のことで、試しに小学生に聞いてみたら、
すぐ理解しました。(当然ですよね)

ですから、

弥勒菩薩が遠い未来、仏になられる」と断言されたことと

阿弥陀仏に救われた親鸞、一息切れると同時に仏になる」

と断言されたのと、どうして同じレベルの断定になるのでしょう?

これは、まずは常識レベルの問題です。
(実は次に、言葉のセンスのレベルの問題になります。
 常識レベルでつまずいてもらっては、次の段階でまともな議論になるか、はなはだ不安ですが……)

ハッキリ申しておきますが、格調高い『教行信証』や『愚禿鈔』は、常識レベル、言語レベルの理解がある程度ないと読めません。

いちいち、文法のことや、言葉のセンスについてお聖教に書かれていないことは当然です。

他にも、いろいろ気になる言葉づかいが多かったのですが、あまりに多いと、焦点がボケてしまいますので、今回は保留にしておきますね。

また、他力の信心や智慧の名号、凡智と仏智についてもとても大切だったのですが、あまりに長くなりましたので、最初にもお話ししましたように、大前提の部分の共通認識が出来てから、議論を再開したいと思います。

では、返信お待ちしております。
2014/07/09





ゼロ

■ゼロから宮田さんへ、(7月8日B)

以下、今までの議論で分ったことをまとめておきます。

※このコメントに質問は含まれていません。
 あくまで「覚書」です。

■(覚書)宮田さんが明言していること。

【1】

他力・・・阿弥陀仏にすべてお任せ
     (経典・お聖教の通りに師と共に往生できると【信じている】)
異安心・・・浄土に往けるチケット(信心)を持っている
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【2】

 地獄も浄土も、凡夫に分かる訳がないのです。
 分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
 自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
 と【信じるに過ぎない】。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【3】

真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?(ここまでが私の質問)
ーーー
>それが、三随順ということです。(宮田さんの答え)

【4】

獲信しても死後の世界については何もわからない、曖昧。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336675469

【5】

「よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
と言われているのが無疑と言うことです。
私が「信ずるに過ぎない」と書いたのはそのことです。
自らに釈尊法然聖人のようの智慧はないから、その方の仰せを疑い無く
受け入れているだけであるということです。
そこには、ご自身を煩悩具足の凡夫と仰った親鸞聖人の御心が窺えます。

【6】

真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、
まさに無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証・信巻末)
http://goo.gl/za4hbw

これは、親鸞聖人が「真実の教」でいわれる釈尊の大無量寿経の内容を知らされたということです。

【7】

「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」

【8】

無疑とは、御消息でいうと「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば
極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」ことに疑い無いこと。
本願の上で、浄土往生は決まっているのであって、自分の手元で「いつ死んでも
極楽往生間違いなし」と言うものではない。

【9】

「信心獲得の確信(機辺の決定心)をも否定」というのは、本願に疑い晴れた
信心獲得をしたということがあるという自覚(自覚というのもいろいろ問題ある
言い方ですが)の意味で「信心獲得の確信(機辺の決定心)」と言われている。
信心は機の上でいう言葉だから、確信という言葉を使うことが悪いとは言わない
。(言い方によってはまた誤解を生むかもしれない)。
本願に疑いないというのは、信心獲得の上ではいつでも疑い無いが、
往生浄土については「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひ
とすぢに如来にまかせたてまつるべし」ということ。

【10】

二種深信はを経釈に則って表されたものだから、
「さすがは善導大師だなあ」と聞いておけばよい。

【11】7月7日

「実際に機も法も疑いなく知らされるものではない」
の一文は、二種深信の説明としては不十分。
「二種深信=真実信心=無疑心」だから、「機も法も」と二つに分解して言うも
のでは無い。
本願を聞いて疑い無い(無疑心)の信相を書かれたのが二種深信。
機と法と、分けることができない。
文章としては機法ともに無疑というのが二種深信となる。

【12】7月8日

 浄土往生は、凡夫が分かる性質のものではない。なぜなら本願の領域のことで
あるからである。
 しかし、阿弥陀仏の本願は本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせると仰せであるから、それを聞いて疑い無ければ本願の通りになる。
 阿弥陀仏の本願とそれを説かれた、釈尊はじめ高僧方の仰せを信じるほかになにもない。
 これを無疑と言う。

【13】7月8日

他力の信心は、本願を聞いて疑心あることないそれだけのことであって、自分になにか智慧が身に付くものでは
ない。

【14】7月8日

仏願の生起本末を聞いて疑心あることないだけであって、私の中になにかが「立つ」ようなイメージは間違い。



■ゼロの主張する「無疑」

『末灯鈔』12

この身は、いまは、としきはまりて候へば、【さだめてさきだちて往生】し
候はんずれば、【浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふ】べし。
 

『末灯鈔』13 

まことの信心の定まることは、釈迦・弥陀の御はからひとみえて候ふ。
【往生の心に疑なくなり候ふ】は、摂取せられまゐらするゆゑとみえて候ふ。

信心の定まると申すは摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位
にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべし

『御臨末の御書』

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す

『執持鈔』

われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶ

『御文章』五帖目二通

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、【後世をしるを智者】とすといへり。

このゆゑにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行をすてて、
一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、
十人も百人もみなともに【弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目四通

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、【みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし】。

『御文章』五帖目六通

ただ一念に弥陀をたのむ衆生は【みなことごとく報土に往生すべきこと、
ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目二十二通

われらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、【極楽にやすく
往生すべきことの、さらになにの疑もなし】。

※「お聖教にあるから信じる」という意味で無疑を使っていません。
 獲信された方が、いつ死んでも極楽往生間違いなしと疑い晴れた「無疑」です。
 ハッキリも、そういう意味です。

2014/07/09




id:shinrankaiuso

ゼロさんだったり、ナビさんだったりと、使い分けに苦労してますね。

長々と書いていますが、

ゼロさんの最初の方のコメント

>●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
> 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。>(『教行信証』)

>と親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
>「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

>「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

>ということでしょうか?

と書いていますが、忘れたのですかね。
これを弥勒菩薩の文に置き換えると

>「真に知んぬ」と知らされても、弥勒菩薩の成仏の時期はハッキリせず、

>「獲信しても弥勒菩薩の成仏の時期はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

>ということでしょうか?

もう少し頭を使った方がいいですよ。

2014/07/09


まさき

私も一人二役は大変でしょうから、ハンドルネームを一つに統一してはいかがですか?と提案したのですが、聞き入れては頂けなかったようですね。

ゼロさんは、やたらと宮田さんの国語力を問題にしておられますが、未信のゼロさんに「他力の世界」を言葉だけで説明しなければならない宮田さんの苦労がわからないから、そんなことが平気で言えるのです。
そもそも今回のテーマは、一味である獲信者同士なら議論する必要もないことなのですよ。

「信後の世界」を頭の中で想像することしかできないゼロさんが、宮田さんの言っておられることが理解できずに混乱しまくるのは当然の結果だし、そもそも「他力の世界」を頭の中だけで理解しようと思っていること自体が間違っているです。

ところで、「獲信すると智慧の名号をいただいて、仏智が得られる。」という話はどうなったのですか?
後回しにするのは構いませんが、無かった事にだけはしないで下さいね(笑)。
2014/07/09



さて

飛雲より

問い

親鸞聖人が、「まことに知んぬ」と仰っているのを否定するのですか。

答え

親鸞聖人は『教行信証真仏土巻』で、経典と曇鸞大師・善導大師等の御文にある浄土の記述を紹介された後、初めて御自身のお言葉を述べられています。
「しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。」
親鸞聖人は、経典と曇鸞大師・善導大師等の御文を通して浄土を「あきらかに知んぬ」なのです。体験を通してではありません。その証拠が後の文で、煩悩にまみれた衆生が仏性の浄土を見ることはできない、と仰っています。同じことで、「まことに知んぬ」は聖教を通して解釈するとこのように知らされたということであって、体験上知らされたのではないから、七高僧方と知らされた内容が違っていても、信心として異なることにはなりません。

2014/07/09


山も山id:yamamoya
ゼロさんへ

■ゼロから宮田さんへ(7月8日A)
>ゼロさんの無疑の理解を加えての作文なので、これを今後定型文とてし

>使われるようなら以下のものに差し替えておいてください。
⇒分かりました。
 どのあたりが問題ありなのか教えてもらえると今後の議論がよりスムーズになると思いますのでよろしくお願いします。


ゼロさんの文章は
>浄土往生は、凡夫に分かる訳がない。
>分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
>自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
>と【信じるに過ぎない】。これを【無疑】という。

気になるところを上げると
1・仰せを信じている→自力の信心であるように読める文章
2・浄土に往くに【違いない】→思い込みに読める文章
3・と【信じるに過ぎない】→前段を受けてだと、思い込んでいるに過ぎないと読める。

ゼロさんが、私の主張をそのように理解しているのだと思いますが、そうではないので作文させてもらいました。

⇒この「本願を信じ」とは、阿弥陀仏のお力によって疑情全尽し、ツユチリの疑いもなくなった「無疑」でしょうか?

細かい事ですが、疑情全尽とはあまり聞かない言い回しですね。
疑情が晴れたいう無疑です。本願疑惑心が無いことです。

>それを聞いて疑い無ければ本願の通りになる。

⇒この「疑い無い」とは、阿弥陀仏のお力によって疑情全尽し、ツユチリの疑いもなくなった「無疑」でしょうか?

そうです。

阿弥陀仏の本願とそれを説かれた、釈尊はじめ高僧方の仰せを信じるほかになにもない。

⇒この「信じる」とは、阿弥陀仏のお力によって疑情全尽し、ツユチリの疑いもなくなった「無疑」でしょうか?

そうです。

>これを無疑と言う。

⇒この「無疑」とは、阿弥陀仏のお力によって疑情全尽し、ツユチリの疑いもなくなった「無疑」でしょうか?

仏願の生起本末を聞いて疑心あることない事です。

>獲信すれば、二種深信が立ち、「定んで往生を得、と深信」するのです。
>一体、獲信した人以外に、誰が深信するのでしょう?
この問いに、答えていただいておりません。
ここは極めて大切な問いですので、答えてください。

そもそも論ですが、二種深信の深信を「ツユチリの疑いもなくなった」と書いておられながら、「誰が深信する」と書くと、「深信=分かった」と理解されているように思いますが違いますか?

先のコメントにも書きましたが、二種深信は他力信心の信相です。そして、他力信心とは、仏願の生起本末を聞いて疑心あることない事です。つまり、仏願の生起本末を聞いて「分かった」ことではなく、あくまで「疑心あることない状態」を他力信心といい、その他力信心の相を示されたものです。

ですから、「定んで往生を得、と深信」だけを切り取っては意味が通りません。
阿弥陀仏の本願が私を救うために建てられてのだから、その本願力に任せれば浄土往生をする」という本願に疑心がないことを言います。これが法の深信です。
ゼロさんが「誰が深信するのでしょうか?」といわれると、「深信する」という行為があるかのようです。疑い無いのが深信で、疑い無いようにした結果、何か分かったことを深信とは言いません。

『執持鈔』のあなたの解釈、

「獲信しても死後どうなるかは分からず、お師匠さまと同じところにいくにすぎ
ない。つまり、死後は、地獄やら極楽やら餓鬼道やらハッキリしない。
だから、〝定んで往生を得〟と深信するわけではない」
が正しくて、「定んで往生を得、と深信するのは間違い」ということでしょうか?

上記文章は私が書いていたことと違います。


「獲信しても死後どうなるかは分からず、お師匠さまと同じところにいくにすぎ
ない。つまり、死後は、地獄やら極楽やら餓鬼道やらハッキリしない。
だから、「浄土往生がハッキリする」わけではない」
と書いてきました。

分かるように教えてください。

上記書きました。


もう一つ、二種深信について。

>「本願に必ず浄土往生させてみせると誓われている→救われたら浄土往生間違いなしとハッキリする」となります。
>この「→」は成立しないというのが私の主張していることです。
は、まるで、
 「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無し」
  と、深信す(この深信は、凡智でなのか、仏智でなのか、それともそれ以外の何かでなのか、宮田さんの理解が分かりません。教えてください)。
 「彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と(凡智で)信ず(法の深信)
と主張しているように思えてしまうのですが、ひょっとしてそうなのですか?

法の深信のご文はそのようには読みません。


「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」という本願を深信す(無疑)。
これが、法の深信です。阿弥陀仏の本願を聞いても、あれこれ疑いを挟んで聞いていますが、本願力によって疑いが晴れ、本願をそのまま聞き入れたことを言われたものです。

ゼロさんの問いはまず、問いになっていません。
なぜなら

この深信は、凡智でなのか、仏智でなのか、それともそれ以外の何かでなのか、宮田さんの理解が分かりません。

この問いの前提は「深信=ハッキリ分かる」なので、あとの文章が何を書かれていても問いになりません。深信=無疑 ですか、無疑≠ハッキリ知らされるではありません。よって、深信≠ハッキリ知らされるではありません。

「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す(法の深信)
ですから、「必ず浄土往生させてみせると誓われている弥陀の本願に疑い晴れ、
 弥陀の本願(彼の願力)に救われた(乗じた)ならば、定んで往生を得」と深信す(ハッキリする)」
と、お言葉どおりのことを現代語でお伝えしているだけなのですが、どこがどう成立しないのか、教えていただけませんか?

上記書きましたが再掲すると
「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」という本願を深信す(無疑)です。
ゼロさんの文章では、疑い晴れが二つになっていますが、お聖教どおりに読めば「 」の内容全体に無疑ということで、私の計らいを挟まずそのまま聞き入れた事です。ハッキリするとは、私の「ハッキリしたこと」を挟まねば本願は信じられないという態度です。何かハッキリしなければ、南無阿弥陀仏が往生の業だととても信じられないという考えなのではないです?そのような考えを振り捨て「仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや(執持鈔)」と阿弥陀仏にまかせたのが「これ自力をすてて他力に帰するすがたなり(執持鈔)」です。

>私の中になにかが「立つ」ようなイメージは間違いです
イメージという言葉がここに出てくる意図がよくわかりませんが、ともかく宮田さんは、獲信しても本願に疑い晴れるだけで、あとは何も分からない、私の身の上に実感されるものは何もない、と主張されているように思いますが、それでよいですか?
獲信しても三忍は自覚されませんか?

本願に疑い晴れて、それだけですか?と言われているようですが、「浄土往生が凡夫にハッキリする」の説は間違いだと言っているだけです。
法を聞けば有り難いの思いも起きますし、本願のいわれを知り、疑いないという意味での三忍はあります。


このことに直接の返答はなかったようでしたが、これは理解できましたでしょう
か?

根拠を出さずに例えを出しても意味がないと言う意味で何も書きませんでした。
今回も根拠なしということで了解しました。
2014/07/09



まさき

親鸞会は浄土真宗ではなくて“高森教”なので、根拠を出すのは無理だそうです。

ちなみに「なぜ生きる2」は、本屋の“新興宗教コーナー”に並んでいました。
ちゃんとした本屋さんだなぁ~と、非常に感心した次第です(笑)。

2014/07/09



ひま

阿弥陀仏に救われても浄土往生の確信はない』
親鸞会退会者で自称念仏者の多くは宮田さんと同じ意見と思います。

ゼロさんナビさんは 救われたら何がどのようにハッキリするのかもう一度高森会長に聞いてこられたら如何でしょうか。 

地獄行き 極楽行 浄土往生その他ツユチリなく知らされる中身はどのような事柄か 記憶としてなのか 知識としてなのか
「浄土往生の可否が明らかに知らされる」 とは 浄土とはどのような所なのか 往生の獲信とはどのような自覚が生まれるのか それとも何かが見えるのか 高森会長のご意見を 伺ってこられたら早いと思います。

火に触ったより明らかに知らされた事柄の中身を是非教えて頂きたいです。
信心の要と思いますので宜しくお願い致します。

2014/07/09


まさき

>・・・この深信は、凡智でなのか、仏智でなのか、それともそれ以外の何かでなのか、・・・

何ですかこれは?

>仏智でなのか

何なんですかこれは?

質問自体に問題アリですが、それはさておき、どうして仏智が身に備わることが前提になって質問しておられるのでしょうか?

獲信=成仏ではありませんよ。
凡夫に仏智が備わるということは有り得ません。

>それともそれ以外の何かでなのか

どうやらゼロさんは、(智慧の名号を“いただく”というくらいだから、何かを“もらえる”のだろう…)と思っておられるようですね。
何か特殊な能力が身に付いて、今まで分からなかった事が分かるようになるのが信後だと思っておられませんか?
信心というものは、そういう何か特殊な能力をもらうようなものではないのです。
そもそも、ゼロさんのそのちっぽけな脳の中だけで理解できるようなことならば、不可称・不可説・不可思議とは言いませんよ。
自分中心に物事を考えている以上、宮田さんの言っておられる事は理解できないと思います。

ちょうどタイムリーなことに、飛雲さんのブログで「法の深信」について説明して下さっているので、まずはそれを良く読んで勉強してみて下さい。

ゼロさんは何かと「日本語能力に問題が…」と嘆いておられますが、日本語が通じないのは高森会長の“珍しき法”を聞き過ぎたゼロさんだけで、他の人達は皆、何不自由なく会話しております。

訳の分からない質問を宮田さんにしては、理解できないと「日本語が通じない!」と逆ギレするのはみっともないので、もうやめておきましょう。

2014/07/09




ナビ

shinrankaiusoさん

あなたもせっかちですね。
せっかくもうすぐゼロさんと宮田さんの議論が始まるというのに。

初めから、「議論が流れに乗ったら答える」と明言しているのですから、
あなたが勝手に「次答えなかったら云々」という権利は全くないのですよ。

まあ、あなたが不安でいっぱいな気持ちもわかりますので、一つ答えておきましょう。

>わかりやすいのが、入正定聚の益。
>現生で正定聚に入ると教えられた七高僧はいませんよ。
>前にも言ったでしょ。
(shinrankaiusoさん自信いっぱいの断言!)

尊号真像銘文16 『真宗聖典』598p

「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。
この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は
「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位と
ひとしとなり。

龍樹菩薩も天親菩薩も教えておられますね。

ご苦労様でした。

正直、shinrankaiusoさんって、ちょっと言葉通じないので、
実りのあるやり取りが期待できないんですよね。

でも一番の理由は、ゼロさんと宮田さんの議論に水をさしてはいけないと思って
いただけです。初めからそう言ってる通りです。

せめてshinrankaiusoさんが日本語レベルのテストに合格できたら、
もうちょっとハイペースでやり取りすることを検討してもいいんですけどね。

試しにいくつか

「自分も他人もほぼ同じレベルでわかります。同じ境地ですから。ですから、親
鸞聖人も他人の往生を断言されています」(shinrankaiusoさん談)

「ほぼ同じレベル」は「違う」ということですよね。
「【完全】平等」じゃなかったんですか?

もし「違う」なら、弥勒菩薩のことと、念仏の衆生のことと、同じレベルでなく
てもおかしくない、というか、そちらの方が自然ではありませんか。
当たり前のことです。
無理やり「完全平等」を持ち出すから、すぐにボロが出るのです。

まず、日本語の勉強から始めましょう!

> >「まさに、本願を信じたら、往生が定まると深信するのです」
>
> だから獲信した人が、浄土往生を深信(無疑心)するんでしょ。
> 獲信した人以外に、誰が深信するの?
>
やっぱりこれには答えられないようですね。

(もちろん、これは疑わないようにした結果、何か分かったという深信では
 ありません。宮田さんの早とちりは物凄いですね!)

他力の信心を獲得しても分からないのなら、なぜ獲信した人は深信してるの?

分かるように説明してみてくださいよ。
多分、ムリですね、理論が破綻していますから。

そもそもあなたは本当に、宮田さんと同じ意見ですか?

阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、と【信じるに過ぎない】

阿弥陀仏のお力によって疑情が晴れ、ツユチリの疑いもなくなった「無疑」

が同じ意味らしいですけど!!

※追い詰められると、shinrankaiusoさん逆切れして、滅茶苦茶な要求
 してきそうですが(笑)、一方的にあなたが何を言おうと、私が承諾する
 理由は何もありませんから、あしからず。



まさきさんへ

> shinrankaiusoさんの質問に答えられるものならば、もうとっくに答えていることでしょう。
> 答えられないから、ひたすら無視するしかないのですよ。
>
残念でした。
前々から答えることは出来ましたが最初から言っている理由で答えなかったまで
です。
やっぱり宮田さんが心配だから、せめて私とのやり取りで挽回しようと試みてい
るのですかね。

> 自信満々に出してきた最初の根拠をアッサリと引っ込めたのも、shinrankaiusoさんに間違いを教えてもらえたからです。

『執持鈔』の根拠?
引っ込めてませんよ。
いよいよ、『執持鈔』の議論が始まりそうなので、触れてないだけです。
そもそもあなた方は、『執持鈔』全5条全部拝読しているのかさえ疑わしく思え
ます。
そんなに長くありませんから、拝読してみてくださいね。
そして、スッキリ矛盾なく拝読できるかどうか。

それから、まさきさんも日本語テストが必要のようですね。

【問】

>「煙幕を張る気などサラサラありません」
>と言われるのなら、少しは宮田さんに答える
>ように勧めてくださいよ。(ナビの言葉)

「煙幕を張る気かああああ?!」(上のナビの言葉を、まさきさんが書き換えた
言葉)

は読んた他人の印象が変わらないと思いますか、変わらないと思いますか。
簡単でいいですから、その理由もつけて答えてください。

あと、いい加減な発言はやめてくださいね(笑)

> ナビ
>
> shinrankaiusoさんへ
>
> なるほど、例え話よく分かりました!
> 有難うございます。

「その後も教えて頂くばかりなのに、お礼の一つもありませんよね」
 (みさきさんの発言)

ま、これは可愛らしいものですけど、気を付けてくださいね☆

宮田さんへ

阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、と【信じるに過ぎない】

阿弥陀仏のお力によって疑情が晴れ、ツユチリの疑いもなくなった「無疑」

と同じ意味だなんて、誰も読めません!
全く納得いきませんね。

もっと真面目にやってください。
真面目にやってるつもりなら、日本語の勉強が本気で必要ですよ。

文句あるなら、誰か弁護してあげてよ(笑)

2014/07/09



id:shinrankaiuso

ナビさんは、私の質問には全く答えることができなかった。

つまり、嘘を言い続けていたことを認めました。

以上終了です。御苦労さまでした。

2014/07/09



id:shinrankaiuso

ついでに教えてあげますよ、嘘付きナビさん。

>龍樹菩薩も天親菩薩も教えておられますね。

ということは、少なくとも曇鸞大師は教えておられない、曇鸞大師と親鸞聖人の知らされたことは違うと認めた訳ですね。

曇鸞大師は異安心だと。でも、親鸞聖人は曇鸞大師は往生されたと仰ってます。
余分なことをいうからボロが出るのですよ。

>「成等覚」といふは正定聚の位なり。

これが現生かと言う話ですが、そんな誤魔化しは通用しませんよ。

>「ほぼ同じレベル」は「違う」ということですよね。
>「【完全】平等」じゃなかったんですか?

私が完全平等と言ったのは、獲信した人が往生するのが完全平等といったのですが。
獲信の知らされ方は、違うと言うことをあなたも認めた通り、曇鸞大師と親鸞聖人は違う訳ですよね。そう私は言いましたけど。

2014/07/09



id:shinrankaiuso

念の為私のコメント

他人が往生できるかどうか、なぜ断言できるのでしょうか?
それは、阿弥陀仏におまかせをした人は、「往生させてみせる」という誓いに間違いが無いから、往生できると信じるのです。そこに自分と他人の区別はありません。なんせ、十方衆生が相手の誓いなのですから。
親鸞聖人は、御自身が本願を信じられた、他の人も本願を信じられた、だったら平等に往生できる、ということが知らされる訳ですね。
世間のことで、完全平等ということはありませんから、世間の例を出したところで、なんの意味もない訳ですよ。

2014/07/09



id:shinrankaiuso

>やっぱりこれには答えられないようですね。

おいおいおいおい、よくそんなことが言えますよね。

私の質問に全く答えていない人間が。
日本語以前の問題でしょうな。

何度でも書いたけど分らないみたいだから、日本語ももちろん問題なのでしょうけど。

法の深信は

阿弥陀仏の本願に疑いがなくなる、ということであって、浄土往生がわかるのではない。しかし、阿弥陀仏は浄土往生を誓われているから、それを信じている。

こういうことですよ。
簡単な話。

2014/07/09



id:shinrankaiuso

ナビさんが、全く反論できないで、誤魔化し続けていること。

A.ゼロさんが自信満々で出した根拠

●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

について

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

B.執持鈔にある親鸞聖人の御言葉からいえることは、

他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

よって結論は、

阿弥陀仏に救われたということは、往生の一大事が分かるのではなく、阿弥陀仏に死後のことをおまかせしたことをいう。
浄土に往けるとか地獄に堕ちるとか決めつけてはいけない。
阿弥陀仏が連れて往って下されるところへ往く。善知識と同じところへ往く。

2014/07/09



やめやめ学徒

ナビさん、まだいたんだ(笑)

ナビさんのウソって分かり易い(笑)

shinrankaiusoさんの言われたことを捻じ曲げてさ、それで騙される人がいる?
いるわけないじゃないの。
やっぱり、アフォだった

2014/07/09



さて

飛雲より

問い

親鸞聖人は、「まことに知んぬ、(中略)念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」(教行信証信巻)と仰っていますから、浄土に往生することがハッキリと知らされることは、間違いないです。

答え

親鸞聖人が仰っていることは、信心獲得した人は臨終と同時に仏のさとりを開くと知らされた、ということです。
ところがこれは七高僧方は仰っていないことです。たとえば曇鸞大師は、「仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。」(浄土論註)とあるように、浄土に往生してから、正定聚に入り、そして仏になるということです。他の方も同じです。
また聖覚法印も、「順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。」(唯信鈔)と言われています。
もし信心獲得したら親鸞聖人が仰ったことをハッキリと知らされるとするなら、七高僧方や聖覚法印は、異安心になりますよ。



どう考えても、曇鸞大師と聖覚法印は来生の正定聚を教えられている。

2014/07/09



id:shinrankaiuso

どうせ答えられないでしょうが、質問しておきます。

新たな質問だから、ゼロさんとは関係無しに答えられる筈。

七高僧が、現生正定聚を教えられた根拠をだしてください。

「現生に」「正定聚」に入る
の両方のキーワードが含まれた根拠ですよ。

一応言っておきますが、親鸞聖人の解釈ではなく、七高僧の原文で。

答えられなければ、また嘘が確定です。

2014/07/09


まさき

【問】
>「煙幕を張る気などサラサラありません」
>と言われるのなら、少しは宮田さんに答える
>ように勧めてくださいよ。(ナビの言葉)

「煙幕を張る気かああああ?!」(上のナビの言葉を、まさきさんが書き換えた言葉)

は読んた他人の印象が変わらないと思いますか、変わらないと思いますか。

何で「変わらないと思いますか」が2回も続くのですか?
それに「読んた」って何ですか?もしかして訛ってんの?
いずれにしろこれで、ナビさんが他人に日本語のテストができる力量など持ち合わせてはおられないことが証明されましたね。ご愁傷さまです。

確かに上と下では、他人が受ける印象は違うと思います。
私はナビさんに「類は友を呼ぶ」と教えて頂き、ナビさんは高森会長と同種の人間なのだと勝手に推測して、意訳してしまいました。

なにしろ高森会長の被害妄想は、すでに達人の域にまで達していますからね。
いつも仮想敵をこしらえては、周りの人間まで巻き込んでは戦い続けています。

その中でも特に本願寺相手の妄想はすさまじく、「“歎異抄をひらく”に対する反論書がまだ出てこないぞ!ヤッタ~、我らの勝利だ~!」と、富山の片田舎で叫んでいるという有様です。
しかし残念ながら、私は退会してから知らされたのですが、本願寺における親鸞会の存在は無きに等しいのです。
「あ~、あの一念覚知の団体ね。」という答えが返ってくればまだいい方なのですよ。

「なぜ生きる2」など、本屋の“新興宗教コーナー”で“生長の家”の隣に並べられております。

「なぜ生きる2」の出版で、親鸞会はとうとう世間からも、もちろん本願寺からも、浄土真宗の異端どころか「他宗教」扱いされることとなったのです。
しかし悲しいかな現実を見ることができない高森会長は、相変わらず今日も「反論書が出なくなってから○○○日!」と悦に入っているので、本当に困ったものです。

「類は友を呼ぶ」ので、ついついナビさんも高森会長のような被害妄想のビビリなのかと思ってしまいました。
え?「あんな、じーさんと同類にするな」?
本当ですよね・・・私もそれには同感です。

2014/07/09


まさき

お礼を『一回だけ』言っておられたのですね。どうも失礼致しました。

でもね、お礼は、何かしていただいたらその都度言うものでちゅよ。
これからはちゃんと言いまちょうね。

それから私は“みさき”ではなく“まさき”です。
ま、これは可愛らしいものですけど、気を付けてくださいね☆

2014/07/09



さて

親鸞聖人は現生正定聚と教えられた。

七高僧は?

もし七高僧の中で、一人でも現生正定聚を教えられていない、順次生正定聚と教えられているとするなら、ナビさん(ゼロさん)の主張は根底から覆る。

再度、七高僧の中で、一人でも現生正定聚を教えられていないなら、ナビさん(ゼロさん)の完敗。

よって、
1.龍樹菩薩が現生正定聚を仰った根拠
2.天親菩薩が現生正定聚を仰った根拠
3.曇鸞大師が現生正定聚を仰った根拠
4.道綽禅師が現生正定聚を仰った根拠
5.善導大師が現生正定聚を仰った根拠
6.源信僧都現生正定聚を仰った根拠
7.法然上人が現生正定聚を仰った根拠

この7つを1つも欠けることなくナビさん(ゼロさん)は示さなければ、おわり。

再々度、七高僧全員の現生正定聚を仰った根拠を出しましょう。
なければ、the end

2014/07/10



id:shinrankaiuso

さてさんのアドバイスも入れて、質問をし直します。

親鸞聖人は、現生正定聚で、それを
「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」とまことに知らされた、と仰っています。
一方で、親鸞聖人は七高僧は、往生された方と仰っています。

ならば、七高僧現生正定聚を仰った根拠をすべて出してください。

1.龍樹菩薩が現生正定聚を仰った根拠
2.天親菩薩が現生正定聚を仰った根拠
3.曇鸞大師が現生正定聚を仰った根拠
4.道綽禅師が現生正定聚を仰った根拠
5.善導大師が現生正定聚を仰った根拠
6.源信僧都現生正定聚を仰った根拠
7.法然上人が現生正定聚を仰った根拠

1つも欠けることなく、全部です。1つでも欠けていれば、ナビさんの矛盾で終了です。

<参考>

それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。(大経)

釈尊の仰った通りに七高僧は教えられていますが。

2014/07/10


まさき

あれ?
まだゼロ(ナビ)さんは、お出ましにならないのですか?
そろそろ一人二役に疲れてきちゃったのかな?こちらは元気一杯なのですが(笑)。

ゼロ(ナビ)さん、早く「獲信したら智慧の名号がいただけるので、仏智が得られる。」のところについて話し合いましょう!

2014/07/10


ゼロ

ゼロから宮田さんへ(7月9日A)

ハッキリ言っておきます。
宮田さんの言葉づかいは滅茶苦茶です。
これでは、議論になりません。

> >浄土往生は、凡夫に分かる訳がない。
> >分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
> >自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
> >と【信じるに過ぎない】。これを【無疑】という。
>
上記の言葉は、以前ハリケーンさんが使った言葉をほぼそのまま採用したもので
す。

しかもこの言葉は、宮田さんが、サイクロンさんとのやり取りを整理してエント
リーした時にも採用した言葉です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

覚書にも毎回あげてきた言葉で、これまで何の訂正もなされませんでし
た。

ところが今回、改めて確認してみると次のような返答でした。

> 気になるところを上げると
> 1・仰せを信じている→自力の信心であるように読める文章
> 2・浄土に往くに【違いない】→思い込みに読める文章
> 3・と【信じるに過ぎない】→前段を受けてだと、思い込んでいるに過ぎないと読める。
               (宮田さんの返答)

そして、この作文は気に入らないからと書き直した文章と、その意味は下記のも
のです。( )内はあとで確認し、宮田さんが返答した内容です。

>浄土往生は、凡夫が分かる性質のものではない。なぜなら本願の領域の
>ことであるからである。
>しかし、阿弥陀仏の本願は本願を信じ(疑情が晴れた無疑)念仏するものを必ず浄土に生まれさせる
と仰せであるから、
>それを聞いて疑い無ければ(疑情が晴れた無疑)本願の通りになる。
阿弥陀仏の本願とそれを説かれた、釈尊はじめ高僧方の仰せを信じるほかになにもない(疑情が晴れた無疑)。
>これを無疑(仏願の生起本末を聞いて疑心あることない事)と言う。

(※最後の「無疑」だけ「仏願の生起本末を聞いて疑心あることない事」ですが、
  これは「疑情が晴れた無疑」とどう違うのでしょう?)

一体どうしたら、この二つの文章が同じ意味と読めますか?
少なくとも、読んだ人が、この二つの文章が同じだと思うと、本気で思っているのですか?

今、「無疑」を中心に議論がなされているのですよ。
わざと相手が誤解するような言葉を採用しているのですか?
自分でも書いているように、「違いないと信じるに過ぎない」は、「思い込み」としか読めないではないですか。

今頃、こんな訂正がぬけぬけとなされた時点で、「主張を変えた宮田さんの負け」
と判定されても文句がいえないほどひどい状態ですよ。

さらに、

>「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

>ということでしょうか?(ここまでが私の質問)
ーーー
>それが、三随順ということです。(宮田さんの答え)

と、あなたは

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」=「三随順」

という理解をしています。
上記の内容と合わせて考えると、一体、何が宮田さんの本当の主張か分かりません。

この「お聖教にあるから信じます」も「お聖教にあるから無疑です」という意味ですか?


以前も、

>「確信」の語義が問題になっているのではない

について、

そんなことは書いていない。私は、こう書いた。
ーーー
また「確信」の語義が問題になっているのではなくて、
もともとは「確信があるはずだという前提の認識」が問題と私は考えています。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c1336968947
ーーー

と言っていますが、どう見ても

「確信の語義が問題になっているのではない」と書いていますが……。


宮田さん以外の方でも結構です。
誰か分かるように説明してもらえませんか?

誰も出来なければ、誰も理解できてない=宮田さんの文章はおかしい、と理解し
ます。

前回のコメントにも

>ハッキリするとは、私の「ハッキリしたこと」を挟まねば本願は信じられない
という態度です。
>何かハッキリしなければ、南無阿弥陀仏が往生の業だととても信じられないと
いう考えなのではないです?(※最後に「か」の一字が入るのでしょうね)

とありましたが、そんなことは全く思っていません。
勝手に妄想しないでください。

獲信した人=「浄土往生させると誓われた弥陀の本願」に疑い晴れた人=「浄土往生」に疑い晴れた人

ではないのですか?
そうでないのなら、分かるように説明してください。

(※以前「→」を入れただけで、「何かを挟まねば信じられないという考え」という宮田さんの飛躍しすぎの論理がありましたが、そうい
う意味で「→」は使っていません。獲信した人の心の動きではなく、他人に説明するために使ったものです。
 今回「=」にしたのはそういう誤解を避けるためです。
 「=」は「→」の意味で使われているとか、バカなことは今度こそいわないようにしてもらいたいものです。
 心を理解してもらえるとありがたいのですが)

2014/07/10


議論の相手を日本語が分からない者というゼロさん

ゼロ

ゼロから宮田さんへ(7月9日A)

ハッキリ言っておきます。
宮田さんの言葉づかいは滅茶苦茶です。
これでは、議論になりません。

> >浄土往生は、凡夫に分かる訳がない。
> >分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
> >自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
> >と【信じるに過ぎない】。これを【無疑】という。
>
上記の言葉は、以前ハリケーンさんが使った言葉をほぼそのまま採用したもので
す。

しかもこの言葉は、宮田さんが、サイクロンさんとのやり取りを整理してエント
リーした時にも採用した言葉です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

覚書にも毎回あげてきた言葉で、これまで何の訂正もなされませんでし
た。

ところが今回、改めて確認してみると次のような返答でした。

> 気になるところを上げると
> 1・仰せを信じている→自力の信心であるように読める文章
> 2・浄土に往くに【違いない】→思い込みに読める文章
> 3・と【信じるに過ぎない】→前段を受けてだと、思い込んでいるに過ぎないと読める。
               (宮田さんの返答)

そして、この作文は気に入らないからと書き直した文章と、その意味は下記のも
のです。( )内はあとで確認し、宮田さんが返答した内容です。

>浄土往生は、凡夫が分かる性質のものではない。なぜなら本願の領域の
>ことであるからである。
>しかし、阿弥陀仏の本願は本願を信じ(疑情が晴れた無疑)念仏するものを必ず浄土に生まれさせる
と仰せであるから、
>それを聞いて疑い無ければ(疑情が晴れた無疑)本願の通りになる。
阿弥陀仏の本願とそれを説かれた、釈尊はじめ高僧方の仰せを信じるほかになにもない(疑情が晴れた無疑)。
>これを無疑(仏願の生起本末を聞いて疑心あることない事)と言う。

(※最後の「無疑」だけ「仏願の生起本末を聞いて疑心あることない事」ですが、
  これは「疑情が晴れた無疑」とどう違うのでしょう?)

一体どうしたら、この二つの文章が同じ意味と読めますか?
少なくとも、読んだ人が、この二つの文章が同じだと思うと、本気で思っているのですか?

今、「無疑」を中心に議論がなされているのですよ。
わざと相手が誤解するような言葉を採用しているのですか?
自分でも書いているように、「違いないと信じるに過ぎない」は、「思い込み」としか読めないではないですか。

今頃、こんな訂正がぬけぬけとなされた時点で、「主張を変えた宮田さんの負け」
と判定されても文句がいえないほどひどい状態ですよ。

さらに、

>「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

>ということでしょうか?(ここまでが私の質問)
ーーー
>それが、三随順ということです。(宮田さんの答え)

と、あなたは

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」=「三随順」

という理解をしています。
上記の内容と合わせて考えると、一体、何が宮田さんの本当の主張か分かりません。

この「お聖教にあるから信じます」も「お聖教にあるから無疑です」という意味ですか?


以前も、

>「確信」の語義が問題になっているのではない

について、

そんなことは書いていない。私は、こう書いた。
ーーー
また「確信」の語義が問題になっているのではなくて、
もともとは「確信があるはずだという前提の認識」が問題と私は考えています。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c1336968947
ーーー

と言っていますが、どう見ても

「確信の語義が問題になっているのではない」と書いていますが……。


宮田さん以外の方でも結構です。
誰か分かるように説明してもらえませんか?

誰も出来なければ、誰も理解できてない=宮田さんの文章はおかしい、と理解し
ます。

前回のコメントにも

>ハッキリするとは、私の「ハッキリしたこと」を挟まねば本願は信じられない
という態度です。
>何かハッキリしなければ、南無阿弥陀仏が往生の業だととても信じられないと
いう考えなのではないです?(※最後に「か」の一字が入るのでしょうね)

とありましたが、そんなことは全く思っていません。
勝手に妄想しないでください。

獲信した人=「浄土往生させると誓われた弥陀の本願」に疑い晴れた人=「浄土往生」に疑い晴れた人

ではないのですか?
そうでないのなら、分かるように説明してください。

(※以前「→」を入れただけで、「何かを挟まねば信じられないという考え」という宮田さんの飛躍しすぎの論理がありましたが、そうい
う意味で「→」は使っていません。獲信した人の心の動きではなく、他人に説明するために使ったものです。
 今回「=」にしたのはそういう誤解を避けるためです。
 「=」は「→」の意味で使われているとか、バカなことは今度こそいわないようにしてもらいたいものです。
 心を理解してもらえるとありがたいのですが)

2014/07/10




ゼロ

ゼロから宮田さんへ(7月9日B)

あまりにもひどいので今回もコメントを二つに分けました。

先のコメントのように、宮田さんは独特の言葉遣いをしているので議論がすれ違うばかりです。

お互い、親鸞聖人の本当の教えを明らかにしようとしているのですから、もっとしっかりしてください

もう一度ハッキリ言っておきます。

あなたの説明は分かりにくい。

これでは、一つの答えが明らかになっても
「私はそういう意味でその言葉は使ってませんでした」
と、言ってのけそうなので、一体、どういう意味で言葉を使っているのか、一体、
どういう主張なのか、今一度ハッキリさせたいと思います。

そうでないと、どれだけ議論を交わしても、時間が過ぎていくばかりです。

どうすれば、議論がかみ合うか色々悩み、以下の質問を考えてみました。

【問1】

『執持鈔』の、

「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべから
ず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへ
ゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、

たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。

このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。
しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨の
ことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一
定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。

たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因
ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、
さらにくやしむおもひあるべからず」

というお言葉の中に、

「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず」

とは、

「私の心は、浄土へ参るか、地獄へゆくか、定まっていない」

という意味だと理解していますか?

イエスか、ノーか、その理由も述べてください。

【問2】

「信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と法然上人は仰っておられます。
法然上人は、浄土往生に疑い晴れておられないけれど、こう仰った。

イエスか、ノーか、その理由も述べてください。

【問3】

もし【問1】と【問2】の答えが共通していなければ(共に「ノー」もしくは共
に「イエス」でなければ)、二つが矛盾しない理由を説明してください。
また、私が誤解していると思われることがあれば、書いてください。

【問4】

「獲信しても死後どうなるかは定まっていない。お師匠さまと同じところにいく
にすぎない。つまり、死後は、地獄やら極楽やら餓鬼道やら定まっていない」

イエスか、ノーか、

イエスなら

「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、【みな浄土に
往生すべきこと、さらに疑なし】」

と、どうして矛盾しないのか、その理由も述べてください。


今度こそ、あなたの主張をハッキリさせてください。
そして、言葉の意味として私が勘違いしているだろうというところがあれば、教えてください。

お互い、単語の意味くらい、共通認識の上でやりとりをしましょう。

過去の例でいえば、「ハッキリ」「分かる」「確信」などは、あなたと私の言葉
は違う意味で使われていたと思います。
いつまでも、そんな定義のことで議論が進まないようではお互い何をやっている
か分かりません。

一度リセットして、こういう意味ですと明らかにし、その共通言語のもとで議論を交わしましょう。

2014/07/10




ゼロ

■(覚書)宮田さんが明言していること。

【1】

他力・・・阿弥陀仏にすべてお任せ
     (経典・お聖教の通りに師と共に往生できると【信じている】)
異安心・・・浄土に往けるチケット(信心)を持っている
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【2】

 地獄も浄土も、凡夫に分かる訳がないのです。
 分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
 自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
 と【信じるに過ぎない】。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【3】

真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?(ここまでが私の質問)
ーーー
>それが、三随順ということです。(宮田さんの答え)

【4】

獲信しても死後の世界については何もわからない、曖昧。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336675469

【5】

「よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
と言われているのが無疑と言うことです。
私が「信ずるに過ぎない」と書いたのはそのことです。
自らに釈尊法然聖人のようの智慧はないから、その方の仰せを疑い無く
受け入れているだけであるということです。
そこには、ご自身を煩悩具足の凡夫と仰った親鸞聖人の御心が窺えます。

【6】

真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、
まさに無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証・信巻末)
http://goo.gl/za4hbw

これは、親鸞聖人が「真実の教」でいわれる釈尊の大無量寿経の内容を知らされたということです。

【7】

「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」

【8】

無疑とは、御消息でいうと「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば
極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」ことに疑い無いこと。
本願の上で、浄土往生は決まっているのであって、自分の手元で「いつ死んでも
極楽往生間違いなし」と言うものではない。

【9】

「信心獲得の確信(機辺の決定心)をも否定」というのは、本願に疑い晴れた
信心獲得をしたということがあるという自覚(自覚というのもいろいろ問題ある
言い方ですが)の意味で「信心獲得の確信(機辺の決定心)」と言われている。
信心は機の上でいう言葉だから、確信という言葉を使うことが悪いとは言わない
。(言い方によってはまた誤解を生むかもしれない)。
本願に疑いないというのは、信心獲得の上ではいつでも疑い無いが、
往生浄土については「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひ
とすぢに如来にまかせたてまつるべし」ということ。

【10】

二種深信はを経釈に則って表されたものだから、
「さすがは善導大師だなあ」と聞いておけばよい。

【11】7月7日

「実際に機も法も疑いなく知らされるものではない」
の一文は、二種深信の説明としては不十分。
「二種深信=真実信心=無疑心」だから、「機も法も」と二つに分解して言うも
のでは無い。
本願を聞いて疑い無い(無疑心)の信相を書かれたのが二種深信。
機と法と、分けることができない。
文章としては機法ともに無疑というのが二種深信となる。

【12】7月8日

 浄土往生は、凡夫が分かる性質のものではない。なぜなら本願の領域のことで
あるからである。
 しかし、阿弥陀仏の本願は本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせると仰せであるから、それを聞いて疑い無ければ本願の通りになる。
 阿弥陀仏の本願とそれを説かれた、釈尊はじめ高僧方の仰せを信じるほかになにもない。
 これを無疑と言う。

【13】7月8日

他力の信心は、本願を聞いて疑心あることないそれだけのことであって、自分になにか智慧が身に付くものでは
ない。

【14】7月8日

仏願の生起本末を聞いて疑心あることないだけであって、私の中になにかが「立つ」ようなイメージは間違い。

【15】

「獲信しても死後どうなるかは分からず、お師匠さまと同じところにいくにすぎない。
つまり、死後は、地獄やら極楽やら餓鬼道やらハッキリしない。
だから、「浄土往生がハッキリする」わけではない」

【16】

本願に疑い晴れて、それだけですか?と言われているようですが、「浄土往生が凡夫にハッキリする」の説は間違いだと言っているだけです。
法を聞けば有り難いの思いも起きますし、本願のいわれを知り、疑いないという意味での三忍はあります。

2014/07/10





ゼロ

■浄土往生が無疑と仰っているお言葉
 (ほんの一例です)

『末灯鈔』12

この身は、いまは、としきはまりて候へば、【さだめてさきだちて往生】し候はんずれば、【浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふ】べし。
 

『末灯鈔』13 

まことの信心の定まることは、釈迦・弥陀の御はからひとみえて候ふ。
【往生の心に疑なくなり候ふ】は、摂取せられまゐらするゆゑとみえて候ふ。

信心の定まると申すは摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位
にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべし

『御臨末の御書』

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す

『執持鈔』

われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶ

『御文章』五帖目二通

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、【後世をしるを智者】とすといへり。

このゆゑにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行をすてて、
一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、
十人も百人もみなともに【弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目四通

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、【みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし】。

『御文章』五帖目六通

ただ一念に弥陀をたのむ衆生は【みなことごとく報土に往生すべきこと、
ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目二十二通

われらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、【極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし】。

他多数

2014/07/10





id:shinrankaiuso

ナビさん、いやゼロさんでしたね、理解できないの連発で誤魔化せると思う所が浅はかです。

>獲信した人=「浄土往生させると誓われた弥陀の本願」に疑い晴れた人=「浄土往生」に疑い晴れた人

>ではないのですか?
>そうでないのなら、分かるように説明してください。

何回も私が説明した通りですよ。

獲信した人=「浄土往生させると誓われた弥陀の本願」に疑い晴れた人=「浄土往生」が分るのではないが阿弥陀仏にお任せをした人

こういうこと。

たとえでも書いたでしょう。

200年前にアメリカがどんな国か知らなかった日本人が、アメリカとはこんな国だと説明を受けていて、この船に乗ったならアメリカに行けると船長が言っていたとします。
その船長を信じて船に乗った、これが本願を信じたと言うことです。船長の言葉に無疑になった状態です。しかし、船に乗ったからと言ってアメリカが見えるようになったわけでもないし、アメリカに確実に行けることがわかるようになったのでもありません。
わかるのは、この船に乗った人は皆、同じ所にしか行けないということだけです。

これが執持鈔の御言葉の意味。

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

船長を教えてくれた恩人に騙されて太平洋の孤島に連れて行かれても、その恩人と共に孤島にいくだけ。

アメリカに着いて初めてアメリカがどんなところかわかるのですね。

2014/07/10





id:shinrankaiuso

質問に答えてください。

親鸞聖人は、現生正定聚で、それを
「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」とまことに知らされた、と仰っています。
一方で、親鸞聖人は七高僧は、往生された方と仰っています。

ならば、七高僧現生正定聚を仰った根拠をすべて出してください。

1.龍樹菩薩が現生正定聚を仰った根拠
2.天親菩薩が現生正定聚を仰った根拠
3.曇鸞大師が現生正定聚を仰った根拠
4.道綽禅師が現生正定聚を仰った根拠
5.善導大師が現生正定聚を仰った根拠
6.源信僧都現生正定聚を仰った根拠
7.法然上人が現生正定聚を仰った根拠

1つも欠けることなく、全部です。1つでも欠けていれば、ナビさんの矛盾で終了です。

<参考>

それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。(大経)

釈尊の仰った通りに七高僧は教えられていますが。

2014/07/10





まさき

ゼロさん、苦しんでおられますね。
親鸞会では、ゼロさんのように聞き開けずに苦しんでおられる方が、まだまだ沢山おられるんでしょうね。
本当に胸が痛みます・・・。

>獲信した人=「浄土往生させると誓われた弥陀の本願」に疑い晴れた人=「浄土往生」に疑い晴れた人

ではないのですか?

違います。
大切な事が抜けています。
『念仏』です。

獲信した人=「念仏する者を浄土往生させると誓われた弥陀の本願」に疑い晴れた人=自分の口から出ている「南無阿弥陀仏」が、「われにまかせよ、そのまま救う。」と呼び続けておられる阿弥陀仏の御声であることに疑いがなくなった人であって、死後どこに行くのかは凡夫の智慧では分からない。あくまでも行く先は、阿弥陀仏まかせである。

獲信して知らされることは、ただ『念仏のみぞまこと』ということだけです。

2014/07/10





まさき

“船に乗ったら船頭まかせ”な様に、後生も“弥陀まかせ”です。

凡夫の浅智慧で、後生の行き先など分かるはずがありません。
『後生を阿弥陀仏にまかせきった人』を『念仏者=信心(無疑心)の行者』と言います。

2014/07/10





まさき

>お互い、単語の意味くらい、共通認識の上でやりとりをしましょう。

何でこんなに分かって頂けないのでしょうかね。
「無疑」を“単語の意味くらい”と言ってのけるところが恐ろしい・・・。
だから私はずっと、未信のゼロさんでは、このテーマで法論するのは無理です!と申し上げてきたのです。

「無疑=真実信心」が、獲信者と未信者の“共通言語”にできるはずがないことくらい誰だって分かるはずなのに、グチャグチャグチャグチャと時間かせぎばかりして、
いつまでも無いものねだりして駄々をこねるのもいい加減にして下さい!!

いいですか?よ~く聞いて下さいよ。

「無疑」の意味が分かるのは、『信後』です。
未信の人と「無疑」を共通言語にするのは不可能です。
どうしても「無疑」を共通言語にしたかったら、獲信してから出直してきて下さい。

それでも、どうしても今回のテーマで法論したいと言うのなら「獲信したら浄土往生できることが分かる智慧を得ることができるのか?」というところで話し合うしかないですね。

最後にもう一度言っておきますが、「無疑」を未信の人との『共通言語』にするのは無理です。
釈尊はじめ高僧方、そして親鸞聖人のご一生も「無疑=真実信心」をお伝えする為の御苦労だったのです。
親鸞会の邪義しか聞いてないので、ゼロさんはいつまで経っても肝心なことすら理解できないでいることに、まだ気付かないのですか?

2014/07/10





まさき

文章が一部抜けましたので、訂正致します。

【誤】
ゼロさんはいつまで経っても肝心なことすら理解できないでいることに、まだ気付かないのですか?

【正】
ゼロさんはいつまで経っても肝心な『無疑=南無阿弥陀仏』を言葉だけで説明するのは無理だということすら理解できないでいることに、まだ気付かないのですか?

言葉で説明し切れないものでも、言葉で説明していくしかありません。

ただ、私が強調して申し上げていることは、未信の人との「共通言語」にするのは無理だということです。
信後の世界を頭の中で想像するしかない人との間では、どうしても「無疑」にズレが生じます。そこにはどうしても越えることのできない壁が存在するのです。一念を突破した者にしか分からない世界が、「他力の世界」です。

ですからサイクロンさんとのやり取りのズレも、サイクロンさんが未信だった為と思われます。

2014/07/10




id:shinrankaiuso

嘘付きナビさんへ

これって、現生正定聚のことなの?

安楽集より

安楽国に往生して正定聚に入ることを得ずといふはこの事しからず。

ここに命断ゆる時は、すなはちこれ安楽国に生ずる時なり。 一たび正定聚に入れば、さらになんの憂ふるところかあらん。

一たびかの国に到ればすなはち正定聚に入りて

道綽禅師は入正定聚の益を自覚されていないから異安心というのが、ナビさんの主張ですか?でも親鸞聖人は、道綽禅師の往生を間違いないとされてますけど。

2014/07/10

ナビさんが突如として謎の勝利宣言

ナビ

やれやれ、困った人たちですね。

>わかりやすいのが、入正定聚の益。
>現生で正定聚に入ると教えられた七高僧は【いませんよ】。
>前にも言ったでしょ。
(shinrankaiusoさん自信いっぱいの断言!)

尊号真像銘文16 『真宗聖典』598p

「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。
この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は
「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位と
ひとしとなり。

shinrankaiusoさん「現生で正定聚に入ると教えられた七高僧は【いませんよ】」

答え:おられます

★★★ shinrankaiusoさん一撃で完敗! ★★★

 ほんとに「分かりやすい」間違いですね。
 こんなに鮮やかに一撃で完敗する人も珍しい。

shinrankaiusoさん: 「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念
の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。

答え:仰っておられます

尊号真像銘文16 『真宗聖典』598p

「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。
この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は
「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位と
ひとしとなり。

★★★ shinrankaiusoさん一撃で二度目の完敗! ★★★

しかも、間違いを破られたことにも気づかないお粗末さ。

ひょっとしたら、ここまで言っても、なぜ尊号真像銘文のお言葉が答えか分から
ないかもしれませんね。自分で勉強してみてください。


>
> >龍樹菩薩も天親菩薩も教えておられますね。
>
> ということは、少なくとも曇鸞大師は教えておられない、曇鸞大師と親鸞聖人の知らされたことは違うと認めた訳ですね。
>
> 曇鸞大師は異安心だと。でも、親鸞聖人は曇鸞大師は往生されたと仰ってます。
> 余分なことをいうからボロが出るのですよ。
(shinrankaiusoさんの精一杯の強がり発言)

> 曇鸞和尚は
> 「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位と
> ひとしとなり。

shinrankaiusoさん「曇鸞大師は教えておられない」

答え:教えておられます

★★★ shinrankaiusoさん三度目の完敗! ★★★

 よほどあわてていたのでしょうね。
 ちょっとひねって、あえて天親菩薩のお名前を出したら、見事
 取り間違えて、恥をかきました。
 本当は、ここで突っ込んでもらって、浄土論と浄土論註の説明を
 しようかと思いましたが、まさかこんなに派手にずっこけるとは
 想像も及びませんでした。

 私は、一撃で、3回も完敗する人をいまだ見たことがありません。

さてさん:その1

> 「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と仰った七高僧はいない。
> 七高僧は、浄土に往生してから菩薩となりそこで修行して大般涅槃を超証すと仰っている。
> ということは、親鸞聖人と七高僧とは知らされた内容が違うと言うこと。
>
> どういうことでしょうかね。★七高僧は、「大般涅槃を超証す」とは知らされていない。
> 正定聚も浄土に往生してからと、七高僧は仰っている。★
> 七高僧は、親鸞聖人と信心が違うのか?
>
> 少し考えれば分かりそうなもの。

さてさん「七高僧は、「大般涅槃を超証す」とは知らされていない。
      正定聚も浄土に往生してからと、七高僧は仰っている」

答え:現生正定聚もおっしゃっています

★★★ 宮田さんシンパ四度目の完敗! ★★★

さてさん

> 最後の入正定聚の益は、七高僧は死後に往生してから得られるものと教えられてきたのだから。
>
> 詰めが甘いのではなく、攻め自体が甘いから、詰めのところまで至っていないんだよ。
>

答え:「現生正定聚も教えておられます」

★★★ 宮田さんシンパ五度目の完敗! ★★★

 あなたの場合、攻めが甘いというより、単に間違っているだけです。


>
> >「成等覚」といふは正定聚の位なり。
>
> これが現生かと言う話ですが、そんな誤魔化しは通用しませんよ。
  (shinrankaiusoさんの悪あがき)

答え:
> 「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。(正信偈大意)

★★★ shinrankaiusoさん四度目の完敗! ★★★
★★★ 宮村さんシンパ六度目の完敗! ★★★

 まったく正気の沙汰とは思えませんね。
 「これが現生か」(shinrankaiusoさん談)ですって?
 現生に決まっているでしょう。

「これを平生業成とは申すなり」
「されば正定聚といふは不退の位なり」
「これはこの土の益なり」

 これでもかと言われんばかりに「現生」と蓮如上人は御教示です。

 「そんな誤魔化しは通用しませんよ」(shinrankaiusoさん談)

 蓮如上人に対して失礼な方ですね!
 こんなにハッキリ教えておられるのに、何が誤魔化しですか。
 あなたが誤魔化そうと必死になっているのでしょう。

 
親鸞聖人が七高僧方の御心を私たちに教えてくださったのですから、
それ以上に何がありますか?

あなたは親鸞聖人以上に、七高僧の御心が分かるとでも?

なお日本語の理解が心配なshinrankaiusoさんに問題です。

【問い】

「現生で正定聚に入ると教えられた七高僧は【いませんよ】」

とはどちらの意味になるでしょうか?

(a) 「現生で正定聚に入ると教えられた七高僧は【一人も】いませんよ」
(b)「現生で正定聚に入ると教えられた七高僧は【全員ではありません】よ」

さて、どちらでしょう?
ものすごく簡単ですね。
期限は、次回のコメントまで!

分からなかったら、答えなくてもいいですよ。
無回答をもって、分からなかったと理解いたします。

※ここも本当は「おられません」とすべきでしょう。
 あなたの七高僧に対する思いがここからも現れています。
 ただし、原文が「いません」でしたので、心苦しい思いはありましたが
 そのままにしておきました。
 shinrankaiusoさんは、七高僧にお詫びしてもらいたいものです。

この他にも全然ロジカルでない言いがかりがあったのですが、
あまりにもひどいものが多いために、今回は割愛しておきます。
出来れば自分で気づいて取り下げてもらいたいものです。
恥の上塗りをしないようにね。

あと、言っておきますけど、七高僧の死後の正定聚の根拠をどれだけ
出しても無駄ですよ。
もちろん、その理由は説明できますが、親鸞聖人の教えを間違って
おりながら謝罪どころか、一層、ひどい言葉づかいでののしる
礼儀知らずに、これ以上、時間を割くことは出来ませんので悪しからず。

あなた方以外に、答えることがもしかしたらあるかもしれませんけどね。

さて、

shinrankaiusoさんは、悪口と強がりを繰り返しながらも、

一撃で一気に五回も【完敗】し、さてさんも二回も【完敗】し、

宮田さんシンパは一度に【七回】も【完敗】しました。

親鸞聖人の教えを間違っていたのです。

み教えの尊さが、もし少しでも分かるなら、罪の重さもしられましょう。

ですが、あなた方から一度も謝罪も反省もありません。

私にはなくても、聖人や七高僧にあってしかるべきではありませんか?

shinrankaiusoさんは、ド派手に完敗しても認めないだろうし、
議論するだけ時間の無駄だと途中で思っていたのですが、
一つだけ答えてあげたら、この有様ですからね。

少なくとも誠意あるお詫びがなければ、あなたからの問いかけは
無視します。
(もちろん、答えなかったら、私の負けとか、ふざけたことも
 無視します。どうぞ勝手に一人で喜んでください。
 とっても寒々とした、虚しい、空よろこびとなることでしょう)

目に余ることがあれば、ひょっとしたらこちらから何かいうことが
あるかもしれませんが、それは一方通行といたします。

当然でしょう?
間違ったらお詫びする。
人間として当たり前のことです。

2014/07/11




ナビ

ちょっと修正

あなた方の間違いを途中で一つは免除してあげたから、最終的なものは、

hinrankaiusoさんは、悪口と強がりを繰り返しながらも、

一撃で一気に4回も【完敗】し、さてさんも二回も【完敗】し、

宮田さんシンパは一度に【6回】も【完敗】しました。

2014/07/11




ナビ

あと心配なのは、宮田さんが逃亡しないかってことですね。

サイクロンさんの時も、途中でコメントを削除したり、最後、強引に終わらせてしまったし。

もう、ゼロさんの質問にも答えられないんじゃないかな。
この予想ははずれてくれるとうれしいんですけどね。

2014/07/11


ナビさんの勝利宣言は否定される

id:shinrankaiuso

ナビさん、やっぱり答えられない。
お粗末。

質問に答えてください。

親鸞聖人は、現生正定聚で、それを
「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」とまことに知らされた、と仰っています。
一方で、親鸞聖人は七高僧は、往生された方と仰っています。

ならば、七高僧現生正定聚を仰った根拠をすべて出してください。

1.龍樹菩薩が現生正定聚を仰った根拠
2.天親菩薩が現生正定聚を仰った根拠
3.曇鸞大師が現生正定聚を仰った根拠
4.道綽禅師が現生正定聚を仰った根拠
5.善導大師が現生正定聚を仰った根拠
6.源信僧都現生正定聚を仰った根拠
7.法然上人が現生正定聚を仰った根拠

1つも欠けることなく、全部です。1つでも欠けていれば、ナビさんの矛盾で終了です。

<参考>

それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。(大経)

釈尊の仰った通りに七高僧は教えられていますが。

2014/07/11



id:shinrankaiuso

では少しだけナビさんの嘘を暴きましょう。

>①

>>わかりやすいのが、入正定聚の益。
>>現生で正定聚に入ると教えられた七高僧は【いませんよ】。
>>前にも言ったでしょ。
>(shinrankaiusoさん自信いっぱいの断言!)


>尊号真像銘文16 『真宗聖典』598p

>「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。
>この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は
>「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位と
>ひとしとなり。


>shinrankaiusoさん「現生で正定聚に入ると教えられた七高僧は【いませんよ】」

>答え:おられます

おられません。これは、親鸞聖人が、本来とは違い解釈をせられたということ。
だから、七高僧の御言葉を出すように言っても、出せない訳ですね。

>②

これも①と同じ。

>③
>>
>> >龍樹菩薩も天親菩薩も教えておられますね。
>>
>> ということは、少なくとも曇鸞大師は教えておられない、曇鸞大師と親鸞聖人の知らされたことは違うと認めた訳ですね。
>>
>> 曇鸞大師は異安心だと。でも、親鸞聖人は曇鸞大師は往生されたと仰ってます。
>> 余分なことをいうからボロが出るのですよ。
>(shinrankaiusoさんの精一杯の強がり発言)

>> 曇鸞和尚は
>> 「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位と
>> ひとしとなり。

>shinrankaiusoさん「曇鸞大師は教えておられない」

>答え:教えておられます

教えておられません。

「仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。」(浄土論註)

死後に浄土往生してから正定聚に入るとしか仰っていない訳ですね。
それを踏まえられた上で親鸞聖人が、現生のこととして敢えて解釈をせられた。

親鸞聖人が、敢えて意味を変えられた。
親鸞会でも有名な「外に賢善精進の相を…」と同じようにね。

>④

>さてさん:その1

>> 「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と仰った七高僧はいない。
>> 七高僧は、浄土に往生してから菩薩となりそこで修行して大般涅槃を超証すと仰っている。
>> ということは、親鸞聖人と七高僧とは知らされた内容が違うと言うこと。
>>
>> どういうことでしょうかね。★七高僧は、「大般涅槃を超証す」とは知らされていない。
>> 正定聚も浄土に往生してからと、七高僧は仰っている。★
>> 七高僧は、親鸞聖人と信心が違うのか?
>>
>> 少し考えれば分かりそうなもの。

>さてさん「七高僧は、「大般涅槃を超証す」とは知らされていない。
>      正定聚も浄土に往生してからと、七高僧は仰っている」

>答え:現生正定聚もおっしゃっています

仰っていません。
①から③までと同じ。

>⑤

>さてさん

>> 最後の入正定聚の益は、七高僧は死後に往生してから得られるものと教えられてきたのだから。
>>
>> 詰めが甘いのではなく、攻め自体が甘いから、詰めのところまで至っていないんだよ。
>>

>答え:「現生正定聚も教えておられます」

教えておられません。

>⑥
>>
>> >「成等覚」といふは正定聚の位なり。
>>
>> これが現生かと言う話ですが、そんな誤魔化しは通用しませんよ。
>  (shinrankaiusoさんの悪あがき)

>答え:
>> 「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。(正信偈大意)

何度も言うが、七高僧がどう教えられたかの話。
七高僧が教えられたことを親鸞聖人が読み替えをされたということ。
真宗では超超常識。

2014/07/11





id:shinrankaiuso

さて、七高僧の御言葉は、1つとして出せなかった訳ですね。

こちらの問いは、【七高僧の御言葉】

必死に誤魔化そうとしていますが、【七高僧の御言葉】は皆無。

正定聚の話を簡単にね。

11願と11願成就文で

信楽⇒往生⇒正定聚⇒成仏

こう教えられている訳。
七高僧もその通りに教えられた。
よって、現生正定聚というお考えはない訳ですよ。

ではなぜ親鸞聖人は現生正定聚を仰ったのか。

これは
信楽を獲て往生が定まるので、現生での往生を定義された訳。そして臨終に本当の往生となる。

ここで、現生での往生の後に敢えて現生の正定聚を持ってこられた訳ですよね。

つまり親鸞聖人は、

信楽(現生往生)⇒正定聚⇒(本来の)往生⇒成仏

と変えられたのですよ。

だから、親鸞聖人が七高僧の御文を引かれてもそれを本来の意味と違えて解釈されているので、【七高僧の御言葉】とわざわざ書いた訳。

簡単な話ですけど、必死に必死に必死に必死に必死に誤魔化しているのが、みっともない。

結局何一つ答えることができなかったで、完全終了。

質問に答えてください。

親鸞聖人は、現生正定聚で、それを
「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」とまことに知らされた、と仰っています。
一方で、親鸞聖人は七高僧は、往生された方と仰っています。

ならば、七高僧現生正定聚を仰った根拠をすべて出してください。

1.龍樹菩薩が現生正定聚を仰った根拠
2.天親菩薩が現生正定聚を仰った根拠
3.曇鸞大師が現生正定聚を仰った根拠
4.道綽禅師が現生正定聚を仰った根拠
5.善導大師が現生正定聚を仰った根拠
6.源信僧都現生正定聚を仰った根拠
7.法然上人が現生正定聚を仰った根拠

1つも欠けることなく、全部です。1つでも欠けていれば、ナビさんの矛盾で終了です。

<参考>

それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。(大経)

釈尊の仰った通りに七高僧は教えられていますが。

2014/07/11





id:shinrankaiuso

ナビさんが、全く反論できないで、誤魔化し続けていること。

A.ゼロさんが自信満々で出した根拠

●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

について

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

B.執持鈔にある親鸞聖人の御言葉からいえることは、

他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

よって結論は、

阿弥陀仏に救われたということは、往生の一大事が分かるのではなく、阿弥陀仏に死後のことをおまかせしたことをいう。
浄土に往けるとか地獄に堕ちるとか決めつけてはいけない。
阿弥陀仏が連れて往って下されるところへ往く。善知識と同じところへ往く。

2014/07/11





やめやめ学徒

ゼロナビさん(笑)

人間性がよくでてます(笑)

七高僧のお言葉を一つくらいだすかな〜と期待した自分がバカでした(笑)

2014/07/11



さて

一日考えに考えてきた回答がこれ。

(問)
七高僧の御言葉を七方とも出して

(答)
親鸞聖人がこう仰っている

答えになっていないのは、本人が一番わかっている。どうやって誤魔化すかをWさんらと考えたのかもしれない。

しかし、人間性の問題が露呈しただけ。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
七高僧現生正定聚と仰った根拠はない。
よって、ナビさん(ゼロさん)の主張は完全破綻

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

2014/07/11




まさき

ゼロナビさんのような「浄土真宗のイロハ」もわからない人が、お聖教を自分勝手に読むから恥の上塗りをすることになるのです。
あ~、恥ずかしいったらありゃしない。

その上、信心も無いくせに「無疑」を共通言語にしろなどと無理難題を押しつけてきて、親鸞聖人の90年の御苦労を一体何だと思っているのでしょうか?
今すぐ大地にひれ伏して、祖師聖人に謝って下さい。

それにしてもいい加減、いつまでもゴチャゴチャやってないで、サッサと結論を出しませんか?

我々凡夫は、煩悩に遮られて、仏や浄土のことが分かる智慧が無いのです。
獲信しても煩悩は減りも無くなりもしません。
だから浄土往生することは、凡夫には分かりません、です。
はい、終了。

ゼロナビさんも高森会長を見れば分かるでしょう?
高森会長の煩悩が身に満ち満ちている様子には目を見張るものがあるではありませんか。

普通の人なら持ち家が一軒あれば満足するところですが、高森会長はそんなものでは満足しません。
自宅は当然のこととして、それぞれの会館に自分専用の渡り廊下、自分専用の玄関、もちろん自分専用の隠し御殿・・・と、会員には内緒でやりたい放題です。
私は直接、設計に携わった方から話しを聞いてきたので、これらの事は全部事実です。
なぜ会員に内緒にするのか?
もちろん“後ろめたい”からです。
会員さんの浄財を湯水のごとく自分の贅沢の為に使っているわけですからね。

獲信しても煩悩はなくならないどころか、いよいよ渦巻いているのは、高森会長を見れば分かるでしょう?ね!

2014/07/11





やめやめ学徒

現生正定聚は、親鸞教学の最大の特徴だって、近所の坊さんにきいたよ。

親鸞会では、現生正定聚七高僧も言われてると主張してるって言ったら、白い目で見られたよ(笑)

そんなバカなことは、龍大の学生でも言わないってさ(笑)

2014/07/11

山も山 (id:yamamoya)


ゼロさんへ

毎回長文のコメント有り難うございます。言いたいことはいろいろお有りでしょうが、もう少し短く書いていただければ幸いです。

(7月9日A)

について

覚書にも毎回あげてきた言葉で、これまで何の訂正もなされませんでした。

覚え書きは、ゼロさんのメモ帳だと思っていました。今までのコメントに書くだけで時間がいっばいだったのに加えて、何かコメントを求める記述がありませんでしたので、そのままおいておきました。確認せよと問われたので書いたまでの事です。

そして、この作文は気に入らないからと書き直した文章と、その意味は下記のも
のです。( )内はあとで確認し、宮田さんが返答した内容です。
>浄土往生は、凡夫が分かる性質のものではない。なぜなら本願の領域の
>ことであるからである。
>しかし、阿弥陀仏の本願は本願を信じ(疑情が晴れた無疑)念仏するものを必ず浄土に生まれさせる
と仰せであるから、
>それを聞いて疑い無ければ(疑情が晴れた無疑)本願の通りになる。
阿弥陀仏の本願とそれを説かれた、釈尊はじめ高僧方の仰せを信じるほかになにもない(疑情が晴れた無疑)。
>これを無疑(仏願の生起本末を聞いて疑心あることない事)と言う。
(※最後の「無疑」だけ「仏願の生起本末を聞いて疑心あることない事」ですが、
  これは「疑情が晴れた無疑」とどう違うのでしょう?)

同じ事です。理由は、同じ言葉ばかりが続いたので少し書き換えただけです。もう一つ理由を挙げれば、無疑だけを続けて書いていると何に疑いないことなのか曖昧になってはいけないと思い改めて本来の意味を書いただけです。

一体どうしたら、この二つの文章が同じ意味と読めますか?
少なくとも、読んだ人が、この二つの文章が同じだと思うと、本気で思っているのですか?

すみませんが、無疑とは、仏願の生起本末を聞いて疑心あることない事です。それと、無疑とは、疑情が晴れたことです。ここでいう疑情とは仏願の生起本末に対する疑心のことですが、それは同じことではないのでしょうか?
ゼロさんは、なぜこの二つの文章が違うと言われるのか正直よく分かりません。
ゼロさんの主張は「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなしの疑心」≠「疑情」と読めますが、それでよろしいでしょうか?

>「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」
>ということでしょうか?(ここまでが私の質問)
ーーー
>それが、三随順ということです。(宮田さんの答え)
と、あなたは
「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」=「三随順」
という理解をしています。
上記の内容と合わせて考えると、一体、何が宮田さんの本当の主張か分かりません。
この「お聖教にあるから信じます」も「お聖教にあるから無疑です」という意味ですか?

同じ意味です。ただ、ゼロさんの文章を読むとお聖教をただの文章、さらに悪く言えば「文字情報」と思われているのではないかと感じます。お聖教の言葉、特に経にある言葉は仏の智慧が言葉となって現れたものです。ですからただの文字ではありません。
三随順と、以前書きましたが、三随順とは

ーーー
三随順とは、
一には、「是を仏教に随順すと名づく」と
二には、「仏意に随順す」と。
三には、「是を仏願に随順すと名づく」となり
愚禿鈔
http://goo.gl/HN4U8K

三随順
釈尊の教え(仏教)・諸仏の意(仏意)・阿弥陀仏の願(仏願)にしたがうこと。
http://goo.gl/TBxWJ9

のことです。
釈尊の教えは、経典となって残されています。今回の無疑に関することでいえば、大無量寿経に説かれた阿弥陀仏の本願の生起本末を聞いて疑心あることないことです。
諸仏の意は、浄土真宗では念仏の勧めです。諸仏の勧められる念仏に疑心ないことです。
仏願は、南無阿弥陀仏となって、現在の私に直接よびかけられるものです。それを、親鸞聖人は「本願招喚の勅命なり」と教えて下さいました。

元を言えば、現在の南無阿弥陀仏を現に私に仰せであり阿弥陀仏勅命と聞いて疑い無いことです。そのいわれを説かれたのがお聖教です。
南無阿弥陀仏は、本願を信ずるものを必ず救うの仰せです。その本願のいわれや浄土往生のことは、お聖教によらねば分かりません。その意味で、お聖教にあるから信じますとも書きましたし、現前の仏勅である南無阿弥陀仏に疑いないのですから、その謂れを書かれたお聖教に疑い無いとも書きました。

>ハッキリするとは、私の「ハッキリしたこと」を挟まねば本願は信じられない
という態度です。
>何かハッキリしなければ、南無阿弥陀仏が往生の業だととても信じられないと
いう考えなのではないです?(※最後に「か」の一字が入るのでしょうね)
とありましたが、そんなことは全く思っていません。
勝手に妄想しないでください。

それは失礼しました。

獲信した人=「浄土往生させると誓われた弥陀の本願」に疑い晴れた人=「浄土往生」に疑い晴れた人

ではないのですか?
そうでないのなら、分かるように説明してください。

一つ確認ですが、前にも書きましたが
「浄土往生」に疑い晴れた人=「浄土往生」が分かる人
という主張ということでよろしいでしょうか?

私はゼロさんが、こう主張されているという前提でそれは間違いだと書こうと思います。ただ、また勝手に妄想したとお叱りを頂くのも失礼なので確認させて下さい。


(7月9日B)

について書きます。

【問1】

『執持鈔』の、
「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべから
ず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへ
ゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、
たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。
このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。
しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨の
ことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一
定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。
たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因
ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、
さらにくやしむおもひあるべからず」
というお言葉の中に、
「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず」
とは、
「私の心は、浄土へ参るか、地獄へゆくか、定まっていない」
という意味だと理解していますか?

ノーです。

理由は3つあります
1、文章の前の意味をうけて「されば」とつないで続く文章なので、上記の部分は「私の方から、浄土に参れるに違いないとか、また地獄にゆくに違いないと、定めてはいけない」とするのが適当だから。つまり、問いの作文は訳文としてそもそも間違い。
2、獲信したら、浄土か地獄かどちらか未来に心が定まるという前提の問いだと思われますが、その前提が間違いという議論をしている。
3、「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。」とあるように、如来にまかせただけであって、私の心が浄土行き間違いなしと定まったことを獲信とは言わない。

【問2】

「信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と法然上人は仰っておられます。
法然上人は、浄土往生に疑い晴れておられないけれど、こう仰った。

問いがよく分かりません。

まず、法然聖人がおっしゃったことを引き合いに出されても、今回の議論に意味がありません。
それは高僧和讃法然聖人に関する資料によれば、法然聖人はご自身が浄土往生をすること仰った記述もあるからです。ただ、法然聖人は親鸞聖人が勢至菩薩の化身と仰がれる方なので、凡夫には分からないことが分かられたのかもしれません。その法然聖人が「わがまゐらん浄土へは」と仰ったといっても、それが浄土を往生を「ハッキリ分かられた」のか、上記執持鈔の意味で、本願の上から言われただけで、ご自身が「ハッキリは分からない立場」で仰ったのかは不明です。

しかし、ここで議論をしているのは親鸞聖人の教えについてです。親鸞聖人は、生涯ご自身を凡夫の身という立場で、教えを伝えていかれました。ですから、凡夫は獲信した上で「浄土往生が我として定める」ことができるか否か?ということを聞きたいのでしょうか?それならノーです。

【問3】

もし【問1】と【問2】の答えが共通していなければ(共に「ノー」もしくは共
に「イエス」でなければ)、二つが矛盾しない理由を説明してください。
また、私が誤解していると思われることがあれば、書いてください。

前述しましたが、問2の設問かよく分かりませんでした。よって保留。


【問4】

「獲信しても死後どうなるかは定まっていない。お師匠さまと同じところにいく
にすぎない。つまり、死後は、地獄やら極楽やら餓鬼道やら定まっていない」

これも問いがよく分かりません。
これも、問1で書きましたが
「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。」
「私の方から、浄土に参れるに違いないとか、また地獄にゆくに違いないと、定めてはいけない」
のであって、定まっていないのではありません。

本願招喚の勅命を聞いて疑いないならば、本願通り浄土往生は定まります。
ただ、それを自分の方から「定まった」というものではありませんし、また、煩悩具足の凡夫には「定まったと分かる」のではありません。執持鈔のお言葉は、凡夫の立場としては「私の方から、浄土に参れるに違いないとか、また地獄にゆくに違いないと、定めてはいけない」のであって、阿弥陀仏の目からご覧になったら本願通りに定まっていることです。

イエスか、ノーか、

獲信した人は定まっています。その意味では、ノーです。
しかし、それは「浄土往生間違いなしと、私の方から言うこと」ではありません。

(2358語)

2014/07/11





さて

飛雲より

問い

法の深信は「かの阿弥陀仏四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と深信す」ですから、救われたら往生が判ると仰っているではないですか。

答え

善導大師は法の深信について別の言い方をされています。
「二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。(中略)いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して」(往生礼讃)
念仏称えて往生できると信知(深信)すると仰っています。念仏称えて助かるは間違いだ、と言いきっている高森会長は異安心確定ですね。
「さだめて往生を得」と仰っているのは、未だ遂げていない往生について、その道は「かの願力に乗じて」「名号を称する」ことだけだとハッキリしたことと仰っています。浄土往生が認識できたのではなく、浄土往生への道を信知(深信)するのです。

2014/07/11





まさき

ゼロナビさんは、「自力疑心の鉄壁」に阻まれて、宮田さんが少し言い方を変えただけで同じ事を言っておられるのに、それが理解できないでいるのです。
そして、自分が信心が無くて読み取れないのを宮田さんに責任転嫁しているだけです。

さすがに皆、その事に気付いてしまいましたので、もうこれ以上「日本語がああああああぁ~!!」なんて叫ばないでね。

ちょうどタイムリーなことに林遊さんのブログ「用管窺天記」に教行信証真仏土巻を挙げられて、“煩悩に覆われている凡夫には浄土往生することは分からない”ということが書いてありますので、よく読んで、「正しい浄土真宗」についてお勉強して下さいね。

それとshinrankaiusoさんの質問に答えるのもお忘れなく。

>“七高僧が”現生正定聚を仰った根拠をすべて出してください。

いいですか?日本語わ~かりますかぁ~?“七高僧が”ですよ。七高僧が!!

親鸞聖人の御文を挙げては「勝利宣言」を繰り返すナビさんを眺めて、(本当にこの人には日本語が通じないんだなぁ・・・)と皆がため息をついていたのに気付きませんでしたか?

醜態を晒す為だけに登場するのは、もうそろそろおやめになってはいかが?

2014/07/11



やめやめ学徒

ゼロナビさん(笑)

今日も、龍大の学生にバカにされる無知を晒すのかな(笑)

バカにされたくなければ、七高僧の御文を親鸞聖人を通さずに出してみてね(笑)

親鸞会龍大生にバカにされて、俺も本当に悔しいんだから(笑)

2014/07/11





ナビ

前回コメントしましたように日本語の理解に乏しく、礼儀を知らない人とはやりとりは遠慮いたします。

縁のある方が分かっていただければ、それで十分です。

七高僧が思ってもおられないことを、親鸞聖人が勝手に曲解なされるはずがありません。

親鸞聖人以上に七高僧の心が分かると自覚なしに自惚れているとは大変恐ろしいことだと思います。

以下は、反論なしで負けを認めたことを了解しました。

> >「成等覚」といふは正定聚の位なり。
>
> これが現生かと言う話ですが、そんな誤魔化しは通用しませんよ。
  (shinrankaiusoさんの悪あがき)

答え:
> 「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。(正信偈大意)

 明らかに「現生」でした。


>
> なお日本語の理解が心配なshinrankaiusoさんに問題です。
>
> 【問い】
>
> 「現生で正定聚に入ると教えられた七高僧は【いませんよ】」
>
> とはどちらの意味になるでしょうか?
>
> (a) 「現生で正定聚に入ると教えられた七高僧は【一人も】いませんよ」
> (b)「現生で正定聚に入ると教えられた七高僧は【全員ではありません】よ」
>
> さて、どちらでしょう?
> ものすごく簡単ですね。
> 期限は、次回のコメントまで!
>
> 分からなかったら、答えなくてもいいですよ。
> 無回答をもって、分からなかったと理解いたします。
>

shinrankaiusoさんから返答なし = こんな高度な日本語は分かりません

まして、「心」となると高度すぎましたね。

> ※ここも本当は「おられません」とすべきでしょう。
>  あなたの七高僧に対する思いがここからも現れています。
>  ただし、原文が「いません」でしたので、心苦しい思いはありましたが
>  そのままにしておきました。
>  shinrankaiusoさんは、七高僧にお詫びしてもらいたいものです。

七高僧方にお詫びもなし。七高僧方に尊敬の念もなし。

2014/07/12





id:shinrankaiuso

七高僧が思ってもおられないことを、親鸞聖人が勝手に曲解なされるはずがありません。

親鸞聖人以上に七高僧の心が分かると自覚なしに自惚れているとは大変恐ろしいことだと思います。


>以下は、反論なしで負けを認めたことを了解しました。

反論しましたけど、ニホンゴワカリマスカ?

2014/07/12





id:shinrankaiuso

結局何一つ答えることができなかったで、完全終了。


質問に答えてください。

親鸞聖人は、現生正定聚で、それを
「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」とまことに知らされた、と仰っています。
一方で、親鸞聖人は七高僧は、往生された方と仰っています。

ならば、七高僧現生正定聚を仰った根拠をすべて出してください。

1.龍樹菩薩が現生正定聚を仰った根拠
2.天親菩薩が現生正定聚を仰った根拠
3.曇鸞大師が現生正定聚を仰った根拠
4.道綽禅師が現生正定聚を仰った根拠
5.善導大師が現生正定聚を仰った根拠
6.源信僧都現生正定聚を仰った根拠
7.法然上人が現生正定聚を仰った根拠

1つも欠けることなく、全部です。1つでも欠けていれば、ナビさんの矛盾で終了です。

<参考>

それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。(大経)

釈尊の仰った通りに七高僧は教えられていますが。

2014/07/12





id:shinrankaiuso

ナビさんが、全く反論できないで、誤魔化し続けていること。

A.ゼロさんが自信満々で出した根拠

●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

について

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

B.執持鈔にある親鸞聖人の御言葉からいえることは、

他力の信心とは
・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

よって結論は、

阿弥陀仏に救われたということは、往生の一大事が分かるのではなく、阿弥陀仏に死後のことをおまかせしたことをいう。
浄土に往けるとか地獄に堕ちるとか決めつけてはいけない。
阿弥陀仏が連れて往って下されるところへ往く。善知識と同じところへ往く。

2014/07/12





id:shinrankaiuso

ナビさんの言うことくらい、簡単に想定できますよ。

龍大生でも即答できることさえ知らない、
真宗のイロハのイも知らないのに、恥ずかしくもコメントを書いてくる無恥は尊敬に値します。

2014/07/12





まさき

昨日あんなに大恥をかいたのに、又ノコノコと出てこられたのですね。
しかし、昨日の勢いはどこへやら、随分とトーンダウンしたナビさんではありませんか・・・カカカカカ。
shinrankaiusoさんの質問の意味すら理解できなかったナビさんの日本語理解能力のヒドサには、一同茫然と立ち尽くすしかなく・・・まことに今後の法論が思いやられます。

さて、未信のゼロナビさんの理解が遅々として進まず時間ばかり取られますので、今後の法論をスムーズに進める為にも、私が整理をして差し上げようと思います。

【ゼロさんの主張(高森教)】

獲信すると、浄土往生することがハッキリと分かる。

獲信すると、智慧の名号をいただき仏智が得られるので、『浄土往生することがハッキリと分かる』ようになる。


【宮田さんの主張(浄土真宗)】

獲信しても凡夫には、後生のことは分からない。

獲信しても凡夫の智慧では、後生のことは分からない。
船に乗ったら船頭まかせなように、あくまでも『後生は阿弥陀仏まかせ』である。

さあゼロナビさん、反論して下さいませ(笑)。

2014/07/12





やめやめ学徒

ゼロナビさん(笑)

期待を裏切ってくれたお陰で、近所の坊さんからメールでバカにされたじゃないの(≧∇≦)

もう少し骨があるかと思ったのに、幻滅(笑)

2014/07/12





さて

ナビさんの一日の考察の成果

一日考えに考えてきた回答がこれ。

(問)
親鸞聖人と七高僧の解釈が違いますが、七高僧の御言葉を七方とも出して

(答)
親鸞聖人がこう仰っている、七高僧と違うことを仰る筈がない

答えになっていないのは、本人が一番わかっている。どうやって誤魔化すかをWさんらと考えたのかもしれない。

しかし、人間性の問題が露呈しただけ。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
七高僧現生正定聚と仰った根拠はない。
よって、ナビさん(ゼロさん)の主張は完全破綻
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

2014/07/12


ゼロさん登場

ゼロ

宮田さんへ

コメント有難うございました。

>一体どうしたら、この【二つの文章】が同じ意味と読めますか?
>少なくとも、読んだ人が、この二つの文章が同じだと思うと、本気で思ってい
るのですか?
> 今、「無疑」を中心に議論がなされているのですよ。
> わざと相手が誤解するような言葉を採用しているのですか?
> 自分でも書いているように、「違いないと信じるに過ぎない」は、「思い込み」としか読めないではないですか。
> 今頃、こんな訂正がぬけぬけとなされた時点で、「主張を変えた宮田さんの負け」
> と判定されても文句がいえないほどひどい状態ですよ。
>
の【二つの文章】とは、あなたが同じ意見だといったハリケーンさんの文章と、今
回のあなたの文章の二つです。

ポイントだけ抜き出せば

「違いないと信じるに過ぎない」

阿弥陀仏のお力によって疑情が晴れ、ツユチリの疑いもなくなった無疑」

の二つの文章のことです。
どうしてこれが同じ意味になるのか、ということです。

これは、都合が悪くなり、意図的に主張を変えたのではないですか?

次にですが、

お互いの議論の焦点を鮮明にしたいのですが、あなたの文章は分かりにくいので、
もうちょっと分かりやすく対比したいのですがいかがですか?

以下は、その案です。

【1】

「獲信した人は弥陀の本願に疑い晴れた自覚がある」

 宮田さん「ノー」
 ゼロ  「イエス」

【2】

「獲信した人は、かならず弥陀の浄土に生まれることができる、と喜ぶ心がある」

 宮田さん「ノー」
 ゼロ  「イエス」

【3】

「獲信した人も、弥陀の浄土へ参るか地獄へゆくか、本願では定まっているが、
心は定まっていない」

 宮田さん「イエス」
 ゼロ  「ノー」

異論があれば、教えてください。

※ここで宮田さんが繰り返し、私が思ってもいないことを妄想して、
 私の考えの前提にくっつけていると思われることを否定しておきます。

 ●ゼロの主張

 1:【「ハッキリした」だから「救われた(無疑)」】などとは思っていません。

 2:【「分かった」だから「救われた(無疑)」】などと思っていません。

 3:「浄土往生に無疑」とは、「死後、弥陀の浄土へ往って仏に生まれる」こ
とに疑い晴れた、ということ。
   この世で極楽世界がありありと分かり、仏様を拝見するという意味ではな
い。

 ハッキリしなければ救われたと言えないと、私が思っているとか、、
 分からなければ救われたと言えないと、私が思っているとか、、
 仏でもないのに、仏様のことが分かったり、仏を見たりすると私が
 考えているのだろうと思っているなら、もうやめにしてもらいたいのです。

 過去の誰かとのやりとりと混同しないでくださいね。

あと、一つだけ質問を

>獲信した人は(往生が)定まっています。
>しかし、それは「浄土往生間違いなしと、私の方から言うこと」ではありませ
ん。

以下、仰っておられるとしか読めないのですが、如何ですか?

『御臨末の御書』

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す

『執持鈔』

われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし

『御文章』五帖目二十二通

われらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、【極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし】。


●やりとりを全部しているとどうしても長くなりますので、
 以下の問答は、宮田さんが次回返答するかどうかはお任せいたします。

あなたの問い

> ゼロさんの主張は「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなしの疑心」≠「疑情」と読めますが、それでよろしいでしょうか?

は、「二つの文章」を誤解したところからくる疑問です。
ですから、答えは、勿論「ノー」です。

「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなしの疑心」=「疑情」

最後だけ、文章を変えていたので、何か意味があるのか尋ねただけです。
理由はよく分かりました。(ただ、一つだけ文章を変えると、なぜだろうと当然
思いますので、そのところも配慮して但し書きをするなどしてもらえると有難い
のですが)

> 獲信した人=「浄土往生させると誓われた弥陀の本願」に疑い晴れた人=「浄土往生」に疑い晴れた人
> ではないのですか?
> そうでないのなら、分かるように説明してください。
> 一つ確認ですが、前にも書きましたが
> 「浄土往生」に疑い晴れた人=「浄土往生」が分かる人
> という主張ということでよろしいでしょうか?

もう少し詳しく書きますと、

獲信した人=「浄土往生させると誓われた弥陀の本願」に疑い晴れた人=「死後、
極楽浄土へ往って仏に生まれられる、と疑い晴れた人」

ですか? 

という質問であり、ここで尋ねているのは「疑い晴れた人」=「分かる人」とい
う意味ではありません。

> 「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず」
> とは、
> 「私の心は、浄土へ参るか、地獄へゆくか、定まっていない」
> という意味だと理解していますか?
> ノーです。
> 理由は3つあります
> 1、文章の前の意味をうけて「されば」とつないで続く文章なので、上記の部分は「私の方から、浄土に参れるに違いないとか、また地獄にゆくに違いないと、定めてはいけない」とするのが適当だから。つまり、問いの作文は訳文としてそもそも間違い。

1、の意味は分かりました。

> 2、獲信したら、浄土か地獄かどちらか未来に心が定まるという前提の問いだと思われますが、その前提が間違いという議論をしている。

2、「前提」という言葉がサイクロンさんの時にも出てきましたが、何か特別に意味があるのでしょうか?
   「前提」ではないから議論しているのではありませんか?
   
> 3、「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。」とあるように、如来にまかせただけであって、私の心が浄土行き間違いなしと定まったことを獲信とは言わない。

3、何か、内容が変わっているように思えますが、
  「私の心が浄土行き間違いなしと定まった」から「獲信した」とは言いません。それは当然です。

   それを踏まえてですが、結局、あなたの意見は、「浄土へ参るか、地獄へ
ゆくか、本願では定まっているが、心は定まっていない」のですね。


> 法然聖人がおっしゃったことを引き合いに出されても、今回の議論に意味がありません。
> それは高僧和讃法然聖人に関する資料によれば、法然聖人はご自身が浄土往生をすること仰った記述もあるからです。

この文章はおかしくありませんか?
あなたの意見に反するから意味がないと読めますが。


法然上人は、浄土往生に疑い晴れておられないけれど、こう仰った。
(中略)
凡夫は獲信した上で「浄土往生が我として定める」ことができるか否か?ということを聞きたいのでしょうか?それならノーです。

かなりやりとりも続いているのですから、もう少し理解を深めてもらいませんか?

「【われとして】(=凡夫の智慧、人間のはからい)では(往生できるかどうか
は)分からない」
と私はハッキリ書いていますよ。
なぜいちいち「浄土往生が【我として】定める」と変な勘繰りをするのですか?

法然上人は、浄土往生に疑い晴れておられないけれど、こう仰った。

とは、「自分の力で」ではなく「法然上人は、浄土往生できるかどうか疑いが晴
れないまま、仰ったのですか」という質問です。

> 記執持鈔の意味で、本願の上から言われただけで、ご自身が「ハッキリは分からない立場」で仰ったのかは不明です。

という一文がありますので、獲信された法然上人が「ハッキリは分からない立場」
で仰っることもありうるのですね?

> 【問3】
> もし【問1】と【問2】の答えが共通していなければ(共に「ノー」もしくは共
> に「イエス」でなければ)、二つが矛盾しない理由を説明してください。
> また、私が誤解していると思われることがあれば、書いてください。
> 前述しましたが、問2の設問かよく分かりませんでした。よって保留。
>
保留

では、お返事お待ちしております。

2014/07/12



ゼロ

■(覚書)宮田さんが明言していること。

【1】

他力・・・阿弥陀仏にすべてお任せ
     (経典・お聖教の通りに師と共に往生できると【信じている】)
異安心・・・浄土に往けるチケット(信心)を持っている
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【2】

 地獄も浄土も、凡夫に分かる訳がないのです。
 分からないが、経典と高僧方の仰せを【信じて】いるから、
 自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに【違いない】、
 と【信じるに過ぎない】。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460

【3】

真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?(ここまでが私の質問)
ーーー
>それが、三随順ということです。(宮田さんの答え)

【4】

獲信しても死後の世界については何もわからない、曖昧。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336675469

【5】

「よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
と言われているのが無疑と言うことです。
私が「信ずるに過ぎない」と書いたのはそのことです。
自らに釈尊法然聖人のようの智慧はないから、その方の仰せを疑い無く
受け入れているだけであるということです。
そこには、ご自身を煩悩具足の凡夫と仰った親鸞聖人の御心が窺えます。

【6】

真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、
まさに無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証・信巻末)
http://goo.gl/za4hbw

これは、親鸞聖人が「真実の教」でいわれる釈尊の大無量寿経の内容を知らされたということです。

【7】

「『獲信しても、現生十種の利益の自覚がない』、こう親鸞聖人は教えられた」

【8】

無疑とは、御消息でいうと「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば
極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」ことに疑い無いこと。
本願の上で、浄土往生は決まっているのであって、自分の手元で「いつ死んでも
極楽往生間違いなし」と言うものではない。

【9】

「信心獲得の確信(機辺の決定心)をも否定」というのは、本願に疑い晴れた
信心獲得をしたということがあるという自覚(自覚というのもいろいろ問題ある
言い方ですが)の意味で「信心獲得の確信(機辺の決定心)」と言われている。
信心は機の上でいう言葉だから、確信という言葉を使うことが悪いとは言わない
。(言い方によってはまた誤解を生むかもしれない)。
本願に疑いないというのは、信心獲得の上ではいつでも疑い無いが、
往生浄土については「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひ
とすぢに如来にまかせたてまつるべし」ということ。

【10】

二種深信はを経釈に則って表されたものだから、
「さすがは善導大師だなあ」と聞いておけばよい。

【11】7月7日

「実際に機も法も疑いなく知らされるものではない」
の一文は、二種深信の説明としては不十分。
「二種深信=真実信心=無疑心」だから、「機も法も」と二つに分解して言うも
のでは無い。
本願を聞いて疑い無い(無疑心)の信相を書かれたのが二種深信。
機と法と、分けることができない。
文章としては機法ともに無疑というのが二種深信となる。

【12】7月8日

 浄土往生は、凡夫が分かる性質のものではない。なぜなら本願の領域のことで
あるからである。
 しかし、阿弥陀仏の本願は本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせると仰せであるから、それを聞いて疑い無ければ本願の通りになる。
 阿弥陀仏の本願とそれを説かれた、釈尊はじめ高僧方の仰せを信じるほかになにもない。
 これを無疑と言う。

【13】7月8日

他力の信心は、本願を聞いて疑心あることないそれだけのことであって、自分になにか智慧が身に付くものでは
ない。

【14】7月8日

仏願の生起本末を聞いて疑心あることないだけであって、私の中になにかが「立つ」ようなイメージは間違い。

【15】

「獲信しても死後どうなるかは分からず、お師匠さまと同じところにいくにすぎない。
つまり、死後は、地獄やら極楽やら餓鬼道やらハッキリしない。
だから、「浄土往生がハッキリする」わけではない」

【16】

本願に疑い晴れて、それだけですか?と言われているようですが、「浄土往生が凡夫にハッキリする」の説は間違いだと言っているだけです。
法を聞けば有り難いの思いも起きますし、本願のいわれを知り、疑いないという意味での三忍はあります。



■それに対し、浄土往生を断定されているお言葉 (ほんの一例です)

『末灯鈔』12

この身は、いまは、としきはまりて候へば、【さだめてさきだちて往生】し候はんずれば、【浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふ】べし。
 

『末灯鈔』13 

まことの信心の定まることは、釈迦・弥陀の御はからひとみえて候ふ。
【往生の心に疑なくなり候ふ】は、摂取せられまゐらするゆゑとみえて候ふ。

信心の定まると申すは摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位
にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべし

『御臨末の御書』

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す

『執持鈔』

われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶ

『御文章』五帖目二通

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、【後世をしるを智者】とすといへり。

このゆゑにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行をすてて、
一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、
十人も百人もみなともに【弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目四通

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、【みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし】。

『御文章』五帖目六通

ただ一念に弥陀をたのむ衆生は【みなことごとく報土に往生すべきこと、
ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり】。

『御文章』五帖目二十二通

われらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、【極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし】。

他多数

2014/07/12





id:shinrankaiuso

宮田さん以外でも良いから解説せよというから解説したのに、無視ですか。

本願に疑いが無くなることと浄土が分ることとは全く違う話。

これを何度説明しても故意に混同させようと言うのが、ゼロさん(ナビさん)。

でもね、あなたが自信満々に出した根拠は簡単に否定された訳よ。
迂闊だったという話ですが、それを誤魔化そうと日本語の理解の問題にすり替える。

いつもの親鸞会のやり口。

2014/07/12




id:shinrankaiuso

真宗学のイロハのイも知らないナビさんのために、「成等覚証大涅槃」について少し講義をば。

これは阿弥陀仏の11願で、大経の異訳経である無量寿如来会にある御言葉。

「もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ」

「国のうちの有情」とは阿弥陀仏の浄土の中の有情のこと。

よって、「成等覚証大涅槃」とは、浄土に往生後、等正覚を成り、大涅槃を証するの意になり、往生後に正定聚に入ることなんですね。

次に曇鸞大師は浄土論註に11願を言い換えられて

「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る」

往生の後に正定聚に入るの意以外には解釈のしようがない。
これは他の高僧方も同じですね。

問題はなぜ親鸞聖人が、往生後に正定聚に入るとしか解釈のしようの無い11願を現生に解釈なされたのかということですが、これを正当化させるために親鸞聖人が度々なされる漢文の読み替えという方法をとられたわけですよ。

曇鸞大師
「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る」

親鸞聖人
「もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る」

これで「生ぜんと願ぜんもの」が「すなはち正定聚に入る」と本来の意を変えられてしまったわけですよ。

真宗学のイロハのイも知らない、日本語に不慣れで、大嘘付きのナビさんには難し過ぎて訳が分からないでしょうが、結論は、

親鸞聖人は曇鸞大師の御言葉を読み替えなされなければならなかった理由は、
曇鸞大師と親鸞聖人の解釈が違うから】

龍大生にでも教えてもらうといいよ、ゼロさん、じゃなかったナビさん。

2014/07/12





id:shinrankaiuso

このことからも分ると思いますが、以下は全く揺るぎの無い結論だと言うことですね。

A.ゼロさんが自信満々で出した根拠

●真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

について

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

3.「弥勒大士は…」と「念仏の衆生は…」は、共に「真に知んぬ」であるので、同レベルでの知らされ方。

よって結論は、

「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

2014/07/12





やめやめ学徒

shinrankaiusoさん、凄すぎ。
ゼロナビさん、違う意味で、凄すぎ(笑)

ゼロナビさんがshinrankaiusoさんから逃げ回るのは、当然の行動ですね(笑)

2014/07/12





id:shinrankaiuso

揚げ足をとるのに必死なナビさんですから、念の為。

七高僧方と親鸞聖人とは、信心は同じで、浄土往生されたのも同じ。
ただし、七高僧親鸞聖人とでは、解釈が少し違う所がある。
よって、解釈や知らされることが完全一致するのが他力の信心ではない。

2014/07/12





まさき

>前回コメントしましたように日本語の理解に乏しく、礼儀を知らない人とはやりとりは遠慮いたします。

いつからそんなに遠慮深くなったのですか?ナビさんよ(笑)。
今まで散々、宮田さんやshinrankaiusoさんに失礼極まりない態度をとってきた人とは、とても同一人物とは思えませんね。まったく、どの口が言えるんだか・・・。

しかし、そうでも言わないことにはshinrankaiusoさんからは逃れられないので、相手を貶めるしか方法がないのですね。
これが親鸞会のやり方ですか・・・本当に汚いですね。

まあ、shinrankaiusoさんからすれば、赤子の手をひねるようなものなのですよ。
相手にして頂けただけ、感謝しなければいけません。

ナビさんが事実上の敗北宣言をしましたところで、もう少し申し上げておきたいことがございます。

やめやめ学徒さんが、近所のお坊さんにバカにされたように(お気の毒ですね…)、親鸞会のせいで恥をかかされた人達は、まことにもって数知れないのでございます。

ナビさんがこれまでの法論の中で、恥の上塗りの上にまた恥を塗り重ねてこられたのも、その元凶はすべて高森氏の無学さにあるのです。

「この教学短冊で学べば、本願寺の学者相手にでも法論ができる。」・・・これは高森氏の弁なのですが、『嘘こけぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!』でございます。この嘘森、いや高森会長の言葉を信じて勉強なんかしているから、ナビさんも大恥をかくことになったのですよ。

あのカスカスの教学短冊とカスカスの教学講義で、本願寺の学者相手に法論などできるわけがないのです。
龍大のピカピカの一年生相手にだって無理です。

でも今回の御縁で、ナビさんもそのことにやっと気付いて下さったので、私としては嬉しい限りでございます。

2014/07/12





id:shinrankaiuso

入正定聚の益については、完全終了ですから、ついでに法然上人のことについて。

>> 法然聖人がおっしゃったことを引き合いに出されても、今回の議論に意味がありません。
>> それは高僧和讃法然聖人に関する資料によれば、法然聖人はご自身が浄土往生をすること仰った記述もあるからです。
>
>この文章はおかしくありませんか?
>あなたの意見に反するから意味がないと読めますが。

意味が分かっていないようで、無知がここでもハッキリわかります。

高僧和讃源空

智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ

源空勢至と示現し
 あるいは弥陀と顕現す
 上皇・群臣尊敬し
 京夷庶民欽仰す

諸仏方便ときいたり
 源空ひじりとしめしつつ
 無上の信心をしへてぞ
 涅槃のかどをばひらきける

命終その期ちかづきて
 本師源空のたまはく
 往生みたびになりぬるに
 このたびことにとげやすし

源空みづからのたまはく
 霊山会上にありしとき
 声聞僧にまじはりて
 頭陀を行じて化度せしむ

粟散片州に誕生して
 念仏宗をひろめしむ
 衆生化度のためにとて
 この土にたびたびきたらしむ

阿弥陀如来化してこそ
 本師源空としめしけれ
 化縁すでにつきぬれば
 浄土にかへりたまひにき

以上から何が分かりますか?
日本語が分れば簡単ですが、

親鸞聖人は法然上人のことを、
阿弥陀仏の化身
・諸仏の方便
勢至菩薩の化身
・今回は三度目の往生
・かつての釈尊の直弟子
還相回向でたびたびこの世に来られている
と仰っている訳ですよ。
つまり、法然上人が浄土往生のことをそれこそ火に触るよりも明らかに確信できた方でも、何の不思議もない訳ですよ、仏智を具えられた方ですから。

その法然上人のことを引き合いに出しても、ほとんど意味がないということは、少しくらいはお分かりでしょうかね。

2014/07/12





まさき

ナビさんのトーンダウンに伴いゼロさんもトーンダウンしてしまいましたね。
う~ん、分かりやすい!(^_^)v

ところで「誰かわかるように説明してもらえませんか?」とゼロさんが言ったので教えて差し上げたのに、なんで私の言う事は悉く無視されるのですか?

私だってヒマではないのです!・・・と言いたいところですが、実はヒマです(笑)。

やはり「浄土真宗の信心」を語る時、『念仏』抜きで語っていては、親鸞聖人の御教えを明らかにすることはできません。

もちろん、信後に分かることはあります。
でも「後生」が分かるのではなく、『念仏』のところで知らされるのです。

ゼロさんの口から出ている『南無阿弥陀仏』こそ“弥陀招喚の勅命”であったと知らされるのが、「信後の世界」なのですよ。

あと少し、日本語の使い方で気になった事がありましたので、ついでにもう一言。

ゼロさんはコメントで、「獲信した人は・・・」という質問をならべては、「イエス」「ノー」で答えていますが、何でゼロさんまで宮田さんと一緒になって、張り切って「イエス・ノー」で答えているんですか?

どうやら質問の意味が、ここでも理解されていないようですね・・・。
「獲信した人は・・・」の質問に対して未信のゼロさんが断言するのは、おかしいではないですか。
ここは、「イエス・ノー」ではなく、「私は信後の世界をこのように想像しております。」と書くべきところです。
以後、気を付けて下さいね。

まあ、グダグダといつまでも時間稼ぎをするのはやめて、早く「獲信したら智慧の名号をいただいて、仏智が得られる。」のところの話を致しましょう!

2014/07/12





山も山 (id:yamamoya)


ゼロさんへ

ポイントだけ抜き出せば

「違いないと信じるに過ぎない」
阿弥陀仏のお力によって疑情が晴れ、ツユチリの疑いもなくなった無疑」
の二つの文章のことです。
どうしてこれが同じ意味になるのか、ということです。
これは、都合が悪くなり、意図的に主張を変えたのではないですか?

前者は、本願に疑い晴れた上での自覚として私に往生浄土の自覚はないと言っているだけです。いわば、無疑となったことを私の側からいった言い方です。
後者は、本願に疑い晴れたことを無疑といっているだけです。


次にですが、
お互いの議論の焦点を鮮明にしたいのですが、あなたの文章は分かりにくいので、
もうちょっと分かりやすく対比したいのですがいかがですか?
以下は、その案です。
【1】
「獲信した人は弥陀の本願に疑い晴れた自覚がある」
 宮田さん「ノー」
 ゼロ  「イエス」

自覚とはなんですか?
ゼロさんか親鸞会の関係者だということを勘案すると、「高森会長のいうような火をさわったよりも明らかな大自覚」という意味ならノーですが、疑い晴れたかどうかが分からないという意味ではありません。

議論を早く親鸞会派の勝利で終わらせて機関誌に掲載したいという人がおられるのかもしれませんが、親鸞会で特別の意味を持つ用語を突然持ち出して、議論の趣旨を曲げるような提案は賛同できません。

【2】
「獲信した人は、かならず弥陀の浄土に生まれることができる、と喜ぶ心がある」
 宮田さん「ノー」
 ゼロ  「イエス」

放置をすると、またこれが機関誌に載ったりするんでしょうか?
浄土往生をさせるとよびかけられる本願を喜ぶ心はありますが、ゼロさんがいうところの「智慧の名号で浄土往生が知らされて」喜ぶ心はありません。


【3】
「獲信した人も、弥陀の浄土へ参るか地獄へゆくか、本願では定まっているが、
心は定まっていない」
 宮田さん「イエス」
 ゼロ  「ノー」

これも、心が定まるの記述から、信心=心 という前提が書いておられませんか?
設問全て「自覚がある」「心がある」「心が定まっていない」と、「心の有り様」を問題にしておられるようです。

ゼロさんに、ここは大事なところなのでお答え下さい。
ゼロさんのいう「信心(無疑)」とは「信心=心」ということでよろしいでしょうか?

 ●ゼロの主張
 1:【「ハッキリした」だから「救われた(無疑)」】などとは思っていません。
 2:【「分かった」だから「救われた(無疑)」】などと思っていません。
 3:「浄土往生に無疑」とは、「死後、弥陀の浄土へ往って仏に生まれる」こ
とに疑い晴れた、ということ。
   この世で極楽世界がありありと分かり、仏様を拝見するという意味ではな
い。

3について、仏智でわかると言われていましたが、どういうことでしょうか?そのあたりは、後回しになって説明して頂いていないのでこちらであれこれゼロさんのそれまでのコメントの文面から、また親鸞会で私が過去に聞いていたことや最近の高森会長の著作から想像して書きました。

ハッキリしなければ救われたと言えないと、私が思っているとか、、
 分からなければ救われたと言えないと、私が思っているとか、、
 仏でもないのに、仏様のことが分かったり、仏を見たりすると私が
 考えているのだろうと思っているなら、もうやめにしてもらいたいのです。
 過去の誰かとのやりとりと混同しないでくださいね。

私も、ゼロさんの主張されることにあらぬ誤解をしたくはありません。
上記書きましたが、仏智により「死後、弥陀の浄土へ往って仏に生まれる」ことに疑い晴れた、ということ。この世で極楽世界がありありと分かり、仏様を拝見するという意味ではない。」とはどういうことでしょうか?

私の無疑についての主張は、コメント欄にも何度か書いていますし、安心問答にも書いています。明文化されていないのはゼロさんの7月7日Aに書かれた以下の内容です。

ですが、「往生の一大事(浄土往生)」は、他力の信心(智慧の名号)で分かり
ます。
獲信した人は、他力の信心(智慧の名号)をいただいております。
だから、仏智によって知らされるのです。(ゼロさんのコメントより)

これは、「この世で極楽世界がありありと分かり、仏様を拝見するという意味ではない」とのことですが、ではどのように分かるのでしょうか?

>獲信した人は(往生が)定まっています。
>しかし、それは「浄土往生間違いなしと、私の方から言うこと」ではありませ
ん。
以下、仰っておられるとしか読めないのですが、如何ですか?

すみませんが、「浄土往生間違いなしと、私の方から言うことではない」の意味が分かられますでしょうか?「法の上で明らかである」ということと「私の方でこう明らかに分かりました」ということは違います。

このゼロさんのお尋ねも、前述しましたが、「『往生の一大事(浄土往生)』は、他力の信心(智慧の名号)で分かります。 」とゼロさんが言われているのが私にはまだ分かりません。

その上で書きます。

『御臨末の御書』
我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す

これは、現在親鸞聖人の書かれたものではなく、作者未詳の文章なので「親鸞聖人のお言葉として」は根拠になりません。
御消息(末灯鈔)とは書き方が異なります。

『執持鈔』
われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし

このご文は、その前をうけてのことです。

仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし(執持鈔)

「仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや」と、本願に疑い無いという意味でこのご文は書かれています。
「名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。」
・名号を正定業となづけられるのは、阿弥陀仏の本願力を信受すれば往生の働きはまさしく定まるからである
「もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。」
・もし弥陀の名号を称え念じても、往生が定まらないなら正定業とはいわれない。
「われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし」
・その本願の名号を私は信受している、往生の業はその名号のお働きによって完成していることを喜ぶ。
という文章です。

往生は、すでに本願の名号の上に成就していることをよろこんでおられるのであって、これは法の上でのことをいわれたもので、私の方からいわれたものではありません。

『御文章』五帖目二十二通

われらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、【極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし】。

これも前の文章が大事なところです。

されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。(御文章5帖目22通)

他力の信心とは、ここで「この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなり」といわれています。南無阿弥陀仏のいわれとは、弥陀をたのむ機を必ず阿弥陀仏が助ける法であるという事です。その南無阿弥陀仏の謂れを聞き入れ、南無阿弥陀仏のお働きが私の上に現に働いている相を他力の信心といいます。だから、他力の信心ひとつをとるによって「極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし」のです。これは、南無阿弥陀仏のいわれからいわれているのであって、私が分かる、分からないといった意味で言われていることではありません。

これ以下の文章は、今回も書いているうちに長くなったので、保留にします。
異論がないのではありませんので、そこはご理解お願いいたします。
(1865 語 )

2014/07/13





まさき

さあさあ、いよいよ“珍しき法”を弘める好機到来!
ゼロさんにおかれましては、さぞや“光頭輝々”としておられることと思われます。

>獲信した人は、他力の信心(智慧の名号)をいただいております。

はて?この口から出る『南無阿弥陀仏』以外に、一体何をいただくのやら?

>だから、仏智によって知らされるのです。

煩悩具足の泥凡夫に「仏智」が備わるとは、これ如何に?!

【ゼロさんの主張(高森教)】

獲信すると、浄土往生することがハッキリと分かる。

獲信すると智慧の名号をいただき、仏智が得られるので、『浄土往生することがハッキリと分かる』ようになる。

【宮田さんの主張(浄土真宗)】

獲信しても凡夫には、後生のことは分からない。

獲信しても凡夫の智慧では、後生のことは分からない。
船に乗ったら船頭まかせなように、あくまでも『後生は阿弥陀仏まかせ』である。

浄土往生することが、どう分かるというのですかね?ゼロさんは?
曖昧な言葉で誤魔化したりしないで、分かるように説明して下さいね。

それに、もうこれからは「根拠ナシ」では済まされませんので、根拠の方もヨロシク。
もちろん『獲信したら智慧の名号をいただいて、仏智が得られる。』という根拠です。

いよいよクライマックスなので、どうか逃げないで下さいね、ゼロさん。

2014/07/13





まさき

>これは、都合が悪くなり、意図的に主張を変えたのではないですか?

『真実信心』を「法」の方から説いたり、「機」の方から説いたりすることは、浄土真宗の布教使さんなら、ごく普通にやっておられることです。
ゼロさんは、二種深信が立っていないので、宮田さんが同じ事を言っておられることが分からないだけです。

そもそも未信の人には分からないテーマで法論を吹っ掛けてきたのは、そちらの方なのですから、宮田さんに言い掛かりをつけるのはやめて下さいね。2014/07/14

2014/07/13





とくよしみね

長いな~。
いつもの論点ずらしに読む方も参ってしまいます。
ところでゼロ(kk)さん。
貴方のご信心はいかがですか。
ご自分が一番わかっておられるとは思いますが。
今更ぬけらられない親鸞会ですからね。
出てもどこにも行けないし生活も不安。
困ったものですね。
親鸞会にいながらで結構ですので他の人の本を読まれたらどうですか。
世の中広いんだけどな~。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

2014/07/14




さて

飛雲より (何がハッキリして何がハッキリしないのか)

問い

法の深信は「かの阿弥陀仏四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と深信す」ですから、救われたら往生が判ると仰っているではないですか。

答え

善導大師は法の深信について別の言い方をされています。
「二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。(中略)いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して」(往生礼讃)
念仏称えて往生できると信知(深信)すると仰っています。念仏称えて助かるは間違いだ、と言いきっている高森会長は異安心確定ですね。
「さだめて往生を得」と仰っているのは、未だ遂げていない往生について、その道は「かの願力に乗じて」「名号を称する」ことだけだとハッキリしたことと仰っています。浄土往生が認識できたのではなく、浄土往生への道を信知(深信)するのです。

問い

法の深信に「さだめて往生を得と深信す」とあるのですから、往生がハッキリ判ることになるでしょう。

答え

善導大師は二河白道の譬喩の前に、「この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して、一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり。」(観無量寿経疏)と仰っています。
周りからの非難攻撃に全く動揺することなく、この道に間違いないと金剛の如き疑いの無い心が、真実の信心だということです。往生への道を深信するとしか仰っていません。

問い

往生がハッキリしてこその、往生への道ではないですか。往生への道がハッキリしたということは、往生がハッキリしたことになるのではないですか。

答え

往生を願うのは、浄土門では大前提です。
二河白道の譬喩で言えば、西の岸に行きたいと願った上で、白道に乗って進むのか乗らないのかの選択です。西の岸から喚ぶ声を聞いて「この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。」(観無量寿経疏)と心が定まります。何に心が定まったのかと言えば、白道を進むことについて「疑怯退心を生ぜず」で、これが無疑の真実信心です。
一方で、西の岸に対する認識は、白道に乗る前も乗った後も何も変わっていません。
つまり、往生を願っている人が、どのようにして往生するのかと心が定まっていないのが信前、18願の念仏1つで往生できる、阿弥陀仏の仰せに信順する、と心が定まったのが信後です。

問い

往生も含めての往生への道ではないですか。往生自体が判らない信心など考えられません。

答え

歎異抄』で言うなら、
「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」が自力の信心、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」が他力の信心です。
自力の信心と他力の信心との違いは、「往生のみち」が、「念仏よりほかに」あると思っているか、「ただ念仏して」と心が定まるかの違いです。
往生が判らない判るで、自力と他力の違いを説明された根拠があるなら出してください。

2014/07/14




まさき

さてさん、分かりやすく解説して下さいまして有り難うございます。

もう皆さん、いつまでもゼロさんの妄想に付き合っているヒマはないのです! 私だけはありますけど(笑)。

根拠を出さずに、これ以上法論を続けていても意味がありません。
今、明らかにしているのは、『親鸞聖人の御教え』なのです。
親鸞聖人が仰っておられる御文を挙げずに、いくら主張しても、それはゼロさんの勝手な妄想でしか過ぎないのです。

親鸞会はいつも根拠を出さずに「高森先生が言っておられるから間違いない!」で済ませていますが、そんなことは「高森教高森会」の中だけでやっていればいいことなのであって、
ここは『浄土真宗』のブログなのですから、根拠が出せないなら、もうトットトどっかに行っちゃって下さい。

根拠も出せないくせに、しつこく法論を吹っ掛けたといえば、あの“宿善論争”です。

簡単に申しますと・・・

本願寺の主張:阿弥陀仏勅命『そのまま来い!』

親鸞会の主張:阿弥陀仏勅命『宿善積んで来い! 金持って来い! 人連れて来い!』

・・・ということです。

この法論で本願寺側が、「“破邪顕正財施を修することが獲信のための宿善となる”という文証があれば示して頂きたい。」と再三要求しておられるにもかかわらず、文証が示せないのを誤魔化す為に、「善をしなくていいと言うのなら、悪をしろと言うのかあああああ!!」と逆切れしたのが、何を隠そうあの高森会長でございます。

「倫理道徳上の善」の話をしているわけではないのに、話を勝手にすり替え、相手の主張をネジ曲げることに関しては、もはや“匠の技”とも言える高森会長の元で、日夜研鑽に励んでおられるゼロさんのことですから、根拠を出せないのをどう誤魔化そうかともっぱら思案中のこととは思われますが、そうは問屋が卸しません。

親鸞会のやり口は、もうウンザリするほど分かっております。

ゼロさんが根拠を出せない時点で、この法論は即終了ですので、そのおつもりでいて下さいね。

2014/07/14


ゼロさん、親鸞会的異安心レッテルを宮田に貼り出す。

ゼロ

ゼロより宮田さんへ 7月14日

コメントありがとうございました。

【0】

> 前者は、本願に疑い晴れた上での自覚として【私に往生浄土の自覚はない】と
>言っているだけです。いわば、無疑となったことを私の側からいった言い方です。
> 後者は、本願に疑い晴れたことを無疑といっているだけです。(宮田さんの答え)

⇒> 前者は、無疑となったことを私の側からいった言い方です。

 は、機の深信の立場から

> 後者は、本願に疑い晴れたことを無疑といっているだけです。

 は、法の深信の立場から、と理解すればいいでしょうか?

 (本来、二種深信は機法分けられませんが、説明する上では分けざるをえないですよね)

⇒それにしても宮田さん、またも【私に往生浄土の自覚はない】と断言しましたね。

 結局、あなたの教えは、法の上では無疑だが、私の自覚としては「死後、浄土に往生できるかどうかは疑い晴れない」ということですね。
 
「平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。
 平生のとき不定のおもいに住せば、かなふべからず」(執持鈔)

不定のおもいに住して、浄土往生できるなどというのは親鸞聖人の教えではありません。

「信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。
 されば不信のひともすみやかに【決定のこころ】をとるべし。」
                         (御正忌の御文章)

不信の人は、「決定のこころ」をとっていない(弥陀から頂いていない)から、「すみやかにとりなさい(いただきなさい)」
と教えておられます。
「決定のこころ」をとっていない(弥陀から頂いていない)他力の信心などあろうはずがありません。

あなたの「本願に疑い晴れた」は口先だけ。

察するに、あなたが何か変わった「体験」をして、それを獲信と誤解し、その「あなたの体験」からお聖教を解釈しているから正しく読めないのですよ。

どうやら「あなたの教え」では、獲信しても、名号はまだ阿弥陀仏のお手元で、本人の手元にはないようですね。
だから「私の身の上で浄土に往生することは定まっていない」のであって、「法の上でのこと」の連発なのですよ。

「明らかに知られたり」の蓮如上人とはまったく違う世界ですね。
「知る」のは、「心が知る」のですから。当然ながら。

> 【1】
> 「獲信した人は弥陀の本願に疑い晴れた自覚がある」
>  宮田さん「ノー」
>  ゼロ  「イエス」
> 自覚とはなんですか?
> ゼロさんか親鸞会の関係者だということを勘案すると、「高森会長のいうような
>火をさわったよりも明らかな大自覚」という意味ならノーですが、疑い晴れたか
>どうかが分からないという意味ではありません。

【0】では、自ら「自覚」という言葉を使い、【1】では、私が「自覚」という言葉を使うことを非難される。あいかわらずメチャクチャですね。
どういうことか説明してください。

私が意味する「自覚」は、「分かる」「ハッキリする」という意味です。

 念のために言っておきますが、 
「分からないと、救われたと安心できない」とか「ハッキリしたのが救われた証拠」と私が言っているのではありませんからね。
 勝手に妄想しないでくださいね。

 疑い無いのに分からないのはありえないし、金輪際疑い無い身になったのにハッキリしないなんてことはありえないのですよ。
 それともあなたの無疑は「ボンヤリ」しているのですか?
 その「ボンヤリ」の逆が「ハッキリ」です、「自覚」です。
 「ハッキリ」したのが無疑とはいえませんが、無疑とはハッキリした状態です。
 もし「ボンヤリ」した無疑が正しいと思うのなら、そう言ってください。

あなたは、「自覚」「分かる」「ハッキリ」するという言葉がつくと、ことごとく否定するので、
「本願に疑い晴れた」ことについても「自覚」という言葉を使えば「ノー」と答えると思って質問したのです。
そうすれば、お互いの主張が違いますから、議論の焦点もハッキリするだろうと思ってのことです。

ところが、あなたは

> 疑い晴れたかどうかが分からないという意味ではありません。

と答えてきました。
これはどういう意味でしょう?
あなたの表現はとって回って言い方ですが、結局、

「疑い晴れたかどうか、分かる」

という意味ですか?
モゴモゴせずにスパッと答えてください。

もし、分かるなら、それは「獲信した人の心」で分かるのですか?

それとも「疑い晴れたかどうか」はあくまで法の上のことで、「獲信した人」は疑い晴れてないのですか?

前の回答も大事なところがぼやかされていましたので、もっとハッキリ答えてください。

妄想上の「前提」云々は関係ないですから、あなたの答えをズバリ示してください。

あと、「獲信した人は弥陀の本願に疑い晴れた自覚がある」と言ってもいいのか、
絶対に言ってはならないのか、ハッキリさせてください。

>
> 【2】
> 「獲信した人は、かならず弥陀の浄土に生まれることができる、と喜ぶ心がある」
>  宮田さん「ノー」
>  ゼロ  「イエス」

> 浄土往生をさせるとよびかけられる本願を喜ぶ心はありますが、ゼロさんがいうところの「智慧の名号で浄土往生が知らされて」喜ぶ心はありません。

⇒ぼやかしてますね。
 「浄土往生をさせるとよびかけられる本願を喜ぶ心」とは、「かならず浄土に生まれることができる、と喜ぶ心」ですか?
 それとも、「浄土往生をさせるとよびかけられる本願を喜ぶ心」はあるけれども、
 「かならず浄土に生まれることができる、と喜ぶ心」まではない、ということですか?

> 【3】
> 「獲信した人も、弥陀の浄土へ参るか地獄へゆくか、本願では定まっているが、
> 心は定まっていない」
>  宮田さん「イエス」
>  ゼロ  「ノー」

> これも、心が定まるの記述から、信心=心 という前提が書いておられませんか?
> 設問全て「自覚がある」「心がある」「心が定まっていない」と、「心の有り様」を問題にしておられるようです。

「平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。
 平生のとき不定の念に住せば、かなふべからず」(執持鈔)

「不定の念」は、「心の有り様」ではありませんか?

 覚如上人に何か文句でも?

「信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。
 されば不信のひともすみやかに【決定のこころ】をとるべし。」
                         (御正忌の御文章)

と、心を問題にされる蓮如上人を非難なさるのですか?

「自力の信心(自力心)」では助からない
「他力の信心(他力心)」一つで助かる。

これが浄土真宗の教えではありませんか?

自力の信心(自力心)は「不定の念」
他力の信心(他力心)は「決定心」

煩悩は変わらないままで「自力心・不定心」が死んで「他力心・決定心」に生まれ変わるのですから心が大変わりします。
逆にいえば、心以外は何も変わりません。
(もちろん、煩悩は変わりません)

心を問題して何が悪いのですか?

本当に何度も何度もいいますが、
私が問題にしているのは「自覚」がなければ安心できない、ということではありませんよ。

「聖人一流の御勧化の趣は信心をもって本とせられ候」

「信心」一つが親鸞聖人のみ教えですよ。
「心」以外に、何か問題にすべきことがありますか?

親鸞聖人の教えの根本を否定されるおつもりですか?

「心」を問題にするのがなぜいけないのか、答えてください。

> ゼロさんに、ここは大事なところなのでお答え下さい。
> ゼロさんのいう「信心(無疑)」とは「信心=心」ということでよろしいでしょうか?

「無疑心=他力の信心=他力心=二種深信」です。

ただ、これは言葉遣いの問題ですが、

名号を獲得することを、「他力の信心」を獲得する、という言い方をすることはあります。

ちょうど、「嫁」をもらうという言い回しと同じで、本当は娘さんをもらうのですが、
慣例として、「嫁」をもらうと言います。

同じように、本当は「名号」を獲得するのですが、「他力の信心」を獲得する、
という言い回しもありますので、混乱なきようお願いします。

もちろん「無疑 ≠ 自力の信心」「無疑 ≠ 煩悩」です。

「信心(無疑)」とは「信心=心」ですかとのお尋ねですが、上記のような場合わけが
必要なのは当然でしょう。

>  ●ゼロの主張
>  1:【「ハッキリした」だから「救われた(無疑)」】などとは思っていません。
>  2:【「分かった」だから「救われた(無疑)」】などと思っていません。
>  3:「浄土往生に無疑」とは、「死後、弥陀の浄土へ往って仏に生まれる」こ
> とに疑い晴れた、ということ。
>    この世で極楽世界がありありと分かり、仏様を拝見するという意味ではな
> い。
> 3について、仏智でわかると言われていましたが、どういうことでしょうか?

どういうこととは、どういうことでしょうか?

獲信した人が、智慧の名号をいただかないとでも言うのですか?

 名号をいただいても、私を離れた名号で、私には何も分からない、ということですか?

 名号と一体になっても本願に誓われたことが知らされないなら一体になっているといえないではないですか。
 南無阿弥陀仏の主になっても、本願まことと知らされないのですか?
 南無阿弥陀仏によって救われる(疑い晴れる)のではないですか?

「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる【こころ】なり。
              (御正忌の御文章)

円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、
信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なり
              (教行信証 総序)

一心念 仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、
喜・悟・信の三忍を獲べきなり。喜・悟・信の三忍といふは、
一つには喜忍、二つには悟忍、三つには信忍なり。
喜忍といふは、これ信心歓喜の得益をあらはすこころなり。

【悟忍といふは、仏智をさとるこころなり】。

信忍といふは、すなはちこれ信心成就のすがたなり。
しかれば韋提はこの三忍の益をえたまへるなり。
これによりて真実信心を具足せんひとは、韋提希夫人にひとしく三忍をえて、
すなはち法性の常楽を証すべきものなり。
正信偈大意)
あなたの教える三忍は、

「本願のいわれを知り、疑いないという意味での三忍はあります」ですからね。

一体、どんな「サンニン」を獲たのやら。

 智慧の念仏うることは
 法蔵願力のなせるなり
 信心の智慧なかりせば
 いかでか涅槃をさとらまし
     (正像末和讃

あなたの教えは「信心の智慧」がない「獲信」ですか?
そうなら、浄土往生はできませんし、親鸞聖人の教えではありませんね。

断っておきますが、もちろん、智慧の名号・信心の智慧で何もかも分かるものではありません。

7月7日Aにもハッキリ書いたとおりです。

  (※今後、あなたもコメントに日付をつけてもらえませんか?
    いつの発言なのか示しやすいように)

>  獲信すれば本願に疑い晴れますが、全てが分かるわけではありません。
>  たとえば、仏語の意味が全て分かるとか、お経がすらすら読めるように
>  なる訳ではありません。勿論、過去世の記憶がすべて蘇るとか、
>  死んだあとの生活が未来永遠にわたってありありと分かるものでもありません。
>  他の人が阿弥陀仏に救われたかどうかもハッキリしません。

智慧の名号によって、本願に対する疑いが晴れます。
本願どおりに救われ、「死後、浄土往生できるだろうか」の疑いが晴れます。
私の疑いを、阿弥陀仏南無阿弥陀仏で破ってくださるのですから、私の疑いが晴れるのです。

法の上では疑い晴れているが、人の上では晴れていないなんて馬鹿なことはありません。弥陀の本願を疑っていたのは「人」なのですから、

だからといって、浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、
仏が見えるのでもありません。

「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。

と『正信偈大意』に教えられているとおりです。

私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、
「仏が見える」とか聞いたことがありません。だから思ったこともありませんが、
あなた方の昔からのやりとりを読んでいると、そのような文章が散見されます。
一体、何を根拠に、相手がそんなことを思っていると思われているのですか?

こちらが思ってもいないことを、勝手に妄想し「間違ってる、間違ってる」というのはおかしくありませんか?

悪意さえ感じられます。

なぜ、そんなことを言うのか、理由を述べてください。

(同じような質問が繰り返されているようですが、ここでまとめて答えました)

> >獲信した人は(往生が)定まっています。
> >しかし、それは「浄土往生間違いなしと、私の方から言うこと」ではありません。

> すみませんが、「浄土往生間違いなしと、私の方から言うことではない」の意味が分かられますでしょうか?
>「法の上で明らかである」ということと「私の方でこう明らかに分かりました」ということは違います。

あいかわらず日本語が分かりにくいですね。
それとも都合が悪くなって、意味を変えたのですか?

「私の方から言うこと」とは、普通、「自分から言うこと」という意味にとれます。

何度も言ってきましたが、分かりやすい言葉を使ってください。
後で、「そういう意味ではない」というものが多すぎます。

> 『御臨末の御書』
> 我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す
> これは、現在親鸞聖人の書かれたものではなく、作者未詳の文章なので「親鸞聖人のお言葉として」は根拠になりません。

⇒7月5日Bにこう書いています。

> お聖教の根拠は、法蔵館の『真宗聖典』『帖外御文』『正信偈大意』
> からということでどうでしょう。伝説やら、寺に代々伝わる古文書などは含まないということです。
> (傍証として『教行信証講義』はいれておきましょうか)
>
> 異論がある場合は、理由を添えて、次回のコメントまでにお願いします。
>
> 返事がない場合は、了承したものと判断しますね。

いまさら、『真宗聖典』に掲載されている『御臨末の御書』が根拠にならないという言い訳は通りません。

> 『執持鈔』
> われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし
> このご文は、その前をうけてのことです。
> 仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし(執持鈔)
>
> 「仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや」と、本願に疑い無いという意味でこのご文は書かれています。
> 「名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。」
> ・名号を正定業となづけられるのは、阿弥陀仏の本願力を信受すれば往生の働きはまさしく定まるからである
> 「もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。」
> ・もし弥陀の名号を称え念じても、往生が定まらないなら正定業とはいわれない。
> 「われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし」
> ・その本願の名号を私は信受している、往生の業はその名号のお働きによって完成していることを喜ぶ。
> という文章です。
> 往生は、すでに本願の名号の上に成就していることをよろこんでおられるのであって、これは法の上でのことをいわれたもので、私の方からいわれたものではありません。

説明になっていません。
どう読んだら「往生は、すでに本願の名号の上に成就していること」のみを喜んでおられる文章になるのですか。

あなたが訳した言葉でいえば名号を「信受すれば」私の往生が定まるのであって、「信受しなければ」私の往生は定まらないのですよ。
この執持鈔五段は、覚如上人の「自督」を告白されたお言葉ではありませんか。
覚如上人が本願に疑いないといわれているのは当然です。
「われ」がよろこんでおられるとしか読めません。
「われ」とあるのに、「ご自身」のことを言われていないとはどういうことですか?

※もちろん、覚如上人ご自身の力で本願の名号を持念されたのではありません。

> 『御文章』五帖目二十二通
> われらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、【極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし】。

> これも前の文章が大事なところです。

説明になっていません。
「疑い」とは人の心です。
【極楽にやすく往生す】で文章が終わっているなら、単なる説明ともいえましょう。
ですが、【さらになにの疑もなし】は心のことを言われています。

獲信するまでは、私の心が疑っているのです。
獲信したら、私の心が【極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし】となるのです。

なぜ強引に「疑」を心以外で解釈するのですか?

もしそうしたいのなら特別な理由が必要と思います。
説明してください。

宮田さんとのやりとりを繰り返してきましたが、

宮田さんの教えは、獲信しても、本人には何の安心も満足も、懴悔も歓喜もないのですね。

せいぜい

「法を聞けば有り難いの思いも起きますし、本願のいわれを知り、疑いないという意味での三忍はあります」程度。

現益を獲ても無自覚だし、

当益も、「お聖教にあるからそうらしい」というあてにならないもの。

察するに、あなたの変な体験が全て。お聖教をその「宮田さんの体験」にあわせて読んでいるだけのようですね。

南無阿弥陀仏をいただいた聖人の大歓喜が、あなたの教えにはどこにも見当たりません。

では、返事をお待ちしております。

2014/07/14




id:shinrankaiuso

いつものように長々と書いていますので、全部読む気にはなれませんが、簡単な話がいつまで経っても理解できていないのですね。

疑いが無くなるのは、何に対してか?

往生自体なのか
往生の道にたいしてなのか

文証は、往生の道に対してとしか示されていません。

往生に疑いが無くなる
=往生がどんなことか少なくとも理解できるような認識がある

こういうことになりますが、
文証によれば、往生がどんな生まれ方なのかを学問的に理解する能力が無くても往生できると曇鸞大師は仰っていますね、前に示した通りです。

では浄土が分るのかといえば、浄土とは真如の世界ですから、それを知る智慧がある訳もなし。

観経では、韋提希に対して釈尊が仰ったのが、
「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」
天眼通がなければ浄土を見ることはできないとも仰っています。

結局、往生が分るとは何が分ると言うことなのか?
結論は、何も分らない。

往生したい、それにはどうすれば?

の問いに対して、阿弥陀仏の本願、念仏、白道だけが唯一の道と分ることだけ。

ごちゃごちゃいってますが、この単純な話を屁理屈で誤魔化しているだけ。

2014/07/14




まさき

やっぱり根拠出せないんだ!

『往生が判らない判るで、自力と他力の違いを説明された根拠があるなら出してください。』

日本語ワカリマスカ? ゼロさんよ(笑)。

2014/07/14



まさき

根拠が出せないのを必死で誤魔化す為に、もっともらしい事をダラダラ長々と書いて煙に巻こうとするのは、親鸞会の常套手段です。

皆、全文なんか読んでいませんよ。
根拠を書いているのか、いないのか、チェックポイントはそれだけです。
根拠が出せなければ、親鸞聖人の御教えに反する異安心確定というだけの話です。

いつまで経ってもキリがありませんので、さてさんが示された『往生が判らない判るで、自力と他力の違いを説明された根拠があるなら出してください。』に対して根拠が出せなかったら、もう相手にする必要はないと思われます。

未信のゼロさんになんで宮田さんの信心がわかるのですか?
笑わせないで下さい。
信心詐称しても無駄ですよ。
一味じゃない人はわかるのです。
この世界に出ていないから、誤魔化せると思っているだけです。
本当に愚かな人ですね。

獲信者は、浄土往生できることが分かって喜んでいるのではないのです。
『念仏』を喜んでいるのです。

残念なことに、高森教に洗脳されているゼロさんには、いくら言っても届きませんね・・・私の言葉は。

2014/07/14

ゼロさんへの反論

山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ(7月14日A)

○レッテル貼りと結論ありきは議論ではありません。

コメント有り難うございました。4050文字の長文を書かれるのは大変だったと思います。
やはり、文章は短めにお願い致します。

今回から、ご指摘を頂き日付を入れました。今回は内容別にコメントを分割しました。
ゼロさんが、親鸞会の会員なので、以下のように思われるのは勝手ですが、あまりにも短絡的だと思います。

○以下 ゼロさんのコメント(7月14日より)

あなたの「本願に疑い晴れた」は口先だけ。
察するに、あなたが何か変わった「体験」をして、それを獲信と誤解し、その「あなたの体験」からお聖教を解釈しているから正しく読めないのですよ。
どうやら「あなたの教え」では、獲信しても、名号はまだ阿弥陀仏のお手元で、本人の手元にはないようですね。

宮田さんの教えは、獲信しても、本人には何の安心も満足も、懴悔も歓喜もないのですね。
せいぜい
「法を聞けば有り難いの思いも起きますし、本願のいわれを知り、疑いないという意味での三忍はあります」程度。
現益を獲ても無自覚だし、
当益も、「お聖教にあるからそうらしい」というあてにならないもの。
察するに、あなたの変な体験が全て。お聖教をその「宮田さんの体験」にあわせて読んでいるだけのようですね。
南無阿弥陀仏をいただいた聖人の大歓喜が、あなたの教えにはどこにも見当たりません。

前回のコメントから顕著になってきたゼロさんの一方的な決めつけがよりはっきりしてきました。コメントのやりとり以前に、上記の結論ありきで話を進めているようにしか思えません。
こちらの質問にはまともに答えず逃走準備に入ったと言うことでしょうか?

・「あなたの教え」
・「あなたの体験」
・「お聖教を宮田さんの体験にあわせて読んでいる」
は、親鸞会お決まりの退会者に対するレッテル貼りですね。このままの文章が、機関誌か講師部の内輪の小冊子にでも掲載されるんでしょうか?これだけ長文のやりとりをしていれば、親鸞会でどんな立場の人が書いているかは、私の勝手な妄想ですが見当がつくというものです。

そもそもゼロさんが、上記のようなことを言い出す理由は、ほとんどが「宮田の書いた文章が分からない」というものです。このブログのコメント欄をみた、現役会員以外の人はほとんど分かると思います。

以下は、ゼロさんのコメントにあった文章ですが、勝手にレッテル貼りをすることに対してそのままお返しします。

(ゼロさん 7月14日)
こちらが思ってもいないことを、勝手に妄想し「間違ってる、間違ってる」というのはおかしくありませんか?
悪意さえ感じられます。

私の勝手な予想では、今までの親鸞会では次のコメントで勝利宣言して逃走のパターンですね。
少なくとも、2012年の弘宣局長のような、「検討する」といいながら法論からとんずらするようなみっともない真似はしないで下さいね。ゼロさんの答えてない部分はきちんと説明してください。よろしくお願い致します。
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-0cd9.html
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120403/1333433756
(637語)

2014/07/14

山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ(7月14日B)

○宮田からゼロさんへの質問と回答部分について
 ゼロさんは他力信心=心 と告白

前回のコメントで、私はゼロさんに「信心=心」と思っておられるのでは?と尋ねました。
それに対する以下の部分がゼロさんのコメントです。

(ゼロさん7月14日のコメントより抜粋)
> これも、心が定まるの記述から、信心=心 という前提が書いておられませんか?
> 設問全て「自覚がある」「心がある」「心が定まっていない」と、「心の有り様」を問題にしておられるようです。
「平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。
 平生のとき不定の念に住せば、かなふべからず」(執持鈔)
「不定の念」は、「心の有り様」ではありませんか?

私が「心の有り様」と言ったのは、「(他力)信心」を言うときに、心の有り様を問題にしているのではないかと言ったのです。
「不定の念」は、自力疑心ですから、私の質問の答えになっていません。

(ゼロさん7月14日のコメントより抜粋)
 覚如上人に何か文句でも?

そのままお返しします。

(ゼロさん7月14日のコメントより抜粋)
「信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。
 されば不信のひともすみやかに【決定のこころ】をとるべし。」
                         (御正忌の御文章)
と、心を問題にされる蓮如上人を非難なさるのですか?

「決定のこころ」とは「決定心」の心ですから、他力信心の事です。
蓮如上人は、信心をいわれる時、自分の心を問題にされてはいません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章5帖目5通)

信心獲得とは、第十八願をこころうることであり、南無阿弥陀仏のすがたをこころうることであると言われています。

そこで、「こころうる」について、御一代記聞書では、以下のように言われています。

一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。(御一代記聞書 法蔵館の真宗聖典では213)

ここでは「少しも心得たると思ふことはあるまじきことなり」と言われています。そのあと口伝鈔を引かれて「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」と言われています。弥陀の仏智とは、弥陀の仰せである南無阿弥陀仏の事です。南無阿弥陀仏をたのむより、凡夫の往生はないと言われています。

つまり、他力の信心とは、「南無阿弥陀仏のすがたをここうる」ことですが、御一代記聞書には「少しも心得たると思ふことはあるまじきことなり」とあります。これは、自分の心の有り様のことを指したものではないと言うことです。南無阿弥陀仏の仰せにしたがっただけです。それを信心と言うのです。私の心を信心とは言いません。

(ゼロさん7月14日のコメントより抜粋)
「自力の信心(自力心)」では助からない
「他力の信心(他力心)」一つで助かる。
これが浄土真宗の教えではありませんか?

ゼロさんは信心=心と言われたので、その定義で言えば間違いです。「単語」だけはあってます。ゼロさんのいわんとされる意味では間違いです。

自力の信心(自力心)は「不定の念」
他力の信心(他力心)は「決定心」
煩悩は変わらないままで「自力心・不定心」が死んで「他力心・決定心」に生まれ変わるのですから心が大変わりします。
逆にいえば、心以外は何も変わりません。
(もちろん、煩悩は変わりません)

では、自力心は煩悩とは違うのですね?
親鸞会教義と浄土真宗の教義が同じか違うかのところですから、答えて下さい。

心を問題して何が悪いのですか?

「信心=心」ではないからです。ゼロさんも「聞即信」という言葉は知っていますよね?
「聞いたのが信心」であって、「信心=心」ではありません。

本当に何度も何度もいいますが、
私が問題にしているのは「自覚」がなければ安心できない、ということではありませんよ。

では、何を問題にしておられるのですか?

以下の文章を読む限りは「自覚」を問題にされているようですが?

(ゼロさん7月14日のコメントより抜粋)
「明らかに知られたり」の蓮如上人とはまったく違う世界ですね。
「知る」のは、「心が知る」のですから。当然ながら。
(略)
宮田さんとのやりとりを繰り返してきましたが、
宮田さんの教えは、獲信しても、本人には何の安心も満足も、懴悔も歓喜もないのですね。
せいぜい
「法を聞けば有り難いの思いも起きますし、本願のいわれを知り、疑いないという意味での三忍はあります」程度。
現益を獲ても無自覚だし、
当益も、「お聖教にあるからそうらしい」というあてにならないもの。

(ゼロさん7月14日のコメントより抜粋)
「聖人一流の御勧化の趣は信心をもって本とせられ候」
「信心」一つが親鸞聖人のみ教えですよ。
「心」以外に、何か問題にすべきことがありますか?
親鸞聖人の教えの根本を否定されるおつもりですか?
「心」を問題にするのがなぜいけないのか、答えてください。

信心=心ではないからです。理由は、教行信証信巻には出体釈がないからです。
ゼロさんは、信心の体はなんだと思っておられますか?それでも「信心=心」と言われますか?

(ゼロさん7月14日のコメントより抜粋)
> ゼロさんに、ここは大事なところなのでお答え下さい。
> ゼロさんのいう「信心(無疑)」とは「信心=心」ということでよろしいでしょうか?
「無疑心=他力の信心=他力心=二種深信」です。
ただ、これは言葉遣いの問題ですが、
名号を獲得することを、「他力の信心」を獲得する、という言い方をすることはあります。
ちょうど、「嫁」をもらうという言い回しと同じで、本当は娘さんをもらうのですが、
慣例として、「嫁」をもらうと言います。
同じように、本当は「名号」を獲得するのですが、「他力の信心」を獲得する、
という言い回しもありますので、混乱なきようお願いします。

上記で他力心=心と説明しているので、説明になっていません。例えは結構ですから根拠を出してください。次回、回答がないときは、信心=心と書いたのは高森会長から聞いただけでお聖教に根拠はないということにしておきます。
異論があればよろしくお願い致します。

(ゼロさん7月14日のコメントより抜粋)
もちろん「無疑 ≠ 自力の信心」「無疑 ≠ 煩悩」です。
「信心(無疑)」とは「信心=心」ですかとのお尋ねですが、上記のような場合わけが
必要なのは当然でしょう。

上記にも書きましたが、説明になっていません。
また、そうすると「疑心≠煩悩」ということでしょうか?繰り返しますが、大事なところなのでお答え下さい。

まだ、書くべきことはありますが、今日は時間の都合でここまでにします。
できれば、明日の朝出かけるまでには続きを書きたいと思います。

 疑い無いのに分からないのはありえないし、金輪際疑い無い身になったのにハッキリしないなんてことはありえないのですよ。

など、ゼロさんの文章はどれも一々こちらが確認をとったり、突っ込みを入れたくなる部分ばかりです。今日の持ち時間では書ききれませんでした。
今回書ききれなかった部分は、必ず書きますのでくれぐれも、勝手に勝利宣言しないで下さいね。よろしくお願い致します。
(1780語)

2014/07/14



やめやめ学徒

ナビさんの人格は、終了ですか(笑)

信心決定とは、自力を捨てて、他力に帰すことでしょ。
これって、往生の方法のことでしょ。

やっぱり、往生の道がハッキリしたのが、信心。

ゼロさんの人格が無くなるのも時間の問題(笑)

2014/07/14

とくよしみね

最初の「真に知んぬ」の言葉の解釈からどんどん話をずらし、今では信心の味わいに話を持って行こうとしている。
それも会長の書かれている味わいなのでお聖教と矛盾していることが多い。
また、味わいとお聖教の根拠ではどこまで行っても平行線。なんとでも言えるからこれ以上は議論しても議論にならない。
レッテル効果も利用しようとしている。
親鸞会らしい議論の進め方ですね。
やはり議論を最初で終わっていると思います。これ以上は不毛の議論と思います。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

2014/07/15




とくよしみね

すみません、訂正です。

最後の行

議論を → 議論は

でした。

2014/07/15





山も山 (id:yamamoya)

ゼロさんへ(7月15日A)

【0】
> 前者は、本願に疑い晴れた上での自覚として【私に往生浄土の自覚はない】と
>言っているだけです。いわば、無疑となったことを私の側からいった言い方です。
> 後者は、本願に疑い晴れたことを無疑といっているだけです。(宮田さんの答え)
⇒> 前者は、無疑となったことを私の側からいった言い方です。
 は、機の深信の立場から
> 後者は、本願に疑い晴れたことを無疑といっているだけです。
 は、法の深信の立場から、と理解すればいいでしょうか?
 (本来、二種深信は機法分けられませんが、説明する上では分けざるをえないですよね)

誤解されているようなので言っておきます。二種深信は、信心の相をいわれたものですから機の深信といっても法の深信といっても分けられません。
上記書いた前者は、自覚の上でのこと。後者は、無疑そのものについて言っています。

⇒それにしても宮田さん、またも【私に往生浄土の自覚はない】と断言しましたね。
 結局、あなたの教えは、法の上では無疑だが、私の自覚としては「死後、浄土に往生できるかどうかは疑い晴れない」ということですね。

これも人の言わないことを妄想で書いていますね。
私は、「浄土往生は分からない」と言っているだけで、浄土往生を疑っているとは書いていません。「浄土往生を疑う」とは、往生自体を自分の持ち前としている状態のことです。阿弥陀仏の仰せに従ったなら、往生は自分の持ち前ではなく阿弥陀仏にまかせたことなので、さらに自分で疑ったりするものではなくなります。だからといって「浄土往生が分かる」というものではないと繰り返し書いています。
何度書いても分からないようですから、こちらも諦めて何度も書くようにします。

>「決定のこころ」をとっていない(弥陀から頂いていない)他力の信心などあろうはずがありません。
先のコメントにも書きましたが、信心=心ですか?この文章はそういう文章ですよね?

どうやら「あなたの教え」では、獲信しても、名号はまだ阿弥陀仏のお手元で、本人の手元にはないようですね。
だから「私の身の上で浄土に往生することは定まっていない」のであって、「法の上でのこと」の連発なのですよ。
「明らかに知られたり」の蓮如上人とはまったく違う世界ですね。
「知る」のは、「心が知る」のですから。当然ながら。

法の上でのことが連発が間違いなら、教行信証全体を否定することになるのですが、そういう自覚があって書いているのでしょうか?
「明らかに知られたり」も法の上でいわれていることですよ。それも分からないのですか?親鸞会発行の教学聖典では「(中略)」になっているから知らないとは言わないですよね?そもそもゼロさんがコメント欄で出した根拠も「(中略)」しているところは都合がわるいところですよね。上記の御文章も同様です。

他力信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御かたよりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。 (御文章5帖目12通)

他力信心は、「行者のおこすところの信心にあらず」であるといわれています。前のコメントに書きましたが、信心=心ではないということです。他力信心は、南無阿弥陀仏の仰せを聞く以外にないと知らされたといわれている御文章です。
また、他力の信心はこういうものと知らされたとあっても、浄土往生のことを明らかに知らされたとは書いておられません。

それから、予防線としてゼロさんは

(ゼロさん7月14日のコメントより抜粋)
「知る」のは、「心が知る」のですから。当然ながら。

と書きながら、

(ゼロさん7月14日のコメントより抜粋)
本当に何度も何度もいいますが、
私が問題にしているのは「自覚」がなければ安心できない、ということではありませんよ。

と書いていますが、これはどういうことでしょうか?

これも「信心=心」としてゼロさんが書いているとしか思えません。
ゼロさん、繰り返し書きますが、「信心=心」がゼロさんの理解でよろしいのですね?例えを出しておられましたが、あれは全く答えになっていませんので、改めてお願いします。

一気に書こうと思いましたが、ゼロさんのコメントは段落ごとに何かを書かずにおれない状態です。
時間が足りなくなりました。出かける時間なので、また続きは書きます。

2014/07/15



まさき

ああ、そうですか、そういうことですか。
おかしいと思ったんですよ。
自分は根拠も出せないくせに、急に宮田さんを異安心だと罵り始めたので…。
功を焦って、とうとう馬脚を現しましたね、ゼロさん。

あなたは最初から『親鸞聖人の正しい御教え』を明らかにする気などなかった。
あなたの目的は、宮田さんを陥れることだけ。
だから親鸞聖人の御教えから文証を挙げる必要などないわけです。
親鸞聖人なんて、ど~でもいいのですからね、ゼロさんにとっては。
とにかくテーマなんか何でもいい、宮田さんに言い掛かりを付けて、一方的に異安心と決めつけて、勝利宣言ができればそれでいいわけです。
本当に最低ですね、クズです、カスです、汚過ぎます。

でもね、法論は、根拠が出せない時点で完敗なのですよ。
そんなことも分からないのですか?
そうか…「類は友を呼ぶ」の言葉通り、あの高森会長に洗脳されたゼロさんのことですから、常識なんか通用しませんよね。
これでは、本願寺があきれ返って相手にしなくなるハズです。

もうゼロさんが、何を言っても私は信じません。
私が『念仏』の話をしても無視し続けた理由もこれで分かりました。
普通、真面目に求道・聞法している人なら、『念仏』の話をすれば、必ず興味を持ってもらえます。
でも、ゼロさんにとっては、『念仏』なんて邪魔くさいだけ。
「高森教高森会」を守るのが、あなたの人生の目的ですから、その為には『尊い念仏の法』を説く宮田さんは、邪魔でしかないというわけですね。
これで、よ~く分かりました。

あなたは、一体何をしているのですか?
我が身の『後生の一大事』は、どうするつもりなのですか?

信後に浄土往生が分かるかどうかなんて、未信のあなたには関係のない話です。
『念仏』を誹謗し、信心を詐称したあなたの行き先は、もう決まっています。

もちろん“無間地獄”です。

“無間地獄”は、堕ちていくまでに二千年かかるそうです。
あなたの場合、悪業の造りかたが凄まじいので、一度沈んだらもう二度と浮かんではこられないでしょうね。

言っておきますが、臨終に菩薩の説法を聞いて救われるなんてことは、ありませんから。
本当に、あの詐欺森、いや高森会長の言う事は嘘八百だらけですよ。
騙されているのですよ、会員全員。

人生の日暮れが、もう近づいてきていますよ。
いいんですか?ゼロさん。
もうすぐですよ、もうすぐ息が切れますよ。

まあ、何を言っても響かないのなら、二千年かけて、どうぞ“無間地獄”に堕ちていって下さい。

2014/07/15



id:shinrankaiuso

ゼロさんの最初の方のコメント

>駄々っ子のような低レベルのところでとどまらず、もっと意義のある
>議論をしませんか?


>●金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、
> 【必ず】現生に十種の益を獲。
> なにものをか十とする。(中略)十には入正定聚の益なり。
>     (教行信証『信巻』・親鸞聖人)

>についてですが、宮田さんは、獲信しても、現生十種の利益の
>自覚はない、ということでしょうか?


>●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
> 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

>と親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
>「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

>「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

>ということでしょうか?
>分かりやすく教えてもらえませんか。

この2つの根拠を早々に撤収しましたが、その時点で終わりなんですよ。

親鸞会の英知(?)を結集したところで、所詮はこの程度のもの。
mixiでの大惨敗を忘れたのか、汚名返上に燃えているのか知りませんが、どんなに頑張ったところで高森教学の域に納まっているうちは、敵にならないのですよ。

あわよくば、新人太郎のときのように冊子にして会員に配りたかったのでしょうが、残念でした。

2014/07/15



まさき

かぼちゃさんが敗退した直後に現れたのが、ゼロナビさんです。

親鸞会もかなり焦っているようですね。
もはや“なりふりかまわず”という状態です。

今や残っている会員は、ネットを見ないお年寄りか、ゼロさんのような『後生の一大事の解決』には興味が無く、ひたすら組織を守りたいという輩だけ・・・。

若者はすぐネットで調べて、怪しいものには近づきませんからね。
それに大学側も以前よりキチンとカルト対策をするようになってきました。
これでは、若い会員が増えなくて大変ですよね。
若い会員がいないということは即ち“親鸞会には未来がない”ということです。

若い会員が増えないばかりか、私のようにネットを見て“親鸞会の邪義”に気付き、退会する者もおりますし。
なるほど、ネット対策しないことには、会員の流出が止まらないわけだ・・・。

会員の流出を止める為に「なぜ生きる2」を出版したのに、効果ありませんでしたか?
現世利益をちらつかせる新興宗教になり下がった親鸞会を何でそこまでして守りたいのですかね?ゼロさんは。

宮田さんが書いても書いても、ナビさんは『頭下足上』だから分からないのですよ。

二千年かけて頭下足上で“無間地獄”に堕ちていかねばならないゼロさんには、いつまで経っても分からないのです。

2014/07/15




山も山id:yamamoya
ゼロさんへ(7月15日B)

一つ一つ気になることを書いていくとどうしても長くなるので、このコメントはゼロさんの2014年07月14日(月)コメントで私に質問された箇所だけに絞って書きます。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
> 【1】
> 「獲信した人は弥陀の本願に疑い晴れた自覚がある」
>  宮田さん「ノー」
>  ゼロ  「イエス」
> 自覚とはなんですか?
> ゼロさんか親鸞会の関係者だということを勘案すると、「高森会長のいうような
>火をさわったよりも明らかな大自覚」という意味ならノーですが、疑い晴れたか
>どうかが分からないという意味ではありません。
【0】では、自ら「自覚」という言葉を使い、【1】では、私が「自覚」という言葉を使うことを非難される。あいかわらずメチャクチャですね。
どういうことか説明してください。
私が意味する「自覚」は、「分かる」「ハッキリする」という意味です。

本願を聞いて疑心あることないことを、私は無疑といっております。
疑心があるかないかと問われれば、「無い」と答えます。そういう点での「自覚」はありますが、「往生浄土の自覚」はありません。
ゼロさんは、「疑心がない+往生浄土」の自覚をさして「自覚」と言い続けているので、「そのような二つセットの自覚はない」といっています。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
 疑い無いのに分からないのはありえないし、金輪際疑い無い身になったのにハッキリしないなんてことはありえないのですよ。
 それともあなたの無疑は「ボンヤリ」しているのですか?

ゼロさんの「無疑」は、前述しましたが「疑心がない+往生浄土」の自覚なのですから、そういうハッキリはありません。疑心がないというのは、ぼんやりではありません。しかし、往生浄土の自覚はありません。それは何度もいってきたことです。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
> 疑い晴れたかどうかが分からないという意味ではありません。
と答えてきました。
これはどういう意味でしょう?

疑い晴れたかどうかは分かりますが、私の方ではそれ以外なにもありません。なにかあるかといえば、南無阿弥陀仏の本願招喚の勅命があるだけです。私の方には、往生浄土の自覚も何かが新しく分かるようになるといったものはありません。「直ちに来れ」の仰せを聞くより他になにか私にあるというのでしょうか?

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
「疑い晴れたかどうか、分かる」
という意味ですか?
モゴモゴせずにスパッと答えてください。
もし、分かるなら、それは「獲信した人の心」で分かるのですか?

疑い晴れたかどうかは分かりますが、それは「獲信した人の心」で分かるというよく分からない日本語で説明する必要のないことです。それまで「有った」ものが「無い」のですから、凡夫でもわかります。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
それとも「疑い晴れたかどうか」はあくまで法の上のことで、「獲信した人」は疑い晴れてないのですか?

これも問いが迷走していますね。ゼロさんかなり混乱しているのではないですか?
そんなことを書いていると、長くなるので簡潔に書いて行きます。

疑いとは、あくまで私の持ち前のものです。南無阿弥陀仏の仰せに直接すると、私の方からあれやこれやと出してくるものを疑いといいます。それがないのが信心ですから、獲信した人は本願に疑い晴れています。ただ、「往生浄土の自覚」はないとくりかえしいっております。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
あと、「獲信した人は弥陀の本願に疑い晴れた自覚がある」と言ってもいいのか、
絶対に言ってはならないのか、ハッキリさせてください。

繰り返しになりますが、本願に疑い晴れた自覚はあります。往生浄土の自覚はありません。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
> 【2】
> 「獲信した人は、かならず弥陀の浄土に生まれることができる、と喜ぶ心がある」
>  宮田さん「ノー」
>  ゼロ  「イエス」
> 浄土往生をさせるとよびかけられる本願を喜ぶ心はありますが、ゼロさんがいうところの「智慧の名号で浄土往生が知らされて」喜ぶ心はありません。
⇒ぼやかしてますね。

いえ、「智慧の名号で浄土往生が知らされて」喜ぶ心はないといっています。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
 「浄土往生をさせるとよびかけられる本願を喜ぶ心」とは、「かならず浄土に生まれることができる、と喜ぶ心」ですか?
 それとも、「浄土往生をさせるとよびかけられる本願を喜ぶ心」はあるけれども、
 「かならず浄土に生まれることができる、と喜ぶ心」まではない、ということですか?

決定要期の心である欲生我国は、私の心ではなく阿弥陀仏の本願に誓われた心です。

「浄土往生をさせるとよびかけられる本願を喜ぶ心」はある

これで何か不満があるんでしょうか?阿弥陀仏の本願に対して「私に往生浄土の自覚も与えよ」と要求しいる心をゼロさんは告白しているのですが、それを疑心というのです。自覚なかったようなので、元親鸞会会員だったよしみでお知らせしておきます。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
> 【3】
> 「獲信した人も、弥陀の浄土へ参るか地獄へゆくか、本願では定まっているが、
> 心は定まっていない」
>  宮田さん「イエス」
>  ゼロ  「ノー」
> これも、心が定まるの記述から、信心=心 という前提が書いておられませんか?
> 設問全て「自覚がある」「心がある」「心が定まっていない」と、「心の有り様」を問題にしておられるようです。
「平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。
 平生のとき不定の念に住せば、かなふべからず」(執持鈔)
「不定の念」は、「心の有り様」ではありませんか?
 覚如上人に何か文句でも?
「信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。
 されば不信のひともすみやかに【決定のこころ】をとるべし。」
                         (御正忌の御文章)
と、心を問題にされる蓮如上人を非難なさるのですか?
(以下略)

これについては7月14日Bで書いたので省略します。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
>  ●ゼロの主張
>  1:【「ハッキリした」だから「救われた(無疑)」】などとは思っていません。
>  2:【「分かった」だから「救われた(無疑)」】などと思っていません。
>  3:「浄土往生に無疑」とは、「死後、弥陀の浄土へ往って仏に生まれる」こ
> とに疑い晴れた、ということ。
>    この世で極楽世界がありありと分かり、仏様を拝見するという意味ではな
> い。
> 3について、仏智でわかると言われていましたが、どういうことでしょうか?
どういうこととは、どういうことでしょうか?

くりかえしますが、私の側からいえば本願に疑心がないというだけです。
「仏智で分かる」とは、私に仏智がそなわり、仏智と等しい智慧が身に付くとした読めないので尋ねました。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
獲信した人が、智慧の名号をいただかないとでも言うのですか?

名号を頂くとは、本願招喚の勅命を聞き入れた事です。智慧が身に付くことではありません。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
名号をいただいても、私を離れた名号で、私には何も分からない、ということですか?

現前の仏勅が、なぜ私を離れているといえるのか分かりません。こういう文章を書くと、ゼロさんにとって南無阿弥陀仏は現前の仏勅ではなく、離れたところにあると告白していることを自覚されたらいいです。それを疑心と言うのです。自覚なかったようなので、元親鸞会会員だったよしみでお知らせしておきます。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
 名号と一体になっても本願に誓われたことが知らされないなら一体になっているといえないではないですか。

機法一体の勘違いです。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
 南無阿弥陀仏の主になっても、本願まことと知らされないのですか?

本願まことと、本願の仰せを現前の仏勅と聞き入れます。ただ、「往生浄土の自覚」は有りません。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
 南無阿弥陀仏によって救われる(疑い晴れる)のではないですか?

本願招喚の勅命ですから、私の疑いを晴らして下さるのは南無阿弥陀仏です。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
あなたの教える三忍は、

別に変わったことは教えていません。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
「本願のいわれを知り、疑いないという意味での三忍はあります」ですからね。
一体、どんな「サンニン」を獲たのやら。

人格攻撃ですか?ゼロさんが高森会長から聞いて妄想している「サンニン」と違ったら全否定するのはいい加減改めた方がゼロさんのためです。詰まる所は、ゼロさんはお聖教にあることより、「高森会長から聞いたこと」に合致しない限り納得しないわけですね。
以前、ゼロさんは以下のように書かれています。

(ゼロさん2014年07月1日のコメントより抜粋)
私は、救われていても救われていなくても、生涯、親鸞聖人のみ教え、お言葉を
根拠に示します。

その通りに言行一致することを希望します。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
 智慧の念仏うることは
 法蔵願力のなせるなり
 信心の智慧なかりせば
 いかでか涅槃をさとらまし
     (正像末和讃
あなたの教えは「信心の智慧」がない「獲信」ですか?

智慧の念仏をうることを、また「信心の智慧」といわれたご和讃です。「智慧の念仏」については、親鸞聖人は以下のように左訓されています。

「弥陀のちかひをもつて仏(ほとけ)になるゆゑに、智慧の念仏とまうすなり」(異本)

阿弥陀仏の本願は、私を仏にするとのお誓いです。そのお働きが念仏ですから、智慧の念仏といいます。その智慧の念仏を私がそのまま聞き入れたことを「信心の智慧」といわれています。本願を聞き入れているのですから信心の智慧はあります。しかし、繰り返しますが、「浄土往生の確信」は有りません。

また、上記の正像末和讃について、蓮如上人は夏御文1通に以下のようにかかれています。

それ安心と申すは、もろもろの雑行をすてて一心に弥陀如来をたのみ、今度のわれらが後生たすけたまへと申すをこそ、安心を決定したる行者とは申し候ふな れ。このいはれをしりてのうへの仏恩報謝の念仏とは申すことにて候ふなり。されば聖人(親鸞)の『和讃』(正像末)にも、「智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり」(三五)「信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」(三四)と仰せられたり。このこころをもつてこころえられ候はんこと肝要にて候ふ。(夏御文1通)

雑行をすてて弥陀をたのみ、阿弥陀仏の仰せに従ったのが信心であるといわれています。智慧か身に付いたことを信心とはいわれていません。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
そうなら、浄土往生はできませんし、親鸞聖人の教えではありませんね。

ゼロさんがいう信心が浄土真宗ではないのです。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
断っておきますが、もちろん、智慧の名号・信心の智慧で何もかも分かるものではありません。
7月7日Aにもハッキリ書いたとおりです。
  (※今後、あなたもコメントに日付をつけてもらえませんか?
    いつの発言なのか示しやすいように)
>  獲信すれば本願に疑い晴れますが、全てが分かるわけではありません。
>  たとえば、仏語の意味が全て分かるとか、お経がすらすら読めるように
>  なる訳ではありません。勿論、過去世の記憶がすべて蘇るとか、
>  死んだあとの生活が未来永遠にわたってありありと分かるものでもありません。
>  他の人が阿弥陀仏に救われたかどうかもハッキリしません。
智慧の名号によって、本願に対する疑いが晴れます。
本願どおりに救われ、「死後、浄土往生できるだろうか」の疑いが晴れます。
私の疑いを、阿弥陀仏南無阿弥陀仏で破ってくださるのですから、私の疑いが晴れるのです。

このあたりは、大事なところなので、次の7月15日(火)Cで書きます。質問もあるのでお答え下さい。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
法の上では疑い晴れているが、人の上では晴れていないなんて馬鹿なことはありません。弥陀の本願を疑っていたのは「人」なのですから、
だからといって、浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、
仏が見えるのでもありません。

以前は、コメントでそのようなことを書いていましたね。それも次の7月15日(火)Cで書きます。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれども かの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしまし ますといへるこころなり。
と『正信偈大意』に教えられているとおりです。
私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、
「仏が見える」とか聞いたことがありません。

いえ、そんなことをいうために根拠を出しています。次の7月15日(火)Cで書きます。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
あなた方の昔からのやりとりを読んでいると、そのような文章が散見されます。
一体、何を根拠に、相手がそんなことを思っていると思われているのですか?

次の7月15日(火)Cで書きます。

こちらが思ってもいないことを、勝手に妄想し「間違ってる、間違ってる」というのはおかしくありませんか?

次の7月15日(火)Cで書きます。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
悪意さえ感じられます。
なぜ、そんなことを言うのか、理由を述べてください。
(同じような質問が繰り返されているようですが、ここでまとめて答えました)

次の7月15日(火)Cで書きます。また、悪意はゼロさんにあるのではないですか?
私はゼロさんには、何の恨みも有りません。ただ、分かる日本語で書いて欲しいと思っているだけです。
レッテル貼りをして、「変わった体験を宮田はした」と妄想を書くあたりは悪意はないのでしょうか?

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
あいかわらず日本語が分かりにくいですね。
それとも都合が悪くなって、意味を変えたのですか?

それは妄想です。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
> 『御臨末の御書』
> 我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す
> これは、現在親鸞聖人の書かれたものではなく、作者未詳の文章なので「親鸞聖人のお言葉として」は根拠になりません。
⇒7月5日Bにこう書いています。
> お聖教の根拠は、法蔵館の『真宗聖典』『帖外御文』『正信偈大意』
> からということでどうでしょう。伝説やら、寺に代々伝わる古文書などは含まないということです。
> (傍証として『教行信証講義』はいれておきましょうか)
]]>
> 異論がある場合は、理由を添えて、次回のコメントまでにお願いします。
]]>
> 返事がない場合は、了承したものと判断しますね。

いまさら、『真宗聖典』に掲載されている『御臨末の御書』が根拠にならないという言い訳は通りません。

これは、2014年07月6日にナビさんのコメントの文章ですね。
ゼロさんは、書き間違えたといわれたようですが、その後ゼロさん名義で同じコメントがない以上「ナビさん」とのやりとりでは有効ですが、ゼロさんとの間では成立しません。また、ブログの閲覧者には「ナビさん」のコメントなのか「ゼロさんがナビさんと書き間違えて書いた」ものなのか判別できません。そもそも、書き間違えたといっても、「全部のナビさんのコメント」がゼロさんのハンドルネームの書き間違えなんでしょうか?

本当に「ナビさん」が、「ゼロさん」以外に存在するのかと、私に訊ねてきた人も有りました。
加えて、現在の文献研究から「御臨末の御書」か親鸞聖人の書かれたものでないことは常識です。だからこそ、法蔵館発行の親鸞会で使う真宗聖典も、著者別に掲載してあるにもかかわらず「御臨末の御書」は巻末に掲載されています。よって「法蔵館発行真宗聖典」にあるから、「親鸞聖人の仰ったこと」として根拠に出すのは不適当です。
根拠については、異論があります。法蔵館発行の真宗聖典に未収録の『帖外御文』『正信偈大意』を入れるというなら、七祖聖教も入れて下さい。また、浄土真宗聖典註釈版(本願寺出版)収録のお聖教も入れて下さい。
また、『教行信証講義』とありますが、誰の書かれたものでしょうか?教行信証の解説書は、戦後だけでも、大江淳誠先生,星野元豊先生などいろいろあります。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
どう読んだら「往生は、すでに本願の名号の上に成就していること」のみを喜んでおられる文章になるのですか。

ふつうに読めばそうなります。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
あなたが訳した言葉でいえば名号を「信受すれば」私の往生が定まるのであって、「信受しなければ」私の往生は定まらないのですよ。

名号を信受とは、現前の仏勅を聞き入れる事です。なにか「ものを頂く」ことでは有りません。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
この執持鈔五段は、覚如上人の「自督」を告白されたお言葉ではありませんか。
覚如上人が本願に疑いないといわれているのは当然です。
「われ」がよろこんでおられるとしか読めません。
「われ」とあるのに、「ご自身」のことを言われていないとはどういうことですか?
※もちろん、覚如上人ご自身の力で本願の名号を持念されたのではありません。

本願の上で、私の往生が成就していることを喜んでいると言うことです。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
「疑い」とは人の心です。
【極楽にやすく往生す】で文章が終わっているなら、単なる説明ともいえましょう。
ですが、【さらになにの疑もなし】は心のことを言われています。
獲信するまでは、私の心が疑っているのです。

疑心は、私の持ち前です。それは、前述しました。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
獲信したら、私の心が【極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし】となるのです。

なりません。それも前述しました。現前の仏勅を聞いているだけです。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
なぜ強引に「疑」を心以外で解釈するのですか?
もしそうしたいのなら特別な理由が必要と思います。
説明してください。

繰り返しになりますが、疑心は私の持ち前です。ただ、「往生浄土の自覚」は有りません。


(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
宮田さんの教えは、獲信しても、本人には何の安心も満足も、懴悔も歓喜もないのですね。

宮田の教えは有りません。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
せいぜい
「法を聞けば有り難いの思いも起きますし、本願のいわれを知り、疑いないという意味での三忍はあります」程度。

それを「程度」といいのけるゼロさんの信心はそんな程度なんですね。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
現益を獲ても無自覚だし、
当益も、「お聖教にあるからそうらしい」というあてにならないもの。

現前の仏勅を当てにならないといいのけるゼロさんの言葉を疑心と言います。自覚なかったようなので、元親鸞会会員だったよしみでお知らせしておきます。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
南無阿弥陀仏をいただいた聖人の大歓喜が、あなたの教えにはどこにも見当たりません。

親鸞聖人のお言葉を高森会長の言葉でしか読めないゼロさんにいわれても何の説得力もありません。

Cに続きます。

2014/07/15


山も山id:yamamoya
ゼロさんへ(7月15日C)
先のコメントで、Cに書くといった事を書きます。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
断っておきますが、もちろん、智慧の名号・信心の智慧で何もかも分かるものではありません。
7月7日Aにもハッキリ書いたとおりです。
  (※今後、あなたもコメントに日付をつけてもらえませんか?
    いつの発言なのか示しやすいように)
>  獲信すれば本願に疑い晴れますが、全てが分かるわけではありません。
>  たとえば、仏語の意味が全て分かるとか、お経がすらすら読めるように
>  なる訳ではありません。勿論、過去世の記憶がすべて蘇るとか、
>  死んだあとの生活が未来永遠にわたってありありと分かるものでもありません。
>  他の人が阿弥陀仏に救われたかどうかもハッキリしません。
智慧の名号によって、本願に対する疑いが晴れます。
本願どおりに救われ、「死後、浄土往生できるだろうか」の疑いが晴れます。
私の疑いを、阿弥陀仏南無阿弥陀仏で破ってくださるのですから、私の疑いが晴れるのです。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
法の上では疑い晴れているが、人の上では晴れていないなんて馬鹿なことはありません。弥陀の本願を疑っていたのは「人」なのですから、
だからといって、浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、
仏が見えるのでもありません。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれども かの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしまし ますといへるこころなり。
と『正信偈大意』に教えられているとおりです。
私は、「獲信したら浄土の世界がアリアリと映像となって見える」とか、
「仏が見える」とか聞いたことがありません。

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
あなた方の昔からのやりとりを読んでいると、そのような文章が散見されます。
一体、何を根拠に、相手がそんなことを思っていると思われているのですか?

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
こちらが思ってもいないことを、勝手に妄想し「間違ってる、間違ってる」というのはおかしくありませんか?

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
悪意さえ感じられます。
なぜ、そんなことを言うのか、理由を述べてください。
(同じような質問が繰り返されているようですが、ここでまとめて答えました)

では、根拠を書きます。根拠は、ゼロさん自身のコメントに有ります。

(ゼロさん2014/07/02コメントより抜粋)
●金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、
 【必ず】現生に十種の益を獲。
 なにものをか十とする。(中略)十には入正定聚の益なり。
     (教行信証『信巻』・親鸞聖人)

についてですが、宮田さんは、獲信しても、現生十種の利益の
自覚はない、ということでしょうか?

親鸞聖人が現生十種の利益の自覚があるといわれた根拠を教えてください。

(ゼロさん2014/07/02コメントより抜粋)
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証』)

親鸞聖人はハッキリ『教行信証』に書いておられますが、
「真に知んぬ」と知らされても、浄土往生はハッキリせず、

「獲信しても浄土往生はハッキリしないけど、お聖教にあるから信じます」

ということでしょうか?
分かりやすく教えてもらえませんか。

(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、

「獲信すれば、浄土往生がハッキリする」

と主張しています。

根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。

●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)

  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す

  一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。

とおっしゃっています。

 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 

間違っても、

「この親鸞
 『念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」

という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?

ここで二度も中略としているご文は、以下の通りです。

真に知んぬ。弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(教行信証・信巻末)
http://goo.gl/za4hbw

ゼロさんの文章では「真に知んぬ」以降はハッキリ知らされるということになります。
「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」もハッキリするんですよね?

(ゼロさん 7月14日コメントより抜粋)
だからといって、浄土の世界がアリアリと映像となって見えるのでもなければ、
仏が見えるのでもありません。

なら、なぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」と親鸞聖人は書かれたのか、納得のいく説明をお願いします。
もちろん、根拠を示してください。それがないなら、ゼロさんの主張は「高森会長の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」のお聖教に基づかない主張ということになります。

ながながとコメントを書きましたが、回答はこの7月15日Cだけでも結構です。


これに回答ない場合は、ゼロさんは根拠なき妄想を書き連ねてきたということで、この議論は終了です。
2014/07/15





id:shinrankaiuso

完全に墓穴を掘りましたね。
この2つの根拠を出さなければ、致命的な結末は避けられたかもしれません。
(冗談です、どんな根拠を出しても結果は一緒ですが)


(ゼロさん2014/07/02コメントより抜粋)
●金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、
 【必ず】現生に十種の益を獲。
 なにものをか十とする。(中略)十には入正定聚の益なり。
     (教行信証『信巻』・親鸞聖人)
についてですが、宮田さんは、獲信しても、現生十種の利益の
自覚はない、ということでしょうか?

(ゼロさん2014/07/03コメントより抜粋)
私は、
「獲信すれば、浄土往生がハッキリする」
と主張しています。
根拠はたくさんありますが、その一つが『教行信証・信巻』のこの
お言葉です。
●真に知んぬ。(中略)念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
 臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(『教行信証・信巻』)
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す
  一息切れたら極楽浄土に往生すると「真に知んぬ」。
  この親鸞、まことと知らされました。
とおっしゃっています。
 平生に、親鸞聖人が【ハッキリ知らされた】から、「真に知んぬ」と
 明言されているのです。
 
間違っても、
「この親鸞
 『念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
  臨終一念の夕、大般涅槃を超証す』
 と(ハッキリしないけれど)お聖教にあるから信じます」
という意味ではありません。
それでは「真に知んぬ」にならないでしょう?

2014/07/15



まさき

“いつ死んでも極楽参り間違いなし”という絶対の幸福の身になれる。

この言葉は、高森会長が、自分の好き勝手に信後のお味わいを述べたものです。
それをあたかも『真実信心の相』であると言わんばかりに説法で話し続けてきたのだから、さすがは“五百年に一度の自称善智識”です。
そして、その言葉をそのまま真に受けて、この度法論を仕掛けてきたのが、高森会長の愛弟子ゼロさんというわけです。

だから言うまでもなく、最初からこの法論の決着はついているのですよ。
親鸞聖人が、『真実信心』をどのように説いておられるかということを完全に無視して、法論をスタートさせたのですからね。

しかも法論の中で、一人二役をやり損なうという大失態までやらかし、傍で見ていて(この人の頭は大丈夫か?)と一同苦笑せざるをえなかった次第でございます。

まあ、嘘とハッタリをかますことに何の罪悪感も持たないゼロさんのことですから、一人二役も信心詐称も朝飯前ですよね。
しかし、ここにきてもう取り繕えないほどボロが出まくってしまったので、そろそろお暇を頂いた方がよろしいのではないのでしょうか?

それとも、かぼちゃさんと一緒に枕を並べて討ち死になさいます?

2014/07/16



id:shinrankaiuso

W部さん、mixiでの大惨敗覚えてますか?
その理由も覚えてますか?

こうへいさん(高森会長)が、自信満々に出した根拠が、悉く否定されたからですよ。
根拠を出す時には、慎重に。間違っても、高森会長の適当デタラメ解釈を基に考えては駄目ですよ。

yamamoyaさんから今回も根拠を求められていますが、出せなければ終了、出しても間違っていることを証明されますからやはり終了。
恥を晒したいのなら後者を選びましょうね。
私としては後者を望んでいます。「成等覚証大涅槃」と同じようにできますから。

2014/07/16



まさき

日本語能力が著しく欠けたゼロさんのことですから、またトンチンカンな返答をしてきそうですので、念の為にも念を押しておきます。

いいですか?

“根拠が出せなかったら、即終了ですからね!!”

あなたの何が言いたいのか良くわからないダラダラ長々とした文章には、皆いい加減ウンザリとしてきているのです。

これは『親鸞聖人の正しい御教え』を明らかにする為の法論なのですからね。

お願いですから、根拠を示せないのに、何でもいいから書き連ねるのだけはヤメて下さいね(苦笑)。

2014/07/16

とくよしみね

ゼロさんへ
単刀直入に言います。
貴方は本当にこのまま高森会長の元にいて信心決定出来ると思いますか。
私はビデオ聴聞のよりも前、講師が自由にご法話が出来るようになった時、本当にうれしかった。のです
これから好きな先生のところに聞きに行ける、信心決定出来るかもしれないと本気で思いました。
ところが総参謀以外の講師で人気のある講師がどんどん出てきました。
そうするととたんに講師のご法話は中止になり、ビデオご法話と10分間説法へと変わっていきました。
何か会がおかしくなっていると思いました。
さらに正本堂のエントランスの煉瓦をみんな素手で運ぶのを突然ご法話の昼休みにやり出したとき、総参謀夫妻はパレットの上に陣取って皆さんが働かれるのを真っ赤な顔をして見ているだけでした。
その時、私の頭によぎったのが蓮如上人ことです。
報恩講蓮如上人は皆さんと一緒にお風呂に入られ一緒に体を洗われたことを。
この人は違う。蓮如上人を目指していない。まして、親鸞上人など全く眼中にないと思いました。
それからしばらくして私は会を退会しました。
退会した世の中は広かった。
本当に広かった。
いかに自分がアホだったのか、洗脳されていたのかよくわかりました。
でも、高森会長のおかげで私は仏教にあわせて頂いた。
そのことは消すことは出来ないし、ありがたいと思います。
しかし、今、会を離れて思うのは会長は本当に会員の後生を案じていられるのか。
阿弥陀様の仕事だから私には関係ないと思っておられるのではないのか。
でなければご信心を頂いた人を次から次へと除名にするわけがない。
いろいろほかにも言いたいことはあります。
しかし、人生は一度です。
取り返しはつきません。
よくよく考えて頂きたい。
そして後生の一大事、解決して頂きたい。
必ず解決できるのです。
なぜなら阿弥陀様が誓っておられるからです。
高森会長ではありません。
阿弥陀様が今貴方を呼んでおられるのです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

2014/07/16

2014/07/17 18:23 現在で、ゼロさんからの返答はなし。

上記の続きはこちら
親鸞会の「常に完膚なきまでにそれらの悪魔外道を摧破しつづけてきた」法論の実態。「浄土往生の自覚」の有無をめぐっての親鸞会関係者(ゼロさんJBさん)とのやりとりまとめ2 - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ